1 / 1
虹 ~君の人生にはいつも希望を抱く虹が輝いていた・・・
しおりを挟む
1.虹の橋(幼少期)
「ドングリ ドングリ わーい、いっぱい!」
いつも遊び場は、裏山にある神社。今日は大好きな隣のお家のお兄ちゃん・ユウちゃんのお誕生日にあげるドングリをたくさん集めているんだ。
ユウちゃんは1歳年上の6歳。今ユウちゃんは小学校に行っているので私よりも帰りが遅い。私のパパとママはいつも夜遅くまで働いているので、私は隣のユウちゃんのママにあずけられている。
だからユウちゃんは本当のお兄ちゃんのようだ。実際にユウちゃんはとても優しい。ゆうちゃんママもとても優しくて、私はほとんどの時間をユウちゃんの家で過ごしている。
幼稚園が早く終わるので、ユウちゃんが帰ってくるまでの間が待ち遠しい。
でも今日はあまり早く帰ってきてほしくない。
ユウちゃんの誕生日プレゼントのドングリを沢山集めて、びっくりさせるんだ。
神社にはドングリの木が植えてあって、ドングリもたくさん落ちている。
「ドングリ、ドングリ」
ビニール袋いっぱいになるくらい、たくさんドングリ集めるんだ。
「わあーあっち、いっぱい!」
いつもは行かない裏山の奥、神社にあるドングリよりも粒が大きい。
「わあー、おっきー、嬉しい」
ユウちゃんはきっと喜んでくれる。そう思ったら、やる気がでて、どんどん取ってさらに奥へ。
人が足を踏み入れないその場所は枯れ葉がたくさん落ちていた。
「あっ!」
その枯れ葉に足がすべって、そのままコロコロ。山の奥側へと落ちていく。
とっさにドングリの入った袋を握りしめる。そのまま滑り落ちて、反対側の斜面のかなり下のほうで止まり、そこで動けなくなった。
1人で誰にも見つけてもらえずに心細い。
「わーん、ユウちゃん、助けてよー、ユウちゃん!」
ようやくせきをきったように声がでる。声がでて、1番に助けを求めたのは、パパでもママでもなくユウちゃんだった。
まだお家に帰っていないかもしれない。もし神社に来てたとしても気付いてくれないかもしれない。
でも・・・ユウちゃん、助けてよー。
「わーん、わーん」
大声で泣き叫ぶ。
無情にも誰かが助けに来てくれることはなく、時間が過ぎた。
そのうちに空の雲行きが怪しくなり、雨が降ってきた。
雨に濡れながら、不安が大きくなる。
雨に濡れると冷たいので、まわりの葉っぱをかき集める。首から下を葉っぱにうずめて、それでも寒さは強くなる一方だ。
濡れてしまわないように、ドングリの入った袋を服の中に入れる。
雨音も雨も強くなる。横なぐりの雨は容赦ない。
この雨音じゃ、声も届かない。
どうしようー、何もいい考えが思いつかない。
「コウ、コウどこだ?」
そんな時、かすかに聞こえた聞き覚えのある声。
「ユウちゃん?」
幻?
そう思っていると、もう一度。
「コウ、コウ、どこだ?いたら返事しろ!」
ユウちゃんだ、ユウちゃんが助けに来てくれた。
「ユウちゃん、ユウちゃん!」
最後の力をふり絞って、必死に叫ぶ。
すぐに、青いかさをさしたユウちゃんの顔がみえた。
「コウ、こんなところにいたのか、大丈夫?」
1歳しか年が違わないので、ユウちゃんだってたいして体が大きいわけでもないのだけど、この時ばかりは妙にりりしくて、誰より、何より頼もしくみえた。
葉っぱに足を取られないように気を付けながら、ゆっくりとくだってくる。
「コウ、けがは?」
「うーん、足くじいたかもしれない・・・」
ユウちゃんはびちょびちょの葉っぱの中から、引っ張りだしてくれた。
「コウ、なんでこんなところにいたんだ?いつもの神社かと思って行ってもいないし、雨は降るし、心配したんだよ」
ユウちゃんに言われて、うなだれる。
「ごめんなさい・・・」
ぽろぽろと溢れる涙をユウちゃんは指でゴシゴシとぬぐう。
「足痛い?」
「うううん、大丈夫」
首を振ったものの、歩いて帰るには少し辛い気がした。
「神社で雨宿りしょう。寒くない?」
ユウちゃんは自分の着ていたジャンパーを着せてくれた。
「あったかい!」
ユウちゃんの体温の残るジャンパーはとてもあたたかかった。
それからしばらく雨宿りをしていると、やがて雨はやみ、太陽が顔をだす。
「コウ、おいで」
ユウちゃんが小さな背中をだしてくれる。
「ユウちゃん、いいよ、歩くよ」
びちょびちょの私をおんぶしたら、ユウちゃんまでびちょびちょになっちゃう。
「足痛いんだろう、いいよ、おいで」
優しいユウちゃんにはすべてがお見通しだ。
「ユウちゃん、・・・ありがとう」
ユウちゃんの背中にしがみつく。
ユウちゃんはしっかりと背負ってくれ、ゆっくりとした足取りで家への道を戻り始めた。
「うわー、コウ空見てみろ」
ユウちゃんの声に上を見上げると、そこには大きな「虹の橋」がかかっていた。
「うわー、きれい!ユウちゃんきれいだね」
「うん、きれいだね。コウの名前はきれいな名前だ」
ユウちゃんの言葉に考える・・・そうだ!コウの漢字は「虹」だった。
その日見上げた虹は最高にきれいで、私の心の中に鮮やかに焼き付いた。
その後、お家に帰り着いてからは大変だったけど。
ユウちゃんのママはすぐにお風呂に入れてくれ、くじいた足にも湿布をしてくれた。
服を脱いだ時にビニール袋いっぱいのドングリが見つかり、結局ユウちゃんへのサプライズ誕生日プレゼント計画はあっけなく失敗した。
それでもユウちゃんは「ありがとう」って言ってくれた。
それがとても嬉しかった。
私にとって初めて虹を見た時の記憶はこの時だ。
それは同時に、自分の名前が「虹」でよかったと思えた瞬間でもあった。
またユウちゃんと虹がみたいな・・・
きれいな虹に思いをはせて、私は心の中でそう呟いた。
2.円形虹(青春期)
こんこんと窓をたたく音がする。
眠っていた頭が、一瞬にして目を覚ます。
「うーん」
ぼんやりと目を開け、ハッとして目覚まし時計を見る。
「キャー」
思わず声をあげる。
またやった!このままだと遅刻するよー。
とっさに窓を開けると、制服姿の優ちゃんと目があった。
「ねぼすけ!」
「わーん、優ちゃん待ってよ。すぐ行くからさー」
パジャマ姿の私を見て苦笑しつつも、指でOKサイン。
「ありがとー」
すぐに制服に着替えて、食パンをくわえ、玄関にダッシュ。
ここまでほぼ3分。私にとっては毎日のことなので、ここだけは早い。
「ごめん優ちゃん、ありがとー起こしてくれて」
いつも優ちゃんは木の棒で窓をつんつんとつついてくれる。
なぜかこれが1番効果的だったりする。
「本当だよ、虹はいつまでも子供なんだから」
1歳しか違わない優ちゃんに子供扱いは少しムッとするけど、本当のことだから反論もできない。
それに何だかんだ言っても、いつもちゃんと待ってくれる。
私と優ちゃんは幼なじみのお隣さん。子供の時にはいつも優ちゃんの家にお世話になっていた。
パパもママも忙しく、私のことを構ってはくれなかった。でもその代わりに、優ちゃんも優ちゃんのママも私に優しくしてくれた。お陰で私は何の不自由もなく生活することができた。
だから優ちゃんは本当のお兄ちゃんみたいなものだ。
何とかチャイムの前にダッシュで滑り込む。
「優ちゃん、ありがとう」
「ああ、じゃあ、がんばれよ」
高校が同じで本当にラッキー。
とは言え、優ちゃんは3年生だから、大学受験だし、離ればなれになったら寂しいなあ・・・
教室に入ると、親友の美香ちゃんが声をかけてくる。
「虹ちゃん、おはようー、今日もまた、ぎりぎりだね」
「うわーん、美香ちゃん、それ言わないで!どうも朝、弱いのよね」
席に着いてため息をつく。
「で、今日もまた当然のごとく、三上先輩に起こしてもらったの?」
「うん、ホント助かるわ、優ちゃん様様よ」
「あのねー、虹ちゃん、三上先輩はもうすぐ大学でしょうが、ちゃんと起きられるようにならないとまずいんじゃないの?」
当然のことを言われ、渋い顔になる。
「そうなのよね。どうしよう。誰か起こしてくれないかな?」
「じゃあ、俺、起こそうか?」
「えっ?」
ごく普通に美香ちゃんの隣から声。美香ちゃんの双子の弟・伊智くんだ。なにげにVサインをしている。
伊智くんに問いかけようとしてハッとする。そりゃそうよね。いつもぎりぎりだもん。先生はもう教室に来ていた。そこでいったん、頭の中はお勉強モードに突入。
放課後は部活モード全開!
