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洞窟の比喩
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「私がこうした活動をはじめるようになったキッカケはフランスの教育学者であり、スピリティズムの創始者でもあったイポリト=レオン=ドゥニザール・リヴァイユという人物が1857年に書いた『霊の書』という本を読んだからなんです。そうです。この喫茶店と同じ名前です。突然の雨に降られ、たまたま立ち寄った喫茶店の名前がまさか『リヴァイユ』だなんて私も最初は驚きました。”事実は小説よりも奇なり”、とはよく言ったものです」
そう言うとセンセイはカップの縁に口をつけ、排水溝に水が流れていくような下品な音を立てながら美味そうにコーヒーを啜った。喉元が蛇がのたうつように隆起する。センセイの一挙手一投足に意識が向いてしまっているせいからか、カップをソーサーの上に置いた時の乾いた金属音が、妙に耳に残った。
「年端も行かない学生であった私は本に書かれてある内容にじわじわと魅せられていきました。輪廻転生、交霊術、生命の目的、宇宙の秩序。この本にはこの世の真実が書かれている。大いなる意思と不可視の力が私をこの本と巡り合わせてくれたのだと、そう思いました」
センセイが飲み干したコーヒーカップに目を遣る。カップの底には溶けきらなかったグラニュー糖がへばりついていた。唸るような低い空調の音が店の中で響いている。
「彩さんは『道』という映画をご覧になられたことはありますか?」
センセイの問いかけに母は静かに首を横に振った。
「イタリアの白黒映画なんですけどね。物語中盤辺りで、ある青年がちょっと頭の弱いヒロインの少女にこんなことを言うんです。『この世の中にあるものは何かの役に立つ。何の役に立つか分からないが何かの役には立つ。神様だけがそれを知っている』うろ覚えですが、確かこんな感じの台詞だったと思います。無謬《むびゅう》の存在である神が創造したこの世に無駄な物なんてあるはずがないんです。 全てのものには存在し得るだけのちゃんとした意味がある。人間である我々にはそれが何なのか分からないだけ。だからきっと私たちのこの出逢いにも何かしらの意味がある……」
「神の見えざる手によって私たちは出会うべくして出会った。そういうことですよね? 」
「素晴らしい。やっぱり彩さんは優秀だ。どうかあなたに幸福が訪れんことを。オムニス・ベトール」
「あぁ、センセイ……ありがとうございます」
2人が何について話しているのか僕には理解することができなかった。日本語を話しているはずなのに、まるで外国人か宇宙人同士がコミュニケーションを取り合っている場面をまざまさ見せつけられているようなそんな感覚。センセイと母は既に奇妙な絆で結ばれているようで、僕は完全なる部外者であった。宇宙人なのは僕の方だった。
「そうだ。こんな面白い話があるんですよ」
センセイが胸ポケットからボールペンを取り出し、テーブルに備え付けてあったペーパーナプキンに何か書き始める。
「プラトンが書いた『国家』という有名な本にですね。『洞窟の比喩』という例え話があるんです。この『国家』という本はプラトンの兄であるグラウコンとプラトンの師にあたる哲学者ソクラテスが対話しながら話を進めていく対話形式で書かれてまして、『洞窟の比喩』の話ではソクラテスが地下の洞窟に住んでいる人々の話についてグラウゴンに語り始めるんです。それでソクラテスが言うには、その地下洞窟に住んでいる人々は、手足も首も壁に縛られたままなので振り向くことも動くこともできないまま、ずっと暗い暗い洞窟の奥を見ながら過ごしているらしいんです」
エンボス加工されたペーパーナプキンの表面にセンセイは器用にボールペンの先端を走らせていく。マンガの丸い吹き出しのような洞窟と壁に縛られて身動きが取れずにいる人々の姿がナプキンの上に描かれ、センセイはその絵を指差し、「これが私たちです」と言った。センセイは次に人々が縛られている壁の上に燃え盛る松明と、松明の前で鳥や人の姿を象った人形を動かしている人の形をした黒いシルエットを描き、最後に洞窟の壁に人形の影が浮かび上がっているのを描いた後、静かにペンを置き、真っ直ぐ母の目を見つめた。
「この例え話に出てくる人たちは子供の頃から拘束された状態で洞窟の壁だけを見てこれまで生きてきました。そういった環境下で育ってきた人々は、きっと洞窟の壁に浮かび上がってくる影を人間だと思い込んでしまいますよね? つまりプラトンはこの例え話を通して、普段、人が当たり前のように知覚しているこの世界は実体ではなく、その影を見ているだけに過ぎないのではないかという疑問を私たちに投げかけているわけです。どうです? 面白いと思いません?この話」
「以前、センセイが話してくださった『水槽の脳』のお話と少し似てるように思うのですが……」
「ええ。しかしよく考えてみてください。『洞窟の比喩』という例え話では実体である肉体が当然のように存在するものと考えられていますが、『水槽の脳』では実体すら存在しないのではないかという懐疑主義的なアプローチをさらに推し進めたようなものになっています。似ているようですが両者は全くの別物ですよ」
確かに、と神妙な表情を浮かべている母を見てセンセイは満足げにうなずき、それからちらりと僕の方を見た。気持ち悪い。
