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13 初めてのデート
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夕方が近づく頃、ヒルダは受付窓口へ向かった。
ドミニクスと自分の名をそれぞれの用紙に記入し、外泊届を提出する。職員は詮索もせず、淡々と受理印を押した。続けて宿泊先のホテルへ連絡を入れると、予約はすぐに通った。手配を終えるころには、足取りがいくらか軽くなっていた。
終業の鐘が鳴る。
各自が私室へ戻り、制服を脱いで私服で過ごす時間帯だ。ヒルダは着替えを済ませ、塔の外、待ち合わせ場所の、街へ続く石畳の通りへと向かう。
夕暮れの橙が建物の壁を照らし、風はひんやりとしていた。指定した待ち合わせの場所に着くと、そこにドミニクスが立っていた。
いつも着ている高位魔術師用のローブは脱いでいて、代わりに、前に見た、着古したシャツとズボン、革靴だけを纏っている。その姿は、少し肌寒い今の季節と時間帯には、心もとなく見えた。だが、自分に魔術をかけているのか、寒そうな素振りはまったくない。
こちらに気づいた彼が、ぱっと表情を明るくした。駆け寄りながらヒルダが問う。
「お待たせしました、もういらしてたんですね。……その、寒くありませんか?」
「正直、少し寒かった。が、今は平気だ。ヒルダと出かけるなら……塔のローブは着たくなくて。私服と言えるものは、これしか持っていないから」
目を逸らしながら、もごもごと言いづらそうに呟く。思えば、突然の提案に彼が服を新調する時間などあるはずもなかった。そう気づくと、申し訳なさが込み上げる。
「ドミニクス様。服を見に行きませんか? せっかくですし、お出かけ用の服を買いましょう」
「──行きたい!」
がばっと身を乗り出し、子どものような勢いで答える。その無邪気さに、ヒルダは思わず笑みをこぼす。
「では、行きましょう」
そう言ってドミニクスの手を取り、街の明かりのほうへ歩き出した。薄くて指の長い大きな手が、少しだけ遠慮するように握り返してくる。ふと、照れくさそうな笑い声が聞こえて振り返ると、ドミニクスが満面の笑みを浮かべている。
「なんだか、……すごく、恋人みたいだ」
「恋人ですよ」
沈黙のあと、二人は顔を見合わせて笑った。
石畳の通りを五分も歩けば、職人街へと入る。その一角──古い時計屋の隣に、ヒルダがよく行くブティックがあった。外観は白い石壁に木の扉。飾り気はないが、磨き込まれた取っ手とショーウィンドウの淡い光が、店の品の良さを物語っている。
扉を押して中に入ると、やわらかな布の香りが漂った。壁沿いに畳み棚、奥に吊りの棚。ジャケットやシャツ、スカート、トラウザー、靴などが控えめに並ぶ。男性物も扱っており、質は良いが値は張りすぎず、どの服も控えめな華やかさを持っていた。
奥から店員が現れる。顔なじみとまではいかないが、何度か対応してもらったことのある女性だった。
「すみません、この方の服を一式お願いしたくて。今すぐ着られる上下と、それから上に羽織るものを……ああ、靴下もお願いします」
ヒルダはドミニクスの服装をひと目で確認し、手際よく伝える。店員は軽く頷き、今度はドミニクスへと視線を向けた。
「かしこまりました。お連れ様のご希望はございますか?」
突然話を振られ、ドミニクスは「え」と小さく声を上げた。しばし考え込み、少し伏し目がちに言う。
「……わからない。脱ぎ着しやすくて、身体が覆えるものがいい。……あまり、飾りたくはない」
一拍の間。彼はちらりとヒルダを見やり、掠れた声で言葉を継いだ。
「……あと、彼女と並んで、恋人同士に見えるものを」
心臓に、ぎゅるんとねじれるような衝撃が走る。息を詰め、ヒルダは思わず胸を押さえた。店員は「あらまあ」とでも言いたげな微笑みを浮かべ、柔らかく頷く。
「それでは、ご用意いたしますね」
軽い足音を残して、店員は奥へと消えていった。残されたヒルダは、どうにも落ち着かない。
「どんなものが来るのだろうな」
ドミニクスが楽しげに呟く。その無邪気な横顔を見て、ヒルダはまだ胸を押さえたまま──心臓に悪い。それだけを思った。
