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三年生、新しい先生ー1
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三年生になる新学期に受け持ちの先生が代わった。「おばさん先生」は「家庭の事情」で辞めていく。知らされてはいたことだが、二年間馴染んだ先生に去られるのは寂しい。同時に不安な思いもしていたが、今度も女の先生でひと安心だ。よその学校からの赴任で、おばさん先生よりずっと若いけれど、同じように眼鏡をかけていて美人でない。それでも、ほっそりした体から笑顔が絶えず、いかにも話し掛けやすそうで、良かった! 三年間、同じ男の先生の「い組、は組」より随分得をした気になる。
「あの先生、結婚してるんかな」「じぶん、何言うてんねん。小学生の男の子二人おるらしいで」
さすがNの返答だ。早く帰って母にいろいろと報告しなければ。
「ただいま!」元気良く表戸を開ける。
「お帰えり!」と温かいいつもの母の声が返ってこない。
「・・・・・・」
奥の六畳間に弟を挟んで祖母と伯母が座っている。
「お母ちゃんは?」「お母ちゃん、今日から働きに出たから、これからは居ないよ」
伯母が何でもないように答える。
声を呑む。居ないって、どういうこと。もうこのまま会えないっていうことなのか。働きに出たって、なに。母親が働きに出るって、一体どういう意味なんや。伯母が続ける。
「今日は仕事の説明を聞いてくるだけやから早よ帰って来る、言うてたよ。しょうないやろ、そんな顔しても。お父ちゃんが稼ぎ悪いねんから。家族皆んなご飯食べて、ちゃんと学校に行かなあかんやろ。ハンガーやら電気の球(たま)を得意先に売りに行くとかいう仕事らしいで」
一瞬にして春の陽光が陰っていき、底知れない寂しさがせり上がってくる。この世の終わりだ。説明する伯母に恨みすら覚える。弟を見やる。弟は愛想笑いを浮かべようとして思い留まったかのように下を向く。
「甲斐性なしの父親を持つと、こうなるんや。お父ちゃんみたいになったらあかんで、と。よう覚えときや」
祖母が伯母に取り入るように言う。
兄二人はまだ帰って来そうにない。長兄は今年からいよいよ中学生、一段と頼れる存在だ。それはいいが、それで母は働きに行くことに決めたのか。内職だけではお金が追い付かなくなってきたのか。だからといって、母が家に居ない生活なんて考えられない。明日からどうしょう。こんな明かりが消えたような部屋に帰って来てもしょうがない。それにしてもこの二人、早く二階に上がれよ。うっとうしくて仕方がない。
Nの家を訪ねる。お母さんが上々の笑顔で迎え、近所の子らと遊びに出たと言う。あいつ、僕を抜きにして、僕の悩みを知ろうともしないで・・・・・・。めぼしい所を捜し回るが見つからない。裏切られたような気持ち。がっかり感が募ってきてどうしょうもない。次の友達の家に行く。浮かない顔をして出て来て「今、お母ちゃんに怒られてるとこやねん。悪いけど遊ばれへんわ」と、すぐに玄関の戸を閉める。別の仲間・・・・・・今の状況ではピンと来ない。Nの大切さが身に染みる。みなしごになった気分で家に帰る。
部屋には誰も居ない。段ばしごから伯母の愉快そうな笑い声が流れてくる。お膳の上に三年生の教科書を並べてみるがちっとも胸躍らない。伯母が便所の戻りしなに「上に遊びに来たらどうや」と誘うが、勉強しているふりをする。ついでに声を掛けてくれなくてもいい。弟が側に居るだけで満足なのは分かっているのだから。
畳にひっくり返り、いまや唯一友達の天井の節穴から節穴に目をやり時間を過ごす。背中からじんわりと畳の冷気が伝ってくる。
「これっ、こんな所で寝てしもうて、風邪ひくよ」
「・・・・・・!?」
目の前に母の顔がある。まさしく、母の声ーーたちまち目が覚め、体中嬉しくなってくる。弟が段ばしごを鳴らして下りて来る。
母が炊事場に居る。いつものように鍋や水道を使う音がする。嫌がる弟にしつこく相撲を仕掛け、得心して新しい教科書に見入る。そのうち次兄が戻り、長兄も帰って来て一斉に部屋に電気が灯ったみたい。兄たちは母が居るときに戻って来て、ずるい。甲斐性の無い父もいつの間にやら素面で座っていて、一家六人で食卓を囲む。
母が明日からの勤めを事も無げに話し、長兄も次兄も興味深そうに耳を傾けている。兄たちは、なぜ驚いた表情をしないのだろう。それどころか笑顔で頷いている。明日からは、学校から帰っても
家には母が居ない、どれだけ寂しい思いが、ということを分かっていないのだろうか。次兄など「たまには小遣い貰えるようになるかも知れへんな」と、呆れるようなことを口にしている。
「この町内の主婦で外へ働きに出るのは、お母ちゃんぐらいなもんや。時代の先端行くわけやないの」母があっさりと言ってのけ、大きな笑い声が立つ。父も思わず引き込まれている。長兄が初めての中学校の様子を話し、次兄が毎度の明るさを振りまく。無口な父が黙って聞くなか皆が賑やかに喋り合い、大鍋のおかずがたちまち減っていく。昨日までとまるで変わったところはない。