美香ちゃんと一緒にダンス部で汗をかく。お隣ではバスケ部がミニゲーム。
「きゃー、三上くーん」
優ちゃんはエースでキャプテン。そこそこイケメンに育ったので、今や同級生からも下級生からも黄色い声をもらうほどの人物になっていた。
「あら、虹ちゃんの恋人、相変わらず凄い人気」
「だから、恋人じゃないってば。「お兄ちゃん」お兄ちゃんなんだもん」
「はいはい、わかってます」
美香ちゃんはことあるごとに、私と優ちゃんの仲で遊んでいる。
「そういえば、伊智くんのサッカー部もキャーキャーなんじゃないの?」
実は伊智くん、2年でサッカー部のエースストライカーだったりするのだ。
「うーん、そうかもね。あっ、でも、ほら、あいつも私にすれば弟だから」
まあ、そりゃそうだ。身内にそんな感情は芽生えないよね。
「伊智は虹ちゃんのこと好きみたいだけどね」
「えっ、うそでしょう?」
朝の伊智くんのVサインを思い出す。つまり、本気だったんだ。
考えたこともなかった。かなり昔から知っているから、伊智くんも身内みたいなものだ。うーん、恋愛の定義って難しい。
「あははは、虹ちゃんらしいわ・・・その少し鈍感なところ」
「何それ、けなしてるの?」
「いいえ、とんでもない。褒めているのよ。それはともかく、三上先輩はどこの大学にいくのよ」
美香ちゃんに問われ、考える。
そういえば、何も聞いてない。
「さあ・・・」
「さあって、知らないの?」
美香ちゃんに不思議そうに聞かれ、うんとうなずく。
「えっ、気にならないの?」
「うーん、深く考えたこともなかったから」
「えっー、ちゃんと聞いときなよ。凄く遠いところだったら、どうすんのよ」
そうか、それもあり得るか。
「そ、そうだね」
深く考えなかったのは、今の生活がとても楽しくて、充実しているからだろう。でも、確かに気になる。今日帰りにでも優ちゃんに聞いてみよう。
夕方になると部活も終わり、よく動いたのでお腹も少し減ってくる。
「おーい、虹、帰るぞ。帰りにマックでも行くか?」
優ちゃんはいつも同じくらいに帰るので、迎えにきてくれる。
「行く、行く、行く。もう、お腹すいたよー」
「じゃあ、虹ちゃん、また明日ね」
「うん、美香ちゃんもね」
私は優ちゃんと並んで帰る。マックにはほぼ毎日のように寄っていた。
太ることを気にしながらも、ハンバーガーとフライドポテトを食べてお腹が落ち着いた。
「あっ、そうだ。優ちゃん、大学どこに行くの?」
忘れない様に聞いとかなきゃ。
「ふーん、気になる?」
問われてうんと素直にうなずく。
「北海道の農業大学」
あっさりと言われたけれど、聞いた瞬間、言葉を理解することができずにフリーズ・・・すべてが固まってしまった。
「うそ・・・あの、なんで、どうして?ねえ、うそでしょう?私、北海道なんて聞いてない!」
取り乱してまくし立てる私に優ちゃんは冷静な声で言った。
「そりゃそうだよ、言ってない。今、言ったけど。まあ、落ち着けよ。とにかく、帰ろう。帰りながら話す」
あっ、ここマックだってこと忘れてた。
マックをでて、再び優ちゃんと家への道を帰りはじめる。
「俺さ、動物すきじゃん。どうしても牛が飼いたくて、牛乳やチーズを作って、北海道に住みたいんだよね」
本当にあっさりと言ってくれる。私の頭はまったくついて行かない。
「信じられない!優ちゃんは頭いいから、てっきり東京でIT関係の学校に行くのかと思った。・・・でも北海道って、遠いよ優ちゃん」
もっと簡単に会える距離に行くのかと勝手に思っていた。
よりによって北海道だなんて・・・
「・・・と言ってもだ。日本国に違いはないし、地図で見たらすぐだぞ」
「そんなこと言っても・・・優ちゃん」
だんだんと悲しくなってきた。
どうしたんだろう、今すぐいなくなるってわけでもないのに、あまりに近くにずっといてくれたから、いなくなってしまうことが考えられない。
ぽたぽたと涙が溢れる。そんな私を見て優ちゃんは深いため息。
「虹、本当にいつまでも子供なんだから」
優ちゃんはゴシゴシと涙をぬぐってくれた。
あれ?これ、昔もどこかで・・・
「あーっ」
急に大声をだす優ちゃん。
「な、なに?」
「天気予報って当てになんない。今日、雨なんて言ってなかったぞ」
ぶつぶつと優ちゃんが言った瞬間に雨がぽつぽつと降り始めた。
「虹、神社まで走るぞ」
「うん」
2人してダッシュ。久しぶりに家の近くの神社に行った。
「わあー懐かしい・・・あれ、ここ、こんなに小さかったけ?」
不思議そうに言う私に優ちゃんが苦笑する。
「そりゃそうだよ。俺たちが遊んでいたのは子供の頃だからな。俺だって小さかったろう?」
「あっ、そうか。まあ、確かに・・・そうか、私たち大きくなっちゃったんだね」
当然のことをしみじみ言う私。
そうか・・・どうせなら、ずっと子供のままがよかったな。
強くなる雨音を聞きながら、私はぼんやりと考えていた。
そしてひとつの事実に思い当たる。
今までずっと優ちゃんのことは「お兄ちゃん」だと思っていたけど、もしかすると、違うのかもしれない。
会えなくなってしまうと思っただけで、もの凄く悲しかった。
まるでこの世の終わりかのように。
でもこれが、例えば伊智くんだったら?
伊智くんには悪いけど、こんなに悲しくはならない。
と言うことは、私にとって優ちゃんはきっと特別な人なんだ。
雨があがる。
そして現れたそれは、とても珍しいものだった。
「おい、虹見てみろよ。虹、しかも「円形虹」
「円形虹?」
太陽や月に薄い雲がかかった際にその周囲にできる虹。発生が難しいためかなりレアな虹だ。普通、半円で見えている虹がきれいな円形になっている。
「わあー、凄い・・・初めて見た」
「あっ、そうだ。せっかくだから、ケータイに撮っておこう」
優ちゃんはケータイを取り出すと、カシャっと撮った。
「あっ、私も」
ケータイを取り出した私を、優ちゃんが止める。
「虹、いいよ。俺の撮ったやつを送ってやる」
そう言うと、何か文字を打ち始めた。
「優ちゃん?」
しばらくして、優ちゃんから、ケータイに写真が送られてくる。
結構きれいに撮れているその写真の後にはこんな文字が。
[虹、1年後、北海道に来いよ。将来、一緒に牧場をしよう。
虹、俺は虹が好きだ。いつか結婚しよう。これは約束のエンゲージリングだ]
うそ・・・優ちゃんが私を好き?
