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「そう言えばお前の名は?」
しおりを挟むフィルエシュカが一人前になるまで帰らない。
どういうことか分からずぽかんと口を開けていると、男の手でくるりと体を入れ替えられた。
すると、椅子に座っているのは自分になる。
フィルエシュカがすり潰した緑の薬草を、男はどこからか取り出した白い布で包む。それを赤くなった手首に巻きつけていく。
椅子に座ったフィルエシュカの前に、片膝までついて。
「これはエリンジャの葉だな? ここまですり潰してあれば、そのうちひんやりしてくる。朝晩巻き直せば治りも早い」
「そう、ですか」
その葉がエリンジャということを初めて知った。
たまに足を運ぶ先の村の人が教えてくれた時は、これは血が出ているところにすり潰して貼るといいんだよ、としか言っていなかったから。
手当てを終えると、男は立ち上がる。
「猪の解体経験は?」
話しながらフィルエシュカに背を向け、持って来ていた背負袋を漁り出す。猪のことなんて言われるまですっかり忘れていた。
「……ありません」
「だろうな。あってもその手じゃ無理だ。俺が片付けよう」
男は背負袋の中から革を麻紐で括ったものを取り出すとそれを広げた。巻物のように広がった革には刃物が整然と並んでいる。どれも良く手入れされているのだろう、ぴかぴかだった。
「ひぇ……」
「荷車はあるか?」
指で小屋の裏を指すとそれで理解してもらえたらしい。
刃物をいくつかとフィルエシュカの家の木桶を持って男はそのまま出て行こうとする。
「あ、あの」
咄嗟に声をかけてしまったが、くるりとこちらを見た男に何と言えばいいのか。とても迷った。
「……か、帰らないって、どういうこと、ですか?」
「そのままの意味だが?」
その意味が分からないんですと言いたかったが、男の手に握られた刃物が目について仕方ない。
「あの猪を解体してくる。当面の食糧になるし、余った肉や毛皮を売れば冬の蓄えになる。お前は座っていろ。その怪我が治るまでは、俺がみんなやる」
「え、いや、あの」
そして止める間もなく、意気揚々と出て行ってしまった。
怪我をしていない方の手は、役目を果たせず宙に浮いたままだ。
「……嘘でしょ?」
フィルエシュカに嘘だよ、と言ってくれる人はいなかった。
***
日暮れに差し掛かる頃、解体はみな終わったらしい。
帰ってきた男は少しばかりの肉と、エリンジャの葉をはじめとした色々な薬草をその手にしていた。
川で水浴びまでしてきたらしく、その黒髪はしっとりとしている。
「喜べ、雌だ。美味いぞ」
「はぁ……」
雄より雌の方が美味いと言われても、どちらも口にしたことはない。
フィルエシュカの間の抜けた返事に気分を害する様子もなく、男は手慣れた様子で台所に立った。
瞬く間に出てきたのは臭み消しの香草と一緒に焼かれた猪の肉だ。香草なんてどこから持ってきたのかと問えば、男は森の中から、と答えた。
「その辺にいくらでも生えてる。知らなかったのか?」
五年も森に住んでいて、少しも知りませんでしたとは恥ずかしくて言えない。部屋中に漂ういい匂いにしばらく静かだった相棒が騒ぎ出す。
「食えるか?」
「は、はい、もちろん……」
すでに一口大に切られている肉は美しく皿に盛られていた。香りを放つ湯気を前にして、ごくりと唾を飲み込み、口に運ぶ。
まっ先に感じたのは、程よい塩気。それから、脂の旨み。噛むほどに溢れる脂は甘い。
その肉ときたら、柔らかくてコクがあって、でも臭みは少しもなくて。
この数年口にしたものの中で一番美味しいのではないだろうか。いや、間違いなく一番だ。
(美味しい……!)
感動のまま男を見上げた。
ちなみに理由は分からないが、自分が見上げるたび、この男はぎくりと息を呑む。
やっぱり魔女が怖いのかもしれない。
「……美味いか?」
まだ咀嚼していたから、こくこくと頷いた。そうしたら、男はここにきて初めての笑顔を見せた。
「そうか。お前は、美味そうに食うな」
「だっておいしいですから」
フィルエシュカが一脚しかない椅子に座っているから、男は台所の壁に寄りかかってこちらを見ている。
解体で疲れているだろうに、椅子を譲れとは決して言わない。
(この人、ほんとに皇弟なの?)
最初は乱暴で怖かったが、猪を倒して解体し、料理までしてくれた。
高貴な身分の人がここまでするものだろうか。
フィルエシュカが最後の一口を頬張った時だった。
「ーーこの家、何も食料がない。これまでどうしていたんだ」
急に聞かれ、噛んでいた途中のまだ大きい肉を飲み込んだ。喉に詰まりそうになり慌てて水で流し込む。
「……ん……猪に荒らされなければ、そろそろ野菜と芋がとれるはずだったんです」
「あの畑か」
納得したように頷くと、男は「明日直す」と言った。
明日ということは、やはりどうあってもここに泊まる気らしい。
フィルエシュカは見た目だけなら子供に間違えられることもあるくらいだが、歴とした成人女性だ。
先月十九になったばかりである。
それが身元は確かとはいえ成人した男と一つ屋根の下なんて。
(あ、でも呪いがあるから、襲われることはない、か)
呪いが解けていない以上、皇弟であるこの男も、一生に一人しか抱けない。
その貴重な一人を自分で消費するはずがない。
「本当に、呪いが解けるまでここにいるんですか?」
男は「俺がみんなやる」と言ったが、まさかの食べ終わった皿まで下げてくれる徹底ぶりだった。
台所に立ったまま話しているので、こちらからは男の背中しか見えない。
フィルエシュカに合わせた台所に立つとその体の大きさがより強調された。
「ああ。一人前になったらすぐにでも解呪に取り掛かって貰いたいからな」
手早く皿を洗い台所を片付けた男はくるりと振り向く。
「心配しなくても家事なら一通りできる。子供は風呂に入って早く寝ろ」
そして今度は刃物の手入れを始めた。
(ーーお母さんか!!)
