九戸墨攻

不来方久遠

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九戸の悪童

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 尾張の織田家が斎藤道三との同盟を画策している頃であった。
 最果ての北国において、奇しくも信長と年齢の近い政実は、幼少の頃より南部
氏の分家である九戸の家督を継ぐ者としての修練を受けていた。
 子供時代のある日、政実は三人の弟達を引き連れて、長興寺に生っている柿を
盗ろうとしていた。
 この寺は、九戸氏の菩提寺であった。
 古い破れ寺だったので、当主・九戸信仲は度々の普請を申し出ていたが、偏屈
な住職はそれをことごとく断わっていた。
 寺の見栄えで仏心が得られる訳ではないというのが、その理由だった。
 自由奔放に説法する和尚の性格を鑑みると、無用な借りを作り、干渉されるの
が嫌であったと言うのが本音であろう。
 寺門の辺りに、一本の柿の木があった。
 それに生る柿は貧しい檀家にのみ配られ、大層美味いという評判が立っていた。
 住職の和尚、薩天は大酒呑みであったが、剣術も茶道もたしなむ文武両道の荒
法師であった。
 ゆえに、柿泥棒に対していつも警戒を怠らなかった。
 子供等にとって長興寺の柿を盗る事は、崖の上から水面に飛び込むような一種
の度胸試しでもあった。
 捕まる危険を顧みず、和尚の柿を盗み取った者は、周囲から剛の者として敬わ
れた。
 年齢不詳の和尚は、不逞の輩の動きを察知すると、機敏な足さばきで長い竹箒
を携え、鬼のような形相で柿の木の下に駆けて来た。
 その称号欲しさに、多くの者が和尚によって半殺しにされた。
 和尚は、柿泥棒の尻を箒でぶっ叩いた。
 邑の子供だろうが、武家の子息だろうが、和尚は区別なく柿を盗む輩に対して
は容赦しなかった。
 柿の木を背にした政実は、用意周到に実親・政則・康実、三人の弟達をそれぞ
れ見張りに立たせた。
 神出鬼没の薩天和尚は、どこから現われるか分からなかったからだ。
 読経の声が寺からすると思って安心していたら、ふいに背後から箒で頭を叩か
れた事があった。
 これまでにも何度か企ててはみたが、背中にも眼があると噂される薩天和尚に
よって全て阻まれていた。
 寺門よりも高く伸びた柿の木の実は、大人でも容易に手の届かない高さに生っ
ていた。
 柿の木側の土塀に上がればたわわなその実に手が届くが、それでは自身の姿を
周囲にさらす事になり、和尚に発見されてしまう恐れがあった。
 また、柿の木の枝は折れやすく、よじ登るのは危険であった。
 政実は、末弟の体の小さい康実を肩車して、柿を盗らせようとした。
 虚弱な康実は、普段は居室で画を描いて過ごす事が多かったが、長兄の政実を
慕っていつも付いて来た。
 政実の脇差しを借りた康実は、鞘の端で柿のヘタを叩いた。
 落下する柿を、政実が右手で受け止めた。
 その時だった。
「このぉ、くそ餓鬼がぁっ」
 和尚が、土塀の上から舞い降りて来た。
 頭髪こそ無いが、怒髪天を衝く勢いの和尚は、金棒を持つ鬼の如く竹箒を振り
かざして襲って来た。
「皆、逃げろっ」
 政実は、見張りに立っていた弟達に叫んだ。
 後ろ髪を引かれる思いで、実親と政則がその場を去った。
「お前も走れっ」
 末っ子の幼い康実から、脇差しを受け取りながら政実が言った。
「兄者は…」
 康実は、幼いながらに政実が身を張って弟達を護ろうとしているのを理解して
いた。
「早く、行けっ」
 政実の指示で、仕方なく康実がその場から逃れた。
 政実は、囮になって自らが和尚の注意を引く隙に弟達を逃がす算段だ。
 足の遅い末っ子の逃走時間を稼ごうと、政実が和尚の前に立ちはだかった。
「ほほぉ。小童めが弟等を逃すため、囮になって儂に挑む気かの」