私は・・・私は。
そこから先は何も考えられなくて、そのまま優ちゃんの胸に飛び込んだ。
優ちゃんは何も言わず、黙ってただ、抱き締めてくれた。
遙か昔、ずぶ濡れの体にジャンパーをかけてくれた。
あの時と同じように、うううん、それ以上にあたたかい。
「優ちゃん、私も優ちゃんが大好き」
私たちはその日、永遠の愛を誓った。
そんな2人を、円形状の虹は優しく見つめていた。
3.幻日(成人期)
北海道の冬は思っていたよりも遙かに寒く、極寒だ。
それでも牛舎の中の牛たちは元気に生きている。
おいしい牛乳は毎朝飲める。
チーズもとってもおいしい。
不便なことはとても多い。でも、それ以上に充実している。
「2,3日ってところだろうか?」
「ええ、もうすぐね」
夫と2人で牛の様子を注意深く観察する。
「ねえねえ、もうすぐ赤ちゃん出てくるの?」
息子の優一は興味津々で牛を見つめている。
今年5歳になったばかりの優一は何にでも興味を持つ。
生まれた時からずっと牛と一緒にいるので、怖がることもない。
いい機会なので、「牛の出産」をちゃんと見せてあげたい。
ひとつの命が誕生する大変さも神秘さも、とても素晴らしいものだ。
かく言う私のお腹の中にも、新しい命が宿っている。
次は女の子。それも分かっている。
息子の時は夫の「優」から名前を取って「優一」と名付けた。
娘の時は私の「虹」の字を取るかと言ったのだけれど、あまりいい名前がなくて、虹は七色なので「奈々」にしようかと思っている。
何にしても家族が増えるのは嬉しいことだ。
「ねえ、パパ、いつ出て来るの?」
優一は子牛が見たくてたまらないらしく、ずっと聞いている。
「もうすぐだと思うけど、でも、まだ2,3日かかりそうだよ」
「えー、まだそんな先?」
つまんなそうに言う優一に苦笑する。
大丈夫よ優ちゃん、ちゃんと子牛が出て来るところ、見せてあげるからね」
今は夫にではなく、息子に「優ちゃん」と言っている。
それが、とても不思議な気分だ。
「わーい、わーい、早く出てこないかな」
2人して同じ大学に入り、基礎から酪農について学んだ。
優ちゃん(今度は夫の方)に誘われて行った大学だったけど、途中からむしろ私の方が楽しくて、夢中になった。
優ちゃんが大学に行く時にプロポーズしてもらい、そのまま優ちゃんを追いかけて、北海道に来て、よかったと思う。
優ちゃんの妻になり、優ちゃんと共に過ごして来た人生はとても楽しい。
何よりも大自然は心を豊かにしてくれる。そんな気がする。
2日後の朝――――
その日はやって来た。いつも以上に寒い朝だった。
明らかに母牛の様子が落ち着かない。
ねむねむモードの優一を何とか起こして、かぜをひかないように暖かい服を着せると、牛舎へと急ぐ。
せわしなく動き回る様子が、子牛誕生が近いことを物語っていた。
優ちゃんはすぐにビデオカメラを回し始めた。
「ママ、牛さん出て来るの?」
「ええ、もうすぐよ。応援してあげて」
本当は大人しく見守ってあげるのがベストなのだが、優一は牛がなれているということもあり、応援させることにした。
子牛が生まれた時に、数倍嬉しく感じるはずだから。
「がんばれ牛さん、がんばれ牛さん」
私の言葉に、素直に優一は応援を始めた。私も心の中で応援する。
がんばれ、がんばれ、もう少し。
ばたばた動き回っていた牛は、しばらくして止まると、おしりから白い膜に覆われた子牛の頭がするり。前足、体、後ろ足と順番に姿を見せる。
やがて「ボタッ」と音をさせて、すべてがわらの上に落ちた。
小さく震える子牛を一生懸命になめ回す母牛。白い膜が取れていく。
「わあー、牛さんがんばったね」
初めて見る牛の出産に、優一は凄く興奮していた。
「そうね、がんばったね」
そのうちに子牛は一生懸命に立ち上がろうとする。
大自然の厳しさを私は知っている。
子牛はすぐに立ち上がって母牛の乳を吸うことができなければ、この先生きてはいけない。
子牛はかなりヨタヨタしながらも、4本足で踏ん張ろうとしていた。
その懸命な姿に優一が言う。
「ママ、子牛さんを手助けしたい」
「ダメよ。子牛さんは自分の力でちゃんと立てるようにならないと生きていくことができないのよ。冷たいようでも、ちゃんと見ててあげて。
ちゃんと立てたら歩いてお母さんのお乳を探して、自分で飲むから。
ママね。優ちゃんには牛さんの生命力の強さを見て欲しいの。そして子牛に負けないくらいに強く、たくましく生きて欲しい」
子供の時に生命について、体験しながら勉強することのできる人間は限られている。優一は数少ないこの環境に生まれてきた。だからちゃんと見せて、教えてあげたい。
それから子牛は倒れても起き上がり、それを何度も繰り返してようやくちゃんと立てるようになった。
そしてまだおぼつかない足取りで2,3歩歩くと、母親の乳へと辿り着く。
おいしそうに乳を飲む子牛を見て、優一は満面の笑顔になった。
「優、こっち向いて」
パパ優ちゃんがしっかりとビデオ収録。
「わーあ、パパ、あれ、撮って」
優一が見つけたのは、牛舎の外に見える虹。
「ああ「幻日」だな」
優ちゃんの声。
幻日はダイヤモンドダストに太陽光が反射してできる虹。
寒い土地ならではのもので、私も北海道に来てから何回か見た。
「キラキラだね」
「そうね。キラキラしている。今日はとっても寒いからきれいね」
私たち家族にとって、その日は特別な記念日になった。
生まれたての子牛の赤ちゃんと輝く虹と、希望がいっぱい詰まった日―――
新しく生まれて来る赤ちゃんにもいつか見せてあげよう。
生命が誕生する神秘と素晴らしさ。
そして、光輝くこの映像を・・・
4.赤虹(老人期)
病室の窓から見る風景は意外にもきれいだ。個室なので気兼ねすることもない。
夫は病気ひとつしたことのない健康な人だった。
毎日牛乳を飲み、チーズを食べ、家で作った野菜を食べて満足していた。
牧場の仕事はいつも忙しかったが、それでも充実した毎日だった。
65歳になったのを機に、息子の優一夫婦にすべてをまかせて、2人で旅行にでも出かけようかと話していた。
そんな矢先、夫は突然、倒れた。
悪性リンパ腫・・・リンパ節にできるがんで、血液にのって、体中どこでも移動する。
すでに3カ所転移が見つかった。
ステージ4。
一縷の望みをかけて抗がん剤治療を開始する。
それでも病状は容赦なく進行していく。
これから2人で楽しく老後を過ごせると思ったのに・・・
突き付けられた現実はあまりにも残酷だ。
あとどれくらい一緒にいられるのか、それすらも分からない。
それでも夫は普段と何も変わらなかった。
本当は痛くて辛い時があるのかもしれない。けれど私や家族には一切そんなそぶりは見せない。
けれど、日を追うごとに少しずつ衰えていく。その姿はとても痛々しかった。
髪の毛はすべて抜け落ち、抗がん剤の副作用で食事も思う様にできない。
筋肉は落ち、頬もやせこけ、生気がなくなっていくのが見て取れる。
「ジイジイ、来たよ」
毎日やって来るお客様は夫を笑顔にしてくれる。
「虹、来たか。ジイジイ、ずっと待ってたよ」
ひどくややこしいのだが、奈々の息子が5歳になる虹介。
奈々の名前を付ける時、「虹」の字を入れられなかったという話をしたら、奈々は自分の息子に「虹」の字を入れて「虹介」と名付けたのだ。
素直に嬉しかったのだが、問題が発生。
名前を呼ぶ時「虹」と呼ぶので、私は自分のことを呼ばれている気がして、とても変な感覚になる。
しかも、たまに虹介に話かけているのに、自分に言われたと勘違いして返事しそうになる。
「ジイジイ、今日は何しようか?」
奈々は毎日、虹介を病院に連れて来て、夕方近くまでいてくれた。
優一夫婦は牧場があるので忙しく、病院にもなかなか来られない。
また優一夫婦には子どもがいないので、孫は奈々のところの虹介だけだ。
それはでも、夫がそのことを一番よく知っているし、理解もしている。
だから余計に、虹介との時間を楽しみに、大切にしている。
無邪気な虹介はとてもかわいくて、癒やされる。
ほんの少しの間でも、病気のことを忘れることができるのなら、何よりだと思う。
「母さん、少し代わろうか?」
夫の病院に着きっきりな私の身を案じてくれる奈々。
「私は大丈夫よ。伊達に何十年も牧場をしていないわよ」
「でも、母さん・・・」
不安そうな奈々を見つめ、笑顔を浮かべる。
「今が一番楽しいのよ。だから気にしないで」
それは私の本心だ。
ずっとがむしゃらに好きなことだけをして、2人で生きて来たけど、今ほどゆっくり、のんびりと2人でいることはなかった。
「バアバア、見て!」
虹介は画用紙いっぱいに大きな虹の絵を描いていた。
「わあ、上手ね。虹ちゃんの虹ね」
「違うよ。バアバアの虹だよ」
うーん、確かに、そうとも言える。
「そうだね。ありがとう」
それからしばらく、ワイワイと過ごして、いつものように夕方より少し前には帰っていった。
「ジイジイ、バアバア、またね」
「虹ちゃん、また来てね」
見送ってしまうと、一気に静かになる。まあ、病院だからもともと静かなものだけど。
「疲れた?」
夫に問いかける。
「いいや、大丈夫。虹が来てくれるのは楽しみだから・・・にしても、あいつ、俺の子どもの頃によく似てるよな」
実はそれ、私も思ってた。昔の夫にそっくりだって。
「大きくなったら、優ちゃんそっくりになったりしてね」
「どうかな?隔世遺伝ってやつか?なくもないか」
少しだけ考える仕草をしてから、夫は納得したようだった。
「ねえ、優ちゃん。優ちゃんは私と結婚してここまで生きて来て、幸せだった?」
本当は一番タブーなことなのかもしれない。今、こんなことを聞くのは。
でも、私は聞かずにはおれなかった。
「そうだな・・・あっ、虹は?虹は幸せだった?」
なぜか反対に聞き返されてしまった。
