黄昏の竜王は純白の王を抱く

八陣はち

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真夜中の邂逅

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 フィオディークは身分を隠し、街の隅々へと出向いた。
 顔を覚えてくれる者が増えた。フィオディークを見つけると喜んでくれる者も増えた。

 王都の外れの裏通り。暗い路地に入るとフィオディークに気がついた幼い竜人の子が駆け寄ってきた。

「フィーさま!」

 明るい声に、フィオディークの頬は自然と緩んだ。膝をついて視線を合わせると、子どもは笑顔を見せた。

「すまない、今日はこれだけなんだ」

 フィオディークは懐から干した肉と穀物の入った袋を出した。王宮の食料係に言って分けてもらったものだった。非常用の食料になるものが欲しいと、食料係に頼み込んで用意してもらったものだった。

 フィオディークの手だけでは、すべての民に食べ物が行き届かない。それでも、フィオディークはやめなかった。
 日毎に向かう地域を変え、雨の日も厭わず民の元へと出向いた。
 自分のように親や親しい者を病で失うものは少なくない。そんな悲しい思いをする者を一人でも減らしたかった。

「ううん、ありがとう、フィーさま」
「またね」
「うん」

 小さな後ろ姿を見送って外套を深く被り、フィオディークは狭い路地を駆ける。貧しい民へ、フィオディークはわずかばかりの食べ物を、金銀を、宝石を、金貨を、服を渡した。

 その夜も、フィオディークは夜の街を静かに駆けていた。持ち出した品物は全て渡し終え、王宮へと戻ろうとしたときだった。

「フィオディーク」

 夜の色に染まった路地に低く澄んだ声が響く。
 こんなところでその声が自分を呼ぶとは思っていなかった。
 振り返った先には、漆黒の外套を纏う大柄な人影があった。
 黒い、大きな翼。黒い鱗、長い尾。フィオディークが見間違えるはずもない。

「っ、え、トルヴァディアさま?」
「よくわかったな」

 角を隠したくらいでは誤魔化せるはずがない。夜の帳の下りた真夜中の路地裏、フィオディークの前に姿を現したのは、漆黒の外套を深く被った竜王トルヴァディアだった。

「どうして、こんなところに」

 竜王が街中に降り立つなど聞いたことがなかった。そんなフィオディークの戸惑いをよそに、トルヴァディアは告げる。

「竜王は宮にいなければいけないわけじゃない。自らの守護する地を直接見るのも務めだ」

 静かな言葉の後、トルヴァディアは続けた。

「お前、食事はしているのか」
「ええ」
「痩せたな」

 トルヴァディアの声に、フィオディークは口を噤み、俯いた。
 施しに回すため、食べる量を減らした。そうでなくとも王宮には食べきれないほどの食料があったが、フィオディークは少しでも多くの民へ食料を届けたかった。
 食糧だけではない。一度着たらもう着ない服、絶えず持ち込まれる金銀や宝石。それらは皆、国中からかき集められたものだった。
 それらを、民へと返す。フィオディークがしているのは、それだけだ。
 それを咎められた気がして、フィオディークは視線を足元に落とした。

「来い」
「っ、え」

 気落ちしたフィオディークには気が付いていない様子で、トルヴァディアは軽々とフィオディークを抱き上げた。

「軽くなったな」

 独り言のように小さな声が響いたかと思うと、大きな羽音が他の音を飲み込んだ。戸惑うフィオディークを抱いて、トルヴァディアは羽ばたいた。
 狭い路地から広い夜空へと舞い上がる。空には欠けた月が静かに輝いていた。
 
「掴まっていろ」

 羽音に混じって低い声がフィオディークの耳に届く。フィオディークはおそるおそるトルヴァディアの纏う服を掴んだ。
 月の冷たい光が降る中、トルヴァディアは夜風を裂き、フィオディークを竜王の宮へと連れて行った。

 トルヴァディアの部屋に着くなり、部屋には食事が運び込まれる。
 椅子に座らされたフィオディークの前には、幾つもの料理が並べられた。

「これ、は」

 王宮でも見たことのない料理や、木の実、果実が目の前に並ぶ。

「食べろ」
「え」
「言葉を忘れたわけじゃないだろう」

 座らされたフィオディークの正面にはトルヴァディアが座った。トルヴァディアの金色の瞳は真っ直ぐにフィオディークを見つめている。

「トルヴァディア様は」
「俺はいい。これはお前のためのものだ」
「そう、ですか」

 一緒に食べるのではないのかとフィオディークは肩を落とした。

「そんな顔をするな。別に、食べたくないわけじゃない。お前のために用意したものに俺が手をつけるわけにはいかないだろう」
「一緒に、食べてくださいませんか」

 フィオディークの伺う声に、トルヴァディアは苦笑いして机の上に並んだ中から果物を一つ手に取った。手のひらに乗るくらいの、丸い金色の果実だった。

「ではこれをもらおうか。お前も食べろ」

 トルヴァディアが投げてよこしたのは、トルヴァディアが手に取ったのと同じものだった。

「はい。いただきます」

 トルヴァディアの前で、フィオディークはおそるおそる果物を一口齧った。初めて食べるものだ。王宮にはなんでもあったが、その王宮でもこの果物は食べたことがなかった。
 甘酸っぱくて柔らかな芳香が鼻に抜けていく。