ちなみに我が家に風呂はない。
夏ならその辺の川で水を浴び、冬は桶に張った湯に手拭いを浸して拭くだけと言ったらこの男はどうするのだろう。
男の言動のどこから指摘すればいいのか悩んでしまう。
皇弟なのに猪の解体も家事もできる理由を聞けばいいのか。それとも子供じゃないことをはっきりさせればいいのか。
悩むうちに頭まで痛くなってきた。もうやめよう。明日になったら夢になってるかもしれない。
(あ、塀にまじない、かけなくちゃ)
日が完全に暮れる前にやってしまわなければ。
二日連続で猪に荒らされるのは御免である。
だが立ち上がって外へ出ようとするその自分を、男は目敏く見つけて止めた。
「待て。日が落ちてきたのにどこへ行くんだ」
「えっ……と、塀の戸締りを」
「そんなことは俺がやると言ってるだろう」
そのままさっさと外へ出て行こうとする男の服の裾を慌てて掴んだ。
「あの、私じゃなきゃ出来ないので」
「どういうことだ? 閉めるだけだろう?」
これは見せた方が早い。男について来てほしいと言った。
訝しげな男と共に小屋を出て、荒らされた畑の周りをぐるっと沿うように歩き、敷地の出入り口を目指した。
土に立てた柱に木の板を打ちつけただけの塀の切れ目には簡単な開き戸の門扉がついている。それを締めて閂を下ろす。これで準備はいい。
「思うが……この塀、あまり意味はないんじゃないか」
確かにこのままでは盗賊も獣も入り放題だ。
けれどフィルエシュカにはこれで充分である。
「見ていて下さい」
フィルエシュカは閂を下ろした塀の扉に顔を寄せる。そして、口付けした。
(獣と鳥、それからこの小屋と、ここに住む者に悪意持つ人間が入りませんように)
強く念じてから唇を離す。
普通の人間には何も見えないだろうが、フィルエシュカの目にはまじないの後から、塀が薄い衣のような光を纏って見えている。
「……これはなんだ」
「え」
男の目は見開かれ、視線はおよそ見えるはずのない、まじないの光に向けられている。
「塀が光った。これは、なんだ?」
「まさか見えるんですか?」
普通の人間で見えるというのは初めて聞いた。
近くの村にもまじないをかけに行くことはある。しかし、誰一人見えたことはない。
「これは獣除けと悪人避けのまじないです。呪いと違って数日から数ヶ月で効果は切れますけど、しないよりは随分マシなので」
「ほう。獣除けをしているのに、猪は入れるのか?」
それは言わないで欲しかった。
むっと口を尖らせる。
「昨日の夜は、切れてたの忘れて、寝ちゃったんです!」
「……ふっ、そうか」
尖らせた口を、男は興味深そうに覗き込む。
「このまじないとやら、人間にもかけられるのか?」
「朝飯前です」
「どれ」
そう言うと、こちらに身構える隙さえ与えず。
男は大きな手の甲をフィルエシュカの唇に押し付けてきた。
すぐ離した手の甲を眺めて、首を傾げる。
「何も起こらないが?」
「ーーっ!?」
何をしてくれるのだ。
文句を言わなければ、抗議しなければと思うのに、自分の臆病な口は開いて閉じるだけ。
その間も足は勝手に動いていたのだろう。いつのまにか小屋に戻っていた。
男は何でもないような顔で、相変わらずフィルエシュカを寝台に追い立てる。
「これで終わりなら早く寝ろ。子供は寝る時間だ」
村の子供達だってこんなに早くは寝ないだろう。
まだ宵の明星がそこにいるのだから。
けどもう疲れた。すごく疲れた。
「……じゃあ寝ますけど、殿下はどこで寝るのでしょうか」
椅子が一脚しかない家に寝台が二つもあるわけがない。男はそれでも、少しの動揺も見せなかった。
「ここにいる間は俺のことはウォルでいい。その辺りで寝るから気にするな」
「はぁ……」
「そう言えばお前の名は?」
それでやっと名乗ってすらいないことに気がついた。
「フィルエシュカです。長いので、お好きなように呼んでください」
「フィルエシュカ……フィルエシュカか」
それ以上会話する気はないらしい。男は刃物や旅装の手入れに戻った。
きっとこの調子でこの男は自分が一人前の魔女になり、呪いを解くまで泊まり込むのだろう。
一刻も早く魔女にならなければならない。
(怪我が治ってからにしようかな……)
朝になったら今日の出来事が全て夢であることを望んで、フィルエシュカは寝室に向かった。
まだ寝るには早すぎる時間だったがとにかく疲れていたせいで、あっという間に深く眠ってしまったのだった。
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