「うん。とても幸せだった。と言うか、幸せだわよ。大好きな優ちゃんと一緒にずーっと生きて来られたんだから」
私の言葉に夫は嬉しそうに微笑む。
「俺も幸せだったよ。虹に出会えて・・・覚えているか?初めて2人で虹を見た時のこと」
心が過去へと飛んでいく。
「うん、私が優ちゃんの誕生日プレゼントにドングリをたくさん拾おうとして、山の奥に入りすぎて転げ落ち、動けなくなったあれだよね」
「そう、そう。あの時、俺にとって虹はいつも側にいる妹から、特別な存在へと変化してたんだ。最もその時に明確な感情があったわけではないんだけど、考えてみると、あれが最初だよ」
そうだったんだ・・・そりゃあそうよね。あの時優ちゃん、6歳くらいだもんね。
でもそんな昔から優ちゃんにとって、私は妹じゃなかったんだ。
初めて聞く本音に少し驚いた。
「なんか、ちょっと損したかも」
「何でだよ」
「だって私はずっとお兄ちゃんみたいに思っていたから、本当に優ちゃんが大学に行く前のあの日まで、自分の気持ちにすら気づいていなかったもん。
もっと早く気づいていたら、ラブラブでいられたのにね」
「あのな・・・今でも充分ラブラブじゃないか、年はとってしまったけど」
確かに。優ちゃんを大好きなことに変わりはない。だから悲しい。
近い将来、優ちゃんの呼吸が止まる―――――
二度とこうして2人でいられない。
それが、とても悲しい・・・
「そうだ。優ちゃん、何かしたいことある?欲しいものとかないの?」
夫は少し考えてから、ハッと何かに気づいた。
「あっ、ある。ごめん虹。俺たち結婚式もあげていなかったし、指輪もあげていない」
結婚した時はすでに、牧場を経営していたので忙しく、結婚式をあげる余裕もなかった。
「あっ、でも指輪はくれたじゃない」
そう言って私はケータイを見せる。
「あっ、これまだ持っていたのか・・・なんか恥ずかしいな」
円形虹はなかなかお目にかかれない珍しい虹。
きれいな円形状の虹を夫はエンゲージリングと言って私に贈ってくれた。
「当たり前でしょう。凄く嬉しかったんだから。それで充分よ。
それより、欲しいものとかないの?食べたいものとか買ってきてあげるわよ」
正直、いつ逝ってしまってもおかしくないとは言われている。
だからなるべく心残りなことはなくしておいてあげたい。
「うーん、いざとなると別にないな。今までおいしいものばかり食べてきたからな。食べ物に未練ないな。あっ、強いていえば・・・」
そう言って夫は、私に耳を貸すようゼスチャーする。
私が耳を傾けると、夫は小声でお願いごとを言う。
「えっ、・・・もう、しょうがないなぁ」
なにげに嬉しい私は頬が緩む。なんてかわいいお願いだろう。
私はゆっくりと夫に覆い被さるようにしてキスした。
病院の夕食はいつも早い。虹介たちが帰るのも、それを知っているからだ。
その日の夕食はいつもよりも食が進んだ。少しだけ昔の2人に戻って、元気になったような気がした。
「ごちそうさま。虹、お風呂に入っておいで」
部屋が個人部屋なので、お風呂もトイレも付いている。
私はずっと優ちゃんについているので、3日に1回くらいお風呂を使わせてもらっている。
「うん、じゃあ、少し待っていてね」
いつものように言って行こうとする私の手を、夫が引き止める。
「何?」
味をしめたかのように、キスしろゼスチャーに苦笑。
短いキスをしてからバイバイのゼスチャーをする。
まさかこれが最後になるとは思いもしなくて・・・
私を待っている間、夫はいつも窓の外を眺めていた。
その日もほんの30分ほどで優ちゃんのもとに戻る。
優ちゃんは携帯を握りしめ、最初、眠ってしまったのかと思った。
それくらい表情は穏やかだった。
「優ちゃん、眠ったの?」
言って手に触れた途端、異変に気づく。
冷たい―――うそ・・・
「優ちゃん、優ちゃん?」
体を揺すっても何の反応も示さない。
すぐにベットに付いている緊急ボタンを押す。
バタバタと看護師さんが来てくれ、すぐに先生を呼んでくれた。
そして夫の死は告げられた。
たった30分の別れが、永遠の別れになる。
そんなこと思いもしなかった。さっきまで元気にしゃべっていた。
いつもより元気で、いつもよりキラキラしていた。なのに、なぜ?
優ちゃんは永遠に私の手の届かないところへと行ってしまった。
「奥さん、これ・・・」
看護師さんが手渡してくれたケータイ。
そこには赤い虹の写真が写されていた。そしてその後にはメッセージが。
[きれいな虹が見えるよ。赤い虹。虹、いつもありがとう。
そして、ずっとあいし]
打ちかけの文章はそこで止まっていた。
これを見る限り、ここで自分が死んでしまうとは思っていなかったのだと思う。
優ちゃん・・・私だって、ずっと愛してる。
これまでも、これからも。
私はケータイを握りしめて号泣した。
後で調べてみると、赤い虹は「赤虹」と言って主に夕暮れ時に見ることのできる虹で、地球にかかる大気の層が青い光をシャットアウトした時に現れる虹なのだそうだ。
赤くてきれいな虹・・・これが優ちゃんがこの世で見た最後の光景。
穏やかな表情はこの光景のおかげかもしれない。
最後まで、優ちゃんらしい。そこはなぜか、納得できる。
でもとても悲しい・・・その優しさと愛情が嬉しいけれど、悲しい。
ずっと今まで2人一緒だった。そう、まるで2連の虹のように。
2連の虹は主虹と副虹。副虹の方が少し薄めの色で、主虹と色が逆に並んでいる。
副虹はすぐに消えてなくなってしまう。
ちょうど、今の優ちゃんのように。
優ちゃん、恋しいよ。
これから先、私はずっと優ちゃんのいない毎日を生きる。
わかっていたのに、この日が来ることはわかっていたことなのに・・・心が痛い。
半身を引きちぎられるような痛さ。
何で、今なんだろう。
もっと一緒にいたかったよ。
現実についていけない心を置き去りにして、優ちゃんは骨になり、この世界から消えた。
2年後――――――
夫の3回忌が無事に終わった。
私の部屋には、真ん中に笑っている夫の写真、両隣に、円形虹と赤虹の写真が飾られている。
確かに夫の肉体はなくなってしまった。
あの体のぬくもりも優しい声も、二度と聞くことはできない。
それでも私は、今でも夫の優しさを感じている。
そして身近な人の死は、自分の命を大切に生きなきゃという気にさせてくれた。
最初はすぐにでも、優ちゃんの側に行きたいと思った。
1人ぼっちがあまりにも辛くて・・・
でも、考えたら嫌でも人は1回は死ななきゃならない。
ならば、どれくらい生きられるかわからないけれど、残りの人生を悔いの無いように生きてみたいと考え直した。
夫の代わりに、一緒に行きたかった旅行へ行く。知らない場所を見て歩くのはとても楽しい。
悲しみは少しずつ癒やされていく。
そして毎日の生活の中で、夫は私の心の中に住んでいるのだと思えるようになった。
だから、これからも2人一緒に、この大自然の中で精一杯生きていきたい。
そして虹がでたら空を見上げよう。
きっと夫も同じように、空の上から虹を見つめているはずだから。
虹 愛している そうささやいて・・・
おわり
「ドングリ ドングリ わーい、いっぱい!」
いつも遊び場は、裏山にある神社。今日は大好きな隣のお家のお兄ちゃん・ユウちゃんのお誕生日にあげるドングリをたくさん集めているんだ。
ユウちゃんは1歳年上の6歳。今ユウちゃんは小学校に行っているので私よりも帰りが遅い。私のパパとママはいつも夜遅くまで働いているので、私は隣のユウちゃんのママにあずけられている。
だからユウちゃんは本当のお兄ちゃんのようだ。実際にユウちゃんはとても優しい。ゆうちゃんママもとても優しくて、私はほとんどの時間をユウちゃんの家で過ごしている。
幼稚園が早く終わるので、ユウちゃんが帰ってくるまでの間が待ち遠しい。
でも今日はあまり早く帰ってきてほしくない。
ユウちゃんの誕生日プレゼントのドングリを沢山集めて、びっくりさせるんだ。
神社にはドングリの木が植えてあって、ドングリもたくさん落ちている。
「ドングリ、ドングリ」
ビニール袋いっぱいになるくらい、たくさんドングリ集めるんだ。
「わあーあっち、いっぱい!」
いつもは行かない裏山の奥、神社にあるドングリよりも粒が大きい。
「わあー、おっきー、嬉しい」
ユウちゃんはきっと喜んでくれる。そう思ったら、やる気がでて、どんどん取ってさらに奥へ。
人が足を踏み入れないその場所は枯れ葉がたくさん落ちていた。
「あっ!」
その枯れ葉に足がすべって、そのままコロコロ。山の奥側へと落ちていく。
とっさにドングリの入った袋を握りしめる。そのまま滑り落ちて、反対側の斜面のかなり下のほうで止まり、そこで動けなくなった。
1人で誰にも見つけてもらえずに心細い。
「わーん、ユウちゃん、助けてよー、ユウちゃん!」
ようやくせきをきったように声がでる。声がでて、1番に助けを求めたのは、パパでもママでもなくユウちゃんだった。
まだお家に帰っていないかもしれない。もし神社に来てたとしても気付いてくれないかもしれない。
でも・・・ユウちゃん、助けてよー。
「わーん、わーん」
大声で泣き叫ぶ。
無情にも誰かが助けに来てくれることはなく、時間が過ぎた。
そのうちに空の雲行きが怪しくなり、雨が降ってきた。
雨に濡れながら、不安が大きくなる。
雨に濡れると冷たいので、まわりの葉っぱをかき集める。首から下を葉っぱにうずめて、それでも寒さは強くなる一方だ。
濡れてしまわないように、ドングリの入った袋を服の中に入れる。
雨音も雨も強くなる。横なぐりの雨は容赦ない。
この雨音じゃ、声も届かない。
どうしようー、何もいい考えが思いつかない。
「コウ、コウどこだ?」
そんな時、かすかに聞こえた聞き覚えのある声。
「ユウちゃん?」
幻?