「おいしい」
「よかった。好きなだけ食べろ。ゆっくりでいい」
「はい」

 フィオディークは手に取った果実を残さず食べた。種は小さく柔らかくて、食べても問題なさそうだった。
 食べ終わると、何だか腹が減ったような気がする。
 フィオディークは手元にあったスープに手をつけた。穀物と細かく切った野菜を煮たもののようだった。口に含むと、懐かしい味がした。

 それは母親がよく作ってくれたものに似ていた。懐かしさがフィオディークの胸を埋めて、胸の奥が柔く締め付けられた。
 自分で何度か試しても、同じ味は再現できなかった。また食べられるとは思っていなかったフィオディークは、器に入っていたものを平らげてしまった。

「それは、そんなに美味いものなのか」
「え」
「先ほどからそればかり食べている」

 トルヴァディアはフィオディークが食べるスープに興味を持ったようだった。

「嬉しいのです。これによく似た料理を、昔よく食べていました」
「そうか」

 トルヴァディアはじっとフィオディークを見つめる。

「王都を出ろ、フィオディーク」

 トルヴァディアの放った静かな声に、フィオディークは弾かれたように顔を上げた。
 まさか、彼がそんなことを言うなんて思いもしなかった。
 フィオディークは食事の手を止めた。
 揺れるフィオディークの赤い瞳には、真っ直ぐに見つめるトルヴァディアの姿が映る。

「しかし」
「このままでは、お前も死んでしまう」

 トルヴァディアわずかに眉を下げた。気遣ってくれるのは嬉しいが、フィオディークは務めを放棄することはできない。神より賜った力もある。簡単に放り出すことなど考えられなかった。

「私には、神官としての務めがあります。それに、神より賜った使命もあります。逃げるわけには」
「施しのためにお前の命を削るのは許さぬ」

 怒気を孕んだ低く唸るような声に、フィオディークの肩が跳ねた。

「再び私の元に来いと言っただろう」

 約束した。
 トルヴァディアがその約束を覚えていてくれたことに、胸が震えた。
 見開かれたフィオディークの赤い瞳が濡れる。
 フィオディークはただの神官で、トルヴァディアは竜王だ。竜王からすれば自分など取るに足らない存在だというのに、トルヴァディアはあの口約束を覚えていてくれた。

 一族の末席で虐げられることばかりだったフィオディークには、トルヴァディアの言葉は救いだった。

「トルヴァディアさま」
「約束してくれるか。また、私のもとに来ると」

 フィオディークは頷く。

「はい。必ずや」

 フィオディークの震える声に返ってきたのは、優しい笑みだった。

「食べたら少し休んでいけ。世が明ける頃に戻ればいいか」
「はい」

 それから、フィオディークは腹いっぱいになるまで食べ、トルヴァディアと言葉を交わした。
 スープのおかわりを持ってきてくれたトルヴァディアと一緒にスープを食べた。パンはフィオディークの知るものよりもずっと柔らかかったし、見たことのない果物もたくさん食べた。
 トルヴァディアはいちいちどこの大陸のものなのか教えてくれた。
 普段何を食べるのか、何を思っているのか、取り止めのない話ばかりをした。
 こんなにも穏やかな気持ちで誰かと言葉を交わすのはいつぶりだろうとフィオディークは思う。その相手が竜王だなんて、かつてのフィオディークには想像もできなかったことだ。

 夜更けまで食べて話して、緊張もいつのまにかすっかり解けていたのだろう。
 眠ってしまったフィオディークが目を覚ますと、そこは王宮のフィオディークの部屋だった。
 戻ってきた記憶のないフィオディークは、夢でも見たのかと思う。しかし、フィオディークの枕元には見覚えのある金色の果実が置いてあった。トルヴァディアとともに食べた果実だった。
 トルヴァディアがここまで連れてきてくれたのだろうか。礼も言えなかった。しかしそれさえも、トルヴァディアからのまた会いに来いという想いが込められているように思えた。
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