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豊臣秀吉の章
第三話 処刑
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だが――。
秀次の身体は、そのまま高野の地に眠ることを許されなかった。その首は伏見の地へと運ばれ、そして。
八月二日。三条河原にその首は据えられた。その眼前で秀次の子五名、妻妾・侍女ら三十四名が処刑されたのである。
余談とはなるが、この三十四名全てが秀次の妻妾という訳ではない。この中には秀次の妻となっていた姫君に仕えていた侍女や、秀次の御伽衆として仕えていた老婦人の姿もあった。
それでも多いと思われるやもしれない。しかし、大奥と考えれば自然な人数ではある。一代で成り上がった秀吉には一族代々仕えてきた譜代の家臣が居ない。それゆえ、豊臣の血を次代に多く残さねばならなかったのである。
若く壮健、そして関白という地位に就いていた秀次である。縁を繋ぎたい大名や公家が娘を嫁がせる、という例も多々有った。
また、全ての妻が処刑されたという訳ではない。秀次の正室である若御前は処刑を免れている。彼女は長久手の戦で命を落とした池田恒興の娘であった。やはり、秀吉にとって信長の旧臣は天下人となった今でも別格であったのだろうか。
さて、その処刑を命じた男・豊臣秀吉は――。
「孫七郎……孫七郎おぉ……」
伏見城の一室で泣き崩れていた。
自身で秀次を追い込んでおいて、今さら何を。誰しもそう思うだろう。だが、秀吉の側に侍っていたこの男はそうではなかった。
こうするより他に無かったのだ。
石田三成は、懊悩し只々涙を流すばかりの主君を前にそう思っていた。
「去る七月十五日、関白様が御自害なされました」
その伝令が秀吉の元へ届いたのは秀次自害の翌日、十六日の事であった。秀次の唐突な死に直面した正則は、悲嘆にくれながらも一刻も早く殿下に知らせねばと高野山より早馬を飛ばしたのである。
「貴様あ! 儂をたばかっておるんかぁ!」
秀吉は激怒した。秀次に、ではない。伝令にである。
何故秀次が自害しているのか、秀吉には理解できなかった。謀反を企てているとは疑っていたが、数少ない身内なのである。むしろ秀吉としては秀次が腹を召さずに済むよう、重茲ら重臣の切腹と秀次の高野山への隠遁で手を打ったのである。自害せよと命じた訳ではないのだ。
「許さんぞ! その頸掻き切ってくれる!」
「お止め下さい殿下!」
激昂し伝令に掴み掛からんとする秀吉を、三成は必死に制した。
「邪魔をするな佐吉! こやつは……孫七郎が、孫七郎が死んだなど世迷言をぉ!」
「関白様の死が偽りだとして、それを殿下に吹きこみ何の利が有ると言うのですか!」
その三成の言葉に、秀吉は全身の力が抜けたように崩れ落ちる。すかさず三成が秀吉の肩を支えた。
「本当に……孫七郎は死んだんか……」
秀吉の問いに、使者が無言で頷く。
それでも、心の何処かでは秀次が生きていると信じていたのやも知れない。その日秀吉は何も出来ずに床に入ってしまった。
しかし、翌日正則ら使者が高野山より秀次の遺髪を携え帰還すると、愈々もって秀次の死が現実として秀吉に圧し掛かってきた。
最早、どうしようも無い。
「やはり、秀次は謀叛を企てておったのだ」
黒い。あまりにも黒い目で秀吉は言った。先日の狼狽振りが嘘のように冷徹で感情のない顔であった。亡き甥を孫七郎ではなく秀次と呼ぶその姿からは、かつての肉親の情を感じ取る事は難しい。
「は……」
石田三成は主君の一を聞かずとも十を知る男である。秀吉が何を言わんとするか余す所なく察した。