そう思っていると、もう一度。
「コウ、コウ、どこだ?いたら返事しろ!」
ユウちゃんだ、ユウちゃんが助けに来てくれた。
「ユウちゃん、ユウちゃん!」
最後の力をふり絞って、必死に叫ぶ。
すぐに、青いかさをさしたユウちゃんの顔がみえた。
「コウ、こんなところにいたのか、大丈夫?」
1歳しか年が違わないので、ユウちゃんだってたいして体が大きいわけでもないのだけど、この時ばかりは妙にりりしくて、誰より、何より頼もしくみえた。
葉っぱに足を取られないように気を付けながら、ゆっくりとくだってくる。
「コウ、けがは?」
「うーん、足くじいたかもしれない・・・」
ユウちゃんはびちょびちょの葉っぱの中から、引っ張りだしてくれた。
「コウ、なんでこんなところにいたんだ?いつもの神社かと思って行ってもいないし、雨は降るし、心配したんだよ」
ユウちゃんに言われて、うなだれる。
「ごめんなさい・・・」
ぽろぽろと溢れる涙をユウちゃんは指でゴシゴシとぬぐう。
「足痛い?」
「うううん、大丈夫」
首を振ったものの、歩いて帰るには少し辛い気がした。
「神社で雨宿りしょう。寒くない?」
ユウちゃんは自分の着ていたジャンパーを着せてくれた。
「あったかい!」
ユウちゃんの体温の残るジャンパーはとてもあたたかかった。
それからしばらく雨宿りをしていると、やがて雨はやみ、太陽が顔をだす。
「コウ、おいで」
ユウちゃんが小さな背中をだしてくれる。
「ユウちゃん、いいよ、歩くよ」
びちょびちょの私をおんぶしたら、ユウちゃんまでびちょびちょになっちゃう。
「足痛いんだろう、いいよ、おいで」
優しいユウちゃんにはすべてがお見通しだ。
「ユウちゃん、・・・ありがとう」
ユウちゃんの背中にしがみつく。
ユウちゃんはしっかりと背負ってくれ、ゆっくりとした足取りで家への道を戻り始めた。
「うわー、コウ空見てみろ」
ユウちゃんの声に上を見上げると、そこには大きな「虹の橋」がかかっていた。
「うわー、きれい!ユウちゃんきれいだね」
「うん、きれいだね。コウの名前はきれいな名前だ」
ユウちゃんの言葉に考える・・・そうだ!コウの漢字は「虹」だった。
その日見上げた虹は最高にきれいで、私の心の中に鮮やかに焼き付いた。
その後、お家に帰り着いてからは大変だったけど。
ユウちゃんのママはすぐにお風呂に入れてくれ、くじいた足にも湿布をしてくれた。
服を脱いだ時にビニール袋いっぱいのドングリが見つかり、結局ユウちゃんへのサプライズ誕生日プレゼント計画はあっけなく失敗した。
それでもユウちゃんは「ありがとう」って言ってくれた。
それがとても嬉しかった。
私にとって初めて虹を見た時の記憶はこの時だ。
それは同時に、自分の名前が「虹」でよかったと思えた瞬間でもあった。
またユウちゃんと虹がみたいな・・・
きれいな虹に思いをはせて、私は心の中でそう呟いた。
2.円形虹(青春期)
こんこんと窓をたたく音がする。
眠っていた頭が、一瞬にして目を覚ます。
「うーん」
ぼんやりと目を開け、ハッとして目覚まし時計を見る。
「キャー」
思わず声をあげる。
またやった!このままだと遅刻するよー。
とっさに窓を開けると、制服姿の優ちゃんと目があった。
「ねぼすけ!」
「わーん、優ちゃん待ってよ。すぐ行くからさー」
パジャマ姿の私を見て苦笑しつつも、指でOKサイン。
「ありがとー」
すぐに制服に着替えて、食パンをくわえ、玄関にダッシュ。
ここまでほぼ3分。私にとっては毎日のことなので、ここだけは早い。
「ごめん優ちゃん、ありがとー起こしてくれて」
いつも優ちゃんは木の棒で窓をつんつんとつついてくれる。
なぜかこれが1番効果的だったりする。
「本当だよ、虹はいつまでも子供なんだから」
1歳しか違わない優ちゃんに子供扱いは少しムッとするけど、本当のことだから反論もできない。
それに何だかんだ言っても、いつもちゃんと待ってくれる。
私と優ちゃんは幼なじみのお隣さん。子供の時にはいつも優ちゃんの家にお世話になっていた。
パパもママも忙しく、私のことを構ってはくれなかった。でもその代わりに、優ちゃんも優ちゃんのママも私に優しくしてくれた。お陰で私は何の不自由もなく生活することができた。
だから優ちゃんは本当のお兄ちゃんみたいなものだ。
何とかチャイムの前にダッシュで滑り込む。
「優ちゃん、ありがとう」
「ああ、じゃあ、がんばれよ」
高校が同じで本当にラッキー。
とは言え、優ちゃんは3年生だから、大学受験だし、離ればなれになったら寂しいなあ・・・
教室に入ると、親友の美香ちゃんが声をかけてくる。
「虹ちゃん、おはようー、今日もまた、ぎりぎりだね」
「うわーん、美香ちゃん、それ言わないで!どうも朝、弱いのよね」
席に着いてため息をつく。
「で、今日もまた当然のごとく、三上先輩に起こしてもらったの?」
「うん、ホント助かるわ、優ちゃん様様よ」
「あのねー、虹ちゃん、三上先輩はもうすぐ大学でしょうが、ちゃんと起きられるようにならないとまずいんじゃないの?」
当然のことを言われ、渋い顔になる。
「そうなのよね。どうしよう。誰か起こしてくれないかな?」
「じゃあ、俺、起こそうか?」
「えっ?」
ごく普通に美香ちゃんの隣から声。美香ちゃんの双子の弟・伊智くんだ。なにげにVサインをしている。
伊智くんに問いかけようとしてハッとする。そりゃそうよね。いつもぎりぎりだもん。先生はもう教室に来ていた。そこでいったん、頭の中はお勉強モードに突入。
放課後は部活モード全開!
