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23話 二人の朝
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「俺の恋人になってほしい」
「斎賀さん……?」
吸い込まれてしまいそうな瞳に魅入られ、呼吸が止まった。
思考が停止するとはこういうことを言うのだ。さきほどの比ではないほど頭が混乱し、目を見開くことしかできない。
「朝倉」
硬直する私の頬に手が伸びて、びくっと震える。
斎賀さんは一瞬躊躇したあと、壊れ物に触れるようにそっと優しく頬に触れた。
「ま、俺の気持ちには気づいてないと思ってたよ」
苦笑する斎賀さんに、私はなんて返せばいいの分からない。
そりゃあ周りの女性社員に比べて気にかけてもらっている自覚はあったが、それは同じ部署だからだと思いこんでいた。
「すみません……」
「謝らなくていい。俺も、今日言うつもりじゃなかったんだけどな」
そうだ。電車さえ止まっていなければ、私が斎賀さんの自宅に泊まることすらなかったのだ。
急速に動き始める時間にまだ頭が追いつかない。
「でも、今しかないと思った」
ふっと口元に柔らかい笑みを浮かべて、ぽんぽんと頭を撫でられる。
触れたところが熱い。見たこともない表情なのに、それでも彼は私のよく知る斎賀さんだ。
「その、本当なんですか……ハワイに異動って……」
「ああ。希望を出したからな」
「希望? どうして斎賀さんが?」
斎賀さんから海外希望の話なんて聞いたことがない。むしろこのまま昇進を続け、本社の中でもさらに上の役職を目指せる人だ。
「お前を連れて行ってやりたかった」
その一言に、なぜか胸が酷く痛んだ。
「仕事として連れて行ってやれないのは心苦しいが、お前の夢だったあそこに住ませてやることはできる。働きたいなら仕事は向こうで探せばいい」
きっと、斎賀さんは本気だ。冗談でこんなことを言うような人じゃない。
行きたい。
ハワイに行きたい。
仕事じゃなくてもいい、斎賀さんの言うとおり、地に足がつくなら向こうで仕事を探せばいい。
――行きたいはずだったのに。
「どうして………」
「ん?」
「どうして、そこまでして……」
この人は、自分の人生を私に捧げようとしている。
私なんかよりも努力家で、才能もあって、人望もある人なのに。
望めばもっと、上にいける人なのに。
「言っただろ。お前が好きだからだ」
その言葉に、見えない枷に囚われたような気がした。
体が動かない。氷漬けになったようにその場に立ち尽くしていると、その腕がそっと背中に回って抱きしめられる。
「……俺は、お前に謝らなければならないことがある」
「謝る……?」
「お前が日本に残る決まった時……正直、俺はほっとしたんだ」
「え……?」
苦痛の表情を浮かべる斎賀さんと視線が重なる。
「お前を手放したくなかった。けれどあの時、ひとりで泣いてるお前を見て……俺は最低な男だと気づいたよ」
知らなかった。斎賀さんがそんな風に思っていたなんて。
けれどショックというよりも動揺の方が大きく、瞳が揺らぐ。
「朝倉、俺はお前を幸せにしてやりたい」
「斎賀さん……」
「返事は今すぐじゃなくていい。だが考えておいてくれ」
「……はい」
そっと息をするように言葉が漏れた。まだ何が起こっているのか理解ができなくて、正直半分上の空だった。
けれど斎賀さんはそんな私を見て柔らかい笑みを浮かべると、そっと頭を撫でてくれた。
⇔
暗闇の中、妙に目が覚めて眠れなかった。
ベッドを借りて斎賀さんはリビングのソファで寝ている。
家主を置いてひとり寝室など差し出がましいと言ったが、一緒にいたら何をするか分からないと部屋に押し込まれてしまった。
