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あれから月子と会うのが日課に組み込まれるようになって行った。彼女の執筆は思うように進んでいない。自分の提案が悪手だったとは思いたくないが、今の現状を鑑みれば方向が明るくなっているような気がしない。早めの夕飯を取った後、月子と並んで歩く、まだ時刻は夕方だというのに道路を走っていく車のライトが点灯し、光が月子を立体的に照らした。少し俯きながら手元に息を吹きかけている姿が浮き彫りになり、マフラーのない首元が寒そうで俺は一度立ち止まる。隣で月子が立ち止まり不思議そうに俺を見上げた。
「寒いだろ、温めておけ」
マフラーを外してその首にかけてやると、少し慌てる。
「でも、それじゃあ比嘉さんが寒いです」
「見ている方が寒い、それに…、俺はホッカイロ貼ってるから平気だ」
言うと月子は笑った。
「そうですか」
しばらく無言で歩いていく、目的地に到着すると月子の目が輝いた。
「わあ、綺麗ですね!」
はしゃぎながら月子は、階段を早足で駆け降りて手すりに手をかける。長い髪が風に揺れた。来た場所は夜景が見えるちょっとした場所。水面に対面の夜景が映って輝いている。人にとってはなんてことない日常のひとつに組み込まれてしまいそうな夜景だが、月子の瞳は輝いていた。
「寒くないか?」
「少し…だけど、見る価値ありですね。こんな近くにこんな綺麗なところがあったんですね」
夜の景色が水面の反射して輝いているのを、月子は無邪気な顔で見つめている。それから言葉もなくふたりで見つめていると、あの、と小さく言葉が投げかけられた。視線を向けると、指先を合わせて視線を逸らしている月子の姿。
「……、いつも、時計を見てるのに、今日はいいんですか?」
言われて、今日は時計を見ていないことに気がついた。
「………問題ない」
月子の作品は昼間の穏やかな描写がよく似合う、けれど彼女の作品に夜の景色を混ぜても良いのではないかと感じたから、見せたかった。……、そう、彼女の表現の幅を広げるための、仕事だ。
「帰りたいか?」
目的は達成した筈なのに、なぜかこんなことを聞いている。思った通りに彼女は、そういうことではないです。と小さく呟いて視線を夜景に向けた。
「なら…、喫茶店で温まってから帰ろうか」
「はい」
月子は嬉しそうに顔を綻ばせた。いつもの喫茶店からは距離があるので、今日は別の場所。それでも月子は戸惑いを見せずに、落ち着いた様子で椅子に座った。コートを脱いでマフラーを外すと俺に向けてマフラーを差し出した。
「ありがとうございました。暖かかったです」
マフラーを受け取るかどうか一瞬迷う。
「いいよ、帰りも寒いだろう」
その言葉に月子は迷いながらも、ありがとうございます。と小さく言ってマフラーを引っ込めた。
「月子はキャラメルマキアートにするか?」
「はい」
素直に頷く月子に頷いて、カフェオレとキャラメルマキアートを注文した。
「比嘉さんがカフェオレ珍しいですね」
「たまにはな」
和やかに時間は進む。時折後方にある備え付けられた時計の秒針が聞こえたが、聞こえないふりをして月子に向き合う。女性特有の小さな手でカップを持ち上げて、猫舌なのかふうふうと息を吹きかけてから一口口にする。俺も普段飲まないカフェオレを口にして、まろやかな口当たりにほっと一息つく。仕事と家の往復の俺と、マンションで執筆をし続ける月子では盛り上がるような話はないが、月子の飾らない穏やかな世界は、一緒に居て心地が言い。
「この間ね、たまにはお料理をしてみようと思って、野菜を買ったんですけど…、家に調理器具が無いことに気づいて、トマト全部生で食べきったんですよ」
「何を作ろうと思ったんだ?」
「えーと……、それがよく考えずに、トマトだけ買ったんです。赤くて綺麗だったから」
「そうか」