 和尚が、どすの利いた声で言った。
〝腺が細いの〟
 細面で涼しい目元が印象的な少年だと、和尚は思った。
「小童ではない。九戸政実だ」
 政実は、持っていた柿をがりっとかじった。
 政実には、計算づくの事であった。
 後に弟達に対して咎めが及ばぬように、こうして和尚の柿を盗み食べたのは自
分一人であると思わせたかった。
「柿泥棒の分際で、盗人猛々しい」
 両親に連れられて、法事に来た時は可愛い幼子であったが、成長して一端の悪
童に変貌した様子に額の血管が浮き出るほどに、和尚は声を荒げた。
 和尚がつかみ掛かろうとするが、政実が体をひらりとかわした。
〝こやつ、やりおるおい〟
 和尚は、内心思いながら竹箒を握り直した。
 じりじりと間合いを計って、政実に逃げ道を残しながら土塀の端に追い込んだ。
 窮鼠猫を噛む、追い込まれた鼠は天敵の猫を襲う事がある。
 後ずさりながら政実は、逃げ道を探った。
 和尚が、竹箒の柄を上段に構えた時だった。
 政実は、右に足を向けた。
 和尚は、にやりとほくそ笑んだ。
 柿泥棒は、術中に嵌ろうとしていたからだ。
 故意に開けた逃げ道に、体を向けた瞬間に箒を投げて足をすくう策であった。
 政実が、置き石を踏み台にして宙に飛び上がった。
〝なに!〟
 予期せぬ政実の動きに、和尚は驚いた。
 政実は、和尚の背中を足蹴にして地に下りた。
 つんのめりながらも和尚は、逃走しようとする政実に箒を水平に投じた。
 脇差しで飛んできた箒を払うと、政実は脱兎の如く寺を後にした。


 翌日、薩天和尚が口を真一文字に結んで九戸の城に向かった。
 悪事千里を走る。
 柿の盗人の引渡しを要求しにやって来た。
 そんな噂が流れた。
 その噂は城内を駆け巡り、政実兄弟の耳にも入った。
 和尚は、城主の九戸信仲に面会を申し入れた。
「どうなるのじゃ、兄者」
 弟達が、心配していた。
「大丈夫だ」
 弟思いの政実は、長兄として自身の身を呈してでも弟達を全身全霊で庇う覚悟
でいた。
 座敷に通された和尚は、信仲の面前で物申した。
「倅を?」
 信仲が、意外だという風で聞いた。
「ご子息の政実様には、何か大きな器を感じます」
 うやうやしく、和尚が言った。
「評価は嬉しいが、自由奔放に暮らしてきたあれが得心するか…」
 信仲は、戒律の厳しい寺の修行に政実が素直に従うか疑問であった。
「器は大きくとも、使わずばただの土器」
 和尚は、凛として言った。
「ううむ」
 明らかに、信仲は悩んでいる様子であった。
「是非とも、拙僧にお預け下さい」
 和尚は、頭を下げた。
「和尚がそこまで見込んでくれるのであらば」
 信仲は、答えた。
「ただ、首に縄を付けて寺に差し出すのは簡単だが…」
 どうしたものかと、信仲が言った。
「利発な政実様は、弟君を大切にしています」
 何か妙案があるような口振りを和尚がした。
「理を説き、情を示せば頷くはず。策がございます」
 和尚は、不気味な笑みを見せた。
 かねてより信仲は、自分の跡を継ぐ者については一度は他人の飯を食う経験が
必要だと考えていた。
 家臣に囲まれて、何不自由無く暮らしていては、了見の狭いままで碌な当主に
はなれない。
 出来得るならば、息子には陸奥以外の見聞もさせてやりたい所だが、白河以南
では大名同士による熾烈な戦が日夜繰り広げられている状況下では、それも容易
ではない。
 京より遠く離れてはいるが、いずれ必ず戦火は陸奥にも及ぶ。
 息子の代には、九戸のみならず、南部一国を束ねる領袖になってもらいたい。
 ならねば、この陸奥など簡単に他国に食われてしまう。
「好きにいたせ」
 信仲は、承服した。
 そして、政実が呼び出された。
 床の間の上座にいる父である信仲の前に、和尚がいた。
 政実は、神妙な面持ちで間に入って来た。
「寺の柿を盗んだは、間違いあるまいな」
 野太い信仲の声が、室内に響いた。
