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もういいかい?もう、いいよ。
となりにいるから
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俺の苛立ちは頂点に達しようとしていた。
「……事故渋滞かよ」
時間に余裕を持って病院を出たはずだった。しかし、渋滞に巻き込まれてしまい、車が全く動かなくなってしまった。時刻は十五時十分前。時計と、前の車の間を、何度も視線が行き来する。しかし、車は動かず、時間だけが刻々と過ぎていく。
人差し指がハンドルを急かすように叩く。秒針より早い指の動きは、俺の苛立ちの現れだった。
結婚させられるだうんぬんと那須原主任は言っていた。はっきり言ってそれは心配していない。
仕事にも自分にも厳しい唯子が、自分の意志にそぐわない事項に了承するとは思えないからだ。何よりも俺が心配しているのは、唯子が『ひとり』で、悪と対峙することだ。烏滸がましい考えかも知れないが、二度と、辛い想いを『ひとり』でさせたくない。
俺がこうして考えを巡らせている間も、車は動かない。一分一秒でも早く、唯子の隣に行きたかった。人差し指の動きが更に忙しなくなる。とんとん、と規則的な音を奏でながら、俺ははっきりと思い出した唯子の伯母を頭の中に浮かべる。
「……あのババア」
下品な笑みを浮かべながら、今か今かとその時を待っていた。小村華さんの娘。過去に母である小村さんと何かあったのかもしれないが、いい気分になれない態度だった。
明らかに向けられた悪意に、また唯子を晒したくない。
もう、『知らない』は通用しない。
「隣にいたいんだ」
一向に動かない車に俺は見切りをつける。
側にあったコインパーキング方向にハンドルを切る。
少しでも早く。
ほぼノー睡眠の当直明けの身体には厳しいと分かっていたが、俺は走った。
身体が重い。
ヤニで黒く塗りつぶされた肺が、必死で伸び縮みしている。硬く凝り固まった身体は、ギシギシとうねりを上げる機械人形のようだ。
ただ、気持ちだけは、前に進んでいた。
禁煙しよう。少しでも長生きするために。
運動しよう。少しでも健康でいられるように。
こんな無茶をするのは、今日だけだ。
これからは穏やかに、ふたりで暮らそう。
吐き出される息が、熱い。酸欠で頭がくらくらしたが、俺は走った。
秋の終わりとはいえ、日差しがさんさんと照りつける日中は、動くと汗が吹き出してくる。吹き出す汗を拭う。
走る俺は、他人から見たら滑稽に映るかもしれない。
けれども、今走らないで、いつやるのだろうか?今しかないだろう。
格好つけていると自信がある。散々と御託を並べて、綺麗に聞こえるようにしている。しかし、俺が何よりも隣にいたいという理由は、一つしかない。
「……っは、俺の、いない所で、別の男に会うなっつーの!」
ババアの息子だか知らないが、それが一番納得が行かない。
俺を突き動かすのは、いつだって自分勝手な想いだった。
目的地は、もうすぐだ。
足が、震えていた。ガクガクと膝が笑っている。自動ドアでない、押戸の取手を握り、俺は項垂れていた。ぜは、ぜは、と息が吐き出される。呼吸が上手くできなかった。
早く中に入らなければ。そう思ったが、身体が言うことをきいてくれない。ゆっくり深呼吸をして、鼓動を落ち着かせる。百二十あった鼓動が九十台まで落ち着く。ジャケットの袖で汗を拭い、ガラスに映る自分の姿を確認する。
髪の乱れを直して、顔を上げる。頬を、二回叩いて気合いを入れる。思ったよりも力が入ったが、悪くない気分だった。
「いらっしゃいませ」
ハキハキと迎え入れる店員を手を挙げて制す。人をと言えば、すぐに横に避けてくれた。くるり、と店内を俺は見回す。しかし、唯子らしき人物が見当たらない。
Cafe-moment。白を基調とし、アンティークな小物で飾られた落ち着いた空間で人気のカフェだった。フリーペーパーでも何度か紹介されており、この辺りでは有名な場所だった。カンパーニュとシチューのセットが美味しいと、同僚の看護師が話していたのは記憶に新しい。ここで間違い無いはずだ。まさか、那須原主任が間違っていたのだろうか?
治まっていた汗が一気に吹き出す。
すると、落ち着いたカフェに似合わない怒号が聞こえてきた。
「だから! あんたは私の言うことを聞けばいいのよ!」
ガラス戸一枚で隔てられた、中庭風のテラス席から、聞こえてきた。
般若面のように、怒りに表情を染めている女性。
遠くからでもわかる、唯子の伯母だ。
その隣には、例の『浩司』らしき男。
そして、向かい合うように座っているのは。
背中を小さく丸めて、肩を落としているその姿が小村華さんが亡くなった時とリンクした。
─おばあちゃん。おねがい、まだいかないで……
「ゆいこ」
見つけた。今度こそ、間違えない。
吹き出した汗も、平常よりも早かった鼓動も、一気に落ち着きを見せた。
一歩、また一歩と歩みを進める。
「お待たせ」
今日くらい、ヒーローになったっていいだろう?
