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嘔吐

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 胃の底から熱い何かが喉元にまでせり上がってくるのを感じ、慌てて席を立った。脇目もふらずトイレに急いで駆け込むとピカピカに磨き上げられている洋式の便器にしがみついて、家を出る前に食べたばかりの朝食を丸ごと吐いた。

 鼻の穴や口から酸っぱい塊がボトボトと音を立てながら便器に落ちていく。今朝、食べたばかりのトースト、サラダ、コーンスープ。離乳食のようなべちゃべちゃの汚物の中に赤い色が混じっている。最初は血かと思ったが、すぐにサラダに入っていたトマトの色であることに気づき、ほっと胸を撫で下ろした。

 吐いている間は自分の身体が不可視の糸で操られる人形みたいに小刻みに震え続けた。食堂が吐瀉物で塞がれ、上手く息ができなかった。新鮮な酸素を求め、苦しみ悶えることしかできない自分の身体をひどく恨めしく思う。

 瞼から大粒の涙があふれ始めた。こぼれ落ちていく涙は汚物にまみれた便器の中に吸い込まれていき、静かに跡形もなく消えていった。

 繰り返される嘔吐と眩暈の殴打に身を晒されながら、僕はなおも懸命に便器にしがみ続け、アンティーク調の意匠が施された狭苦しい個室トイレの中で吐き続けた。ここまで不運が重なると自分の人生が喜劇のように思えてくる。ゲーゲーとカエルのような鳴き声をあげている自分を笑わずにはいられなかった。絶望の淵に追い詰められてしまうと人は笑うことしかできなくなってしまうのかもしれない。

 店内は相変わらず気が滅入るほどゆったりとしたピアノのメロディーが朗々と鳴り響いている。狂気染みて明るく、美しい調べが頭の中をじわじわと侵していくように感じられて、気分はますます悪くなる一方であった。

「大丈夫かい? 直樹君」

 センセイの僕を心配する声が扉の向こう側から聞こえてきた。どうしてそっとしておいてくれないのか。そんなささやかな願いすら、神様は聞き届けてはくれないというのか。神様は人を憎んでもいなければ、人を愛してなどもいない。きっと自分の作った世界がどのように変化し、またどのようにして滅んでいくのか眺めているだけなのだろう。自室で飼っている金魚のことが天啓のように頭に浮かんできた。窮屈な水槽の中で一生を終える金魚にとってみれば、確かに僕は神様みたいな存在なのかもしれなかった。
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