 和尚は、黙ったまま控えていた。
「はい」
 政実は、答えた。
「人の物を盗るは、武士の恥ぞ」
 信仲が、言った。
「はい」
 この後に及んで、政実に何の口答えができるであろう。
「では、その責を追わねばならぬ」
 罪を咎めるように、信仲が言った。
「住職は、その場に四名連座していたと言っておる。四名全て寺に差し出さねば、
承知せぬと」
 信仲は、滔々と言葉を続けた。
「寺は九戸の菩提寺、九戸棟梁の子息が盗みに入ったとあっては家中に示しがつ
かぬ。それは、分かるな」
「はい」
「泥棒の手助けをした弟等はまだ小さきゆえ、我が道理を説く事で許して貰っ
た。が、柿を食ったお前は許されまい」
「はい」
 政実は、一切反論しなかった。
「であるゆえ、お前は和尚の元に預ける事にした。仕置は和尚次第。覚悟は出来
ておろうな」
「何なりと、罰は受けるつもりでございます」
 可愛い弟達が助かるのであれば、自分はどんな試練でも耐えるつもりだった。
「その言葉、忘れるな」
 そう言うと、信仲は政実を和尚に託した。
「ところで、和尚の柿はうまかったのか」
 和尚が退室すると、唐突に信仲はそんな事を言った。
「はい、えもいわれぬ美味でした」
 政実が、父の問いに答えた。
「そうか、我も死ぬまでに一度食してみたいものだの」
 信仲は、破顔していた。


 冬の到来を前に、政実は供を従えて長興寺の山門にやって来た。
 寺に入るに際して、供の者は帰され政実の刀が取り上げられた。
 武士の命である刀を人に取られる事に政実は抵抗したが、御仏の前では武士も
百姓の別も無い。
 一個の裸の人間であるだけである。
 そう、和尚に諭された。
 和尚は、政実の刀を蔵の奥深くに閉まった。
 ここでは九戸の御曹司としてではなく、一修行者の身である事を自覚させたか
ったのだった。
 和尚によって、政実の剃髪がなされた。
 寺での政実の修行生活は、城に居た頃とは異なり厳しいものだった。
 お付の者もなく、自身は無論の事、和尚の炊事・洗濯等までやらなければなら
なかった。
 雀の声も聞こえないまだ夜明け前より境内を箒で掃き、厠など寺の隅々まで掃
除をした後、竃に火を入れて朝餉の粥を拵える。
 育ち盛りの政実にとっては、おかずの無い一杯の粥だけでは空腹を満たされな
かった。
 ひもじさを紛らしてくれたのは、托鉢に訪れた際に邑人がこっそりとくれる握
り飯や芋の差し入れだった。
 あの荒法師で有名な薩天和尚に預けられるとは酷な話だ。
 次の頭領になる九戸の御曹司が、寺での厳しい修行に耐えている姿は邑人中の
同情を誘っていた。
 政実が寺に送られて以後は、和尚を怖れて柿を盗む者は誰一人といなくなった。
 半年の間、朝は掃除と食事の仕度に追われ、午後は薪と山菜を集めるため森を
駆け回り、戻ると夕食を作り、夜は風呂を沸かした。
 和尚の身の回りの世話で、一日があっという間に過ぎていった。
 政実は、不平も言わず黙々と日々を送った。
 和尚もまた、必要最低限の言葉しか政実と交わさなかった。
 食材を求めて日々山歩きをさせ、足腰の鍛錬と忍耐力を試していた和尚は、全
く音を上げぬ政実に驚くと同時に、その器量を確信した。
 そして、和尚は頃合いを見計って政実に経典を指南した。
 元来、向学心のあった政実は、砂が水を吸収するように知識を習得していった。
 その日の勤めを終えたある晩だった。
 和尚の居室に呼ばれた。
 和尚は、瓢に入った濁酒を丼についで、塩を舐めながら豪快に呑んでいた。
「彼を知りて己を知れば、百戦して危うからず」
 和尚が、まるで経を唱えるように言った。
「孫子にございますか」
 政実が、正座しながら答えた。
 清貧だが、蔵書家で晴耕雨読のような暮らしぶりをしている和尚は、手隙にな
った時には自由に読んでいいと書庫を政実に開放していた。
 寝る間を惜しむように政実は、夏は群舞する姫蛍の放つ青白い光を頼りに、冬