「色」のある小説を書こうと意識するあまりに、色鮮やかなトマトをつい手に取ってしまったというところだろうか。月子の部屋に行くたびに、色に関係する書物がすこしずつ詰みあがっていることは気づいていた。思ったよりも追い詰められているのか。月子を見るが、今はそんなことを感じさせないような穏やかさでカップに口付けていた。
「あ、の……比嘉さん、そろそろ帰らなくて大丈夫ですか?」
暫くして、時間を言い出したのは月子の方だった。あぁ、と煮え切らない言葉を吐いて視線を動かす。コーヒーは既に空になっていて、他の客もまばらだ。
「私は……良いですけど、」
月子の視線が指輪に向いたことに気がつく、ああ、と頷いて指輪に視線を向ける。人工的な灯りの下で鈍く光るそれは随分安っぽく見えた。…、でもこれ以上一緒にいても月子を困らせるだけだろう。空になったカップに残ったコーヒーがこびりついた淵を見て俺は立ち上がった。
「帰り、送るよ」
「はい」
月子は少しほっとしたような、寂しそうな、複雑な表情を浮かべた。
月子をマンションまで送り届けて、自宅マンションへと向かう帰り道は気温が1度下がったような気がする。街灯の灯りを浴びて、マフラーに顔を埋めた。
自宅のマンションにたどり着き、閉まっていた鍵を回して無言で玄関の扉を開ける。下駄箱の上に置かれた四角い時計が21:00を指していた。仕事でこのくらいになることも良くある、それにあれも仕事の一つだ。奥の部屋は薄暗く、妻がリビングにいないことを示していた。玄関のあかりをつけて、息を呑む。玄関の靴が一足多い。俺のものではない男物のスニーカーが、妻の靴と絡み合うようにして乱雑に脱ぎ散らかされていた。それをただ見つめ、俺はそのまま玄関を出た。はあとため息をひとつ吐くと白い息が空気に消えた。
「どうするか」
会社は閉まっている。一瞬月子の顔が浮かんで瞬時にそれをかき消した。それは、仕事じゃない。ビジネスホテルも考えたが俺は首を振るって、漫画喫茶に行くことにした。金をかける場面でもない。こんなところに金をかけるなら、月子になにか……、自分の思考に奥歯を噛み締めて考えを飛ばす。考えてはいけないことだ。ひとつ風が強く吹いて息を吐いて空を見ると、俺の気持ちを見透かしたように月が煌々と輝いていた。
「寒いだろ、温めておけ」
マフラーを外してその首にかけてやると、少し慌てる。
「でも、それじゃあ比嘉さんが寒いです」
「見ている方が寒い、それに…、俺はホッカイロ貼ってるから平気だ」
言うと月子は笑った。
「そうですか」
しばらく無言で歩いていく、目的地に到着すると月子の目が輝いた。
「わあ、綺麗ですね!」
はしゃぎながら月子は、階段を早足で駆け降りて手すりに手をかける。長い髪が風に揺れた。来た場所は夜景が見えるちょっとした場所。水面に対面の夜景が映って輝いている。人にとってはなんてことない日常のひとつに組み込まれてしまいそうな夜景だが、月子の瞳は輝いていた。
「寒くないか?」
「少し…だけど、見る価値ありですね。こんな近くにこんな綺麗なところがあったんですね」
夜の景色が水面の反射して輝いているのを、月子は無邪気な顔で見つめている。それから言葉もなくふたりで見つめていると、あの、と小さく言葉が投げかけられた。視線を向けると、指先を合わせて視線を逸らしている月子の姿。
「……、いつも、時計を見てるのに、今日はいいんですか?」
言われて、今日は時計を見ていないことに気がついた。
「………問題ない」
月子の作品は昼間の穏やかな描写がよく似合う、けれど彼女の作品に夜の景色を混ぜても良いのではないかと感じたから、見せたかった。……、そう、彼女の表現の幅を広げるための、仕事だ。
「帰りたいか?」
目的は達成した筈なのに、なぜかこんなことを聞いている。思った通りに彼女は、そういうことではないです。と小さく呟いて視線を夜景に向けた。
「なら…、喫茶店で温まってから帰ろうか」
「はい」
