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「私との約束、破ったんですか?」
しおりを挟む「巻き上げたって、どういうことですか?」
抱えられながらも、ゾフィの発言に男がぎくりとした瞬間は、ちゃんと見ていたのだ。
問い詰めればウォルフリートは、しれっとした顔で言い放つ。
「お前への無礼に対する慰謝料だ。安いくらいだろう」
急速に頭が冷えていく気がした。そんなことは少しも望んでいない。
村長の妻から虐げられるのは挨拶のようなものだから、いちいち気にしていられない、というのもある。
「私との約束、破ったんですか?」
男の胸元の服を掴んでじっと見上げる。ウォルフリートが何かをしたのだとしたら、それは自分が村中にまじないをかけていた時だろう。村長達と喧嘩したりしないという約束をしてくれたから、一人で戻ってもらったのに。
しかしウォルフリートは悪びれもせず「喧嘩はしていない」と言った。
「俺はただの交渉のつもりだった。だが村長が全て叶えてくれるというから、それに甘えただけだ」
「そんなのっ……」
当たり前である。
村長はウォルフリートの身分を知っている。
きっと、皇帝の弟の不興を買うわけにはいかないと、無理な要求を聞いたのだろう。
(ーー私のためでも、そんなの)
男の服から手を離し、その膝から降りる。
引き留めようとする手を振り払えば、男の顔は途端に歪んだ。
「フィルエシュカ!」
お腹に力を入れて、キッと睨む。ウォルフリートがどう思おうが、今はっきり伝えなければ、彼はずっと同じことを繰り返すだろう。
「ーーウォル。村長さんもゾフィも、私にとっては家族のような人達なんです。その人達を脅したり怖がらせたり、ましてや雑に扱うなんてウォルでも許せません」
椅子に腰を下ろしたままウォルフリートは硬直している。
座った彼と目線が合うように腰を落とした。
「私のことを思ってくれたのは分かりますけど、方法を間違えてると思います」
もしかしたら、彼はこんなことを言われたことがないのかもしれない。
驚きの中に戸惑いが見え隠れしていた。
「貰いすぎたものは、返しましょう? ね?」
腿の上で握り締められた大きな拳に手を添えた。
目を伏せる悔しそうな顔に、申し訳なさが湧いてくる。
自分のために怒って、何かをしてくれる気持ちは嬉しい。
問題はその手段だ。誰彼構わず波風を立てるようなやり方は、いつか彼の身を滅ぼしてしまう。
(そういえば私、ウォルにちゃんとお礼言ってない)
色々ありがとう、で済ませていたが、やはりそれでは伝わらない。
何をされたら嬉しくて、何をされたら嫌なのか、そんなのは人によって違うだろう。
勇気を振り絞ると、膝と背筋を伸ばしてから、ウォルフリートの頭を抱え込むように手を回した。彼は座ったままだから、丁度自分の胸に頭が当たる。その手で彼の黒髪を、褒めるように撫でた。
さらさらと指通りの良い髪だった。鼻腔を爽やかな木のような香りがくすぐる。ほっとする匂いに、自分の中の彼への苛立ちが柔らかくなっていくのが分かる。
「ウォル。私、嬉しかったんです。ウォルが私のために奥様に怒ってくれたこともーーディルクさんから、守ってくれたことも。だからこそ、私のために周りの反感を買うようなことは、して欲しくない、です」
ただでさえ体が大きくて、そこにいるだけで威圧感があるのだ。されなくていい誤解もたくさんされてきただろう。
そこまで考えて初めて、彼の過去を何も知らないことに気がついた。聞こうともしていなかった。
でも今はなぜか知りたい、と思う。
いつかさよならする時が来ても、彼のことは覚えておきたい。
こんな自分を魔女にしてくれる人との、思い出を。