は窓から漏れる雪明かりで蛍雪の功の如く勉学にいそしんだ。
 和尚は特にこれを読めと強制する事をしなかったので、政実はその時々に応じ
て興味のある書物を乱読していた。
「政実よ。彼とは何ぞ」
 丼を一気に呑み干して、和尚が訊ねた。
「敵です」
「敵とは誰の事ぞ」
 間、髪を入れず和尚は聞いた。
「この九戸に、戦を仕掛けてくる輩と存じます」
「それは、他国という事か」
 和尚が、丼に濁酒を並々と注ぎながら言った。
「無論です。が、謀叛を企てる身内の場合もございます」
 政実は、きっぱりと答えた。
「ほほう。では、天変地異の如く予想だにしない敵が現われ、進退極まる時はい
かにする」
 ぐいっと、和尚が濁酒を呑み込んだ。
「……」
 政実は、答えに窮しているようだった。
「思慮する余裕も無い時は」
 和尚が、畳みかけるように言った。
「己にとって一番大切なものを守る事に専念したいと思います」
「それは何ぞ」
「……」
「何ぞ」
 焦れたように、和尚が訊ねた。
「誇りです」
 政実が、答えた。
「下らぬな」
 吐き捨てるように、和尚が言った。
「武士にとって、誇りは一等大事なものでございます。下らぬとは、和尚様と言
えど聞き捨てなりませぬ」
 政実が、珍しく反論した。
「下らぬから下らぬと言うたまで」
 酒の勢いもあって、和尚は激昂した。
 政実は、武士の存在を否定されたように感じて悔しさからぎゅっと両手の拳を
握り締めた。
「御仏の前では、武士の誇りなど無に等しい」
 和尚は、その場にごろりと横になり政実に背を向けながら言った。
「もう、寝ろ」
 と言うなり、高鼾をかいて眠り込んだ。
 政実は、和尚の体に紙子の褥をかけて出て行った。
 春になり、残雪もなくなる頃であった。
 野山に、蕗の薹が芽吹いていた。
 冬の間の鍛錬で、鋼のような肉体としなやかな膂力を持ち合わせた政実に、和
尚は鞍も無い裸の野馬を駆りその性格をつかみ、乗り手の人柄を伝えて乗りこな
す馬術を教授した。
 一通りの武術の心得はあった政実だったが、和尚のはより実戦的な教えであっ
た。
 丸腰で剣を持つ相手との格闘戦等、和尚は身一つで戦える術を政実に叩き込ん
だ。
 和尚が口を酸っぱくして繰り返し説明した事は、例え丸裸だとしても、素手で
応戦しながら隙をうかがい相手の武器を奪って戦うという無刀取りの極意であっ
た。
 自身の身体のみで戦える者が武器を所持すると、さらに強さが増大する。
 鬼に金棒という事かと、政実は思った。
 戦場では、剣より槍が役に立つと指南された。
 道理で、柿を盗みに入った折に和尚の箒捌きが上手いはずだと、政実はこの時
得心した。
 弓術も習った。
 野を駆ける兎を標的とさせた。
 小さく俊敏に動き回る兎を射るのは、鹿や猪狩りより数段難しいものだった。
 戒律上、四つ足の動物を食す事は禁じられていた。
 だが、古来より僧侶の方便として飛び跳ねる兎は鶏と見なして一羽二羽と数え
る。
 射られた兎は、鳥として食膳に並んだ。
 精進物しか食せない僧には、貴重な蛋白源だった。
 そして、実際に飛ぶ鳥を射落とす技術も学んだ。
 風を読み、鳥の生態を知り、自然と一体となって狩る。
 これらは皆、後の大戦に役立つとは、政実はこの時まだ知らなかった。
 五月雨が続き天候がすぐれぬ時は、書を学んだ。
 達筆な和尚によれば、書とは心で画を描くが如しと教授された。
 画心とは、見えている物を写し出すのではなく、本質を炙り出す事だと言う。
 上手く描くのではなく、その物の本来の姿を捉える感覚が大切だと。
 それは、物事の真贋を見極める仏道にも通じると言う。
 梅雨が過ぎると、政実は和尚に付き従って京に上る事となった。
 政実にとって、南部領以外の地を見るのは初めての経験であった。
 托鉢をして糊口をしのぎ、廃屋に素泊りしての旅だった。
