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3話 静かな炎
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◆◆◆
では後は、若いお二人で。
うちの社長は満足げにそう言うと、会議室を出ていく。
いやいや待て。そんなお見合いの席みたいな台詞を吐かれても嬉しくもなんともない。
まさかこれで本当に終わりだというのだろうか。このあと、実はドッキリでしたという展開は待っていないのだろうか。どうか何もかもが嘘だと言ってほしい。
助けを求めて伸びた手に誰も気づかないふりをして、ぞろぞろと出て行く役員の背中を恨みがましく眺める。
なぜ自分が選ばれたのかようやく分かった。アメリカ社会に限らずこの日本でも、コネというのは大きな武器だ。そりゃそうだ。他人と友人、どちらか一人しか助けられないというのなら、答えは決まっているようなものだろう。残酷だが人間とはそういうものだ。聖人ぶるつもりはない、私だって友人を助ける。つまりは、そういうことなのだ。
(私は、会社に売られたんだ)
私の意思も、夢も関係ない。会社の存続のためだけに、文字通り捧げられた生贄というわけだ。
ああそうか。会社とはこういうものなんだ。
恵まれた環境に慣れ過ぎていたのだ。競争社会の中で、敵は外側にいるのではない。むしろ内部に潜んでいる方が多いのだ。
――人を、人と思わない人間なんていくらでもいる。
己の利益しか考えず、人を蹴落として、都合よく愛想を振りまいて、他人を手駒のように扱う奴なんてこの目で腐るほど見てきた。
その方が生きやすいのかもしれない。真面目な人間ほど馬鹿を見ているのかもしれない。けれど、そんな風にはなりたくなかった。だってそんなの、生きていて楽しいはずがない。最後は、絶対にひとりぼっちだ。
――努力は必ず報われる。
その言葉を信じて死に物狂いでここまでやってきたのだ。いつか夢が叶うと信じて、毎日必死で働いてきた。
なのに――。
(……どうしてこんな奴らが偉いの?)
己の立場を守る為なら、何だってする小汚い上層部。
さっきまで、私の名前すら知らなかったくせに。普段は社員を助けてくれもしないのにこんな時だけ利用して、へらへらと笑うのだ。私のことなんて捨て駒としか思っていないくせに。
(それなら、いっそのこと……!)
その時だった。
「朝倉!」
ドアノブに手をかけて会議室を出る寸前、斎賀さんが足を止めた。
「斎賀さん……?」
「朝倉、俺は……!」
苦悶の表情で斎賀さんがそう叫んだ。足早に室内に戻り、助けを求めて行き場を失っていた私の手を取ろうとしたそのとき――。
「まだ何か?」
背後から悠の手が回り、ぐっと体を引き寄せられる。バランスを崩して足下がふらつき、斎賀さんに伸ばした手は重なることなく、あっけなく悠に奪われてしまう。
「っ……!」
斎賀さんがぐっと唇を噛み締める。行き場を失った手が耐えるように拳を握り、まっすぐ私を見つめた。
「用がないなら、出て行ってもらえませんか?」
冷たい声に背筋が凍り付く。指先が震え、足下から体が動かなくなっていく。まるで人質にでも取られているような気分だ。さすがの斎賀さんでも、これから従わなければならない相手には逆らえないだろう。
そう――思った。
「用ならあります」
斎賀さんはそこで引かなかった。
覚悟を決めたような表情で、一歩も引き下がろうとはしなかった。
「朝倉は私の部下です。彼女には一度オフィスに戻ってもらいます」
「今日からは僕の秘書です。荷物なら他の者に取りに行かせますから」
「お言葉ですが、朝倉は優秀な社員です。彼女を慕う部下も大勢います。そんな彼女が突然いなくなってしまえば、混乱は避けられません」
そこで悠が一旦黙り込んだ。ピリピリと嫌な空気が漂い、背中に緊張が走る。
「確か……斎賀理人さんでしたっけ?」
それは自分の立場が有利であることを知っている者の、余裕の声色だった。
「ええ。そうです」
「貴方の噂は良く耳にしておりましたよ。増え続ける外国人旅行客のニーズにいち早く応えた時代の先駆け者。おかげで有澤ロイヤルは外国人宿泊者数がNO1でしたからね」
「私だけの力ではありません。朝倉のような優秀な部下がいたからこそです」
(斎賀さん、そんな風に想ってくれていたんだ……)
さっきまでの怒りが静かに引いていく。