何も映らない天井を、ぼうっと見つめる。なにかの夢を見ているような浮遊感が抜けなくて、一緒に魂まで飛んでいってしまいそうだった。
(斎賀さんが私を……)
今でも信じられない。引く手数多の斎賀さんが、私にそんなことを言ってくれるなんて。
あの人に想いを告げられて、断る女性などきっとこの世にはいないだろうと昔は他人事のように考えていたものだ。
斎賀さんがいなくなってしまう。それは嫌だ。
あの人はいつだって私の尊敬する人であり、憧れだった。
それに念願のハワイにも行ける。斎賀さんは私のために手を差し伸べてくれたのだ。
――けれど。
同時に、悠の顔がちらつく。悠は決して許しはしないだろう。今の悠ならきっとどんな手を使ってでも私を止める。
(だから行けないの? それとも……)
自分の中で、変なつっかかりを覚えた。その正体がなんなのか分からないまま、次第に意識が暗闇に飲まれていく。
現実から目を背けるように、私は無理やり目を閉じた。
翌日。
カーテンから差し込む眩い光で目が覚めた。
いつの間にか眠っていたらしいが、体はひどく重く疲れは取れていない。
なんとか体を起こしてリビングへ向かうと、とっくに斎賀さんは起きていた。
「おはよ」
「おはようございます……」
ちゃんと挨拶しなければと思うのに、声に力が入らない。
こんなだらしない姿、幻滅させてしまうに決まっている。
けれど斎賀さんは朝から声をあげて笑うと、こちらへ近づきぽんぽんと頭を撫でてくれた。
「顔洗ってこい。美味しい珈琲を淹れて待っててやる」
昨夜のことには何も触れず、優しく背中を押された。気遣ってくれているのは一目瞭然だった。
リビングに戻り、何事もなかったかのように穏やかな朝を過ごす。悠とはまた別の、居心地のいい大人の時間だった。
「そろそろ行くか」
「はい」
スーツに着替えて二人で一緒に家を出る。
歩幅を揃えてエントランスホールを抜けた瞬間、朝の爽やかな風がそっと木々を揺らした。
「斎賀さん……?」
吸い込まれてしまいそうな瞳に魅入られ、呼吸が止まった。
思考が停止するとはこういうことを言うのだ。さきほどの比ではないほど頭が混乱し、目を見開くことしかできない。
「朝倉」
硬直する私の頬に手が伸びて、びくっと震える。
斎賀さんは一瞬躊躇したあと、壊れ物に触れるようにそっと優しく頬に触れた。
「ま、俺の気持ちには気づいてないと思ってたよ」
苦笑する斎賀さんに、私はなんて返せばいいの分からない。
そりゃあ周りの女性社員に比べて気にかけてもらっている自覚はあったが、それは同じ部署だからだと思いこんでいた。
「すみません……」
「謝らなくていい。俺も、今日言うつもりじゃなかったんだけどな」
そうだ。電車さえ止まっていなければ、私が斎賀さんの自宅に泊まることすらなかったのだ。
急速に動き始める時間にまだ頭が追いつかない。
「でも、今しかないと思った」
ふっと口元に柔らかい笑みを浮かべて、ぽんぽんと頭を撫でられる。
触れたところが熱い。見たこともない表情なのに、それでも彼は私のよく知る斎賀さんだ。
「その、本当なんですか……ハワイに異動って……」
「ああ。希望を出したからな」
「希望? どうして斎賀さんが?」
斎賀さんから海外希望の話なんて聞いたことがない。むしろこのまま昇進を続け、本社の中でもさらに上の役職を目指せる人だ。
「お前を連れて行ってやりたかった」
その一言に、なぜか胸が酷く痛んだ。
「仕事として連れて行ってやれないのは心苦しいが、お前の夢だったあそこに住ませてやることはできる。働きたいなら仕事は向こうで探せばいい」
きっと、斎賀さんは本気だ。冗談でこんなことを言うような人じゃない。
行きたい。
ハワイに行きたい。