昼間、同じこの部屋で、独りあれほど苦しみ喘いでいたのは何だったのか。なんでも母のする通りに従っていればいいのだ。なんだか、新学期を境に我が家もお金持ちになっていくような気がしてくる。
***
「あの先生、結婚してるんかな」「じぶん、何言うてんねん。小学生の男の子二人おるらしいで」
さすがNの返答だ。早く帰って母にいろいろと報告しなければ。
「ただいま!」元気良く表戸を開ける。
「お帰えり!」と温かいいつもの母の声が返ってこない。
「・・・・・・」
奥の六畳間に弟を挟んで祖母と伯母が座っている。
「お母ちゃんは?」「お母ちゃん、今日から働きに出たから、これからは居ないよ」
伯母が何でもないように答える。
声を呑む。居ないって、どういうこと。もうこのまま会えないっていうことなのか。働きに出たって、なに。母親が働きに出るって、一体どういう意味なんや。伯母が続ける。
「今日は仕事の説明を聞いてくるだけやから早よ帰って来る、言うてたよ。しょうないやろ、そんな顔しても。お父ちゃんが稼ぎ悪いねんから。家族皆んなご飯食べて、ちゃんと学校に行かなあかんやろ。ハンガーやら電気の球(たま)を得意先に売りに行くとかいう仕事らしいで」
一瞬にして春の陽光が陰っていき、底知れない寂しさがせり上がってくる。この世の終わりだ。説明する伯母に恨みすら覚える。弟を見やる。弟は愛想笑いを浮かべようとして思い留まったかのように下を向く。
「甲斐性なしの父親を持つと、こうなるんや。お父ちゃんみたいになったらあかんで、と。よう覚えときや」
祖母が伯母に取り入るように言う。
兄二人はまだ帰って来そうにない。長兄は今年からいよいよ中学生、一段と頼れる存在だ。それはいいが、それで母は働きに行くことに決めたのか。内職だけではお金が追い付かなくなってきたのか。だからといって、母が家に居ない生活なんて考えられない。明日からどうしょう。こんな明かりが消えたような部屋に帰って来てもしょうがない。それにしてもこの二人、早く二階に上がれよ。うっとうしくて仕方がない。
Nの家を訪ねる。お母さんが上々の笑顔で迎え、近所の子らと遊びに出たと言う。あいつ、僕を抜きにして、僕の悩みを知ろうともしないで・・・・・・。めぼしい所を捜し回るが見つからない。裏切られたような気持ち。がっかり感が募ってきてどうしょうもない。次の友達の家に行く。浮かない顔をして出て来て「今、お母ちゃんに怒られてるとこやねん。悪いけど遊ばれへんわ」と、すぐに玄関の戸を閉める。別の仲間・・・・・・今の状況ではピンと来ない。Nの大切さが身に染みる。みなしごになった気分で家に帰る。
部屋には誰も居ない。段ばしごから伯母の愉快そうな笑い声が流れてくる。お膳の上に三年生の教科書を並べてみるがちっとも胸躍らない。伯母が便所の戻りしなに「上に遊びに来たらどうや」と誘うが、勉強しているふりをする。ついでに声を掛けてくれなくてもいい。弟が側に居るだけで満足なのは分かっているのだから。
畳にひっくり返り、いまや唯一友達の天井の節穴から節穴に目をやり時間を過ごす。背中からじんわりと畳の冷気が伝ってくる。
「これっ、こんな所で寝てしもうて、風邪ひくよ」
「・・・・・・!?」
目の前に母の顔がある。まさしく、母の声ーーたちまち目が覚め、体中嬉しくなってくる。弟が段ばしごを鳴らして下りて来る。
母が炊事場に居る。いつものように鍋や水道を使う音がする。嫌がる弟にしつこく相撲を仕掛け、得心して新しい教科書に見入る。そのうち次兄が戻り、長兄も帰って来て一斉に部屋に電気が灯ったみたい。兄たちは母が居るときに戻って来て、ずるい。甲斐性の無い父もいつの間にやら素面で座っていて、一家六人で食卓を囲む。
母が明日からの勤めを事も無げに話し、長兄も次兄も興味深そうに耳を傾けている。兄たちは、なぜ驚いた表情をしないのだろう。それどころか笑顔で頷いている。明日からは、学校から帰っても
家には母が居ない、どれだけ寂しい思いが、ということを分かっていないのだろうか。次兄など「たまには小遣い貰えるようになるかも知れへんな」と、呆れるようなことを口にしている。
「この町内の主婦で外へ働きに出るのは、お母ちゃんぐらいなもんや。時代の先端行くわけやないの」母があっさりと言ってのけ、大きな笑い声が立つ。父も思わず引き込まれている。長兄が初めての中学校の様子を話し、次兄が毎度の明るさを振りまく。無口な父が黙って聞くなか皆が賑やかに喋り合い、大鍋のおかずがたちまち減っていく。昨日までとまるで変わったところはない。
昼間、同じこの部屋で、独りあれほど苦しみ喘いでいたのは何だったのか。なんでも母のする通りに従っていればいいのだ。なんだか、新学期を境に我が家もお金持ちになっていくような気がしてくる。
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