これより行わんとする全ては、間違っても殿下の口から言わせてはならない。
三成はただ一言、秀吉に告げた。
「万事滞りなく執行います」
「お主はつくづく阿呆な男だな」
白頭巾で目元以外をすっぽりと覆っている男は、三成にそう告げた。
大谷吉継。この男もまた、秀吉の臣下である。病のため一線は退いていたが三成とは旧知の仲であり、時折こうして自身の屋敷で三成の相談に乗っていた。
なかなかに歯に衣着せぬ物言いであるが、三成にはその忌憚ない言葉が心地良かった。
「阿呆で結構だ。手を汚すのは俺だけで良い」
三成は鼻を鳴らすと、無愛想にそう言った。
「ほう。ならば最後には全てお主の所為にされ、刑されるであろうな」
「それで豊家が守れるのなら、本望だ」
そう言ってのける三成を、吉継は射抜くように見つめる。もう殆ど見えぬ瞳であったが、その眼光は寧ろ病を経て尚鋭くなっていた。
「お主、本気で豊家と心中する気か」
「心中だと」
ずい、と吉継が座ったまま三成の方へにじり寄る。
「あの家はもう終わっている」
「口が過ぎるぞ、吉継」
流石にこの一言は三成の癇に障ったようである。三成は語気荒く吉継へ返した。
「お主が如何様に動こうと、巷間はこう思うだろうよ。太閤殿下が我が子可愛さに関白様や罪も無い者共をを殺したのだと。その様な家に先は有るか?」
「それでも私は、殿下の為動かねばならんのだ」
「何がお主をそうまでさせる」
三成は暫し押し黙り、口を開いた。
「殿下を、あのお方を放ってはおけぬ。あのお方は、危うい。何を信じて良いのか、もう分からなくなってしまっているのだ。だからこそお守りし続けねばならん」
「見限ってしまえば楽なものを。やはりお主は阿呆だな」
その吉継の返答に、三成は完全に黙り込んでしまった。自覚はしているのだろう。秀吉に尽くしたとて自身の為にはならず、逆に追い詰められる。其れでも尚、秀吉に従っている。冷静に考えれば、愚かでしか無い。
「だが、我が好む阿呆ではあるな」
吉継の口元は隠れている。そのため表情は分からない。しかし、微笑んでいる様に三成には感じられた。
「すまぬ、吉継。お前にはいつも助けられている」
「ふむ。我の言など全く顧みられておらぬと思うておったが」
「いや、お前と話していると進むべき途への迷いが無くなるのだ。邪魔をした、吉継。私はもう行かねば」
三成は立ち上がり吉継に背を向けた。その背中に吉継が声をかける。
「……これでも、お主を止めたかったのだがな」
三成は振り返らなかった。
斯くして、全ては石田三成の主導の元に滞りなく進んでいった。
先ず七月二十日、諸大名らの起請文が作成された。一言で言ってしまえば「御ひろい様に忠誠を誓い、太閤殿下には絶対に逆らいません」という内容である。逆に言えば、起請文を提出させねば、いや、提出させたとしても安心できず、諸将から見限られるやもしれないと豊臣政権が考えていた事が伺える。
この起請文のうち一通には織田信雄ら二十八名が血判のうえ連署しており、秀俊も「羽柴筑前中納言」として名を連ねている。
七月二十五日には、三成は伊達家へ向けて「関白殿は謀叛を企てていたので、切腹を申し付けられた」という内容の書状を送っている。おそらく、この内容の書状は他家へも送られていたのだろう。
少々時代は下るが、成長した御ひろいの為に書かれた秀吉の伝記『太閤さま軍記のうち』でも秀次はことさら悪人として強調されている。豊臣政権としては、秀次を殺されて然るべき罪人として喧伝せねばならなかったのである。