店員が持ってきたのは、黒のカーディガンに、白いシャツ、そして薄茶の細身のトラウザーだった。カーディガンはやや厚手で、上着代わりにもなりそうだ。どれも上質な生地で仕立てられており、控えめながら品のある組み合わせだった。靴下も合うものを用意してくれたようだ。
試着室の布がめくれ、ドミニクスが少し緊張した面持ちで姿を現した。
細身の体にはやや余裕があるが、丈はぴたりと合っている。先ほどまで着ていた長年ものの服は、正直、身体に余り気味で、どこか頼りなかった。それに比べて、今の服は驚くほど自然に彼の身体に馴染み、まるで最初からそうあるべきだったように見える。
ドミニクスは見た目よりも動きやすさを気にしているようで、腕を回したり膝を軽く曲げたりして確かめている。どうやら問題はないらしく、ひとり満足げに頷いていた。
「サイズもぴったりで、お似合いですよ」
店員の言葉に、ドミニクスはちらりとヒルダを見た。ヒルダを呼び寄せ、試着室の前で自分の横に並ばせる。
ヒルダは茶色のジャケットに白のボウタイブラウス、裾の広がった深緑色のロングスカートを着ていた。同じ店の品だけあって、並んだ姿には自然な統一感がある。
ドミニクスがそっとヒルダの手を握り、鏡越しにふたりの姿を確かめる。口元をゆるめ、満足げに「これがいい」と呟いた。
自分たちが恋人同士に見えることが、彼にとって何より喜ばしいのだと気づいた瞬間、ヒルダの頬が一気に熱を帯びた。
「っ……そうですか。それでは、このまま着て行きたいので、会計をお願いします」
「かしこまりました」
店員が会計を済ませる間も、ヒルダは隣のドミニクスを盗み見る。もともと整った顔立ちの人だったが、身なりが整うと、立ち姿が引き締まり、静かな気高さがそのまま姿になる。普段はローブ姿ばかりの彼が、街に馴染む服を着て立っている。それだけで、胸がくすぐったくなった。
外に出ると、夜の気配を帯びた風が頬をかすめた。街はすでに灯がともりはじめ、通りのショーウィンドウがやわらかな光を散らしている。夕食の時間ではあったが、店では食べず宿泊先でルームサービスを取ることにした。
向かうのは、ヒルダが週末や気分転換のときに時々利用しているお気に入りのホテル。並んで歩き出すと、自然にドミニクスの手が差し出され、ヒルダはそっとそれを取った。街灯の光がふたりの背を追い、重なった影が石畳の上に長く伸びていく。
案内されたのは、ヒルダがいつもより少しだけ贅沢をした、落ち着いた雰囲気の部屋だった。白を基調とした内装に木製の調度が温かみを添え、窓辺には夜景を望む小さなテーブルセット。奥には、柔らかなシーツが掛けられたベッドがひとつ──二人で横になっても、まだ手を伸ばせるほどの広さだった。
手をつないだまま部屋を見渡していると、ドミニクスの指先にわずかに力がこもる。その変化に気づいたヒルダは、努めて平静を装いテーブルへ向かい、呼び鈴を押した。
ほどなくして係員が現れ、温かな料理が次々と運び込まれる。香ばしいスープ、彩り豊かなマリネ、熱々のグラタン──ランプの灯りが金の照りを料理に映し、部屋はやわらかな香りに包まれた。
いつもと違う味を楽しみながら、ふたりは穏やかに言葉を交わした。食後、器をまとめて呼び鈴を押すと、係員が静かに入ってきて、手際よく食器を下げていった。
扉が閉まると、部屋には静寂だけが残り、ヒルダは小さく息をつく。
胸の奥に抱えていたものを、今夜ようやく言葉にできる──だが同時に、ほんのわずかに怖くもあった。
ベッドの端に腰を下ろし、シーツの柔らかさを感じながら視線を上げる。
「ドミニクス様」
覚悟を決めて、呼びかける。椅子に腰掛けていた彼が、目元を和らげ顔をこちらへ向けた。
「この間は休暇をいただき、有難うございました。その事で、お伝えしたいことがありまして」
深呼吸をして、まぶたを閉じる。
──五日間の休暇。あの短い時間の中で、自分は何を考え、何を決めたのか。
・
・
・
「グランツ家への処分方針が固まった。
ゲイル・グランツには、相応に厳重な処置が検討されている。もう、怯える必要はないよ」
アンナの元へと呼び出されたあの日、ヒルダの前でそう言った。
息を呑み、瞬時に一つの考えへと思い至る。
「……ドミニクス様は。あの方や、研究に対して、何か処罰や制限などは……」