そうだ。上層部なんて関係ない。少しでも斎賀さんの役に立てていたのなら、それだけで少しは救われる。
「まあもっとも、過去の話ですが」
くすくすとからかうように悠が笑う。
ああそうだ。NO1の称号はこの憎き相模リゾートに奪われたのだ。
私達でも思いつかなかった斬新な戦略に、圧倒的に完敗してしまったのだ。
「僕としても、突然の話で驚かせてしまって申し訳ないと思っています。けれど僕が今日から貴方の雇い主になる。その意味、分かりますよね?」
脅しともとれるその台詞を、悠は何も知らない無邪気な少年のように告げる。
その姿に、思わず背筋が凍りついた。
「それとも、貴方ほど優秀な人が彼女にこだわることに何か理由でも?」
――なに。この状況。
バチバチと火花が散る。お互い一歩も引かず、斎賀さんの鋭い視線が悠に突き刺さる。
(これはまずい……)
斎賀さんが珍しくヒートアップしている。普段は心の奥深くの炎を静かに隠せる人なのに、それが隠しきれていない。
息詰まりしそうなヒヤリとした沈黙が続く。
「悠! 私、荷物とか色々取りに戻りたいな! それに後輩には自分の口から説明したいわ!」
「ちーちゃん……」
きょとんと悠が目を丸くする。
「ね? いいでしょう? 私だってまだ混乱してるんだから」
このままでは斎賀さんにまで迷惑がかかってしまう。
なんとかしてこの場を収めなければならない。
へらへらと笑顔を浮かべて、凍りついたこの空気を少しずつ解き、悠の反応を待つ。
「……分かった。ちーちゃんが言うなら」
ぼそりと小さな声で悠が呟いた。
本人は不服そうだったが、ほっと胸をなで下ろす。
よかった。どうやらこれで最悪の事態は免れたようだ。
「斎賀さん、私も後で向かいます。だから先に会社に戻ってください」
ゆっくりとした口調で心配をかけないように、にこりと微笑む。これ以上、斎賀さんを巻き込むわけにはいかない。それに私自身、秘書になるつもりなんて毛頭ないのだ。ここはきっちり、悠と話し合わなければならない。
「分かった。下で待ってる」
「え?」
「待ってるから、必ず降りてくるんだ」
「いえ、でも先に……」
「俺はお前を連れて帰るからな」
だめだ。今日の斎賀さんは引き下がらない。諦めて苦笑を浮かべると、こくりと頷く。
「分かりました。すぐに向かいますから」
無理やり口元に笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げる。けれど斎賀さんは私を見ていなかった。鋭いその視線の先には、悠が映っている。さっきまでの苦痛に歪んだ表情ではなく、挑むような眼差しだった。
「それでは失礼します」
音も立てずにドアが閉められて、今度こそ悠と二人きりになった。しん、と静まりかえった一室は、さっきまでの喧噪が嘘のようだ。
だがしかし、問題はここから先だ。
「……本当に、悠なの?」
振り返って、おそるおそる尋ねてみる。もうこれ以上、何が起こっても驚かない。ただとにかく、この状況を説明してほしくて仕方がなかった。
会社の倒産、買収、幼馴染との再会、そしてハワイ行きの白紙。
たった数時間で、人生とはこうも大きく変わるものだろうか。もう頭がいっぱいっぱいだ。疲れすぎて正直何も考えたくない。
「そうだよ、ちーちゃん。やっと会えたね」
だがそんな私の苦悩とは反対に、悠はとびっきりの笑顔を見せて私の背中に両手を回す。とてもじゃないが、さっきまで斎賀さんと言い争っていた相手とは思えない。
「やっと会えた。ずっと会いたかった……!」
ぎゅうっと確かめるように強く抱きしめられ、一瞬頭が真っ白になる。
「そうじゃなくて!」
再会の余韻に浸っている余裕なんてなかった。悠の身体を引き離して、鬼気迫る勢いで声を荒げる。
「どういうことなのか、ちゃんと説明して!」
「うんうん、ちゃんと話すよ。だから落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ!」
なんだその顔は。罪悪感の欠片も感じていないような幼い表情で、ニコニコと嬉しそうに笑う。
この状況でどうして笑えるのだ。もう頭がおかしくなってしまいそうだった。
「私、夏からハワイに行くの。だから悠の秘書はできない」
隠す必要なんてない。私は絶対にハワイに行く。夢が叶うまであと一歩なのだ。こんなところで、諦めたくない。
「うん、知ってたよ」
――知ってる?
