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アザマロ譚
一 野人
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賽の河原。
幼き子供が、亡き父母の供養のために、小石を積んで塔を作っている。
積んだ端から、地獄で亡者を懲らしめる獄卒という頭に角を生やし、耳まで裂
けた口を持つ恐ろしい形相の鬼が来て、石を蹴散らして行った。
三途の川を渡るのに必要な六道銭を持たない幼児は、積み終えるまで無間に石
積みを続けていかなければならなかった。
そんな幼児を不憫に思ってか、地蔵菩薩が現れて、悪い鬼を追い払ってくれた。
幼児は、ようやく石積みを終えて、橋を渡り始めた。
黄泉の国に旅立つ際、必ず通過するこの川は、この世での業の深さによって、
善人は橋を、軽い罪人は緩やかな浅瀬を、悪人は深い流れの急な瀬を渡らなけれ
ばならなかった。
運悪く、三途の川を渡れなかった者は、冥途に行く事も叶わずに、この世とあ
の世の狭間を霊となって永遠にさ迷う事になる。
奈良時代の末期─
陸奥を流れるヒタカミ(日高見)川に、産卵のために溯上してきた鮭が跳ねて
いた。
浅瀬では、喉に三日月形の白い毛がある月の輪熊が、鮭を器用に腕で掬い上げ
るように獲って、口に咥えていった。
腹に張った乳房をぶら下げた一頭の母狼が、獲物を求めて子狼の元を離れて狩
りに出ていた時だった。
大空から一連の鷹が舞い降りて、狼の子を掠め取っていった。
満天の夜空に、天の川が流れていた。
弱肉強食の世界は、獣だけではなかった。
山間の洞穴に、乳呑み児の赤子を抱えた女と男の蝦夷の夫婦が、焚き火で暖を
取りながら秋鮭を炙っていた。
その夫婦は、邑の長老が指定した婚約を破棄して、駆け落ちしたのだった。
掟に背いた事により、葬儀と火事の二分を除いた付き合いの無い村八分の断絶
した関係に耐えられずに、追われるように邑から逃れて生活していた。
明日をも知れぬ日々であったが、懸命に生きていた。
それも束の間だった。倹しいながらも一家団欒で過ごしていた時、突然に山賊
達が来襲し、背後から夫を袈裟斬りにした。
「ナギ…」
夫は、そう一言残して事切れた。
絶句しながらも女は、両腕に抱えた赤子を懸命に守ろうとした。
無言の内に山賊は、その母親も斬殺した。
さすがの山賊達も、赤子を殺す事をためらった。
どうせ三日も放置しておけば、獣に食われるか、餓死するのだから……斬り殺
された母親の首飾りが取れ、カワセミの羽の色に似た緑色のヒスイでできた勾玉
が零れ落ちた。
一瞬にして孤児となった赤子は、その勾玉を拾って握った。
横取りした鮭をかじっている山賊の一人が、赤子の動作に気が付いた。
赤子の右指を開かせようとするが、きつく握り締めているので、てこずった。
「マンヅ、ゴシャゲルナ(物凄く、腹が立つ)」
強引に赤子の腕をひねるがダメで、今度は焚き火に近付けた。
右腕を火傷して、赤子は激しく泣き叫ぶが、握り拳のままである。
「ジョッパルゴド(強情なものだ)」
うるさい赤子に癇癪を起こした山賊は、刃を向けた。
〝ガルルゥ〟
牙を剥いた、兇暴な雌の狼が現れた。
赤子に刃を向けた手が、食いちぎられて落ちた。
片腕を失ったまま、仲間の山賊と共にほうほうの体で退散して行った。
狼は、赤子に近付いて顔を舐めた。
赤子は、微笑みなが狼の乳を吸った。
その小さき右の手には、勾玉が握られている。
たわわに乳房が膨らんだ授乳期の雌狼は、鷹にさらわれた子の代わりを見付け
たのだった。
子を口に咥えて、狼が立ち去った。
深い森の中の土に、小さな木の芽が出ている。
やがて、芽は根を張り、幾星霜の風雪に耐えて一本の樹に育った。
太古以来、まだ人の手が加えられた事の無い原始林が生い茂った原野で、山賊
達が弓矢を構えていた。
「イマダベ(今だ)!」
片腕の無い山賊が、仲間に言った。
数本の矢が宙を飛び、獲物に向かった。
獲物である年老いて動きの鈍い狼の背に、一本の矢が突き刺さった。