胸の前で握りしめた拳が、わずかに震える。アンナはそれに気づいたように、小さな笑みを浮かべた。
「彼のことが心配なんだね。けれど、その心配は──杞憂に終わると思うよ。正式な通達はまだだが、塔の中では“ある動き”が進んでいる。彼を、あの家の外に置くべきだという意見がね」
ヒルダは目を見開いた。希望とも不安ともつかぬ感情が胸に広がっていく。
アンナは書類を整えながら、少しだけ目線を上げる。
「この件の全貌は、まだ外には出せない。けれど──君には、輪郭だけでも伝えておいたほうがいいと思った。どう動くかは、君次第だよ。ラインベルグ君」
ヒルダは静かに頷いた。部屋を出たあとも、胸の中でその言葉が長く反響していた。考えを整理したくて、化粧室の個室へと入る。
ドミニクスがあの家から解放され、自由になる。
家が掲げる思想や、家族の振る舞いに振り回されず、邪魔されずに研究に打ち込めるようになる。
それは、彼にとって、とても良いことだ。
だけど──彼の家は、どうなるのだろう。
彼の帰る居場所は、どこにあるのだろう。
塔に籍を移せば、研究の場は守られる。
でも、彼の“暮らす場所”は? 一生、塔の私室だけなのだろうか。
(……もし、居場所がないのなら。私が、用意したい)
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。ヒルダは個室を出て、洗面台の前に立った。
鏡に映る自分を見つめる。頬が熱く、目が冴えている。──もう迷いはなかった。
化粧室を出ると、廊下はいつもより静かだった。歩き出し、塔内の通信室へ向かう。
『相談したいことがあり、実家へ戻ります』
短い文を記し、実家宛てに急送便を依頼する。
手紙が届くのとヒルダが着くのが同じくらいだろうが、仕方ない。
手続きを済ませて研究室へ戻り、ドミニクスに休暇をもらう旨を報告した。
彼は不安そうな顔をしていて、胸が痛む。けれど──
「大丈夫。きっと、うまくいきます」
それは、彼を安心させるためであり、自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。
確証はまだない。それでも、信じた。彼との未来を、自分の手で形にできると。ヒルダはまっすぐに前を向き、塔の扉を後にした。
汽車に揺られて一日半。ヒルダはようやく実家──ラインベルグ家の屋敷へと辿り着いた。
学術貴族の家らしく、外壁は白い石で整えられ、門扉には家紋が静かに刻まれている。手入れの行き届いた庭を抜け、玄関扉を押すと、父ユリウスと母クララが駆け寄ってきた。
「ヒルダ! 全く帰ってこなかったのに、急にどうしたの!」
「急にごめんなさい。……急ぎで相談したくて」
「とりあえず入りなさい。冷たいお茶でいいかい?」
通された応接間には研究書や標本棚が並び、理知的な穏やかさが満ちていた。
促されてソファに腰を下ろすと、目の前の二人はヒルダの言葉を待っている。
ヒルダはまっすぐ二人を見つめ、口を開いた。
──自分が仕えている魔術師、ドミニクス・グランツのこと。
──彼の人柄と、行っている研究の真摯さについて。
──そして、助手として以上に、ひとりの人間として彼を想っていること。
──彼が実家と折り合いが悪く、研究を妨げられてきたこと。
──二度にわたり被害を受け、その結果、塔が彼を実家から切り離すことを検討しているらしいこと。
「もしそうなった時──彼を受け入れたいんです。彼の居場所を、私が作りたい」
両親は静かに耳を傾けていた。
ユリウスが眼鏡の縁に指を添え、小さく息をつく。
「……その方を、ヒルダは愛しているのだね」
「はい」
「家に迎えるということは、研究の責任も背負うということだよ。評価されれば家の誉れ、誤れば信頼を失う。……その覚悟はあるかい?」
「ええ。彼の研究は、私が誇りを持って支えたいものです」
ユリウスとクララが視線を交わす。
そしてクララが穏やかに問いかけた。
「……本人には、まだ伝えていないのね?」
ヒルダは短く息を吸い、頷く。
「はい。この相談は、彼への確認なしで独断で進めています。もし断られたら、もちろん彼の意志を尊重します。それでも──彼が帰れる場所を、先に整えておきたかったんです」
一瞬の沈黙。やがてユリウスが、口元にわずかに笑みを浮かべた。クララも静かに微笑み、娘の方へと手を伸ばす。