「なんで………」
それ以上言葉が見つからなかった。
急に息が苦しくなって頭が重い。わけも分からず涙が溢れてしまいそうだった。
悠は、知っている。私の昔からの夢を知っているのだ。
(なのに……それなのに、どうして)
溢れそうになる涙を堪える。
ぐすっと鼻をすする自分が情けなくて、耐えるように唇を噛みしめた。
「だったらどうして!」
――どうして私の邪魔をするの!
だがその叫びは、伝わることなく突如塞がれた。
唇に触れる感触。頬に添えられた指先。肌に触れる毛先がくすぐったい。
今度こそ本当に身体が石のように固まって動かない。目を見開いたまま、触れる唇に熱が集中する。
「んっ……」
かくんと膝が崩れ落ちた。へなへなと床に座り込み、震える唇を手元で隠す。
「ごめんね。でも、俺も譲れないんだ」
私の視線に合わせて悠がしゃがむ。すぐ目の前に迫る顔に、またキスされるのではないかと怖くなって、後ずさった。
けれど悠はそんなこと気にもせず、どんどん距離を詰めてくる。ついに背中が壁に当たった。伸びてきた腕がさらりと私の髪を透いて、うっとりと恍惚の笑みを浮かべる。
「悠……?」
こつんと額がぶつかった。すぐそばで、長いまつげが揺れる。
少しでも顔を動かしてしまえば、また唇が重なってしまいそうな距離だった。
「ハワイには行かせない。ずっと俺の傍にいてもらうから」
甘く囁くような声で、それは残酷に告げられた。
怒りなんかじゃない。それは蜘蛛の巣に引っかかった蝶が、一枚ずつ羽を奪われていくような、そんな感覚だった。
では後は、若いお二人で。
うちの社長は満足げにそう言うと、会議室を出ていく。
いやいや待て。そんなお見合いの席みたいな台詞を吐かれても嬉しくもなんともない。
まさかこれで本当に終わりだというのだろうか。このあと、実はドッキリでしたという展開は待っていないのだろうか。どうか何もかもが嘘だと言ってほしい。
助けを求めて伸びた手に誰も気づかないふりをして、ぞろぞろと出て行く役員の背中を恨みがましく眺める。
なぜ自分が選ばれたのかようやく分かった。アメリカ社会に限らずこの日本でも、コネというのは大きな武器だ。そりゃそうだ。他人と友人、どちらか一人しか助けられないというのなら、答えは決まっているようなものだろう。残酷だが人間とはそういうものだ。聖人ぶるつもりはない、私だって友人を助ける。つまりは、そういうことなのだ。
(私は、会社に売られたんだ)
私の意思も、夢も関係ない。会社の存続のためだけに、文字通り捧げられた生贄というわけだ。
ああそうか。会社とはこういうものなんだ。
恵まれた環境に慣れ過ぎていたのだ。競争社会の中で、敵は外側にいるのではない。むしろ内部に潜んでいる方が多いのだ。
――人を、人と思わない人間なんていくらでもいる。
己の利益しか考えず、人を蹴落として、都合よく愛想を振りまいて、他人を手駒のように扱う奴なんてこの目で腐るほど見てきた。
その方が生きやすいのかもしれない。真面目な人間ほど馬鹿を見ているのかもしれない。けれど、そんな風にはなりたくなかった。だってそんなの、生きていて楽しいはずがない。最後は、絶対にひとりぼっちだ。
――努力は必ず報われる。
その言葉を信じて死に物狂いでここまでやってきたのだ。いつか夢が叶うと信じて、毎日必死で働いてきた。
なのに――。
(……どうしてこんな奴らが偉いの?)
己の立場を守る為なら、何だってする小汚い上層部。
さっきまで、私の名前すら知らなかったくせに。普段は社員を助けてくれもしないのにこんな時だけ利用して、へらへらと笑うのだ。私のことなんて捨て駒としか思っていないくせに。
(それなら、いっそのこと……!)