 道中、酒を勧められる場面もあったが、和尚は決して呑む事はしなかった。
 白河の関を越え、武蔵の地に入った頃だった。
 百姓のあばら家の軒先を借りて寝ていた時分、暗闇の家の中から悲鳴が聞こえ
た。
 和尚が、眼を覚ました。
 食い詰めて夜盗と化した数人の野伏りが、百姓を襲っていたのであった。
 慣れぬ長旅の疲れから政実は、熟睡していた。
「碌な食い物がねえな」
 野伏り達は、腹いせに百姓夫婦を惨殺した。
 さらに、嬲ろうとその若い娘を追って来た。
「待て、このアマっ」
 引っ捕まえた娘の顔を見て、その野伏りはぎょっとした。
 月夜に照らされたその頬には、酷い疵痕が残っていた。
「とんだ醜女だ」
 余りの醜さに嬲る気を失せた野伏りが、容赦無く娘に斬り掛かった。
 その時だった。
 野伏りの首に縄が巻かれて、背後の桑の木に吊るされた。
「終わったか。ひっ」
 輪姦の順番待ちをしていた別の野伏りが、吊るし首になっている仲間を見てそ
の場に腰を抜かした。
 首を吊るした者から奪った刀で、和尚が無言の内に他の野伏りを残らず叩き斬
った。
 貧困ゆえ何のお礼もできない娘は、自らの体を差し出した。
 軒下の暗闇ならば、幼い頃の疫病が原因で疵を負ったこの醜い顔を見ずに済む
と、娘は皮肉交じりに言った。
 和尚は、曲がりなりにも仏門に帰依する身の上と言って丁重に断った。
 この頃には政実も眼を覚ましていたが、和尚と娘とのやり取りを見てはいけな
い事のように思われ、そのまま狸寝入りを通した。
 本当は出家前に亡くなった妻に悪いと思っていると、和尚が真情を吐露した。
 自身の事を語らない和尚の心根に触れた政実の頬から一滴の涙が流れた。
 翌朝、和尚は娘に賊は仲間割れして殺し合ったとの因果を含ませると、その地
の高僧を介して縁者に預けた。
 それから、相模国の平地に建てられた小田原城下を通り東海道を西に進んだ。
 尾張の宿場通りを女物の召し物を羽織り、顔に異様な化粧をして馬の背に寝転
んで乗っている若武者が見えた。
「うつけの信長様が跡を継ぐ織田家も終いよの」
 供をしていた家中の者が、口さがなく噂していた。
 政実は、馬上の信長と一瞬間、目が合った。
 何者をも恐れぬ底なしの狂気をはらんでいると感じた。
「お前と年は大して違わぬように見えるがの」
 和尚が、言った。
「物狂いと一緒にされては心外です」
 政実は、抗議した。
「あやつは正気じゃ」
 ぼそりと、和尚は呟いた。
「何ゆえ、そう思われます」
 不思議な事を言う和尚を、訝しく思いながら政実は聞いた。
「あのような鞍上姿勢でも、手綱を捌いて馬を意のままに導いておる。うつけの
如くかぶいているが、尾張の信長。油断ならざる者と見た」
 和尚の言に、政実が改めて信長を見た。
 政実を伴いながら京での所用を済ませると、和尚は海路帰国の途に着いた。


 一夏の武者修行の旅から帰郷した後、寺の柿が生る時節だった。
 九戸信仲、危篤の報せが城下に伝えられた。
 高齢の父は、季節の変り目から風邪をこじらせ寝込んでいたらしい。
 ただの風邪のはずであったが、夕べより容体が急変し、今や一刻を争う状態だ
と言う。
「政実っ、何をしておる。急げ!」
 和尚は、城からの使者が用意した馬に乗りながら叫んだ。
 政実は、土塀に上って次々に柿をむしった。
 政実が後ろに飛び乗るやいなや、和尚は馬に鞭を入れた。
 城には九戸の者は無論の事、九戸当主の命が危ういと聞いて、南部本家の名代
と分家それぞれの長が、輩下の者を引き連れて取り急ぎ集まって来ていたのであ
った。
 九戸の名の由来は、文字通り九番目の家という意味である。
 南部領は、本家の三戸を含めて一戸、二戸と続き、九戸まで九つの戸に分かれ
ている。
 三戸氏を守るために、それぞれ領内に置かれた分家の単位である。
 それぞれを戸単位で名付け、警護させていたのであった。