追い込まれた狼は、尖った竹の突き立った罠の落し穴に落下した。
赤子から少年にまで成長した野人が、大量の血を流しながら今まさに絶命しよ
うとしている狼を見ていた。
右腕に火傷の痕が残る野人は、育ての親である狼を助け出そうとして、穴に下
りた。
狼は鞘に収められた、柄から刀身への部分で刃が逆に反る不思議な形をした一
振りの剣を咥えていた。
後にこれを真似て作った物が蕨手刀と呼ばれ、蝦夷独自の刀となっていく。
慈しむように野人は、狼の傷口を舐めとって流れ出る血を抑えようとしたが、
狼は剣を差し出しながら人の耳には聞こえない超低周波で一声咆哮した。
〝■■■■■■〟
その剣を持ち上げた野人は、何かが体に入り込んで来たような感覚を味わった。
「コッツダジャ(こっちだぞ)」
山賊達の声と足音が、聞こえてきた。
野人は、狼を諦めて前屈みに立ち上がり、苦しむ姿を見ていられずに剣で一息
に刺し殺して、木に攀じ登った。
弓と剣で武装した山賊達を、その頭上から見下ろしながら狼をそのままにして、
野人は静かに立ち去った。
多勢に無勢、武器を所持した複数の相手に、剣を満足に使った事の無い野人は、
機を窺う必要があった。
日高見川の河川敷。
罪状と人相書きが貼り出された、立て札があった。
札には山賊の悪行の数々と、奨金が書かれてあった。
ベリッと、人相書きが引き剥がされた。
無学文盲ではあったが、絵は理解できた。
破り取った手配書を握って、野人が暗闇に消えた。
洞窟で、夜の宴が開かれていた。
狼を丸焼きにして、山賊達が酒盛りをしていた。
「ヤッドコサ、コノウデッコノアダトレダベ
(ようやく、この腕の仇を討つ事ができた)」
片腕の無い山賊が、言った。
〝ガルルゥ〟
狼のような唸り声がして、火が消えた。
夜陰に乗じて、悲鳴を上げる間もなく、山賊達の喉は獰猛に食いちぎられた。
辺りは惨殺された山賊達の流血で、血の海になっていた。因果は、応報した。
狼の乳を呑んで生き長らえた野人に取っては、母の仇も同然であった。
剣を使わなかったのは、狼の子として復讐しなければならないと考えたからだ
った。
剣と共に、焼け残った狼の死骸は丁重に埋葬されて、土に還された。
野人が、一本の大樹に不思議な記号を刻んだ。
それから、まるで賽の河原の石積みのように小石を積み上げた後、すぐにそれ
を崩してばら撒いた。
鰯雲の浮かんだ夕焼け空に、カラスの群れがねぐらの森に向かって飛んでいた。
周辺の蝦夷を監視するために置かれた朝廷軍の砦である伊治の柵では、初秋を
告げるエンマコオロギが美しい音色で鳴いていた。
櫓門からは、朝廷軍の物見兵達の話す京の言葉遣いが聞こえてきた。
日が短くなり、夜の帳が降りるのも早い季節だった。
フラリと、門前に半裸の野人蝦夷が現れた。
手には布に包まれた球状の物を、三つ持っている。
野人は、破り取った人相書きを警備の兵に見せた。
「臭いッ」
兵は、異臭を放つ物体を一瞥すると、鼻をつまみながら早く行けと野人に促し
た。
大柄と小柄の二人の小役人達が常駐する詰所に、野人は案内された。
ドカッと、三つの生首が無造作に置かれた。
「本当に、お前が倒したのか?」
大柄なほうの小役人が、人相書きと見比べながら首実検をしながら言った。
いずれの生首も、まるで野獣に噛み殺されたような無惨な状態だったからだ。
それに答えるかのように、野人は口をパクパクとさせた。
「オシか……たまたま、獣に喰われた者の首を、斬り落としてきたのではあるま
いな」
小柄な小役人が、言った。
「拾うた首では、褒美はやれぬ」
相手が少年という事もあり、小馬鹿にしながら褒美の品を脇に置いて、大柄な
小役人が意地悪く言った。
「……」
狼に育てられたせいで、人間の言葉を発する事のできない野人ではあったが、
あの剣を握ってからは人間の言葉を理解できるようになっていた。
「首は本物のようだ。腕を、確かめたい」
小柄な小役人は、剣の柄を握りながら言った。
「やめておけ。殺しを生業とするヤカラだ。こちらも無傷とはいくまいて。それ