「……ヒルダが選んだ人なら、私たちは信じよう」
「あなたがそこまで想う方なら、私たちも異論はないわ。……結果がわかったら、また教えてね」
ヒルダは身を乗り出した。テーブル越しに手を伸ばし、クララの指先に自分の手を重ねる。
「っ、有難うございます……!」
声が震える。クララが優しくその手を包み、ユリウスが静かに頷いた。室内に灯る柔らかな光が、三人の間に穏やかな温度を落としていた。
・
・
・
……そして今、彼の前にいる。
「以上が、すべてです。
ずっと考えていたんです。私が、ドミニクス様のために何ができるのかを。
ドミニクス様。貴方と生涯を共にあるために、どうか──私の家を。
ラインベルグ家を、受け入れていただけませんか」
静寂が落ちた。
ランプの光がわずかに揺れ、二人の影が長く伸びる。
ドミニクスはゆっくりと瞬きをし、理解が追いつかないといったように小さく首を傾げた。
「……すまない。まだ、頭が追いついていない。私を、ヒルダの家が……迎え入れてくれる、ということなのか?」
「ええ。そうです。ラインベルグ家は、貴方の居場所を──ずっと一緒にいられる場所を、用意できます」
その言葉が届いた瞬間、ドミニクスの瞳がかすかに震えた。
息を吸い込み、吐くことを忘れたように、ただ彼女を見つめている。
やがて彼は、立ち上がった。
ゆっくりと、迷いのない足取りで、ベッドの縁に腰かけるヒルダのもとへと歩み寄る。
ヒルダも立ち上がり、向かい合う形でドミニクスと視線を合わせた。
「私は……ヒルダと、家族になれるのか。何にも縛られずに」
「……はい。貴方が、そう望むなら」
短く息を吸う音が聞こえた。それは嗚咽とも、安堵の息ともつかない。
「……ああ。夢、みたいだ」
次の瞬間、ドミニクスの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。そのまま静かに顔が近づき、唇が触れる。ヒルダは目を閉じ、そっと受け入れた。
ドミニクスと自分の名をそれぞれの用紙に記入し、外泊届を提出する。職員は詮索もせず、淡々と受理印を押した。続けて宿泊先のホテルへ連絡を入れると、予約はすぐに通った。手配を終えるころには、足取りがいくらか軽くなっていた。
終業の鐘が鳴る。
各自が私室へ戻り、制服を脱いで私服で過ごす時間帯だ。ヒルダは着替えを済ませ、塔の外、待ち合わせ場所の、街へ続く石畳の通りへと向かう。
夕暮れの橙が建物の壁を照らし、風はひんやりとしていた。指定した待ち合わせの場所に着くと、そこにドミニクスが立っていた。
いつも着ている高位魔術師用のローブは脱いでいて、代わりに、前に見た、着古したシャツとズボン、革靴だけを纏っている。その姿は、少し肌寒い今の季節と時間帯には、心もとなく見えた。だが、自分に魔術をかけているのか、寒そうな素振りはまったくない。
こちらに気づいた彼が、ぱっと表情を明るくした。駆け寄りながらヒルダが問う。
「お待たせしました、もういらしてたんですね。……その、寒くありませんか?」
「正直、少し寒かった。が、今は平気だ。ヒルダと出かけるなら……塔のローブは着たくなくて。私服と言えるものは、これしか持っていないから」
目を逸らしながら、もごもごと言いづらそうに呟く。思えば、突然の提案に彼が服を新調する時間などあるはずもなかった。そう気づくと、申し訳なさが込み上げる。
「ドミニクス様。服を見に行きませんか? せっかくですし、お出かけ用の服を買いましょう」
「──行きたい!」
がばっと身を乗り出し、子どものような勢いで答える。その無邪気さに、ヒルダは思わず笑みをこぼす。
「では、行きましょう」
そう言ってドミニクスの手を取り、街の明かりのほうへ歩き出した。薄くて指の長い大きな手が、少しだけ遠慮するように握り返してくる。ふと、照れくさそうな笑い声が聞こえて振り返ると、ドミニクスが満面の笑みを浮かべている。
「なんだか、……すごく、恋人みたいだ」
「恋人ですよ」
沈黙のあと、二人は顔を見合わせて笑った。
石畳の通りを五分も歩けば、職人街へと入る。その一角──古い時計屋の隣に、ヒルダがよく行くブティックがあった。外観は白い石壁に木の扉。飾り気はないが、磨き込まれた取っ手とショーウィンドウの淡い光が、店の品の良さを物語っている。
