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小学校入学-12
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風邪を引き、学校を休む。
みんな出払ってから、母が蒲団を壁際に寄せて敷き直す。弟は二階に「隔離」させられる。祖母と伯母には願ってもないことだ。末っ子というだけでかわいいのだ。
体がふらつき、熱い。這って寝床に入る。母の手がそっとおでこに乗る。冷やっこく気持ちいい。安心感が体中を巡る。体温計を脇に挟み込み、「動かしたらあかんよ」と言って炊事場に立つ。鍋や茶碗を片づける音がする。
頃合いに母が戻って来て体温計を取り出す。「わっ、三十八度もある」と言うと、体温計を数回振って水銀柱を下げ、再び炊事場に行く。嫌な予感がする。しばらくすると、カチャカチャ、カチャカチャ、沸き立つ湯に躍る忙しない音が聞こえてくる。
恐怖の予感が現実となり、煮沸消毒をした注射器の入った小さな鍋を携えて母が枕元にやって来る。しんどいのも忘れて跳ね起き、掛け蒲団を盾に座り込んで叫ぶ。「絶対、嫌やで! 注射なんか絶対せえへんで!!」
母は聞こえないふうに小箱から透明のアンプルを取り出し、その首を小さいハート形のヤスリで擦り、ポキッと音を立てて折ると、徐に注射器を差し込んで溶液を吸い取っていく。
「そんなもん、絶対せえへんて言うてるやろ!!」全身を揺すって怒りを表す。
「男の子やろ。我慢しい! 前も、これで病気が治ったやろ。第一、もう注射器に入ってんねんから、早よ打たんと効けへんようになるやろ」
母も声を荒げて、<無駄な抵抗>を諫める。その様子を、祖母が便所の行き帰りでからかうようにして見ていくのが、癪に触る。数分の攻防も、左上腕に激痛とアルコールの刺激臭を留めて幕となる。
学校での予防注射などと違って、母の注射はそれほど痛い。いつか父が体調を崩し、母が注射の用意をしている間中、無口な父が必死に口答えしていた。もちろん、無駄な抵抗ではあったがーーそれほど母の注射は人を怯えさせる。
なぜ、こんなに痛いのだろう。やり方が間違っているのではないか。お医者さんでもないのに、こんなことをしてもいいのか。そもそも注射の仕方なんてどこで覚えたのだろう。疑問が不安を呼んで、余計に痛く感じるのか。
深い眠りから覚める。見慣れた天井の節穴から節穴に目をやっていると、母の冷えた手がおでこに伸び「リンゴ食べる?」とのぞき込む。蒲団に座って剥いた白い玉にかぶりつく。冷たく柔らかい実が歯の間で砕ける。丸々一個を一人で食べるのは久しぶりだ。風邪引きに感謝する。
「さあ、これで熱も下がるよ】母が氷枕を持ってきてタオルに包(くる)み、枕辺を整える。
「しんどいか」「うん」「大丈夫や。きょう一日おとなしゅう寝てたら、あしたは学校に行けるわ」
おでこに手を当て、蒲団を掛け直して母が立ち去る。母が自分一人に関わっている。体中に温もりが詰まってき、氷の角が後頭部をこつこつ刺激する。
淡紅色のコスモスが咲き乱れる一角を通り抜けると、一面に赤紫のレンゲ畑が広がっている。その奥で学級の仲間達が跳びはねている。なんや、みんな居るやないか。なんで誘ってくれなかったんや。おーい、と駆けようとするが体が動かない。焦っても焦っても脚が全く言うことをきかない。やっぱり病気になったからなのか。誰も気付いてくれず、どんどん遠去かって行き、見えなくなってしまう。もうこのまま皆と遊べなくなってしまうのか。悄気返ってしゃがみ込み、足元の草をむしっていると、後ろから「だーれだ」と目隠しされる。この声は、まさか・・・・・・Y子ちゃん!? 急いで手を振りほどき振り向くーー。
おでこのタオルがずれ落ちていて、氷の溶けた水枕が頭を揺らす。暑いほどに温もった蒲団が重くのし掛かり、全身汗で下着が張り付いている。動かずにじっとする。
外で聞き慣れた、おばさん達の喋り声がする。母の冗談で一斉に笑いが起きる。やっぱり母の声が一番だ。合間に幼児の声も流れてくる。表はよく晴れていそうなのに、暗い室内に独り寝かされている。今すぐにでも学校に行きたい。学校に行って、皆とふざけ合い遊び回りたい。病気の煮えた体に無念さが募る。
晩、タオルを首に巻き付け、お膳に据えた吸入器に思い切り口を開けて向かう。「エーッ」と長く声を発しながら、勢い良く噴き出る蒸気を喉の奥に当て続ける。これで風邪引き退治に止(とど)めを刺せそうだ。弟が、代わってやらせてくれ、とせがむ。
朝、起きると幾分か怠さが残。っている。「どう、しんどい?」母が冷たい手をおでこに触れる。「まだちょっと熱いね。もう一日休む?」「もう治った。平気や」と急いで時間割を合わせて教科書をランドセルに詰め込む。
今日も暗い部屋で独り横たわっているのは真っ平、ともだちの顔を見たい、友達と遊びたい、というのはこの際、二の次。母の両の目に「あと一回注射して休んでいれば完全に治るのに」というはっきりとした動きが見て取れる。