 戸とは、平安時代からあった糠部郡を蝦夷から守るために四方の柵を設けて、
東・西・南・北に門番を置いたのが始まりであるとされる。
 後にはその囲いで軍馬を育てるようになり、木戸の門に一から九までの番号を
ふって、一戸に一牧場を置く九戸四門制をとった名残と伝えられている。
 八戸と九戸に挟まれるような地勢で、三戸が位置していた。
 各戸の中でも、本家からどれほど血筋が近いかで序列が決められていた。
 政を司っていたのは、代々当主を輩出してきた三戸氏であった。
 だが、武力においては九戸が他戸を圧倒していた。
 見舞いに訪れた他戸の長衆は、九戸当主が亡くなれば南部の勢力図が変わると
考えていた。
 その圧倒的な兵力に勝る九戸を味方に付けるか否かで、本家に対する発言力が
大きく増すからである。
 本家に物言えるは、すなわち南部を支配するのも同じであった。
 各戸の長は、九戸の次の当主になる者の器量を確かめ、それを取り込む機会を
得るために雁首揃えていた。
 聞けば、新しく九戸の当主になる者は寺に預けられていると言う。
 その小坊主の顔を、今の内に拝まねばなるまい。
 控えの間に通された長衆は、互いに腹の探り合いを始めていた。
 誰が敵で誰が味方かを定める意味もあって、各戸の長は面従腹背で相対した。
 信仲の寝所には、近親者だけが詰めていた。
「兄者」
 政実が寝所に入ると、一番下の弟である康実が心配そうに言った。
 政実は母と弟妹達に目礼すると、父の下に膝を進めた。
「父上…」
 政実が、静かに横たわる信仲の枕下で声を掛けた。
「政実か、よく来たな」
 信仲の声は、弱々しかった。
「寺の方は、よいのか」
 信仲は、倅がまだ修行途中の身である事を案じているようだった。
「儂が許した」
 和尚が、信仲の側に来て言った。
「薩天か…」
 信仲が、声の主を確認した。
「今更ながら惜しいの」
 信仲は、宙を見つめながら呟いた。
「何がじゃ」
 和尚が、尋ねた。
「一国一城の主になれた将器を持ちながら、武士を捨てた事だ」
 信仲は、往時を回顧していたようであった。
 和尚の血筋は、信仲と同じく九戸一族に連なっていた。
 若かりし頃の和尚は、信仲と共に戦場を駆け巡っていた。
 勝っても負けても虚しさしか残らない事に嫌気がさし、平泉・中尊寺で修行し
た後、薩天という名を頂いて仏門に帰依したのであった。
 しかし、それは表向きの理由だった。
 時が経ち、それを直接に知る者は少なくなったが、本当は武勇に秀でた薩天は
周囲に担がれ、家督争いに巻き込まれたのが原因であった。
 お家騒動に発展する怖れを抱いた薩天は、己が身を引く事で内紛を治めたので
ある。
 和尚は、政実に促し、抱えきれないほどの柿を信仲に見せた。
「これでも食って、養生せい」
 和尚は、赤みがかった黄色の熟れた柿の実を手で小さく割ると、信仲の口に含
ませた。
 信仲は、ゆっくりと噛み砕き、呑み込んだ。
「なるほど、政実が言うた通りだな」
 笑みを浮かべて、信仲が呟いた。
「和尚の柿を食えた。これで思い残す事は無い」
「馬鹿な事を申すでない」
「だが、気懸かりが一つだけある」
「何じゃ」
「この先、家督を継ぐ倅は孤独であろう。判断に迷い、誰にも相談できぬ時は、
政実の力になってくれ」
 信仲は、和尚の手を取った。
「頼む」
 信仲の手は、もはや温かみを失いつつあるのを和尚は感じとった。
「しかと承った」
 和尚が、信仲の手を握り直した。
 信仲は、満足そうな表情をした。
「政実」
 次に、信仲が政実を呼んだ。
「はい」
 政実は、凛として返答した。
「九戸の誇りとなれ」
 その言葉が最後であった。
 政実は、母と弟達に先んじて、父の死に水をとった。
 長興寺の薩天和尚によって葬儀が行なわれ、九戸信仲が荼毘に付した。
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