その時だった。
「朝倉!」
ドアノブに手をかけて会議室を出る寸前、斎賀さんが足を止めた。
「斎賀さん……?」
「朝倉、俺は……!」
苦悶の表情で斎賀さんがそう叫んだ。足早に室内に戻り、助けを求めて行き場を失っていた私の手を取ろうとしたそのとき――。
「まだ何か?」
背後から悠の手が回り、ぐっと体を引き寄せられる。バランスを崩して足下がふらつき、斎賀さんに伸ばした手は重なることなく、あっけなく悠に奪われてしまう。
「っ……!」
斎賀さんがぐっと唇を噛み締める。行き場を失った手が耐えるように拳を握り、まっすぐ私を見つめた。
「用がないなら、出て行ってもらえませんか?」
冷たい声に背筋が凍り付く。指先が震え、足下から体が動かなくなっていく。まるで人質にでも取られているような気分だ。さすがの斎賀さんでも、これから従わなければならない相手には逆らえないだろう。
そう――思った。
「用ならあります」
斎賀さんはそこで引かなかった。
覚悟を決めたような表情で、一歩も引き下がろうとはしなかった。
「朝倉は私の部下です。彼女には一度オフィスに戻ってもらいます」
「今日からは僕の秘書です。荷物なら他の者に取りに行かせますから」
「お言葉ですが、朝倉は優秀な社員です。彼女を慕う部下も大勢います。そんな彼女が突然いなくなってしまえば、混乱は避けられません」
そこで悠が一旦黙り込んだ。ピリピリと嫌な空気が漂い、背中に緊張が走る。
「確か……斎賀理人さんでしたっけ?」
それは自分の立場が有利であることを知っている者の、余裕の声色だった。
「ええ。そうです」
「貴方の噂は良く耳にしておりましたよ。増え続ける外国人旅行客のニーズにいち早く応えた時代の先駆け者。おかげで有澤ロイヤルは外国人宿泊者数がNO1でしたからね」
「私だけの力ではありません。朝倉のような優秀な部下がいたからこそです」
(斎賀さん、そんな風に想ってくれていたんだ……)
さっきまでの怒りが静かに引いていく。
そうだ。上層部なんて関係ない。少しでも斎賀さんの役に立てていたのなら、それだけで少しは救われる。
「まあもっとも、過去の話ですが」
くすくすとからかうように悠が笑う。
ああそうだ。NO1の称号はこの憎き相模リゾートに奪われたのだ。
私達でも思いつかなかった斬新な戦略に、圧倒的に完敗してしまったのだ。
「僕としても、突然の話で驚かせてしまって申し訳ないと思っています。けれど僕が今日から貴方の雇い主になる。その意味、分かりますよね?」
脅しともとれるその台詞を、悠は何も知らない無邪気な少年のように告げる。
その姿に、思わず背筋が凍りついた。
「それとも、貴方ほど優秀な人が彼女にこだわることに何か理由でも?」
――なに。この状況。
バチバチと火花が散る。お互い一歩も引かず、斎賀さんの鋭い視線が悠に突き刺さる。
(これはまずい……)
斎賀さんが珍しくヒートアップしている。普段は心の奥深くの炎を静かに隠せる人なのに、それが隠しきれていない。
息詰まりしそうなヒヤリとした沈黙が続く。
「悠! 私、荷物とか色々取りに戻りたいな! それに後輩には自分の口から説明したいわ!」
「ちーちゃん……」
きょとんと悠が目を丸くする。
「ね? いいでしょう? 私だってまだ混乱してるんだから」
このままでは斎賀さんにまで迷惑がかかってしまう。
なんとかしてこの場を収めなければならない。
へらへらと笑顔を浮かべて、凍りついたこの空気を少しずつ解き、悠の反応を待つ。
「……分かった。ちーちゃんが言うなら」
ぼそりと小さな声で悠が呟いた。
本人は不服そうだったが、ほっと胸をなで下ろす。
よかった。どうやらこれで最悪の事態は免れたようだ。
「斎賀さん、私も後で向かいます。だから先に会社に戻ってください」
ゆっくりとした口調で心配をかけないように、にこりと微笑む。これ以上、斎賀さんを巻き込むわけにはいかない。それに私自身、秘書になるつもりなんて毛頭ないのだ。ここはきっちり、悠と話し合わなければならない。
「分かった。下で待ってる」