美香ちゃんと一緒にダンス部で汗をかく。お隣ではバスケ部がミニゲーム。
「きゃー、三上くーん」
優ちゃんはエースでキャプテン。そこそこイケメンに育ったので、今や同級生からも下級生からも黄色い声をもらうほどの人物になっていた。
「あら、虹ちゃんの恋人、相変わらず凄い人気」
「だから、恋人じゃないってば。「お兄ちゃん」お兄ちゃんなんだもん」
「はいはい、わかってます」
美香ちゃんはことあるごとに、私と優ちゃんの仲で遊んでいる。
「そういえば、伊智くんのサッカー部もキャーキャーなんじゃないの?」
実は伊智くん、2年でサッカー部のエースストライカーだったりするのだ。
「うーん、そうかもね。あっ、でも、ほら、あいつも私にすれば弟だから」
まあ、そりゃそうだ。身内にそんな感情は芽生えないよね。
「伊智は虹ちゃんのこと好きみたいだけどね」
「えっ、うそでしょう?」
朝の伊智くんのVサインを思い出す。つまり、本気だったんだ。
考えたこともなかった。かなり昔から知っているから、伊智くんも身内みたいなものだ。うーん、恋愛の定義って難しい。
「あははは、虹ちゃんらしいわ・・・その少し鈍感なところ」
「何それ、けなしてるの?」
「いいえ、とんでもない。褒めているのよ。それはともかく、三上先輩はどこの大学にいくのよ」
美香ちゃんに問われ、考える。
そういえば、何も聞いてない。
「さあ・・・」
「さあって、知らないの?」
美香ちゃんに不思議そうに聞かれ、うんとうなずく。
「えっ、気にならないの?」
「うーん、深く考えたこともなかったから」
「えっー、ちゃんと聞いときなよ。凄く遠いところだったら、どうすんのよ」
そうか、それもあり得るか。
「そ、そうだね」
深く考えなかったのは、今の生活がとても楽しくて、充実しているからだろう。でも、確かに気になる。今日帰りにでも優ちゃんに聞いてみよう。
夕方になると部活も終わり、よく動いたのでお腹も少し減ってくる。
「おーい、虹、帰るぞ。帰りにマックでも行くか?」
優ちゃんはいつも同じくらいに帰るので、迎えにきてくれる。
「行く、行く、行く。もう、お腹すいたよー」
「じゃあ、虹ちゃん、また明日ね」
「うん、美香ちゃんもね」
私は優ちゃんと並んで帰る。マックにはほぼ毎日のように寄っていた。
太ることを気にしながらも、ハンバーガーとフライドポテトを食べてお腹が落ち着いた。
「あっ、そうだ。優ちゃん、大学どこに行くの?」
忘れない様に聞いとかなきゃ。
「ふーん、気になる?」
問われてうんと素直にうなずく。
「北海道の農業大学」
あっさりと言われたけれど、聞いた瞬間、言葉を理解することができずにフリーズ・・・すべてが固まってしまった。
「うそ・・・あの、なんで、どうして?ねえ、うそでしょう?私、北海道なんて聞いてない!」
取り乱してまくし立てる私に優ちゃんは冷静な声で言った。
「そりゃそうだよ、言ってない。今、言ったけど。まあ、落ち着けよ。とにかく、帰ろう。帰りながら話す」
あっ、ここマックだってこと忘れてた。
マックをでて、再び優ちゃんと家への道を帰りはじめる。
「俺さ、動物すきじゃん。どうしても牛が飼いたくて、牛乳やチーズを作って、北海道に住みたいんだよね」
本当にあっさりと言ってくれる。私の頭はまったくついて行かない。
「信じられない!優ちゃんは頭いいから、てっきり東京でIT関係の学校に行くのかと思った。・・・でも北海道って、遠いよ優ちゃん」
もっと簡単に会える距離に行くのかと勝手に思っていた。
よりによって北海道だなんて・・・
「・・・と言ってもだ。日本国に違いはないし、地図で見たらすぐだぞ」
「そんなこと言っても・・・優ちゃん」
だんだんと悲しくなってきた。
どうしたんだろう、今すぐいなくなるってわけでもないのに、あまりに近くにずっといてくれたから、いなくなってしまうことが考えられない。
ぽたぽたと涙が溢れる。そんな私を見て優ちゃんは深いため息。
「虹、本当にいつまでも子供なんだから」
優ちゃんはゴシゴシと涙をぬぐってくれた。
あれ?これ、昔もどこかで・・・
「あーっ」
急に大声をだす優ちゃん。
「な、なに?」
「天気予報って当てになんない。今日、雨なんて言ってなかったぞ」
ぶつぶつと優ちゃんが言った瞬間に雨がぽつぽつと降り始めた。
「虹、神社まで走るぞ」
「うん」
2人してダッシュ。久しぶりに家の近くの神社に行った。
「わあー懐かしい・・・あれ、ここ、こんなに小さかったけ?」
不思議そうに言う私に優ちゃんが苦笑する。
「そりゃそうだよ。俺たちが遊んでいたのは子供の頃だからな。俺だって小さかったろう?」
「あっ、そうか。まあ、確かに・・・そうか、私たち大きくなっちゃったんだね」
当然のことをしみじみ言う私。
そうか・・・どうせなら、ずっと子供のままがよかったな。
強くなる雨音を聞きながら、私はぼんやりと考えていた。
そしてひとつの事実に思い当たる。
今までずっと優ちゃんのことは「お兄ちゃん」だと思っていたけど、もしかすると、違うのかもしれない。
会えなくなってしまうと思っただけで、もの凄く悲しかった。
まるでこの世の終わりかのように。
でもこれが、例えば伊智くんだったら?
伊智くんには悪いけど、こんなに悲しくはならない。
と言うことは、私にとって優ちゃんはきっと特別な人なんだ。
雨があがる。
そして現れたそれは、とても珍しいものだった。
「おい、虹見てみろよ。虹、しかも「円形虹」
「円形虹?」
太陽や月に薄い雲がかかった際にその周囲にできる虹。発生が難しいためかなりレアな虹だ。普通、半円で見えている虹がきれいな円形になっている。
「わあー、凄い・・・初めて見た」
「あっ、そうだ。せっかくだから、ケータイに撮っておこう」
優ちゃんはケータイを取り出すと、カシャっと撮った。
「あっ、私も」
ケータイを取り出した私を、優ちゃんが止める。
「虹、いいよ。俺の撮ったやつを送ってやる」
そう言うと、何か文字を打ち始めた。
「優ちゃん?」
しばらくして、優ちゃんから、ケータイに写真が送られてくる。
結構きれいに撮れているその写真の後にはこんな文字が。
[虹、1年後、北海道に来いよ。将来、一緒に牧場をしよう。
虹、俺は虹が好きだ。いつか結婚しよう。これは約束のエンゲージリングだ]
うそ・・・優ちゃんが私を好き?
