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ちかく、とおく、ふたりで、いっしょに

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「……うちに、来ませんか」



 車のギアが『R』に入り、特有の警告音が車内に響く。紗江のアパートの来客用駐車場に、彰人の車がゆっくりと停車する。サイドブレーキを引く硬い音が聞こえて、紗江は小さな声でそう提案した。

 帰りの車内は行きと違って沈黙が二人を支配していた。それでも、時々信号で車が停まった際には視線が合い、自然と唇が重なった。それに加えて、オートマ車であったため、比較的自由になる彰人の左手は、紗江の右手を運転中も捉えて離さなかった。
 そしてその指は時に悪戯に紗江の手で遊んだ。撫でられ、握られ、そして、時折舌が這う。沈黙だけではなく、そんな行為に伴って、隠微な雰囲気が車内に漂っていた。

 帰りたくない、帰したくないと紗江と彰人のお互いの気持ちは揃っていた。しかし、知らない土地で怪しいネオンが光る場所に入るのも何か違った。それを察していたのか、彰人は真っ直ぐに紗江の自宅に向かった。そう宣言した彰人に、紗江は自分に逃げ道を作ってくれているように思えた。心変わりをしたら直ぐに帰れるようにと。語らない彰人の優しさが、自分のことをきちんと考えてくれているんだと紗江はそう捉えた。けれども、自宅に着いても紗江の気持ちは変わらなかった。まだ帰りたくない、彰人と一緒にいたいという願い。



 部屋に入らないかという紗江の提案に、彰人は一瞬驚きに目を見開いた。行ってもいいのか?そうでないのか?それを必死に判断しているようにも見えた。心変わりをしていたらすぐに帰れるようにと逃げ道を作る彰人の優しさが、今の紗江にはもどかしかった。

「あの、マトモに食べてないし。よかったら、そのお茶でも……ごはん、でも」
「無理しなくてもいいよ?」

 やんわり笑って、彰人はそう言った。けれども、まだ離れたくない。尤もな理由をつけて、紗江は必死に彰人を引き止める。その先に何があるかをきちんと理解した上で紗江は彰人を誘った。

「……わかってますよ。私」
「……まじか。なんだか俺が、ダメな男に思えてくる」

 鈍い音を立てて、彰人はハンドルに額を押し付ける。彰人のその行動に、紗江は長い睫毛を揺らし、一つ瞬きを落とす。面を上げた彰人は、何故か・・・乱れた紗江の髪を一筋、耳にかける。真っ赤になった首筋と耳元が露わになり、次いで紗江の甘い声が鼻から抜ける。彰人はそれを見て、紗江の精一杯の誘いを理解した。

「……ん」
「……行く。なんか食べさせて」

 髪で遊んでいた手が離れていき、彰人は降車の準備を始める。それを見て、紗江は大きな声で返事を返すと、同じくシートベルトを外した。



「あ!」
「何?!」
「その、五分だけ待ってくださいね!」

 出かける際に散らかした、落選した服を元の場所に戻すべく紗江はそう言った。



 きっちり五分。ものすごいスピードで洋服を片付けた紗江は、リビングに座る彰人の姿をキッチンでコーヒーを淹れながらぼーっと見つめていた。
 テレビはついているが、お互い真剣に見るわけでもなく、ただのBGMと化している。彰人も落ち着かないのか、リモコンで彼方此方とチャンネルを変えていた。

「はい。コーヒー。ブラック、でしたよね?」
「うん。ごめん、押しかけて」
「ううん!いいの。……ごはん、何か」

 マグカップを渡す際に指先が少しだけ触れた。一人暮らしが長かったので、ペアのカップなど紗江は持っていなかった。ピンクのドット柄のカップを見て、彰人は一瞬安堵の表情を見せる。男の影が無い、と安心した彰人の心を紗江が気がつくことは無かった。
 本気で食事の支度をしようとする紗江を彰人は今日何度掴んだかわからない右手を引いて静止する。

「……おいで。後でいいから」

 その言葉の破壊力に、紗江は体温が一気に上がったような気がする。逆らえないその言葉に従い、彰人の横に紗江は素直に腰を下ろした。こんな時になって、自分がこういった行為が十年近くご無沙汰だったことを紗江は漸く思い出した。一度思い出せば、下着の色やムダ毛の処理がされているのかなど、芋蔓式に不安が溢れ出てくる。

 下着は上下バラバラではない。
 ムダ毛処理は、一昨日したばかり。
 ……そもそも入るのか……?

「っふ、はっ」

 勢いのまま来た事に後悔では無いが、少し不安に思っていたことがそのまま顔に出ていたのか。彰人が眉を下げて笑い始めた。

「か、かお……っ!百面相……!」
「ちょっ!彰人さん!」

 真面目に考えていたのにいきなり笑われた事に腹を立てた紗江は、彰人の肩を拳で叩く。大袈裟に痛がり、逃れる彰人を紗江は前のめりになり、彰人を追いかけた。

「もう!もう!」
「ご、ごめ……ははっ、だって、心配でどうしようって顔して……」

 紗江が叩くたびに、鈍い音がテレビの笑い声と重なる。その音に少し遅れて、彰人の笑い声が部屋に響いた。その笑いに、紗江は不安が少しずつ昇華されるのを感じた。その応酬がどれほど続いたか定かでは無いが、彰人が降参!と言ったところで終了となった。

「……もう」
「別にいいよ。それだけが目当てでここにいるわけじゃ無いし」
「……え?」
「いや、まぁ、ゼロってわけじゃ無いけど……」

 口籠る彰人に、今度は紗江が笑う番だった。思い返せば、悩んでいたこと全てが彰人を受け入れるためのことだった。それを理解すれば、すとん、と心が楽になる。この人なら紗江の悩みを受け入れてくれるのでは無いかと思うほどに。

「あのね、私。こういう事すごく久しぶりで」
「……うん。俺も」
「それで、あの下着とか」

 あまり綺麗じゃ無い、と紗江は宣言するつもりだった。しかし、それ以上の言い訳は彰人には必要なかったようだ。気がついたら紗江は、彰人の胸の中にしっかりと抱き込まれていた。

「……可愛い」
「え、と」
「今すぐ押し倒して、めっちゃくちゃにしたいくらい可愛い」

 でも、と彰人は紗江を抱く腕に力を込めて続けた。紗江は、じっと言葉の続きを待つ。
お笑い番組が流れていたテレビは、いつの間にかドラマに変わりしっとりとした主題歌が流れていた。

「しない。ちゃんと紗江がいいよって思った時にしたいから」

 彰人の胸に抱かれた紗江は、彼の匂いと優しさに包まれて、本日二度目の涙がこみ上げてきた。彰人の纏う目の粗いニットに紗江の涙が少しずつ染み込まれていく。この人に、恋をしてよかったと。心の底からそう思えた。

「……ん、では今日で」
「俺の言うこと……聞いてた?」
「聞いてます。私、こんな気持ちになったの初めてなんです」

 胸に埋めていた顔を上げて、紗江はじっと彰人の顔を見つめる。ニットをぎゅっと握りしめ、伝われと紗江は願った。

「……やめろっていっても、やめられない」
「……うん。いいの」

 あぁ、食べられる。

 そこから紗江は、言葉を紡ぎ、息をすることを、遮られた。
 
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