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もういいかい?もう、いいよ。
こんな所に
しおりを挟む「……あー、見たことあるような、無いような……」
「え?! 先生、あります? どこにありましたか?」
感染委員会の病棟見回りの途中だった。その事を忘れていた俺の呟きに、同行していた看護師が声をかけてきた。どうやら、針類廃棄ボックスの分別が上手くいっていないという話をしていたようだ。
「あー、違う。悪い。考え事してた」
「なんだ。では、今回はどこも間違ってませんね。全病棟、確認しましたし、解散としましょう。今回の報告レポートは6A病棟……」
委員長の解散宣言を背に、俺は医局に戻る。明るい病棟とは別に、医局への道のりは薄暗い。今日は担当外来もなく、処置担当でもない。誰もいない静かな廊下を一人で歩く。俺の心の中を表しているような廊下を早く過ぎ去りたく、早足になった。
あの日、高坂さんの手の温もり感じて、忘れていた何かが掴めそうだった。
誰もいない医局のギシギシ鳴る椅子に思い切り背中を預けて、ひと伸びする。
「……何だろうなぁ」
静かな医局に響く俺の呟き。もちろん誰も答えてくれるはず無かった。
何も思い出せそう無いと諦め、今は目の前の仕事に取り掛かることにした。
「佐鳥先生」
声をかけられ、我に返る。溜まっていた診断書、退院サマリーを記入していたらあっという間に時間が過ぎていた。声のした方向に椅子を回す。声をかけてきたのは、緩和ケア認定医師の幸田先生だった。
「幸田先生! お疲れ様です」
「今日は医局待機なんですね」
「ええ、まぁ」
「あ、コンサルト、確認しましたよ。今日の午後入院待機可否の判定会議があるので。それが終われば転入が出来ますよ」
「あ、高坂さんですか? 昨日、中心静脈カテーテルを入れているので、いつでも行けるかと」
本人もなるべく早く緩和ケア病棟への移動を希望していた。そう伝えると幸田先生は、師長の采配しだいですねと言って笑った。
「あ、それから、主治医は私のままで」
「分かってますよ。佐鳥先生は、相変わらずですね」
一見人の良さそうな幸田先生だが、食えない人物なのは皆知っている。しかし、先生の俺を見る目は、子供の成長を見守るような優しい瞳だった。少し照れくささを感じ、俺は頭を掻く。
「変わりませんかね?」
「ええ。僕に頭を下げてきた、三十歳の佐鳥先生と。大変な人だったと思いますが、いいケアが出来ましたね。あ、そう言えば、」
そこのお孫さんが、今うちの病棟にいましたね。縁は繋がるもんですね。
幸田先生の一言に、俺はまた過去に戻された。
一先生、死にゆくばばぁに一つプレゼントを頂けませんか。
一……幾つも聞いてきた気がするのは俺の気のせいですかね?
一若いもんがごちゃごちゃ言わないの!これが最後!でも、一番難しいかもしれない。
─……まぁ、できる限りは
─……あの子のこと、頼みますよ
─それは、ちょっと。
一嘘で良いんです。 一人になるあの子の為に、誰かがいるという言葉を残してやりたいの。
一……村さん。
一ね? あまり重く考えないで。はいって言って?
─……はい。分かりました。
一佐鳥先生。無理を言いました。心から、感謝を申し上げます。
鶏ガラのように細くなった手を出され、お礼を言われた。その手を取ると、思っていた以上の力で握り返された。
凛とした、老人だった。俺の知っている人によく似た、優しい人だった。
「幸田先生! ありがとうございます!」
椅子が倒れる勢いで立ち上がり、俺は幸田先生の手を握りしめる。ガターンと聞こえたから本当に椅子が倒れたようだ。しかし、今はそれに構っていられない。
「い、いえ。患者を受け入れるだけですから」
「それだけじゃありません! 先生のお陰で……」
首を傾げる幸田先生に、何を思い出したのか説明するべきなのかもしれない。しかし、やるべき事を優先した俺は、その場から駆け出した。
「ちょっと用事ができたので! これで失礼します」
走りながら俺はPHSを取り出す。カルテ保管の管轄となっている病歴室に電話する。自分のIDを早口で述べ、閲覧室の許可を得る。カルテは個人情報の塊だ。不正閲覧を防ぐため、過去カルテの閲覧には申請が必要だった。しかも、閲覧室にあるパソコンのみで閲覧が許可されている。以前同じ管轄内の他病院で、不正閲覧が問題になり、当院でも規制が厳しくなったのだ。
十年前。俺が外来受診を一人で受け持ち始めたころに、来院したのが唯子の祖母だったはずだ。名前は確か。誰もいないカルテ閲覧室に俺は身体を滑り込ませる。読み方検索をするが、「こむら」ではヒット件数が多すぎた。途中で唯子の名前を見つけ、にやけたのは内緒だ。
「小村、小村……小村、はる? いや、違う。小村、はち、きゅう……違う! は、は、は、は……はな!」
パソコンの検索欄に、「こむらはな」と打ち込む。一件のヒット。受診最終日は、十年前の十一月十日。
「……命日まであと、二週間じゃねえかよ」
俺の呟きを拾うものなどいない。この先の情報を見るべく俺は名前をクリックした。
病名、膵頭部腫瘍。食欲不振、背中の痛みで町医者にかかって……紹介状のコピーを見つけ、再読する。自分の書いたカルテには、「これ以上の治療希望なし。緩和ケアコンサルト? 主治医変更か?」と書かれていた。これを見て、なぜ俺は主治医を変わらなかったのかを不思議に思う。頬杖にした左手がじんわりと汗ばんでいる。未だかつて、自分の患者のカルテを見ることに、こんなに緊張したことなど無かった。
カチカチとマウスボタンをクリックする。表示された看護基礎情報のキーパーソンの欄に、唯子の名前はない。見覚えのない名前が羅列していた。違う苗字。恐らく、娘だろう。しかし、その中に唯子の名はなかった。もしかして、勘違いか?いや、そんなはずはない。俺は首を横に振り自分を否定する。
焦りを隠せずに、俺は看護基礎情報の欄をクリックしていく。
無い。無い。
いない。どこにも居ない。
俺の勘違いで人違いかと思ったその時だった。カルテの一番最後。『その他』の欄に記載された名前。
『小村唯子 同居している孫。洗濯など身の回りの世話をしている』
「……いた」
その名を見つけた俺は、ディスプレイ越しに、唯子の名に触れる。
いつも祖母の隣にいて、泣きそうな顔をしていた少女は唯子だった。
頬を生ぬるい液体が滑り落ちていく。十年。十年だ。俺がのうのうと生きている間、唯子は家族を失い、一人になった。それをすっかり忘れて、よく一緒にいられたものだ。しかも、あんなにも献身的に介護しておきながら、家族としてカルテに名前を残してもらえない。
ぼたぼたと瞳から落ちる液体が、机を汚す。
当時の唯子の心境を思うと、胸が苦しくなる。最後まで、祖母に寄り添っていた唯子。
「言えよ……ばかやろう」
誰もいないことをいいことに、俺は嗚咽をあげて、泣いた。
俺が見つけるよりも先に、唯子は俺を見つけていた。
「……っ、さと、りです」
涙とついでに鼻水か止まらなくなってきた頃、PHSがけたたましく鳴った。隠しきれない涙声で応対する。しかし、相手の看護師は気にしたふうも無く、要件を述べた。
『先生、急患です。救急車が十五分後に来ます』
「……わかった。すぐ行く」
今は泣いている場合ではない。せめて、今の自分を誇れるように。そう思い立ち俺は白衣の襟を正した。
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