私は・・・私は。
そこから先は何も考えられなくて、そのまま優ちゃんの胸に飛び込んだ。
優ちゃんは何も言わず、黙ってただ、抱き締めてくれた。
遙か昔、ずぶ濡れの体にジャンパーをかけてくれた。
あの時と同じように、うううん、それ以上にあたたかい。
「優ちゃん、私も優ちゃんが大好き」
私たちはその日、永遠の愛を誓った。
そんな2人を、円形状の虹は優しく見つめていた。
3.幻日(成人期)
北海道の冬は思っていたよりも遙かに寒く、極寒だ。
それでも牛舎の中の牛たちは元気に生きている。
おいしい牛乳は毎朝飲める。
チーズもとってもおいしい。
不便なことはとても多い。でも、それ以上に充実している。
「2,3日ってところだろうか?」
「ええ、もうすぐね」
夫と2人で牛の様子を注意深く観察する。
「ねえねえ、もうすぐ赤ちゃん出てくるの?」
息子の優一は興味津々で牛を見つめている。
今年5歳になったばかりの優一は何にでも興味を持つ。
生まれた時からずっと牛と一緒にいるので、怖がることもない。
いい機会なので、「牛の出産」をちゃんと見せてあげたい。
ひとつの命が誕生する大変さも神秘さも、とても素晴らしいものだ。
かく言う私のお腹の中にも、新しい命が宿っている。
次は女の子。それも分かっている。
息子の時は夫の「優」から名前を取って「優一」と名付けた。
娘の時は私の「虹」の字を取るかと言ったのだけれど、あまりいい名前がなくて、虹は七色なので「奈々」にしようかと思っている。
何にしても家族が増えるのは嬉しいことだ。
「ねえ、パパ、いつ出て来るの?」
優一は子牛が見たくてたまらないらしく、ずっと聞いている。
「もうすぐだと思うけど、でも、まだ2,3日かかりそうだよ」
「えー、まだそんな先?」
つまんなそうに言う優一に苦笑する。
大丈夫よ優ちゃん、ちゃんと子牛が出て来るところ、見せてあげるからね」
今は夫にではなく、息子に「優ちゃん」と言っている。
それが、とても不思議な気分だ。
「わーい、わーい、早く出てこないかな」
2人して同じ大学に入り、基礎から酪農について学んだ。
優ちゃん(今度は夫の方)に誘われて行った大学だったけど、途中からむしろ私の方が楽しくて、夢中になった。
優ちゃんが大学に行く時にプロポーズしてもらい、そのまま優ちゃんを追いかけて、北海道に来て、よかったと思う。
優ちゃんの妻になり、優ちゃんと共に過ごして来た人生はとても楽しい。
何よりも大自然は心を豊かにしてくれる。そんな気がする。
2日後の朝――――
その日はやって来た。いつも以上に寒い朝だった。
明らかに母牛の様子が落ち着かない。
ねむねむモードの優一を何とか起こして、かぜをひかないように暖かい服を着せると、牛舎へと急ぐ。
せわしなく動き回る様子が、子牛誕生が近いことを物語っていた。
優ちゃんはすぐにビデオカメラを回し始めた。
「ママ、牛さん出て来るの?」
「ええ、もうすぐよ。応援してあげて」
本当は大人しく見守ってあげるのがベストなのだが、優一は牛がなれているということもあり、応援させることにした。
子牛が生まれた時に、数倍嬉しく感じるはずだから。
「がんばれ牛さん、がんばれ牛さん」
私の言葉に、素直に優一は応援を始めた。私も心の中で応援する。
がんばれ、がんばれ、もう少し。
ばたばた動き回っていた牛は、しばらくして止まると、おしりから白い膜に覆われた子牛の頭がするり。前足、体、後ろ足と順番に姿を見せる。
やがて「ボタッ」と音をさせて、すべてがわらの上に落ちた。
小さく震える子牛を一生懸命になめ回す母牛。白い膜が取れていく。
「わあー、牛さんがんばったね」
初めて見る牛の出産に、優一は凄く興奮していた。
「そうね、がんばったね」
そのうちに子牛は一生懸命に立ち上がろうとする。
大自然の厳しさを私は知っている。
子牛はすぐに立ち上がって母牛の乳を吸うことができなければ、この先生きてはいけない。
子牛はかなりヨタヨタしながらも、4本足で踏ん張ろうとしていた。
その懸命な姿に優一が言う。
「ママ、子牛さんを手助けしたい」
「ダメよ。子牛さんは自分の力でちゃんと立てるようにならないと生きていくことができないのよ。冷たいようでも、ちゃんと見ててあげて。
ちゃんと立てたら歩いてお母さんのお乳を探して、自分で飲むから。
ママね。優ちゃんには牛さんの生命力の強さを見て欲しいの。そして子牛に負けないくらいに強く、たくましく生きて欲しい」
子供の時に生命について、体験しながら勉強することのできる人間は限られている。優一は数少ないこの環境に生まれてきた。だからちゃんと見せて、教えてあげたい。
それから子牛は倒れても起き上がり、それを何度も繰り返してようやくちゃんと立てるようになった。
そしてまだおぼつかない足取りで2,3歩歩くと、母親の乳へと辿り着く。
おいしそうに乳を飲む子牛を見て、優一は満面の笑顔になった。
「優、こっち向いて」
パパ優ちゃんがしっかりとビデオ収録。
「わーあ、パパ、あれ、撮って」
優一が見つけたのは、牛舎の外に見える虹。
「ああ「幻日」だな」
優ちゃんの声。
幻日はダイヤモンドダストに太陽光が反射してできる虹。
寒い土地ならではのもので、私も北海道に来てから何回か見た。
「キラキラだね」
「そうね。キラキラしている。今日はとっても寒いからきれいね」
私たち家族にとって、その日は特別な記念日になった。
生まれたての子牛の赤ちゃんと輝く虹と、希望がいっぱい詰まった日―――
新しく生まれて来る赤ちゃんにもいつか見せてあげよう。
生命が誕生する神秘と素晴らしさ。
そして、光輝くこの映像を・・・
4.赤虹(老人期)
病室の窓から見る風景は意外にもきれいだ。個室なので気兼ねすることもない。
夫は病気ひとつしたことのない健康な人だった。
毎日牛乳を飲み、チーズを食べ、家で作った野菜を食べて満足していた。
牧場の仕事はいつも忙しかったが、それでも充実した毎日だった。
65歳になったのを機に、息子の優一夫婦にすべてをまかせて、2人で旅行にでも出かけようかと話していた。
そんな矢先、夫は突然、倒れた。
悪性リンパ腫・・・リンパ節にできるがんで、血液にのって、体中どこでも移動する。
すでに3カ所転移が見つかった。
ステージ4。
一縷の望みをかけて抗がん剤治療を開始する。
それでも病状は容赦なく進行していく。
これから2人で楽しく老後を過ごせると思ったのに・・・
突き付けられた現実はあまりにも残酷だ。
あとどれくらい一緒にいられるのか、それすらも分からない。
それでも夫は普段と何も変わらなかった。
本当は痛くて辛い時があるのかもしれない。けれど私や家族には一切そんなそぶりは見せない。
けれど、日を追うごとに少しずつ衰えていく。その姿はとても痛々しかった。
髪の毛はすべて抜け落ち、抗がん剤の副作用で食事も思う様にできない。
筋肉は落ち、頬もやせこけ、生気がなくなっていくのが見て取れる。
「ジイジイ、来たよ」
毎日やって来るお客様は夫を笑顔にしてくれる。
「虹、来たか。ジイジイ、ずっと待ってたよ」
ひどくややこしいのだが、奈々の息子が5歳になる虹介。
奈々の名前を付ける時、「虹」の字を入れられなかったという話をしたら、奈々は自分の息子に「虹」の字を入れて「虹介」と名付けたのだ。
素直に嬉しかったのだが、問題が発生。
名前を呼ぶ時「虹」と呼ぶので、私は自分のことを呼ばれている気がして、とても変な感覚になる。
しかも、たまに虹介に話かけているのに、自分に言われたと勘違いして返事しそうになる。
「ジイジイ、今日は何しようか?」
奈々は毎日、虹介を病院に連れて来て、夕方近くまでいてくれた。
優一夫婦は牧場があるので忙しく、病院にもなかなか来られない。
また優一夫婦には子どもがいないので、孫は奈々のところの虹介だけだ。
それはでも、夫がそのことを一番よく知っているし、理解もしている。
だから余計に、虹介との時間を楽しみに、大切にしている。
無邪気な虹介はとてもかわいくて、癒やされる。
ほんの少しの間でも、病気のことを忘れることができるのなら、何よりだと思う。
「母さん、少し代わろうか?」
夫の病院に着きっきりな私の身を案じてくれる奈々。
「私は大丈夫よ。伊達に何十年も牧場をしていないわよ」
「でも、母さん・・・」
不安そうな奈々を見つめ、笑顔を浮かべる。
「今が一番楽しいのよ。だから気にしないで」
それは私の本心だ。
ずっとがむしゃらに好きなことだけをして、2人で生きて来たけど、今ほどゆっくり、のんびりと2人でいることはなかった。
「バアバア、見て!」
虹介は画用紙いっぱいに大きな虹の絵を描いていた。
「わあ、上手ね。虹ちゃんの虹ね」
「違うよ。バアバアの虹だよ」
うーん、確かに、そうとも言える。
「そうだね。ありがとう」
それからしばらく、ワイワイと過ごして、いつものように夕方より少し前には帰っていった。
「ジイジイ、バアバア、またね」
「虹ちゃん、また来てね」
見送ってしまうと、一気に静かになる。まあ、病院だからもともと静かなものだけど。
「疲れた?」
夫に問いかける。