に、騒ぎとなってはまずい。弓ではどうだ」
大柄な小役人が、提案した。
「なるほど。弓の使い手は、剣にも通ずるからな。では、あの灯明を全て消して
みよ」
と言って、小柄な小役人が野人に弓を手渡した。
初めて弓を手にした野人は、興味深そうに弓を引っくり返したりしながら感触
を確かめた。
「まさか、弓を知らぬのではあるまいな。エミシでも、狩りはするのだろう」
大柄な小役人は、三本の蝋燭の並んだ燭台を、わざと遠くに運びながら言った。
「矢は、三本とする」
小柄な小役人は、矢を渡しながらも万一を考え、弓弦を持った野人の背後に回
って警戒した。
野人は、弓をぎこちなく構えて一矢を射った。矢は十間(約18m)先にある
燭台の脇を逸れて、板壁に突き刺さった。
「ほう…」
小柄な小役人は、意外にできると感心した。
「火のついた蝋燭は三つ。残りの矢は二本。
勝負はついたな」
大柄な小役人が、勝ち誇ったように冷やかした。
野人が、そんなヤジを遮るように弓弦を調整して、続けざまに二矢を放った。
一矢は並行した燭台の本体に当たって、縦向きに位置を変えた。
最後の一矢は直線に並んだ三本の蝋燭の芯を、まとめて通過した。
燭台上の蝋燭が全て消えた瞬間だった。
偶然にもこの光景を、一本でも命中すれば大したものだと思いながら将軍が、
覗き見ていた。
照明が無くなり、室内が真っ暗になった。
「誰か、灯りを!」
外から松明が灯された。
室内には、褒賞ごと野人の姿が無かった。
北極星が見える星空の下、野人は脱兎の如くに駆けていた時だった。
「待てッ!」
野人の才能を見抜いた将軍が、呼び止めた。
「なかなかに良い腕だ。我は、朝廷よりこの地を預かる紀広純である。奨金稼ぎ
なぞやってないで、我が皇御軍に参加せよ」
将軍職を兼務した、陸奥按察使参議の紀広純が名乗った。
地方官の治績や民情を視察する役人である按察使と、二官八省の頂点である神
祇官の下で、大宝令で制定された中央の全官庁(八省諸司)及び、諸国を統括し
て治めた太政官の職員である参議をも兼任していた。
令外の官、大・中納言に次いで国政を審議する重職である。参議の定員は八名
で、四位以上の、有能な者のみが任じられる職でもあった。
正一位~従八位まである官位の中において、五位以上が殿上人、すなわち勅許
により、帝が日常生活を送る清涼殿の〝殿上の間〟に昇る事を許されていた。
三位以上は、都に寝殿造と呼ばれた建物を所有し、上級貴族の公卿であり、大
臣、納言、参議等その数は約二十人であるから、紀広純の地位は選ばれし者とい
う事になる。
「…………」
野人は、黙していた。
「聾でなかろうに、名は何と? 口が利けず、文字も解せぬ者でも、名は必要だ。
痣が酷いの……痣丸では子供か…アザマロではどうだ?」
紀広純は、野人の腕にある火傷の痕を見ながら言った。
「ガゥ…」
アザマロと名付けられた野人は頷いた。
「物が言えずとも、その才を存分に活かすが良い」
野人の名付け親となった紀広純は、励ますように言った。
アザマロは、飛ぶ鳥のように舞い、獣のように戦場を駆け巡った。
孤軍奮闘で相手の武器を奪い、天性の術の巧さで敵に斬り付け射殺した。
敵と言っても、同族である蝦夷だったが、その同族に両親を殺されて、狼に育
てられたアザマロに取っては仲間意識など皆無であった。
散発的な戦ではあったが、朝廷軍の出城を襲って来る相手以外は決して深追い
しなかった。
山奥に入っての闘いは、地の利を活かして迎撃する方が有利な事を、アザマロ
自身が良く知っていたからだ。
それと、不必要な殺生も好まなかった。
食うためと身を護る以外の争いは避けるのが、山に生きるモノの心得だった。
戦の合間には文字を覚えた。
幼年期の外的な要因による発達障害を除けば、生来、頭脳は優れていたらしく、
乾いた砂が水を吸収するように習熟した。
狼から授けられた剣については、何か特別な意味のあるように思えて、隠し通
していた。
幼き子供が、亡き父母の供養のために、小石を積んで塔を作っている。