「直樹君はさっきの話を聞いてどう思ったかな? 学校の先生はこんな話してくれないよね。ねぇ直樹君。勉強会のことだけど……少しは興味を持ってくれたかな? そこまで堅苦しく考えなくてもいいんだよ。みんなとお話する程度に思ってくれればそれでいいんだ。 それで、どうかな?」
気持ち悪い。
そう言うとセンセイはカップの縁に口をつけ、排水溝に水が流れていくような下品な音を立てながら美味そうにコーヒーを啜った。喉元が蛇がのたうつように隆起する。センセイの一挙手一投足に意識が向いてしまっているせいからか、カップをソーサーの上に置いた時の乾いた金属音が、妙に耳に残った。
「年端も行かない学生であった私は本に書かれてある内容にじわじわと魅せられていきました。輪廻転生、交霊術、生命の目的、宇宙の秩序。この本にはこの世の真実が書かれている。大いなる意思と不可視の力が私をこの本と巡り合わせてくれたのだと、そう思いました」
センセイが飲み干したコーヒーカップに目を遣る。カップの底には溶けきらなかったグラニュー糖がへばりついていた。唸るような低い空調の音が店の中で響いている。
「彩さんは『道』という映画をご覧になられたことはありますか?」
センセイの問いかけに母は静かに首を横に振った。
「イタリアの白黒映画なんですけどね。物語中盤辺りで、ある青年がちょっと頭の弱いヒロインの少女にこんなことを言うんです。『この世の中にあるものは何かの役に立つ。何の役に立つか分からないが何かの役には立つ。神様だけがそれを知っている』うろ覚えですが、確かこんな感じの台詞だったと思います。無謬《むびゅう》の存在である神が創造したこの世に無駄な物なんてあるはずがないんです。 全てのものには存在し得るだけのちゃんとした意味がある。人間である我々にはそれが何なのか分からないだけ。だからきっと私たちのこの出逢いにも何かしらの意味がある……」
「神の見えざる手によって私たちは出会うべくして出会った。そういうことですよね? 」
「素晴らしい。やっぱり彩さんは優秀だ。どうかあなたに幸福が訪れんことを。オムニス・ベトール」
「あぁ、センセイ……ありがとうございます」
2人が何について話しているのか僕には理解することができなかった。日本語を話しているはずなのに、まるで外国人か宇宙人同士がコミュニケーションを取り合っている場面をまざまさ見せつけられているようなそんな感覚。センセイと母は既に奇妙な絆で結ばれているようで、僕は完全なる部外者であった。宇宙人なのは僕の方だった。
「そうだ。こんな面白い話があるんですよ」
センセイが胸ポケットからボールペンを取り出し、テーブルに備え付けてあったペーパーナプキンに何か書き始める。
「プラトンが書いた『国家』という有名な本にですね。『洞窟の比喩』という例え話があるんです。この『国家』という本はプラトンの兄であるグラウコンとプラトンの師にあたる哲学者ソクラテスが対話しながら話を進めていく対話形式で書かれてまして、『洞窟の比喩』の話ではソクラテスが地下の洞窟に住んでいる人々の話についてグラウゴンに語り始めるんです。それでソクラテスが言うには、その地下洞窟に住んでいる人々は、手足も首も壁に縛られたままなので振り向くことも動くこともできないまま、ずっと暗い暗い洞窟の奥を見ながら過ごしているらしいんです」
エンボス加工されたペーパーナプキンの表面にセンセイは器用にボールペンの先端を走らせていく。マンガの丸い吹き出しのような洞窟と壁に縛られて身動きが取れずにいる人々の姿がナプキンの上に描かれ、センセイはその絵を指差し、「これが私たちです」と言った。センセイは次に人々が縛られている壁の上に燃え盛る松明と、松明の前で鳥や人の姿を象った人形を動かしている人の形をした黒いシルエットを描き、最後に洞窟の壁に人形の影が浮かび上がっているのを描いた後、静かにペンを置き、真っ直ぐ母の目を見つめた。
「この例え話に出てくる人たちは子供の頃から拘束された状態で洞窟の壁だけを見てこれまで生きてきました。そういった環境下で育ってきた人々は、きっと洞窟の壁に浮かび上がってくる影を人間だと思い込んでしまいますよね? つまりプラトンはこの例え話を通して、普段、人が当たり前のように知覚しているこの世界は実体ではなく、その影を見ているだけに過ぎないのではないかという疑問を私たちに投げかけているわけです。どうです? 面白いと思いません?この話」
「以前、センセイが話してくださった『水槽の脳』のお話と少し似てるように思うのですが……」
「ええ。しかしよく考えてみてください。『洞窟の比喩』という例え話では実体である肉体が当然のように存在するものと考えられていますが、『水槽の脳』では実体すら存在しないのではないかという懐疑主義的なアプローチをさらに推し進めたようなものになっています。似ているようですが両者は全くの別物ですよ」
確かに、と神妙な表情を浮かべている母を見てセンセイは満足げにうなずき、それからちらりと僕の方を見た。気持ち悪い。
「直樹君はさっきの話を聞いてどう思ったかな? 学校の先生はこんな話してくれないよね。ねぇ直樹君。勉強会のことだけど……少しは興味を持ってくれたかな? そこまで堅苦しく考えなくてもいいんだよ。みんなとお話する程度に思ってくれればそれでいいんだ。 それで、どうかな?」
気持ち悪い。
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