また、前後するが七月二十二日、木村重茲の嫡子が切腹を命じられた。その首は七月二十六日に梟首され、重茲の妻と娘も三条河原で処刑されている。謀叛人の加担者の家族として、見せしめに殺されたのだ。
そして八月二日、謀叛人の家族として秀次の妻子や侍女らの処刑へと至ったのである。これは、御ひろいの満二歳の正誕生日、八月三日の前日であった。
伏見、小早川家の屋敷。
所領である丹波亀山を失った秀俊は、養父・隆景の屋敷に身を寄せていた。関白様に与したから所領を没収されたのだ、と巷間では騒がれていたが、実情は違う。本年中に隆景が隠居し、秀俊がその所領である筑前を継ぐ算段が付いていたためである。そのため、先の起請文でも秀俊は「羽柴『筑前』中納言」と署名している。
とはいえ、豊臣政権は所領没収の噂を公式には否定しなかった。或いは、秀俊の立場が悪化するのであれば其れも構わぬと思っていたのやもしれない。
その秀俊は、屋敷の一室で塞ぎ込んでいた。
「義兄上……」
幼き頃より親しんでいた義兄の死。そして関係する者らの死。数え十三の秀俊が受け止めるにはあまりにも重かった。
「秀俊」
屋敷の主――小早川隆景が部屋に入り、秀俊に声をかけた。初老でやや痩せ身ではあるが体躯は良く、若き頃より幾多の戦場を駆けてきた将であると感じさせる。
「申し訳御座いません、この様な醜態を……」
秀俊は涙を拭い、隆景の方へと居直る。隆景は「構わぬ」とだけ言い、その眼前に座った。
驚くほど顔が近い。まるで、これより交わされる会話を決して他者に漏らさぬようにするかの様であった。
「この場には儂とお前しかおらぬ。存分に泣け、秀俊」
隆景は、秀俊と二人きりの時は「中納言殿」や「金吾殿」ではなく「秀俊」と呼んでいた。隆景なりの親愛の証である。
二人の交流は秀俊の小早川への養子入りの前から行われていた。隆景は、その時悟ったのである。
この子には父が必要だ、と。
無論、その時分は秀吉が秀俊の養父であった。しかし、秀吉はこの日本で最高の権力を有していると言っても過言ではない存在である。どうしても世間一般の父子関係とは齟齬が生じる。
なればこそ、隆景は秀俊を養子にしたいと秀吉に申し入れたのである。
勿論、ただそれだけが理由という訳でも無かったが。
「私には……あのお優しい義兄上が謀叛などと、到底考えられませぬ」
嗚咽混じりの声で、秀俊が漏らした。
「なのに、何故……奥方様や御子息御息女まで、あのような……」
「何故、か。それはお前自身が辿りつかねばならん」
隆景はすすり泣く秀俊に優しく、されど甘やかしはしない、一つ筋の通ったような声色で囁いた。
「確かに儂は一つの解には至っている。だが、それは儂の見解に過ぎん。故に答えられん。其れを伝えることは儂の見解を押し付ける事になる」
「……はい」
秀俊は涙を拭うと、ふ、と感情の無い目になった。何処か己を己として見ていない、他者として俯瞰しているかの様な目である。
「私も、殺されるのでしょうか」
未だ幼さの残る少年が驚くほど冷徹に己自身を俯瞰する様に、平生冷静である筈の隆景の感情の堰は崩れた。止め処なく思いが溢れる。
何とかしてやらねば。隆景は、秀俊を抱きしめ耳元で囁いた。
「大丈夫だ、お前は死なん」
熱っぽい声で隆景が続ける。
「例え太閤殿下であろうとも、毛利を敵に回す真似はせんよ」
更に秀俊を強く抱きしめ、隆景は言った。
「お前は儂の倅だ。お前は儂が守る」
その言葉に、秀俊の目から熱い涙が零れた。
伏見城の一室。秀吉は刀を検分していた。秀次の蒐集していた刀である。
秀次が自害して後、青巌寺には刀が残された。しかし、高野山は元来殺生を禁じられている地である。名刀が残されていたとしても、如何しようもない。
必然、秀次の刀達は秀吉の元へ送られることとなった。
その秀吉の目は、ある一振りの刀に吸い寄せられていた。
なんと優美な龍か。
備前長船兼光。秀次の最も愛したその刀である。
この刀が、秀次の命を絶ったのか。罪深いと解っていながらも、美しいと秀吉は思った。
ふと、兼光から視線を逸らす。
そこには、見知った顔があった。此処に居てはならない、男。
豊臣秀次。
漆黒の束帯に赤々とした眼で、ただ秀吉を見つめている。秀吉は、指の先すらも動かすことが出来ない。
秀次の顔が、不意にぐにゃりと歪む。これは本当に秀次なのであろうか。
「よくも私を、妻を、子を、家臣らを……あの様な目に遭わせてくれたなあ!」
掌が、氷のように冷たい。
気が付けば、秀吉は伏見城の一室に居た。己一人のみである。手の備前長船兼光以外には、誰も居ない。先ほどと何も変わらぬ光景。
血、以外には。
無意識に刀身に触っていたのだろうか。秀吉の掌からは血が流れ落ちていた。
冷たい汗が、一粒流れる。
この刀は、儂の元にあってはならぬ。早く、手放さなければ。
慶長二年(一五九七年)五月十二日。隆景の領地を継ぎ筑前中納言となっていた小早川秀俊は、秀吉に謁見するため伏見城に参上していた。
来たる戦の総大将に任じられていためである。
「筑前中納言、小早川秀俊。只今参上仕りました」
秀俊は深々と頭を下げた。かつて義理とはいえ親子だったとは思えぬほどに、その様は王と臣であった。
「おお、よう来てくれたな、秀俊」
しかし、秀吉には多少親子の情はあったのだろうか。和やかな声で秀俊を労った。
「総大将として、責を果たして来るのだぞ。秀頼の為にもな」
御ひろいと呼ばれていた赤子は、慶長元年に「秀頼」と名を改めていた。
「心得ておりまする」
秀俊が更に深々と辞儀をする。
秀吉は「もうよい、面を上げい」とぶっきらぼうに言い、小姓を呼んだ。小姓が持っていた刀を恭しく秀吉へと手渡す。
「これは儂からの餞別じゃ」
秀吉は刀の鞘を片手で掴み、秀俊へと差し出す。到底名刀を扱っているとは思えぬような乱雑な手つきであったが、それがこの豊臣秀吉という男を象徴していた。
その刀を、秀俊は両手で押し戴く。
「備前長船兼光じゃ」
その名を聞き、秀俊の脳裏にある思い出が呼び起こされる。
やはりこの備前長船兼光だろうな。
懐かしい、義兄の声。この刀は、義兄の愛したあの刀だ。
優しく温かい、義兄の笑顔。
その笑顔が、赤に染まる。
いつの間に移動したのか、秀俊の真横に座った秀吉の息が耳にかかる。
「秀次はな、その刀で首を落とされたんじゃ」
ぞわり。
ぞわり。ぞわり。
背筋に冷たいものが這う。まるで、蜥蜴に背を這い回られているような感触。
「謹んで拝領……いたします」
秀俊はただ、そう答えるより他に無かった。
秀次の身体は、そのまま高野の地に眠ることを許されなかった。その首は伏見の地へと運ばれ、そして。
八月二日。三条河原にその首は据えられた。その眼前で秀次の子五名、妻妾・侍女ら三十四名が処刑されたのである。
余談とはなるが、この三十四名全てが秀次の妻妾という訳ではない。この中には秀次の妻となっていた姫君に仕えていた侍女や、秀次の御伽衆として仕えていた老婦人の姿もあった。
それでも多いと思われるやもしれない。しかし、大奥と考えれば自然な人数ではある。一代で成り上がった秀吉には一族代々仕えてきた譜代の家臣が居ない。それゆえ、豊臣の血を次代に多く残さねばならなかったのである。
若く壮健、そして関白という地位に就いていた秀次である。縁を繋ぎたい大名や公家が娘を嫁がせる、という例も多々有った。
また、全ての妻が処刑されたという訳ではない。秀次の正室である若御前は処刑を免れている。彼女は長久手の戦で命を落とした池田恒興の娘であった。やはり、秀吉にとって信長の旧臣は天下人となった今でも別格であったのだろうか。
さて、その処刑を命じた男・豊臣秀吉は――。
「孫七郎……孫七郎おぉ……」
伏見城の一室で泣き崩れていた。
自身で秀次を追い込んでおいて、今さら何を。誰しもそう思うだろう。だが、秀吉の側に侍っていたこの男はそうではなかった。
こうするより他に無かったのだ。
石田三成は、懊悩し只々涙を流すばかりの主君を前にそう思っていた。
「去る七月十五日、関白様が御自害なされました」
その伝令が秀吉の元へ届いたのは秀次自害の翌日、十六日の事であった。秀次の唐突な死に直面した正則は、悲嘆にくれながらも一刻も早く殿下に知らせねばと高野山より早馬を飛ばしたのである。
「貴様あ! 儂をたばかっておるんかぁ!」
秀吉は激怒した。秀次に、ではない。伝令にである。
何故秀次が自害しているのか、秀吉には理解できなかった。謀反を企てているとは疑っていたが、数少ない身内なのである。むしろ秀吉としては秀次が腹を召さずに済むよう、重茲ら重臣の切腹と秀次の高野山への隠遁で手を打ったのである。自害せよと命じた訳ではないのだ。
「許さんぞ! その頸掻き切ってくれる!」
「お止め下さい殿下!」
激昂し伝令に掴み掛からんとする秀吉を、三成は必死に制した。
「邪魔をするな佐吉! こやつは……孫七郎が、孫七郎が死んだなど世迷言をぉ!」
「関白様の死が偽りだとして、それを殿下に吹きこみ何の利が有ると言うのですか!」
その三成の言葉に、秀吉は全身の力が抜けたように崩れ落ちる。すかさず三成が秀吉の肩を支えた。
「本当に……孫七郎は死んだんか……」
秀吉の問いに、使者が無言で頷く。
それでも、心の何処かでは秀次が生きていると信じていたのやも知れない。その日秀吉は何も出来ずに床に入ってしまった。
しかし、翌日正則ら使者が高野山より秀次の遺髪を携え帰還すると、愈々もって秀次の死が現実として秀吉に圧し掛かってきた。
最早、どうしようも無い。
「やはり、秀次は謀叛を企てておったのだ」
黒い。あまりにも黒い目で秀吉は言った。先日の狼狽振りが嘘のように冷徹で感情のない顔であった。亡き甥を孫七郎ではなく秀次と呼ぶその姿からは、かつての肉親の情を感じ取る事は難しい。
「は……」
石田三成は主君の一を聞かずとも十を知る男である。秀吉が何を言わんとするか余す所なく察した。
これより行わんとする全ては、間違っても殿下の口から言わせてはならない。
三成はただ一言、秀吉に告げた。
「万事滞りなく執行います」
「お主はつくづく阿呆な男だな」
白頭巾で目元以外をすっぽりと覆っている男は、三成にそう告げた。
大谷吉継。この男もまた、秀吉の臣下である。病のため一線は退いていたが三成とは旧知の仲であり、時折こうして自身の屋敷で三成の相談に乗っていた。
なかなかに歯に衣着せぬ物言いであるが、三成にはその忌憚ない言葉が心地良かった。
「阿呆で結構だ。手を汚すのは俺だけで良い」
三成は鼻を鳴らすと、無愛想にそう言った。
「ほう。ならば最後には全てお主の所為にされ、刑されるであろうな」
「それで豊家が守れるのなら、本望だ」
そう言ってのける三成を、吉継は射抜くように見つめる。もう殆ど見えぬ瞳であったが、その眼光は寧ろ病を経て尚鋭くなっていた。
「お主、本気で豊家と心中する気か」
「心中だと」
ずい、と吉継が座ったまま三成の方へにじり寄る。
「あの家はもう終わっている」
「口が過ぎるぞ、吉継」
流石にこの一言は三成の癇に障ったようである。三成は語気荒く吉継へ返した。
「お主が如何様に動こうと、巷間はこう思うだろうよ。太閤殿下が我が子可愛さに関白様や罪も無い者共をを殺したのだと。その様な家に先は有るか?」
「それでも私は、殿下の為動かねばならんのだ」
「何がお主をそうまでさせる」
三成は暫し押し黙り、口を開いた。
「殿下を、あのお方を放ってはおけぬ。あのお方は、危うい。何を信じて良いのか、もう分からなくなってしまっているのだ。だからこそお守りし続けねばならん」
「見限ってしまえば楽なものを。やはりお主は阿呆だな」
その吉継の返答に、三成は完全に黙り込んでしまった。自覚はしているのだろう。秀吉に尽くしたとて自身の為にはならず、逆に追い詰められる。其れでも尚、秀吉に従っている。冷静に考えれば、愚かでしか無い。
「だが、我が好む阿呆ではあるな」
吉継の口元は隠れている。そのため表情は分からない。しかし、微笑んでいる様に三成には感じられた。
「すまぬ、吉継。お前にはいつも助けられている」
「ふむ。我の言など全く顧みられておらぬと思うておったが」
「いや、お前と話していると進むべき途への迷いが無くなるのだ。邪魔をした、吉継。私はもう行かねば」
三成は立ち上がり吉継に背を向けた。その背中に吉継が声をかける。
「……これでも、お主を止めたかったのだがな」
三成は振り返らなかった。
斯くして、全ては石田三成の主導の元に滞りなく進んでいった。
先ず七月二十日、諸大名らの起請文が作成された。一言で言ってしまえば「御ひろい様に忠誠を誓い、太閤殿下には絶対に逆らいません」という内容である。逆に言えば、起請文を提出させねば、いや、提出させたとしても安心できず、諸将から見限られるやもしれないと豊臣政権が考えていた事が伺える。
この起請文のうち一通には織田信雄ら二十八名が血判のうえ連署しており、秀俊も「羽柴筑前中納言」として名を連ねている。
七月二十五日には、三成は伊達家へ向けて「関白殿は謀叛を企てていたので、切腹を申し付けられた」という内容の書状を送っている。おそらく、この内容の書状は他家へも送られていたのだろう。
少々時代は下るが、成長した御ひろいの為に書かれた秀吉の伝記『太閤さま軍記のうち』でも秀次はことさら悪人として強調されている。豊臣政権としては、秀次を殺されて然るべき罪人として喧伝せねばならなかったのである。
また、前後するが七月二十二日、木村重茲の嫡子が切腹を命じられた。その首は七月二十六日に梟首され、重茲の妻と娘も三条河原で処刑されている。謀叛人の加担者の家族として、見せしめに殺されたのだ。
そして八月二日、謀叛人の家族として秀次の妻子や侍女らの処刑へと至ったのである。これは、御ひろいの満二歳の正誕生日、八月三日の前日であった。
伏見、小早川家の屋敷。
所領である丹波亀山を失った秀俊は、養父・隆景の屋敷に身を寄せていた。関白様に与したから所領を没収されたのだ、と巷間では騒がれていたが、実情は違う。本年中に隆景が隠居し、秀俊がその所領である筑前を継ぐ算段が付いていたためである。そのため、先の起請文でも秀俊は「羽柴『筑前』中納言」と署名している。
とはいえ、豊臣政権は所領没収の噂を公式には否定しなかった。或いは、秀俊の立場が悪化するのであれば其れも構わぬと思っていたのやもしれない。
その秀俊は、屋敷の一室で塞ぎ込んでいた。
「義兄上……」
幼き頃より親しんでいた義兄の死。そして関係する者らの死。数え十三の秀俊が受け止めるにはあまりにも重かった。
「秀俊」
屋敷の主――小早川隆景が部屋に入り、秀俊に声をかけた。初老でやや痩せ身ではあるが体躯は良く、若き頃より幾多の戦場を駆けてきた将であると感じさせる。
「申し訳御座いません、この様な醜態を……」
秀俊は涙を拭い、隆景の方へと居直る。隆景は「構わぬ」とだけ言い、その眼前に座った。
驚くほど顔が近い。まるで、これより交わされる会話を決して他者に漏らさぬようにするかの様であった。
「この場には儂とお前しかおらぬ。存分に泣け、秀俊」
隆景は、秀俊と二人きりの時は「中納言殿」や「金吾殿」ではなく「秀俊」と呼んでいた。隆景なりの親愛の証である。
二人の交流は秀俊の小早川への養子入りの前から行われていた。隆景は、その時悟ったのである。
この子には父が必要だ、と。
無論、その時分は秀吉が秀俊の養父であった。しかし、秀吉はこの日本で最高の権力を有していると言っても過言ではない存在である。どうしても世間一般の父子関係とは齟齬が生じる。
なればこそ、隆景は秀俊を養子にしたいと秀吉に申し入れたのである。
勿論、ただそれだけが理由という訳でも無かったが。
「私には……あのお優しい義兄上が謀叛などと、到底考えられませぬ」
嗚咽混じりの声で、秀俊が漏らした。
「なのに、何故……奥方様や御子息御息女まで、あのような……」
「何故、か。それはお前自身が辿りつかねばならん」
隆景はすすり泣く秀俊に優しく、されど甘やかしはしない、一つ筋の通ったような声色で囁いた。
「確かに儂は一つの解には至っている。だが、それは儂の見解に過ぎん。故に答えられん。其れを伝えることは儂の見解を押し付ける事になる」
「……はい」
秀俊は涙を拭うと、ふ、と感情の無い目になった。何処か己を己として見ていない、他者として俯瞰しているかの様な目である。
「私も、殺されるのでしょうか」
未だ幼さの残る少年が驚くほど冷徹に己自身を俯瞰する様に、平生冷静である筈の隆景の感情の堰は崩れた。止め処なく思いが溢れる。
何とかしてやらねば。隆景は、秀俊を抱きしめ耳元で囁いた。
「大丈夫だ、お前は死なん」
熱っぽい声で隆景が続ける。
「例え太閤殿下であろうとも、毛利を敵に回す真似はせんよ」
更に秀俊を強く抱きしめ、隆景は言った。
「お前は儂の倅だ。お前は儂が守る」
その言葉に、秀俊の目から熱い涙が零れた。
伏見城の一室。秀吉は刀を検分していた。秀次の蒐集していた刀である。
秀次が自害して後、青巌寺には刀が残された。しかし、高野山は元来殺生を禁じられている地である。名刀が残されていたとしても、如何しようもない。
必然、秀次の刀達は秀吉の元へ送られることとなった。
その秀吉の目は、ある一振りの刀に吸い寄せられていた。
なんと優美な龍か。
備前長船兼光。秀次の最も愛したその刀である。
この刀が、秀次の命を絶ったのか。罪深いと解っていながらも、美しいと秀吉は思った。
ふと、兼光から視線を逸らす。
そこには、見知った顔があった。此処に居てはならない、男。
豊臣秀次。
漆黒の束帯に赤々とした眼で、ただ秀吉を見つめている。秀吉は、指の先すらも動かすことが出来ない。
秀次の顔が、不意にぐにゃりと歪む。これは本当に秀次なのであろうか。
「よくも私を、妻を、子を、家臣らを……あの様な目に遭わせてくれたなあ!」
掌が、氷のように冷たい。
気が付けば、秀吉は伏見城の一室に居た。己一人のみである。手の備前長船兼光以外には、誰も居ない。先ほどと何も変わらぬ光景。
血、以外には。
無意識に刀身に触っていたのだろうか。秀吉の掌からは血が流れ落ちていた。
冷たい汗が、一粒流れる。
この刀は、儂の元にあってはならぬ。早く、手放さなければ。
慶長二年(一五九七年)五月十二日。隆景の領地を継ぎ筑前中納言となっていた小早川秀俊は、秀吉に謁見するため伏見城に参上していた。
来たる戦の総大将に任じられていためである。
「筑前中納言、小早川秀俊。只今参上仕りました」
秀俊は深々と頭を下げた。かつて義理とはいえ親子だったとは思えぬほどに、その様は王と臣であった。
「おお、よう来てくれたな、秀俊」
しかし、秀吉には多少親子の情はあったのだろうか。和やかな声で秀俊を労った。
「総大将として、責を果たして来るのだぞ。秀頼の為にもな」
御ひろいと呼ばれていた赤子は、慶長元年に「秀頼」と名を改めていた。
「心得ておりまする」
秀俊が更に深々と辞儀をする。
秀吉は「もうよい、面を上げい」とぶっきらぼうに言い、小姓を呼んだ。小姓が持っていた刀を恭しく秀吉へと手渡す。
「これは儂からの餞別じゃ」
秀吉は刀の鞘を片手で掴み、秀俊へと差し出す。到底名刀を扱っているとは思えぬような乱雑な手つきであったが、それがこの豊臣秀吉という男を象徴していた。
その刀を、秀俊は両手で押し戴く。
「備前長船兼光じゃ」
その名を聞き、秀俊の脳裏にある思い出が呼び起こされる。
やはりこの備前長船兼光だろうな。
懐かしい、義兄の声。この刀は、義兄の愛したあの刀だ。
優しく温かい、義兄の笑顔。
その笑顔が、赤に染まる。
いつの間に移動したのか、秀俊の真横に座った秀吉の息が耳にかかる。
「秀次はな、その刀で首を落とされたんじゃ」
ぞわり。
ぞわり。ぞわり。
背筋に冷たいものが這う。まるで、蜥蜴に背を這い回られているような感触。
「謹んで拝領……いたします」
秀俊はただ、そう答えるより他に無かった。
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弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
水滸綺伝
一條茈
歴史・時代
時は北宋、愚帝のもとに奸臣がはびこる中、侵略の足音が遠くに聞こえる乱世。
義に篤く、忠を重んじながらも正道から外れて生きざるを得ない百八人の好漢たちが、天に替わって正しい道を行うため梁山泊に集う。
おおいに笑い、肉を食らい、酒を飲み、義の道を行く彼らに待つ結末とは――
滝沢馬琴が愛し、歌川国芳が描き、横山光輝や北方謙三が魅せられ、ジャイアントロボも、幻想水滸伝も、すべてはここから始まった!
108人の個性豊かな好漢、108の熱き人生、熱き想いが、滅びゆく北宋の世を彩る痛快エンターテイメント小説『水滸伝』を、施耐庵の編集に忠実に沿いながらもあらたな解釈をまじえ読みやすく。
※原作の表現を尊重し、一部差別的表現や人肉食・流血等残酷な描写をそのまま含んでおります。御注意ください。
※以前別名義でイベントでの販売等をしていた同タイトル作品の改訂・再投稿です。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』
月影 朔
歴史・時代
江戸。盲目の女按摩師・市には、音、匂い、感触、全てが真実を語りかける。
失われた視覚と引き換えに得た、驚異の五感。
その力が、江戸の闇に起きた難事件の扉をこじ開ける。
裏社会に潜む謎の敵、視覚を欺く巧妙な罠。
市は「聴く」「嗅ぐ」「触れる」独自の捜査で、事件の核心に迫る。
癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』
――新感覚時代ミステリー開幕!
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