仕事じゃなくてもいい、斎賀さんの言うとおり、地に足がつくなら向こうで仕事を探せばいい。
――行きたいはずだったのに。
「どうして………」
「ん?」
「どうして、そこまでして……」
この人は、自分の人生を私に捧げようとしている。
私なんかよりも努力家で、才能もあって、人望もある人なのに。
望めばもっと、上にいける人なのに。
「言っただろ。お前が好きだからだ」
その言葉に、見えない枷に囚われたような気がした。
体が動かない。氷漬けになったようにその場に立ち尽くしていると、その腕がそっと背中に回って抱きしめられる。
「……俺は、お前に謝らなければならないことがある」
「謝る……?」
「お前が日本に残る決まった時……正直、俺はほっとしたんだ」
「え……?」
苦痛の表情を浮かべる斎賀さんと視線が重なる。
「お前を手放したくなかった。けれどあの時、ひとりで泣いてるお前を見て……俺は最低な男だと気づいたよ」
知らなかった。斎賀さんがそんな風に思っていたなんて。
けれどショックというよりも動揺の方が大きく、瞳が揺らぐ。
「朝倉、俺はお前を幸せにしてやりたい」
「斎賀さん……」
「返事は今すぐじゃなくていい。だが考えておいてくれ」
「……はい」
そっと息をするように言葉が漏れた。まだ何が起こっているのか理解ができなくて、正直半分上の空だった。
けれど斎賀さんはそんな私を見て柔らかい笑みを浮かべると、そっと頭を撫でてくれた。
⇔
暗闇の中、妙に目が覚めて眠れなかった。
ベッドを借りて斎賀さんはリビングのソファで寝ている。
家主を置いてひとり寝室など差し出がましいと言ったが、一緒にいたら何をするか分からないと部屋に押し込まれてしまった。
何も映らない天井を、ぼうっと見つめる。なにかの夢を見ているような浮遊感が抜けなくて、一緒に魂まで飛んでいってしまいそうだった。
(斎賀さんが私を……)
今でも信じられない。引く手数多の斎賀さんが、私にそんなことを言ってくれるなんて。
あの人に想いを告げられて、断る女性などきっとこの世にはいないだろうと昔は他人事のように考えていたものだ。
斎賀さんがいなくなってしまう。それは嫌だ。
あの人はいつだって私の尊敬する人であり、憧れだった。
それに念願のハワイにも行ける。斎賀さんは私のために手を差し伸べてくれたのだ。
――けれど。
同時に、悠の顔がちらつく。悠は決して許しはしないだろう。今の悠ならきっとどんな手を使ってでも私を止める。
(だから行けないの? それとも……)
自分の中で、変なつっかかりを覚えた。その正体がなんなのか分からないまま、次第に意識が暗闇に飲まれていく。
現実から目を背けるように、私は無理やり目を閉じた。
翌日。
カーテンから差し込む眩い光で目が覚めた。
いつの間にか眠っていたらしいが、体はひどく重く疲れは取れていない。
なんとか体を起こしてリビングへ向かうと、とっくに斎賀さんは起きていた。
「おはよ」
「おはようございます……」
ちゃんと挨拶しなければと思うのに、声に力が入らない。
こんなだらしない姿、幻滅させてしまうに決まっている。
けれど斎賀さんは朝から声をあげて笑うと、こちらへ近づきぽんぽんと頭を撫でてくれた。
「顔洗ってこい。美味しい珈琲を淹れて待っててやる」
昨夜のことには何も触れず、優しく背中を押された。気遣ってくれているのは一目瞭然だった。
リビングに戻り、何事もなかったかのように穏やかな朝を過ごす。悠とはまた別の、居心地のいい大人の時間だった。
「そろそろ行くか」
「はい」
スーツに着替えて二人で一緒に家を出る。
歩幅を揃えてエントランスホールを抜けた瞬間、朝の爽やかな風がそっと木々を揺らした。
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