積んだ端から、地獄で亡者を懲らしめる獄卒という頭に角を生やし、耳まで裂
けた口を持つ恐ろしい形相の鬼が来て、石を蹴散らして行った。
三途の川を渡るのに必要な六道銭を持たない幼児は、積み終えるまで無間に石
積みを続けていかなければならなかった。
そんな幼児を不憫に思ってか、地蔵菩薩が現れて、悪い鬼を追い払ってくれた。
幼児は、ようやく石積みを終えて、橋を渡り始めた。
黄泉の国に旅立つ際、必ず通過するこの川は、この世での業の深さによって、
善人は橋を、軽い罪人は緩やかな浅瀬を、悪人は深い流れの急な瀬を渡らなけれ
ばならなかった。
運悪く、三途の川を渡れなかった者は、冥途に行く事も叶わずに、この世とあ
の世の狭間を霊となって永遠にさ迷う事になる。
奈良時代の末期─
陸奥を流れるヒタカミ(日高見)川に、産卵のために溯上してきた鮭が跳ねて
いた。
浅瀬では、喉に三日月形の白い毛がある月の輪熊が、鮭を器用に腕で掬い上げ
るように獲って、口に咥えていった。
腹に張った乳房をぶら下げた一頭の母狼が、獲物を求めて子狼の元を離れて狩
りに出ていた時だった。
大空から一連の鷹が舞い降りて、狼の子を掠め取っていった。
満天の夜空に、天の川が流れていた。
弱肉強食の世界は、獣だけではなかった。
山間の洞穴に、乳呑み児の赤子を抱えた女と男の蝦夷の夫婦が、焚き火で暖を
取りながら秋鮭を炙っていた。
その夫婦は、邑の長老が指定した婚約を破棄して、駆け落ちしたのだった。
掟に背いた事により、葬儀と火事の二分を除いた付き合いの無い村八分の断絶
した関係に耐えられずに、追われるように邑から逃れて生活していた。
明日をも知れぬ日々であったが、懸命に生きていた。
それも束の間だった。倹しいながらも一家団欒で過ごしていた時、突然に山賊
達が来襲し、背後から夫を袈裟斬りにした。
「ナギ…」
夫は、そう一言残して事切れた。
絶句しながらも女は、両腕に抱えた赤子を懸命に守ろうとした。
無言の内に山賊は、その母親も斬殺した。
さすがの山賊達も、赤子を殺す事をためらった。
どうせ三日も放置しておけば、獣に食われるか、餓死するのだから……斬り殺
された母親の首飾りが取れ、カワセミの羽の色に似た緑色のヒスイでできた勾玉
が零れ落ちた。
一瞬にして孤児となった赤子は、その勾玉を拾って握った。
横取りした鮭をかじっている山賊の一人が、赤子の動作に気が付いた。
赤子の右指を開かせようとするが、きつく握り締めているので、てこずった。
「マンヅ、ゴシャゲルナ(物凄く、腹が立つ)」
強引に赤子の腕をひねるがダメで、今度は焚き火に近付けた。
右腕を火傷して、赤子は激しく泣き叫ぶが、握り拳のままである。
「ジョッパルゴド(強情なものだ)」
うるさい赤子に癇癪を起こした山賊は、刃を向けた。
〝ガルルゥ〟
牙を剥いた、兇暴な雌の狼が現れた。
赤子に刃を向けた手が、食いちぎられて落ちた。
片腕を失ったまま、仲間の山賊と共にほうほうの体で退散して行った。
狼は、赤子に近付いて顔を舐めた。
赤子は、微笑みなが狼の乳を吸った。
その小さき右の手には、勾玉が握られている。
たわわに乳房が膨らんだ授乳期の雌狼は、鷹にさらわれた子の代わりを見付け
たのだった。
子を口に咥えて、狼が立ち去った。
深い森の中の土に、小さな木の芽が出ている。
やがて、芽は根を張り、幾星霜の風雪に耐えて一本の樹に育った。
太古以来、まだ人の手が加えられた事の無い原始林が生い茂った原野で、山賊
達が弓矢を構えていた。
「イマダベ(今だ)!」
片腕の無い山賊が、仲間に言った。
数本の矢が宙を飛び、獲物に向かった。
獲物である年老いて動きの鈍い狼の背に、一本の矢が突き刺さった。
追い込まれた狼は、尖った竹の突き立った罠の落し穴に落下した。
赤子から少年にまで成長した野人が、大量の血を流しながら今まさに絶命しよ
うとしている狼を見ていた。
右腕に火傷の痕が残る野人は、育ての親である狼を助け出そうとして、穴に下
りた。