「いいや、大丈夫。虹が来てくれるのは楽しみだから・・・にしても、あいつ、俺の子どもの頃によく似てるよな」
実はそれ、私も思ってた。昔の夫にそっくりだって。
「大きくなったら、優ちゃんそっくりになったりしてね」
「どうかな?隔世遺伝ってやつか?なくもないか」
少しだけ考える仕草をしてから、夫は納得したようだった。
「ねえ、優ちゃん。優ちゃんは私と結婚してここまで生きて来て、幸せだった?」
本当は一番タブーなことなのかもしれない。今、こんなことを聞くのは。
でも、私は聞かずにはおれなかった。
「そうだな・・・あっ、虹は?虹は幸せだった?」
なぜか反対に聞き返されてしまった。
「うん。とても幸せだった。と言うか、幸せだわよ。大好きな優ちゃんと一緒にずーっと生きて来られたんだから」
私の言葉に夫は嬉しそうに微笑む。
「俺も幸せだったよ。虹に出会えて・・・覚えているか?初めて2人で虹を見た時のこと」
心が過去へと飛んでいく。
「うん、私が優ちゃんの誕生日プレゼントにドングリをたくさん拾おうとして、山の奥に入りすぎて転げ落ち、動けなくなったあれだよね」
「そう、そう。あの時、俺にとって虹はいつも側にいる妹から、特別な存在へと変化してたんだ。最もその時に明確な感情があったわけではないんだけど、考えてみると、あれが最初だよ」
そうだったんだ・・・そりゃあそうよね。あの時優ちゃん、6歳くらいだもんね。
でもそんな昔から優ちゃんにとって、私は妹じゃなかったんだ。
初めて聞く本音に少し驚いた。
「なんか、ちょっと損したかも」
「何でだよ」
「だって私はずっとお兄ちゃんみたいに思っていたから、本当に優ちゃんが大学に行く前のあの日まで、自分の気持ちにすら気づいていなかったもん。
もっと早く気づいていたら、ラブラブでいられたのにね」
「あのな・・・今でも充分ラブラブじゃないか、年はとってしまったけど」
確かに。優ちゃんを大好きなことに変わりはない。だから悲しい。
近い将来、優ちゃんの呼吸が止まる―――――
二度とこうして2人でいられない。
それが、とても悲しい・・・
「そうだ。優ちゃん、何かしたいことある?欲しいものとかないの?」
夫は少し考えてから、ハッと何かに気づいた。
「あっ、ある。ごめん虹。俺たち結婚式もあげていなかったし、指輪もあげていない」
結婚した時はすでに、牧場を経営していたので忙しく、結婚式をあげる余裕もなかった。
「あっ、でも指輪はくれたじゃない」
そう言って私はケータイを見せる。
「あっ、これまだ持っていたのか・・・なんか恥ずかしいな」
円形虹はなかなかお目にかかれない珍しい虹。
きれいな円形状の虹を夫はエンゲージリングと言って私に贈ってくれた。
「当たり前でしょう。凄く嬉しかったんだから。それで充分よ。
それより、欲しいものとかないの?食べたいものとか買ってきてあげるわよ」
正直、いつ逝ってしまってもおかしくないとは言われている。
だからなるべく心残りなことはなくしておいてあげたい。
「うーん、いざとなると別にないな。今までおいしいものばかり食べてきたからな。食べ物に未練ないな。あっ、強いていえば・・・」
そう言って夫は、私に耳を貸すようゼスチャーする。
私が耳を傾けると、夫は小声でお願いごとを言う。
「えっ、・・・もう、しょうがないなぁ」
なにげに嬉しい私は頬が緩む。なんてかわいいお願いだろう。
私はゆっくりと夫に覆い被さるようにしてキスした。
病院の夕食はいつも早い。虹介たちが帰るのも、それを知っているからだ。
その日の夕食はいつもよりも食が進んだ。少しだけ昔の2人に戻って、元気になったような気がした。
「ごちそうさま。虹、お風呂に入っておいで」
部屋が個人部屋なので、お風呂もトイレも付いている。
私はずっと優ちゃんについているので、3日に1回くらいお風呂を使わせてもらっている。
「うん、じゃあ、少し待っていてね」
いつものように言って行こうとする私の手を、夫が引き止める。
「何?」
味をしめたかのように、キスしろゼスチャーに苦笑。
短いキスをしてからバイバイのゼスチャーをする。
まさかこれが最後になるとは思いもしなくて・・・
私を待っている間、夫はいつも窓の外を眺めていた。
その日もほんの30分ほどで優ちゃんのもとに戻る。
優ちゃんは携帯を握りしめ、最初、眠ってしまったのかと思った。
それくらい表情は穏やかだった。
「優ちゃん、眠ったの?」
言って手に触れた途端、異変に気づく。
冷たい―――うそ・・・
「優ちゃん、優ちゃん?」
体を揺すっても何の反応も示さない。
すぐにベットに付いている緊急ボタンを押す。
バタバタと看護師さんが来てくれ、すぐに先生を呼んでくれた。
そして夫の死は告げられた。
たった30分の別れが、永遠の別れになる。
そんなこと思いもしなかった。さっきまで元気にしゃべっていた。
いつもより元気で、いつもよりキラキラしていた。なのに、なぜ?
優ちゃんは永遠に私の手の届かないところへと行ってしまった。
「奥さん、これ・・・」
看護師さんが手渡してくれたケータイ。
そこには赤い虹の写真が写されていた。そしてその後にはメッセージが。
[きれいな虹が見えるよ。赤い虹。虹、いつもありがとう。
そして、ずっとあいし]
打ちかけの文章はそこで止まっていた。
これを見る限り、ここで自分が死んでしまうとは思っていなかったのだと思う。
優ちゃん・・・私だって、ずっと愛してる。
これまでも、これからも。
私はケータイを握りしめて号泣した。
後で調べてみると、赤い虹は「赤虹」と言って主に夕暮れ時に見ることのできる虹で、地球にかかる大気の層が青い光をシャットアウトした時に現れる虹なのだそうだ。
赤くてきれいな虹・・・これが優ちゃんがこの世で見た最後の光景。
穏やかな表情はこの光景のおかげかもしれない。
最後まで、優ちゃんらしい。そこはなぜか、納得できる。
でもとても悲しい・・・その優しさと愛情が嬉しいけれど、悲しい。
ずっと今まで2人一緒だった。そう、まるで2連の虹のように。
2連の虹は主虹と副虹。副虹の方が少し薄めの色で、主虹と色が逆に並んでいる。
副虹はすぐに消えてなくなってしまう。
ちょうど、今の優ちゃんのように。
優ちゃん、恋しいよ。
これから先、私はずっと優ちゃんのいない毎日を生きる。
わかっていたのに、この日が来ることはわかっていたことなのに・・・心が痛い。
半身を引きちぎられるような痛さ。
何で、今なんだろう。
もっと一緒にいたかったよ。
現実についていけない心を置き去りにして、優ちゃんは骨になり、この世界から消えた。
2年後――――――
夫の3回忌が無事に終わった。
私の部屋には、真ん中に笑っている夫の写真、両隣に、円形虹と赤虹の写真が飾られている。
確かに夫の肉体はなくなってしまった。
あの体のぬくもりも優しい声も、二度と聞くことはできない。
それでも私は、今でも夫の優しさを感じている。
そして身近な人の死は、自分の命を大切に生きなきゃという気にさせてくれた。
最初はすぐにでも、優ちゃんの側に行きたいと思った。
1人ぼっちがあまりにも辛くて・・・
でも、考えたら嫌でも人は1回は死ななきゃならない。
ならば、どれくらい生きられるかわからないけれど、残りの人生を悔いの無いように生きてみたいと考え直した。
夫の代わりに、一緒に行きたかった旅行へ行く。知らない場所を見て歩くのはとても楽しい。
悲しみは少しずつ癒やされていく。
そして毎日の生活の中で、夫は私の心の中に住んでいるのだと思えるようになった。
だから、これからも2人一緒に、この大自然の中で精一杯生きていきたい。
そして虹がでたら空を見上げよう。
きっと夫も同じように、空の上から虹を見つめているはずだから。
虹 愛している そうささやいて・・・
おわり
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
うっかり結婚を承諾したら……。
翠月るるな
恋愛
「結婚しようよ」
なんて軽い言葉で誘われて、承諾することに。
相手は女避けにちょうどいいみたいだし、私は煩わしいことからの解放される。
白い結婚になるなら、思う存分魔導の勉強ができると喜んだものの……。
実際は思った感じではなくて──?
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
悪役令嬢は処刑されないように家出しました。
克全
恋愛
「アルファポリス」と「小説家になろう」にも投稿しています。
サンディランズ公爵家令嬢ルシアは毎夜悪夢にうなされた。婚約者のダニエル王太子に裏切られて処刑される夢。実の兄ディビッドが聖女マルティナを愛するあまり、歓心を買うために自分を処刑する夢。兄の友人である次期左将軍マルティンや次期右将軍ディエゴまでが、聖女マルティナを巡って私を陥れて処刑する。どれほど努力し、どれほど正直に生き、どれほど関係を断とうとしても処刑されるのだ。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる