昭和少年の貧乏ゆすり

末文治

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三年生、新しい先生ー2

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 放課後、なんとはなしに教室に立ち寄ると、
「給食室に行って、ご飯粒もらってきてくれない。この指の先に乗るぐらいでいいから」
 新任の女先生に用事を言い付けられ、嬉しい気分で走る。戻って来ると、先生は金盥(かなだらい)の前にしゃがみ、スカートを捲ってシュミーズの裾を水洗いしている。
「ありがとう」
 ご飯粒を受け取るとシュミーズに擦(こす)り付ける。
「硯の墨が付いてね。こうして洗うと、よく取れるのよ。覚えておいたらいいわ」
 黒い染みが小さく広がる白い布地の下から、膝小僧がそのままのぞいている。どうしてそんな所に墨が跳ねたのだろう、と思いつつ腰を上げようとして先生と目が合い、動きづらくなる。どうにも居心地が悪い。
「先生、子供居(お)るんですか」
 思いもしない言葉が口を突いて出る。
「居るよ、二人。どうして」
「ううん」
 あっさり返答されて応えようもない。なぜこんな余計なことを口にしてしまったのか、今更ながら後悔する。先生は微笑みながら手を動かし続ける。いつ場を離れようかと機を窺っていると、突然Nが現れほっとする。
「先生、そんな変な格好して何してんのん」
「ここに墨が付いてね。それで洗ってるのよ」
「なんで、そんなとこに墨が付いたん」
 さすがはN、思ったことをそのままぶつける。気まずさが消えていき、Nに感謝だ。
「ふふっ、どうしてって思う」
「そんなこと分かる訳ないやろ。それより先生、子供何人居てるの」
 Nの口を塞ぎたくなるが、時すでに遅し。冷や汗が出てきて、あらためて逃げ出したくなる。
「今も聞かれたばっかりだけど、そんなに興味があるの」
「じぶん、わざわざ聞いたんか。僕が教えたったのに信用してへんな。なあ先生、二人や思うけど、違う?」
「まあ、よく知ってるわね。そんなこと、誰から聞くの。先生が本当のことを言うのか、試してるんやね」
 と笑いながらスカートを元に戻す。
「な、僕の言うた通りやろ。嘘やなかったやろ」
 まだ気心がよく知れていない先生の前で、Nは得意満面だ。
「男のくせに、どうでもいい事を聞いて回っては他人にべらべら言いふらして喜んでる、しょうもない”おっさん”が居るねん。信じられへん、本当に聞いててうっとうしいで」
 仕事先の愚痴をこぼしている母の顔が先生に重なり、Nが来合わせた間(まん)の悪さに舌打ちする。

                     ***
「いよーっ!」
 いつもの威勢の良い掛け声と共に「だー坊のおっちゃん」が到着し自転車を止める。おっちゃんがいつものリズムで拍子木を打ち続けると、たちまち自転車の周りは近所の子らであふれる。おっちゃんは甘イカやべっ甲あめ、あんこなどを注文に応じて手際よく引き出しから取り出し、皆が買い終わるのを見計らって、ぼつぼつと紙芝居の準備を進める。
 おっちゃんの紙芝居は名人級で、「だー坊一家」のほのぼのとした日常を綴る「だー坊」が人気を呼ぶままに、おっちゃんはその呼び名で親しまれ遠く離れた町まで知れ渡っている。
「キンデツマヒ!」
 インディアンが幌馬車を襲撃する場面で、おっちゃんが奇声を上げ、小さく開けた口を片手で叩きポンポンと音を鳴らせて「キンデツマヒ」「キンデツマヒ」と体をくねらせる。
 すぐ横の板壁に電気店「ヒマツデンキ」の小さな琺瑯看板が留められているが、それを咄嗟に反対読みして、インディアンの叫び声にしたという。アドリブや閃きが凄く、おっちゃん自身も楽しみながら紙芝居を進めていく。
 この地区には、もう一人の紙芝居屋さんが来る。年配者で顔浅黒く、小柄だが、がっしりとした体をしていて、兵隊上がりという噂通り国防色の上下服と帽子、海老茶色の長靴をいつもきちっと身に着けている。その風貌にふさわしい演じ手で、笑わせるなんてことは道徳に反するとばかりに、物語をひたすら演説調で喋っていく。最後は必ず「ーーのであります」で終わり、何の夢も広がらない。当然、客は数えるほどしかおらず気の毒なぐらいだが、「講義」を終えると、誇らしげに背筋を伸ばして去って行く。
 そんな堅物の同業者にも、だー坊のおっちゃんは気遣いを見せる。
「向こうの紙芝居も見て上げてよ。あの人は、おっちゃんよりずっと先輩で為になる話が多いねんからね」
 こんな情のあるおっちゃんがこの日、紙芝居を始める前に改まった顔をして喋り出す。
「おっちゃんは五円、十円の物を売って、それと引き換えに紙芝居をして皆を楽しませています。ただ紙芝居をしているという訳やないんよ。この箱の中に入っている色んなお菓子を買ってもらって、おっちゃんは生活してるんよ。そのお金で、君らと同じような年の子供をおっちゃんも育ててる訳、分ってくれる? この中に、よくただ見している子が居てる。おっちゃんはいつも知らん顔してるけど、ばれてないと思ってたら大間違いです。いつかは買(こ)うてくれるやろう、と辛抱しているだけなんやからね。十円ぐらいでずるい事をしない方がええんと違う。皆んなお金出して見ているんやから不公平になるし。男は卑怯な真似はしたらあかんよ」
 おっちゃんがこっちをちらちら見ながら話し終える。顔が引き攣り熱くなっているのが分かる。人群れからは「僕らに関係のない話。やっと紙芝居が始まる」という安堵の空気が流れる。いま動いて立ち去るわけにはいかない。おっちゃんと目を合わさないように俯き、立ち込むズボンの足元を見つめ恥辱に耐えているうち、開き直りのような怒りが込み上げてくる。
 卑怯者呼ばわりされたことが気に障る。後ろめたさはあっても卑怯な事をしている、と思ったことは一度もない。皆と同じようにスルメをしがみ、あめを舐めながら見られたら、どんなに気楽か。誰だってそうしたいのは当たり前やないか。どこにそんな小遣いがあるのんか言うてほしいわ。あったら苦労なんかせえへん。そうやから、いつも遠慮して一番後ろで背伸びしいしい見てるんと違うんか。一人ぐらいただ見して何の損があるねん。ねちねち説教なんかして、じぶんの方こそずるいわ。「十円ぐらい」と言ったときの口調が、母と我が家族を侮辱されたようで、おっちゃんへのファン熱が冷めていく。
「ええい腹の立つ、なんべん言うたら分かるのじゃ」
 おっちゃんが女の声色を使っている。引き込まれて顔を上げると、紐で体を縛られた着物姿の童(わらべ)が畳に転がされ、腰まで髪を垂らした継母に竹の棒でぶたれている絵が目に入る。
「ええい、こうしてくれるわ。ピシッ、ピシッ」
 艶のある声を響かせ、おっちゃんの熱演が続く。目の前を生暖かい空気が行き来し、頭の中がもやっもやっとしてきて、下腹部が強張る。次の場面でも継母の折檻が続き、思わずズボンをきつく引き上げる。おっちゃんが探るような目を向けてきて語るので、上目遣いでその場を離れる。
 吸い込まれるように路地に入り込む。突如として沸き立った心地良さを直に確かめたい。しばらくして、突き上げられるようにおしっこを催してくる。干からびた溝に大きなミミズが這っている。上を仰ぐと、屋根と屋根の間から真っ青な空が走っていて救われた気になる。朽ちた塀の隙間から雑草が顔を出し、苔に湿った土の匂いが鬼ごっこや隠れんぼで通り抜けるときより一層きつく迫ってくる。塀の向こうでおじいさんらしい咳払いがする。もう一度聞こえ耳を澄ますが、もう物音一つしない。
 路地から出ると、一気に春の陽光を浴びて眩い。向こうからT男ちゃんが歩いて来る。
「いよーっ、路地なんかで独り何しとってん。だー坊見に行けへんのか」
 笑い掛けて肩に手をやり、過ぎてい行く。T男ちゃんを呼び止めようとして、思い留まる。

                     ***   

  


 
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