***
みんな出払ってから、母が蒲団を壁際に寄せて敷き直す。弟は二階に「隔離」させられる。祖母と伯母には願ってもないことだ。末っ子というだけでかわいいのだ。
体がふらつき、熱い。這って寝床に入る。母の手がそっとおでこに乗る。冷やっこく気持ちいい。安心感が体中を巡る。体温計を脇に挟み込み、「動かしたらあかんよ」と言って炊事場に立つ。鍋や茶碗を片づける音がする。
頃合いに母が戻って来て体温計を取り出す。「わっ、三十八度もある」と言うと、体温計を数回振って水銀柱を下げ、再び炊事場に行く。嫌な予感がする。しばらくすると、カチャカチャ、カチャカチャ、沸き立つ湯に躍る忙しない音が聞こえてくる。
恐怖の予感が現実となり、煮沸消毒をした注射器の入った小さな鍋を携えて母が枕元にやって来る。しんどいのも忘れて跳ね起き、掛け蒲団を盾に座り込んで叫ぶ。「絶対、嫌やで! 注射なんか絶対せえへんで!!」
母は聞こえないふうに小箱から透明のアンプルを取り出し、その首を小さいハート形のヤスリで擦り、ポキッと音を立てて折ると、徐に注射器を差し込んで溶液を吸い取っていく。
「そんなもん、絶対せえへんて言うてるやろ!!」全身を揺すって怒りを表す。
「男の子やろ。我慢しい! 前も、これで病気が治ったやろ。第一、もう注射器に入ってんねんから、早よ打たんと効けへんようになるやろ」
母も声を荒げて、<無駄な抵抗>を諫める。その様子を、祖母が便所の行き帰りでからかうようにして見ていくのが、癪に触る。数分の攻防も、左上腕に激痛とアルコールの刺激臭を留めて幕となる。
学校での予防注射などと違って、母の注射はそれほど痛い。いつか父が体調を崩し、母が注射の用意をしている間中、無口な父が必死に口答えしていた。もちろん、無駄な抵抗ではあったがーーそれほど母の注射は人を怯えさせる。
なぜ、こんなに痛いのだろう。やり方が間違っているのではないか。お医者さんでもないのに、こんなことをしてもいいのか。そもそも注射の仕方なんてどこで覚えたのだろう。疑問が不安を呼んで、余計に痛く感じるのか。
深い眠りから覚める。見慣れた天井の節穴から節穴に目をやっていると、母の冷えた手がおでこに伸び「リンゴ食べる?」とのぞき込む。蒲団に座って剥いた白い玉にかぶりつく。冷たく柔らかい実が歯の間で砕ける。丸々一個を一人で食べるのは久しぶりだ。風邪引きに感謝する。
「さあ、これで熱も下がるよ】母が氷枕を持ってきてタオルに包(くる)み、枕辺を整える。
「しんどいか」「うん」「大丈夫や。きょう一日おとなしゅう寝てたら、あしたは学校に行けるわ」
おでこに手を当て、蒲団を掛け直して母が立ち去る。母が自分一人に関わっている。体中に温もりが詰まってき、氷の角が後頭部をこつこつ刺激する。
淡紅色のコスモスが咲き乱れる一角を通り抜けると、一面に赤紫のレンゲ畑が広がっている。その奥で学級の仲間達が跳びはねている。なんや、みんな居るやないか。なんで誘ってくれなかったんや。おーい、と駆けようとするが体が動かない。焦っても焦っても脚が全く言うことをきかない。やっぱり病気になったからなのか。誰も気付いてくれず、どんどん遠去かって行き、見えなくなってしまう。もうこのまま皆と遊べなくなってしまうのか。悄気返ってしゃがみ込み、足元の草をむしっていると、後ろから「だーれだ」と目隠しされる。この声は、まさか・・・・・・Y子ちゃん!? 急いで手を振りほどき振り向くーー。
おでこのタオルがずれ落ちていて、氷の溶けた水枕が頭を揺らす。暑いほどに温もった蒲団が重くのし掛かり、全身汗で下着が張り付いている。動かずにじっとする。
外で聞き慣れた、おばさん達の喋り声がする。母の冗談で一斉に笑いが起きる。やっぱり母の声が一番だ。合間に幼児の声も流れてくる。表はよく晴れていそうなのに、暗い室内に独り寝かされている。今すぐにでも学校に行きたい。学校に行って、皆とふざけ合い遊び回りたい。病気の煮えた体に無念さが募る。
晩、タオルを首に巻き付け、お膳に据えた吸入器に思い切り口を開けて向かう。「エーッ」と長く声を発しながら、勢い良く噴き出る蒸気を喉の奥に当て続ける。これで風邪引き退治に止(とど)めを刺せそうだ。弟が、代わってやらせてくれ、とせがむ。
朝、起きると幾分か怠さが残。っている。「どう、しんどい?」母が冷たい手をおでこに触れる。「まだちょっと熱いね。もう一日休む?」「もう治った。平気や」と急いで時間割を合わせて教科書をランドセルに詰め込む。
今日も暗い部屋で独り横たわっているのは真っ平、ともだちの顔を見たい、友達と遊びたい、というのはこの際、二の次。母の両の目に「あと一回注射して休んでいれば完全に治るのに」というはっきりとした動きが見て取れる。
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