椅子を引いて、小さな唯子の隣に座る。俺の登場に、真っ先に反応したのは、件の伯母だった。
「誰よ! 何の用よ!」
「……ゆう、し」
左に座る唯子の、左手をぎゅっと握る。
ちらりと視界に入った、涙を浮かべた瞳を見て、俺は間違えていなかった。そう確信した。
「さて、お話の続きをしましょう」
『ひとり』に、させない。
「……事故渋滞かよ」
時間に余裕を持って病院を出たはずだった。しかし、渋滞に巻き込まれてしまい、車が全く動かなくなってしまった。時刻は十五時十分前。時計と、前の車の間を、何度も視線が行き来する。しかし、車は動かず、時間だけが刻々と過ぎていく。
人差し指がハンドルを急かすように叩く。秒針より早い指の動きは、俺の苛立ちの現れだった。
結婚させられるだうんぬんと那須原主任は言っていた。はっきり言ってそれは心配していない。
仕事にも自分にも厳しい唯子が、自分の意志にそぐわない事項に了承するとは思えないからだ。何よりも俺が心配しているのは、唯子が『ひとり』で、悪と対峙することだ。烏滸がましい考えかも知れないが、二度と、辛い想いを『ひとり』でさせたくない。
俺がこうして考えを巡らせている間も、車は動かない。一分一秒でも早く、唯子の隣に行きたかった。人差し指の動きが更に忙しなくなる。とんとん、と規則的な音を奏でながら、俺ははっきりと思い出した唯子の伯母を頭の中に浮かべる。
「……あのババア」
下品な笑みを浮かべながら、今か今かとその時を待っていた。小村華さんの娘。過去に母である小村さんと何かあったのかもしれないが、いい気分になれない態度だった。
明らかに向けられた悪意に、また唯子を晒したくない。
もう、『知らない』は通用しない。
「隣にいたいんだ」
一向に動かない車に俺は見切りをつける。
側にあったコインパーキング方向にハンドルを切る。
少しでも早く。
ほぼノー睡眠の当直明けの身体には厳しいと分かっていたが、俺は走った。
身体が重い。
ヤニで黒く塗りつぶされた肺が、必死で伸び縮みしている。硬く凝り固まった身体は、ギシギシとうねりを上げる機械人形のようだ。
ただ、気持ちだけは、前に進んでいた。
禁煙しよう。少しでも長生きするために。
運動しよう。少しでも健康でいられるように。
こんな無茶をするのは、今日だけだ。
これからは穏やかに、ふたりで暮らそう。
吐き出される息が、熱い。酸欠で頭がくらくらしたが、俺は走った。
秋の終わりとはいえ、日差しがさんさんと照りつける日中は、動くと汗が吹き出してくる。吹き出す汗を拭う。
走る俺は、他人から見たら滑稽に映るかもしれない。
けれども、今走らないで、いつやるのだろうか?今しかないだろう。
格好つけていると自信がある。散々と御託を並べて、綺麗に聞こえるようにしている。しかし、俺が何よりも隣にいたいという理由は、一つしかない。
「……っは、俺の、いない所で、別の男に会うなっつーの!」
ババアの息子だか知らないが、それが一番納得が行かない。
俺を突き動かすのは、いつだって自分勝手な想いだった。
目的地は、もうすぐだ。
足が、震えていた。ガクガクと膝が笑っている。自動ドアでない、押戸の取手を握り、俺は項垂れていた。ぜは、ぜは、と息が吐き出される。呼吸が上手くできなかった。
早く中に入らなければ。そう思ったが、身体が言うことをきいてくれない。ゆっくり深呼吸をして、鼓動を落ち着かせる。百二十あった鼓動が九十台まで落ち着く。ジャケットの袖で汗を拭い、ガラスに映る自分の姿を確認する。
髪の乱れを直して、顔を上げる。頬を、二回叩いて気合いを入れる。思ったよりも力が入ったが、悪くない気分だった。
「いらっしゃいませ」
ハキハキと迎え入れる店員を手を挙げて制す。人をと言えば、すぐに横に避けてくれた。くるり、と店内を俺は見回す。しかし、唯子らしき人物が見当たらない。
Cafe-moment。白を基調とし、アンティークな小物で飾られた落ち着いた空間で人気のカフェだった。フリーペーパーでも何度か紹介されており、この辺りでは有名な場所だった。カンパーニュとシチューのセットが美味しいと、同僚の看護師が話していたのは記憶に新しい。ここで間違い無いはずだ。まさか、那須原主任が間違っていたのだろうか?
治まっていた汗が一気に吹き出す。
すると、落ち着いたカフェに似合わない怒号が聞こえてきた。
「だから! あんたは私の言うことを聞けばいいのよ!」
ガラス戸一枚で隔てられた、中庭風のテラス席から、聞こえてきた。
般若面のように、怒りに表情を染めている女性。
遠くからでもわかる、唯子の伯母だ。
その隣には、例の『浩司』らしき男。
そして、向かい合うように座っているのは。
背中を小さく丸めて、肩を落としているその姿が小村華さんが亡くなった時とリンクした。
─おばあちゃん。おねがい、まだいかないで……
「ゆいこ」
見つけた。今度こそ、間違えない。
吹き出した汗も、平常よりも早かった鼓動も、一気に落ち着きを見せた。
一歩、また一歩と歩みを進める。
「お待たせ」
今日くらい、ヒーローになったっていいだろう?
椅子を引いて、小さな唯子の隣に座る。俺の登場に、真っ先に反応したのは、件の伯母だった。
「誰よ! 何の用よ!」
「……ゆう、し」
左に座る唯子の、左手をぎゅっと握る。
ちらりと視界に入った、涙を浮かべた瞳を見て、俺は間違えていなかった。そう確信した。
「さて、お話の続きをしましょう」
『ひとり』に、させない。
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