月子は嬉しそうに顔を綻ばせた。いつもの喫茶店からは距離があるので、今日は別の場所。それでも月子は戸惑いを見せずに、落ち着いた様子で椅子に座った。コートを脱いでマフラーを外すと俺に向けてマフラーを差し出した。
「ありがとうございました。暖かかったです」
マフラーを受け取るかどうか一瞬迷う。
「いいよ、帰りも寒いだろう」
その言葉に月子は迷いながらも、ありがとうございます。と小さく言ってマフラーを引っ込めた。
「月子はキャラメルマキアートにするか?」
「はい」
素直に頷く月子に頷いて、カフェオレとキャラメルマキアートを注文した。
「比嘉さんがカフェオレ珍しいですね」
「たまにはな」
和やかに時間は進む。時折後方にある備え付けられた時計の秒針が聞こえたが、聞こえないふりをして月子に向き合う。女性特有の小さな手でカップを持ち上げて、猫舌なのかふうふうと息を吹きかけてから一口口にする。俺も普段飲まないカフェオレを口にして、まろやかな口当たりにほっと一息つく。仕事と家の往復の俺と、マンションで執筆をし続ける月子では盛り上がるような話はないが、月子の飾らない穏やかな世界は、一緒に居て心地が言い。
「この間ね、たまにはお料理をしてみようと思って、野菜を買ったんですけど…、家に調理器具が無いことに気づいて、トマト全部生で食べきったんですよ」
「何を作ろうと思ったんだ?」
「えーと……、それがよく考えずに、トマトだけ買ったんです。赤くて綺麗だったから」
「そうか」
「色」のある小説を書こうと意識するあまりに、色鮮やかなトマトをつい手に取ってしまったというところだろうか。月子の部屋に行くたびに、色に関係する書物がすこしずつ詰みあがっていることは気づいていた。思ったよりも追い詰められているのか。月子を見るが、今はそんなことを感じさせないような穏やかさでカップに口付けていた。
「あ、の……比嘉さん、そろそろ帰らなくて大丈夫ですか?」
暫くして、時間を言い出したのは月子の方だった。あぁ、と煮え切らない言葉を吐いて視線を動かす。コーヒーは既に空になっていて、他の客もまばらだ。
「私は……良いですけど、」
月子の視線が指輪に向いたことに気がつく、ああ、と頷いて指輪に視線を向ける。人工的な灯りの下で鈍く光るそれは随分安っぽく見えた。…、でもこれ以上一緒にいても月子を困らせるだけだろう。空になったカップに残ったコーヒーがこびりついた淵を見て俺は立ち上がった。
「帰り、送るよ」
「はい」
月子は少しほっとしたような、寂しそうな、複雑な表情を浮かべた。
月子をマンションまで送り届けて、自宅マンションへと向かう帰り道は気温が1度下がったような気がする。街灯の灯りを浴びて、マフラーに顔を埋めた。
自宅のマンションにたどり着き、閉まっていた鍵を回して無言で玄関の扉を開ける。下駄箱の上に置かれた四角い時計が21:00を指していた。仕事でこのくらいになることも良くある、それにあれも仕事の一つだ。奥の部屋は薄暗く、妻がリビングにいないことを示していた。玄関のあかりをつけて、息を呑む。玄関の靴が一足多い。俺のものではない男物のスニーカーが、妻の靴と絡み合うようにして乱雑に脱ぎ散らかされていた。それをただ見つめ、俺はそのまま玄関を出た。はあとため息をひとつ吐くと白い息が空気に消えた。
「どうするか」
会社は閉まっている。一瞬月子の顔が浮かんで瞬時にそれをかき消した。それは、仕事じゃない。ビジネスホテルも考えたが俺は首を振るって、漫画喫茶に行くことにした。金をかける場面でもない。こんなところに金をかけるなら、月子になにか……、自分の思考に奥歯を噛み締めて考えを飛ばす。考えてはいけないことだ。ひとつ風が強く吹いて息を吐いて空を見ると、俺の気持ちを見透かしたように月が煌々と輝いていた。
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