「私はみんながウォルを誤解してしまうのが、嫌です。だってウォルはほんとは、お料理もお裁縫も上手で、なんでも知ってて、私の看病までしてくれて、とっても優しいんですから」
「ーー俺のことをそんな風に言うのは、お前だけだ」
そんなことない。その言葉の代わりにぎゅっと抱き締める力を強くする。
自分の背中にも彼の腕がまわる。
鳩尾に押し付けられた口から、体の中心へと小さな振動が伝わった。
「……もう、しない」
表情までは判らなかった。彼の顔は全部フィルエシュカの上半身で隠れていたからだ。
でもきっといつもの仏頂面なのだろう。
想像すると可愛かった。
そこへ、控えめな咳払いが響く。
勢いよく顔を上げると、顔を真っ赤にしたゾフィが視線を彷徨わせていた。
ーーいるのを、すっかり忘れていた。
「……邪魔して、悪いんだけど」
「ゾ、ゾフィ、あの、今のは……っ」
慌ててウォルフリートと距離を取ると、友人は大きな溜め息をついて、苦笑した。
「言ったでしょ。フィルカが良いならいいって。あとこれから持って来る物は返さなくていいと思うわよ。畑が荒らされた上に、そのでっかい男の食い扶持が増えたんだから、いくらあっても足りないでしょ」
「う……」
ゾフィの言うとおりだった。
ウォルフリートがどれくらい村長からもぎ取ったのかは分からないが、あって困ることはない。
もし多くてもその分、行商の人から買うものを減らせばいい話だ。
「ご、ごめんね」
「あんたは謝ってばっかりね。……いつまで経っても水臭い子なんだから」
じゃあ帰るから。そう言って椅子から立ち上がる友達に駆け寄った。
「待ってゾフィ。ーーゾフィが、無事に家まで帰れますように」
つま先立ちをしてやっと彼女の頬に唇が届く。まじないをかけると、途端に広がって彼女を包む、ふわりとした光の衣。
まじないは何も持っていない自分が、友達に唯一してあげられることだ。
「気をつけて帰ってね? 来てくれてありが……」
言い終える前にいつもと違う反応に気づいた。ゾフィは頬に手を当てて、青い顔をしている。その視線はフィルエシュカの背後に釘付けだった。
「ゾフィ?」
固まった友人の視線がじわりと動く。辿った先には、とてもにこやかなウォルフリートがいた。
「フィルエシュカ。昨日今日の詫びとして、俺がお前の友人を送っていこう。少し一人で留守番できるか?」
「ーーっひ」
ゾフィが息を呑んだのが分かる。
後ろにいたウォルフリートは機敏な動きで前にまわると身を屈めてきた。
様子のおかしい友との間に、壁になるように。
「俺も森に行くのだから、まじないを」
「う、ん」
前にした時は百年早いと怒られたが、今日はいいのだろうか。疑問に思いながら唇を頬に近づける。
しかし頬に届く直前、ウォルフリートが急に顔の向きを変える。
「んっ」
頰よりも柔らかく、熱くてしっとりしたものが唇に触れた。間違えたのだと、慌てて離れようとするけれど頭が動かない。
ウォルフリートの手が後頭部を押さえているからだった。
「ん、ふ、んっ」
熱いと思ったのはウォルフリートの唇で、ぬるりと唇の合わせ目をなぞる、ざらつくものはきっと舌だ。なぜ、とか。どうして、とか、頭がぐるぐると廻る。でも答えを導き出す前に、それはあっさり離れた。
まじないをする余裕なんて、あるはずもない。
「行ってくる。戸締りをしろ。誰が来ても開けるな」
「……ふぁい……」
まじないじゃない。今のは、ただの口付けだ。
鈍い頭でそれを悟ってしまうと、恥ずかしくて恥ずかしくて、立っているだけで精一杯だった。
だから、ウォルフリートと小屋を出ていくゾフィが、引き攣った顔をしていたことに、全く気が付かなかったのである。
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