狼は鞘に収められた、柄から刀身への部分で刃が逆に反る不思議な形をした一
振りの剣を咥えていた。
後にこれを真似て作った物が蕨手刀と呼ばれ、蝦夷独自の刀となっていく。
慈しむように野人は、狼の傷口を舐めとって流れ出る血を抑えようとしたが、
狼は剣を差し出しながら人の耳には聞こえない超低周波で一声咆哮した。
〝■■■■■■〟
その剣を持ち上げた野人は、何かが体に入り込んで来たような感覚を味わった。
「コッツダジャ(こっちだぞ)」
山賊達の声と足音が、聞こえてきた。
野人は、狼を諦めて前屈みに立ち上がり、苦しむ姿を見ていられずに剣で一息
に刺し殺して、木に攀じ登った。
弓と剣で武装した山賊達を、その頭上から見下ろしながら狼をそのままにして、
野人は静かに立ち去った。
多勢に無勢、武器を所持した複数の相手に、剣を満足に使った事の無い野人は、
機を窺う必要があった。
日高見川の河川敷。
罪状と人相書きが貼り出された、立て札があった。
札には山賊の悪行の数々と、奨金が書かれてあった。
ベリッと、人相書きが引き剥がされた。
無学文盲ではあったが、絵は理解できた。
破り取った手配書を握って、野人が暗闇に消えた。
洞窟で、夜の宴が開かれていた。
狼を丸焼きにして、山賊達が酒盛りをしていた。
「ヤッドコサ、コノウデッコノアダトレダベ
(ようやく、この腕の仇を討つ事ができた)」
片腕の無い山賊が、言った。
〝ガルルゥ〟
狼のような唸り声がして、火が消えた。
夜陰に乗じて、悲鳴を上げる間もなく、山賊達の喉は獰猛に食いちぎられた。
辺りは惨殺された山賊達の流血で、血の海になっていた。因果は、応報した。
狼の乳を呑んで生き長らえた野人に取っては、母の仇も同然であった。
剣を使わなかったのは、狼の子として復讐しなければならないと考えたからだ
った。
剣と共に、焼け残った狼の死骸は丁重に埋葬されて、土に還された。
野人が、一本の大樹に不思議な記号を刻んだ。
それから、まるで賽の河原の石積みのように小石を積み上げた後、すぐにそれ
を崩してばら撒いた。
鰯雲の浮かんだ夕焼け空に、カラスの群れがねぐらの森に向かって飛んでいた。
周辺の蝦夷を監視するために置かれた朝廷軍の砦である伊治の柵では、初秋を
告げるエンマコオロギが美しい音色で鳴いていた。
櫓門からは、朝廷軍の物見兵達の話す京の言葉遣いが聞こえてきた。
日が短くなり、夜の帳が降りるのも早い季節だった。
フラリと、門前に半裸の野人蝦夷が現れた。
手には布に包まれた球状の物を、三つ持っている。
野人は、破り取った人相書きを警備の兵に見せた。
「臭いッ」
兵は、異臭を放つ物体を一瞥すると、鼻をつまみながら早く行けと野人に促し
た。
大柄と小柄の二人の小役人達が常駐する詰所に、野人は案内された。
ドカッと、三つの生首が無造作に置かれた。
「本当に、お前が倒したのか?」
大柄なほうの小役人が、人相書きと見比べながら首実検をしながら言った。
いずれの生首も、まるで野獣に噛み殺されたような無惨な状態だったからだ。
それに答えるかのように、野人は口をパクパクとさせた。
「オシか……たまたま、獣に喰われた者の首を、斬り落としてきたのではあるま
いな」
小柄な小役人が、言った。
「拾うた首では、褒美はやれぬ」
相手が少年という事もあり、小馬鹿にしながら褒美の品を脇に置いて、大柄な
小役人が意地悪く言った。
「……」
狼に育てられたせいで、人間の言葉を発する事のできない野人ではあったが、
あの剣を握ってからは人間の言葉を理解できるようになっていた。
「首は本物のようだ。腕を、確かめたい」
小柄な小役人は、剣の柄を握りながら言った。
「やめておけ。殺しを生業とするヤカラだ。こちらも無傷とはいくまいて。それ
に、騒ぎとなってはまずい。弓ではどうだ」
大柄な小役人が、提案した。
「なるほど。弓の使い手は、剣にも通ずるからな。では、あの灯明を全て消して
みよ」
と言って、小柄な小役人が野人に弓を手渡した。
初めて弓を手にした野人は、興味深そうに弓を引っくり返したりしながら感触
を確かめた。
「まさか、弓を知らぬのではあるまいな。エミシでも、狩りはするのだろう」
大柄な小役人は、三本の蝋燭の並んだ燭台を、わざと遠くに運びながら言った。
「矢は、三本とする」
小柄な小役人は、矢を渡しながらも万一を考え、弓弦を持った野人の背後に回
って警戒した。
野人は、弓をぎこちなく構えて一矢を射った。矢は十間(約18m)先にある
燭台の脇を逸れて、板壁に突き刺さった。
「ほう…」
小柄な小役人は、意外にできると感心した。
「火のついた蝋燭は三つ。残りの矢は二本。
勝負はついたな」
大柄な小役人が、勝ち誇ったように冷やかした。
野人が、そんなヤジを遮るように弓弦を調整して、続けざまに二矢を放った。
一矢は並行した燭台の本体に当たって、縦向きに位置を変えた。
最後の一矢は直線に並んだ三本の蝋燭の芯を、まとめて通過した。
燭台上の蝋燭が全て消えた瞬間だった。
偶然にもこの光景を、一本でも命中すれば大したものだと思いながら将軍が、
覗き見ていた。
照明が無くなり、室内が真っ暗になった。
「誰か、灯りを!」
外から松明が灯された。
室内には、褒賞ごと野人の姿が無かった。
北極星が見える星空の下、野人は脱兎の如くに駆けていた時だった。
「待てッ!」
野人の才能を見抜いた将軍が、呼び止めた。
「なかなかに良い腕だ。我は、朝廷よりこの地を預かる紀広純である。奨金稼ぎ
なぞやってないで、我が皇御軍に参加せよ」
将軍職を兼務した、陸奥按察使参議の紀広純が名乗った。
地方官の治績や民情を視察する役人である按察使と、二官八省の頂点である神
祇官の下で、大宝令で制定された中央の全官庁(八省諸司)及び、諸国を統括し
て治めた太政官の職員である参議をも兼任していた。
令外の官、大・中納言に次いで国政を審議する重職である。参議の定員は八名
で、四位以上の、有能な者のみが任じられる職でもあった。
正一位~従八位まである官位の中において、五位以上が殿上人、すなわち勅許
により、帝が日常生活を送る清涼殿の〝殿上の間〟に昇る事を許されていた。
三位以上は、都に寝殿造と呼ばれた建物を所有し、上級貴族の公卿であり、大
臣、納言、参議等その数は約二十人であるから、紀広純の地位は選ばれし者とい
う事になる。
「…………」
野人は、黙していた。
「聾でなかろうに、名は何と? 口が利けず、文字も解せぬ者でも、名は必要だ。
痣が酷いの……痣丸では子供か…アザマロではどうだ?」
紀広純は、野人の腕にある火傷の痕を見ながら言った。
「ガゥ…」
アザマロと名付けられた野人は頷いた。
「物が言えずとも、その才を存分に活かすが良い」
野人の名付け親となった紀広純は、励ますように言った。
アザマロは、飛ぶ鳥のように舞い、獣のように戦場を駆け巡った。
孤軍奮闘で相手の武器を奪い、天性の術の巧さで敵に斬り付け射殺した。
敵と言っても、同族である蝦夷だったが、その同族に両親を殺されて、狼に育
てられたアザマロに取っては仲間意識など皆無であった。
散発的な戦ではあったが、朝廷軍の出城を襲って来る相手以外は決して深追い
しなかった。
山奥に入っての闘いは、地の利を活かして迎撃する方が有利な事を、アザマロ
自身が良く知っていたからだ。
それと、不必要な殺生も好まなかった。
食うためと身を護る以外の争いは避けるのが、山に生きるモノの心得だった。
戦の合間には文字を覚えた。
幼年期の外的な要因による発達障害を除けば、生来、頭脳は優れていたらしく、
乾いた砂が水を吸収するように習熟した。
狼から授けられた剣については、何か特別な意味のあるように思えて、隠し通
していた。
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※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
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