「え?」
「待ってるから、必ず降りてくるんだ」
「いえ、でも先に……」
「俺はお前を連れて帰るからな」
だめだ。今日の斎賀さんは引き下がらない。諦めて苦笑を浮かべると、こくりと頷く。
「分かりました。すぐに向かいますから」
無理やり口元に笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げる。けれど斎賀さんは私を見ていなかった。鋭いその視線の先には、悠が映っている。さっきまでの苦痛に歪んだ表情ではなく、挑むような眼差しだった。
「それでは失礼します」
音も立てずにドアが閉められて、今度こそ悠と二人きりになった。しん、と静まりかえった一室は、さっきまでの喧噪が嘘のようだ。
だがしかし、問題はここから先だ。
「……本当に、悠なの?」
振り返って、おそるおそる尋ねてみる。もうこれ以上、何が起こっても驚かない。ただとにかく、この状況を説明してほしくて仕方がなかった。
会社の倒産、買収、幼馴染との再会、そしてハワイ行きの白紙。
たった数時間で、人生とはこうも大きく変わるものだろうか。もう頭がいっぱいっぱいだ。疲れすぎて正直何も考えたくない。
「そうだよ、ちーちゃん。やっと会えたね」
だがそんな私の苦悩とは反対に、悠はとびっきりの笑顔を見せて私の背中に両手を回す。とてもじゃないが、さっきまで斎賀さんと言い争っていた相手とは思えない。
「やっと会えた。ずっと会いたかった……!」
ぎゅうっと確かめるように強く抱きしめられ、一瞬頭が真っ白になる。
「そうじゃなくて!」
再会の余韻に浸っている余裕なんてなかった。悠の身体を引き離して、鬼気迫る勢いで声を荒げる。
「どういうことなのか、ちゃんと説明して!」
「うんうん、ちゃんと話すよ。だから落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ!」
なんだその顔は。罪悪感の欠片も感じていないような幼い表情で、ニコニコと嬉しそうに笑う。
この状況でどうして笑えるのだ。もう頭がおかしくなってしまいそうだった。
「私、夏からハワイに行くの。だから悠の秘書はできない」
隠す必要なんてない。私は絶対にハワイに行く。夢が叶うまであと一歩なのだ。こんなところで、諦めたくない。
「うん、知ってたよ」
――知ってる?
「なんで………」
それ以上言葉が見つからなかった。
急に息が苦しくなって頭が重い。わけも分からず涙が溢れてしまいそうだった。
悠は、知っている。私の昔からの夢を知っているのだ。
(なのに……それなのに、どうして)
溢れそうになる涙を堪える。
ぐすっと鼻をすする自分が情けなくて、耐えるように唇を噛みしめた。
「だったらどうして!」
――どうして私の邪魔をするの!
だがその叫びは、伝わることなく突如塞がれた。
唇に触れる感触。頬に添えられた指先。肌に触れる毛先がくすぐったい。
今度こそ本当に身体が石のように固まって動かない。目を見開いたまま、触れる唇に熱が集中する。
「んっ……」
かくんと膝が崩れ落ちた。へなへなと床に座り込み、震える唇を手元で隠す。
「ごめんね。でも、俺も譲れないんだ」
私の視線に合わせて悠がしゃがむ。すぐ目の前に迫る顔に、またキスされるのではないかと怖くなって、後ずさった。
けれど悠はそんなこと気にもせず、どんどん距離を詰めてくる。ついに背中が壁に当たった。伸びてきた腕がさらりと私の髪を透いて、うっとりと恍惚の笑みを浮かべる。
「悠……?」
こつんと額がぶつかった。すぐそばで、長いまつげが揺れる。
少しでも顔を動かしてしまえば、また唇が重なってしまいそうな距離だった。
「ハワイには行かせない。ずっと俺の傍にいてもらうから」
甘く囁くような声で、それは残酷に告げられた。
怒りなんかじゃない。それは蜘蛛の巣に引っかかった蝶が、一枚ずつ羽を奪われていくような、そんな感覚だった。
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