扉を押して中に入ると、やわらかな布の香りが漂った。壁沿いに畳み棚、奥に吊りの棚。ジャケットやシャツ、スカート、トラウザー、靴などが控えめに並ぶ。男性物も扱っており、質は良いが値は張りすぎず、どの服も控えめな華やかさを持っていた。
奥から店員が現れる。顔なじみとまではいかないが、何度か対応してもらったことのある女性だった。
「すみません、この方の服を一式お願いしたくて。今すぐ着られる上下と、それから上に羽織るものを……ああ、靴下もお願いします」
ヒルダはドミニクスの服装をひと目で確認し、手際よく伝える。店員は軽く頷き、今度はドミニクスへと視線を向けた。
「かしこまりました。お連れ様のご希望はございますか?」
突然話を振られ、ドミニクスは「え」と小さく声を上げた。しばし考え込み、少し伏し目がちに言う。
「……わからない。脱ぎ着しやすくて、身体が覆えるものがいい。……あまり、飾りたくはない」
一拍の間。彼はちらりとヒルダを見やり、掠れた声で言葉を継いだ。
「……あと、彼女と並んで、恋人同士に見えるものを」
心臓に、ぎゅるんとねじれるような衝撃が走る。息を詰め、ヒルダは思わず胸を押さえた。店員は「あらまあ」とでも言いたげな微笑みを浮かべ、柔らかく頷く。
「それでは、ご用意いたしますね」
軽い足音を残して、店員は奥へと消えていった。残されたヒルダは、どうにも落ち着かない。
「どんなものが来るのだろうな」
ドミニクスが楽しげに呟く。その無邪気な横顔を見て、ヒルダはまだ胸を押さえたまま──心臓に悪い。それだけを思った。
店員が持ってきたのは、黒のカーディガンに、白いシャツ、そして薄茶の細身のトラウザーだった。カーディガンはやや厚手で、上着代わりにもなりそうだ。どれも上質な生地で仕立てられており、控えめながら品のある組み合わせだった。靴下も合うものを用意してくれたようだ。
試着室の布がめくれ、ドミニクスが少し緊張した面持ちで姿を現した。
細身の体にはやや余裕があるが、丈はぴたりと合っている。先ほどまで着ていた長年ものの服は、正直、身体に余り気味で、どこか頼りなかった。それに比べて、今の服は驚くほど自然に彼の身体に馴染み、まるで最初からそうあるべきだったように見える。
ドミニクスは見た目よりも動きやすさを気にしているようで、腕を回したり膝を軽く曲げたりして確かめている。どうやら問題はないらしく、ひとり満足げに頷いていた。
「サイズもぴったりで、お似合いですよ」
店員の言葉に、ドミニクスはちらりとヒルダを見た。ヒルダを呼び寄せ、試着室の前で自分の横に並ばせる。
ヒルダは茶色のジャケットに白のボウタイブラウス、裾の広がった深緑色のロングスカートを着ていた。同じ店の品だけあって、並んだ姿には自然な統一感がある。
ドミニクスがそっとヒルダの手を握り、鏡越しにふたりの姿を確かめる。口元をゆるめ、満足げに「これがいい」と呟いた。
自分たちが恋人同士に見えることが、彼にとって何より喜ばしいのだと気づいた瞬間、ヒルダの頬が一気に熱を帯びた。
「っ……そうですか。それでは、このまま着て行きたいので、会計をお願いします」
「かしこまりました」
店員が会計を済ませる間も、ヒルダは隣のドミニクスを盗み見る。もともと整った顔立ちの人だったが、身なりが整うと、立ち姿が引き締まり、静かな気高さがそのまま姿になる。普段はローブ姿ばかりの彼が、街に馴染む服を着て立っている。それだけで、胸がくすぐったくなった。
外に出ると、夜の気配を帯びた風が頬をかすめた。街はすでに灯がともりはじめ、通りのショーウィンドウがやわらかな光を散らしている。夕食の時間ではあったが、店では食べず宿泊先でルームサービスを取ることにした。
向かうのは、ヒルダが週末や気分転換のときに時々利用しているお気に入りのホテル。並んで歩き出すと、自然にドミニクスの手が差し出され、ヒルダはそっとそれを取った。街灯の光がふたりの背を追い、重なった影が石畳の上に長く伸びていく。
案内されたのは、ヒルダがいつもより少しだけ贅沢をした、落ち着いた雰囲気の部屋だった。白を基調とした内装に木製の調度が温かみを添え、窓辺には夜景を望む小さなテーブルセット。奥には、柔らかなシーツが掛けられたベッドがひとつ──二人で横になっても、まだ手を伸ばせるほどの広さだった。
手をつないだまま部屋を見渡していると、ドミニクスの指先にわずかに力がこもる。その変化に気づいたヒルダは、努めて平静を装いテーブルへ向かい、呼び鈴を押した。
ほどなくして係員が現れ、温かな料理が次々と運び込まれる。香ばしいスープ、彩り豊かなマリネ、熱々のグラタン──ランプの灯りが金の照りを料理に映し、部屋はやわらかな香りに包まれた。
いつもと違う味を楽しみながら、ふたりは穏やかに言葉を交わした。食後、器をまとめて呼び鈴を押すと、係員が静かに入ってきて、手際よく食器を下げていった。
扉が閉まると、部屋には静寂だけが残り、ヒルダは小さく息をつく。
胸の奥に抱えていたものを、今夜ようやく言葉にできる──だが同時に、ほんのわずかに怖くもあった。
ベッドの端に腰を下ろし、シーツの柔らかさを感じながら視線を上げる。
「ドミニクス様」
覚悟を決めて、呼びかける。椅子に腰掛けていた彼が、目元を和らげ顔をこちらへ向けた。
「この間は休暇をいただき、有難うございました。その事で、お伝えしたいことがありまして」
深呼吸をして、まぶたを閉じる。
──五日間の休暇。あの短い時間の中で、自分は何を考え、何を決めたのか。
・
・
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「グランツ家への処分方針が固まった。
ゲイル・グランツには、相応に厳重な処置が検討されている。もう、怯える必要はないよ」
アンナの元へと呼び出されたあの日、ヒルダの前でそう言った。
息を呑み、瞬時に一つの考えへと思い至る。
「……ドミニクス様は。あの方や、研究に対して、何か処罰や制限などは……」
胸の前で握りしめた拳が、わずかに震える。アンナはそれに気づいたように、小さな笑みを浮かべた。
「彼のことが心配なんだね。けれど、その心配は──杞憂に終わると思うよ。正式な通達はまだだが、塔の中では“ある動き”が進んでいる。彼を、あの家の外に置くべきだという意見がね」
ヒルダは目を見開いた。希望とも不安ともつかぬ感情が胸に広がっていく。
アンナは書類を整えながら、少しだけ目線を上げる。
「この件の全貌は、まだ外には出せない。けれど──君には、輪郭だけでも伝えておいたほうがいいと思った。どう動くかは、君次第だよ。ラインベルグ君」
ヒルダは静かに頷いた。部屋を出たあとも、胸の中でその言葉が長く反響していた。考えを整理したくて、化粧室の個室へと入る。
ドミニクスがあの家から解放され、自由になる。
家が掲げる思想や、家族の振る舞いに振り回されず、邪魔されずに研究に打ち込めるようになる。
それは、彼にとって、とても良いことだ。
だけど──彼の家は、どうなるのだろう。
彼の帰る居場所は、どこにあるのだろう。
塔に籍を移せば、研究の場は守られる。
でも、彼の“暮らす場所”は? 一生、塔の私室だけなのだろうか。
(……もし、居場所がないのなら。私が、用意したい)
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。ヒルダは個室を出て、洗面台の前に立った。
鏡に映る自分を見つめる。頬が熱く、目が冴えている。──もう迷いはなかった。
化粧室を出ると、廊下はいつもより静かだった。歩き出し、塔内の通信室へ向かう。
『相談したいことがあり、実家へ戻ります』
短い文を記し、実家宛てに急送便を依頼する。
手紙が届くのとヒルダが着くのが同じくらいだろうが、仕方ない。
手続きを済ませて研究室へ戻り、ドミニクスに休暇をもらう旨を報告した。
彼は不安そうな顔をしていて、胸が痛む。けれど──
「大丈夫。きっと、うまくいきます」
それは、彼を安心させるためであり、自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。
確証はまだない。それでも、信じた。彼との未来を、自分の手で形にできると。ヒルダはまっすぐに前を向き、塔の扉を後にした。
汽車に揺られて一日半。ヒルダはようやく実家──ラインベルグ家の屋敷へと辿り着いた。
学術貴族の家らしく、外壁は白い石で整えられ、門扉には家紋が静かに刻まれている。手入れの行き届いた庭を抜け、玄関扉を押すと、父ユリウスと母クララが駆け寄ってきた。
「ヒルダ! 全く帰ってこなかったのに、急にどうしたの!」
「急にごめんなさい。……急ぎで相談したくて」
「とりあえず入りなさい。冷たいお茶でいいかい?」
通された応接間には研究書や標本棚が並び、理知的な穏やかさが満ちていた。
促されてソファに腰を下ろすと、目の前の二人はヒルダの言葉を待っている。
ヒルダはまっすぐ二人を見つめ、口を開いた。
──自分が仕えている魔術師、ドミニクス・グランツのこと。
──彼の人柄と、行っている研究の真摯さについて。
──そして、助手として以上に、ひとりの人間として彼を想っていること。
──彼が実家と折り合いが悪く、研究を妨げられてきたこと。
──二度にわたり被害を受け、その結果、塔が彼を実家から切り離すことを検討しているらしいこと。
「もしそうなった時──彼を受け入れたいんです。彼の居場所を、私が作りたい」
両親は静かに耳を傾けていた。
ユリウスが眼鏡の縁に指を添え、小さく息をつく。
「……その方を、ヒルダは愛しているのだね」
「はい」
「家に迎えるということは、研究の責任も背負うということだよ。評価されれば家の誉れ、誤れば信頼を失う。……その覚悟はあるかい?」
「ええ。彼の研究は、私が誇りを持って支えたいものです」
ユリウスとクララが視線を交わす。
そしてクララが穏やかに問いかけた。
「……本人には、まだ伝えていないのね?」
ヒルダは短く息を吸い、頷く。
「はい。この相談は、彼への確認なしで独断で進めています。もし断られたら、もちろん彼の意志を尊重します。それでも──彼が帰れる場所を、先に整えておきたかったんです」
一瞬の沈黙。やがてユリウスが、口元にわずかに笑みを浮かべた。クララも静かに微笑み、娘の方へと手を伸ばす。
「……ヒルダが選んだ人なら、私たちは信じよう」
「あなたがそこまで想う方なら、私たちも異論はないわ。……結果がわかったら、また教えてね」
ヒルダは身を乗り出した。テーブル越しに手を伸ばし、クララの指先に自分の手を重ねる。
「っ、有難うございます……!」
声が震える。クララが優しくその手を包み、ユリウスが静かに頷いた。室内に灯る柔らかな光が、三人の間に穏やかな温度を落としていた。
・
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……そして今、彼の前にいる。
「以上が、すべてです。
ずっと考えていたんです。私が、ドミニクス様のために何ができるのかを。
ドミニクス様。貴方と生涯を共にあるために、どうか──私の家を。
ラインベルグ家を、受け入れていただけませんか」
静寂が落ちた。
ランプの光がわずかに揺れ、二人の影が長く伸びる。
ドミニクスはゆっくりと瞬きをし、理解が追いつかないといったように小さく首を傾げた。
「……すまない。まだ、頭が追いついていない。私を、ヒルダの家が……迎え入れてくれる、ということなのか?」
「ええ。そうです。ラインベルグ家は、貴方の居場所を──ずっと一緒にいられる場所を、用意できます」
その言葉が届いた瞬間、ドミニクスの瞳がかすかに震えた。
息を吸い込み、吐くことを忘れたように、ただ彼女を見つめている。
やがて彼は、立ち上がった。
ゆっくりと、迷いのない足取りで、ベッドの縁に腰かけるヒルダのもとへと歩み寄る。
ヒルダも立ち上がり、向かい合う形でドミニクスと視線を合わせた。
「私は……ヒルダと、家族になれるのか。何にも縛られずに」
「……はい。貴方が、そう望むなら」
短く息を吸う音が聞こえた。それは嗚咽とも、安堵の息ともつかない。
「……ああ。夢、みたいだ」
次の瞬間、ドミニクスの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。そのまま静かに顔が近づき、唇が触れる。ヒルダは目を閉じ、そっと受け入れた。
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(小説家になろう様にも投稿しています)
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