昭和少年の貧乏ゆすり

末文治

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幼児の記憶

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 風呂屋の洗い場で、母に横抱きにされて頭を洗われている。下半身が露骨に仰向けなのをちょっぴり気にするが、濡れた肌と肌がぴったりくっついていて蕩けるような温かさを感じる。やがて身体を起こして頭を拭いてもらう一瞬、母のお腹の底に黒く張り付いたものがある、のが目に入る。
「男と同じだ・・・・・・」裏切られたような微かな失望感を味わわされるが、しばらくして、それはすごい頼もしいことのように思えてきて、納得する。このことを、今すぐにでも二歳上の次兄(あに)に教えたい。でも、どう話せばいい? それより、母の「名誉」を守るため、やっぱり黙っていよう。
「そうだったのだ……」濡れて垂れた前髪の奥の母の目を窺う。いつもと別段変わったふうもない。あちこちで女客がザァーザァー威勢良く湯をかける音がし、桶の音が高く鳴る。裸の母に手を引かれ、剥き出しの大人たぶつかりつつ湯船に向かう。

                                        ***
 姉様かぶりをした母が畳に茶殻をまき散らし、叩きを振るって掃除を始める。開け放たれた縁側の戸口から隣裏の屋根越しに朝の日の光が一直線に伸びてきて、六畳間の黒い壁を照らす。立ち上る埃がその光線に差し掛かるや押し合いへし合い、宝石のようにきらめく。そこに手をかざして壁にキツネを作り、指の口がパクパク動くのを確かめて納得した後、しゃがんだり寝転がったりして、その無数の黄金色の輝きを眺めていて飽きない。
 掃除が終わって戸が閉められると、光の川が遮断されて一気に明るさが消滅し、元の薄暗い部屋に戻って興ざめする。
 二人の兄は小学校へ。六軒長屋の静かな午前。母は繕い物をしている。お膳を横に立て掛けて囲いをし、その内側にがらくたをぶちまけて三つ下の弟と飯事(ままごと)を始める。大きな柳行李に収まった衣類を、いつものように母に空っぽにしてもらい、そこに二人して入り込み親子ごっこ。行李の中いっぱいに夢が詰まっている。その横にぴったりと行李の蓋を引き寄せると、空間が二倍に広がり、幸せも倍に。子犬のようにすり寄ってくる弟の身体が小さく、柔らかい。母はずっと針を操っている。

             ***
 昼時に、母が炊事場で蒸し上げる濃いねずみ色の丸いパン。口にした瞬間、干し草のような臭みとそれに似つかわしい不味さに、いつも顔をしかめてしまう。いくらひもじいとはいえ、平気で食べられるような代物ではない。それに比べ、もう一種の黄色っぽい楕円形のやつは、臭みもなく口当たりが良く、まずパンの味わいがある。どうせなら、いつも黄色い方にしてくれたらいいのにと思うが、やっぱり値段の問題があるのだろう。
 腹を減らして、玄関脇の二畳の間に弟と座り込んで昼食を待つ。母が蒸し鍋に触れる顔付きから、どうにも嫌な予感がする。今日は黄色い方のパンでない・・・・・・。やがて、母がお膳に鍋を運んできて蓋を取る。勢いよく湯気が立ち、その底は案の定・・・・・・ねずみ色で埋まっている。空きっ腹に怒りが募る。
 「こんなもん、要らんわ!」「別に食べんでもええ!」母が苛立って応える。皿に盛られた灰色の塊が、勝ち誇ったように例の臭い匂いをやんわり送りつけてくる。
 弟はおとなしく食べている。薄寒い部屋で口をへの字に曲げて時間が過ぎてゆく。母の顔を何度も盗み見る。弟に合わせて黙って口を動かし続けている。今一度、声を掛けてくれたなら、仕方ないなというふうに食べられるのに
・・・・・・そんな気配は微塵も窺えない。「早よ食べなさいよ」とひとこと言って、お願いだ。催促するように、弟の尻を足先で突っつく。弟は知らんぷりを決め込んでいる。
 腹立たしさが高じて疲れてくる。遂には空腹に負け、母に背を向けて冷たくなったパンをかじる。相も変わらずの不味さが口中に広がり、すきま風に頬を撫でられ一層空腹を覚える。

              ***
 道端にビスケットが一枚落ちている。通りに人は居ない。土を払って口に入れる。「おいしい」間違いなくビスケットの味がする。もう落ちてないのかな、と地面を見回していると「何してるねん」隣近所のT男ちゃんに背中を突かれる。慌てて姿勢を戻し、誘われるままに付いて行く。
 結構歩いて、隣町の公設市場の前に出て来る。自分らの町のと比べてちょっと寂れた感じのする市場だ。その薄暗い筋をT男ちゃんに従って入って行く。T男ちゃんはきょろきょろと両側の店を見て回り、ゆっくりと逆戻りしながら耳元で囁き掛ける。
 入り口横の人の居ない果物屋で、T男ちゃんのする通りに、店先のミカンを一つ二つとズボンのポケットに押し込み、T男ちゃんに離れず市場を出てすぐの角を急ぎ曲がる。
 暮れかかった街を右に折れ、左に折れてやっと立ち止まる。T男ちゃんは顔を引きつらせて笑いかけ、域を整える。
 「あこの果物屋のおっちゃん、よう居らんときがあるねん。どうや、徳したやろ」
 余計なことは口挟まんでもええぞ、というようなT男ちゃんの年長の表情に気圧され黙り込む。
 T男ちゃんと向き合って、ミカンを頬張る。冷たく甘い汁が口中に行き渡り、渇いた喉に落ちていく。ただただ「おいしい」。T男ちゃんの言うように得した気分。大人達が怪訝な顔を向けて通り過ぎて行く。
 ポケットのミカンを瞬く間に平らげ、元来た道を行く。途中、よそのごみ箱の蓋を開けてミカンの皮を捨てる。さっきの公設市場が出てくる。果物屋はすっかり片付けられていて、店内の品物台には何も無い。裸電球が一つ静かに灯っている。市場を離れて帰り道、T男ちゃんの顔も見分けがつかないほど暗くなっている。

               ***
 隣のおばちゃんがホースで水撒きしている。眺めていると、「やってみる」とホースの先を持たせてくれる。手に伝わる水の放出感がなんとも心地良い。勢いの増す放物線を、左から右へとゆっくり移動させるに従い快感が高まり、身体の芯まで熱くなってくる。やがて、おばちゃんが水道の栓を切りに行き、水の勢いが衰えてきて、夢心地もしぼんでいく。
 ……やってしまった。パンツは見事に濡れている。お尻を浮かすと、寝巻きもちょっぴり湿っている。幸い布団には至っていない。右隣に眠る父の脚が絡まっているのを、そっと外す。動きに合わせて濡れたパンツが纏わり付いて
気色悪い。父の口元から、お酒の良い匂いがする。
 朝までに乾いてくれるようにと祈る。何がなんでも家族のみんなにばれずにやり過ごさなければ。こんな夜中の悩みも知らん顔で、兄や弟たちは腹の立つほど熟睡している。
 なぜ、もっと早くに……。べとべとの冷たいパンツの上に、温もりきった布団がいつも以上に重くのしかかってきて、不愉快極まりない。
 「起きなさいよーー」夢かうつつか、母の声がする。「ほれ、起きなさーーい」
 ハッとしてパンツに手をやる。糊付けして洗濯したように、ぱりっぱりっに乾いている。助かった。それっとばかりに母が布団をはがす。母と目を合わさず、下半身をかばうようにして寝床を抜ける。
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