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幕間

三伏(後編)

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 僕は、もう終わるはずの人間だったんだ。

 ずっと病気で、そのまま死んでいく。そういった運命しかない子供だった。
 だから、僕は早くその終わりの日が来てくれることを願っていた。

 死にたかったわけじゃない。でも、僕はずっと病気で苦しむだけの毎日に嫌気が差していた。

 いつも苦しくて、何もできなくて……。そんな日々が続くうちに、早く楽になりたいと思うようになってしまった。

「……どうして、僕は生まれてきたんだろう?」

 体の調子が少しはマシなときには、そんなふうに考えるようになった。
 でも、仕方がないと思う。だって、僕にできることは、神様が許してくれたことは、それぐらいのことしかなかったんだから。 

「ただ、病気で苦しむためだけに生まれてきたんだろうか?」
 そう考えると、とても辛かった。

 僕という命は、何もできないまま、苦しんで終わってしまう無価値なものだと分かってしまったから。

 でも、ある日を境に、僕の生活は一変した。

 あの優しくて、綺麗な女の子に出会ってから、僕は手に入れたんだ。

 それは、僕なんかが手に入れることは決してないと思っていた夢のような日々。

 幸せだと思える、掛け替えのない時間。

 だから、僕は産まれて初めてこう思ったんだ。


 生まれてきて、本当に良かったって……。






 僕がこの街にやってきて、早いものでもう三ヶ月が経ち、ポカポカとした暖かな陽気も、それが暑いと思ってしまうほどの気温に変化していた。

「素晴らしいわ! ルイ」
 シーナさんが、僕の頭を撫でてくれる。そして、まるで自分のことのように喜んでくれる。

「ふふ~ん、当然よ。ルイ、毎晩頑張っていたもんね」
 得意げに言うアリシアの目の端に涙が浮かんでいることに気づいて、僕は頑張ってよかったと心から思う。

 僕は、シーナさんの家に居候としておいて貰えることになったんだけど、僕の事をシーナさんは自分の子供のように可愛がってくれて、僕を学校に通わせてくれた。
 でも、僕は病気で学校に行ったことがないから、文字の読み書きも計算も、みんなが当たり前にできることが上手くできなかったんだ。

 だから、僕はアリシアの通う学校ではなく、自分よりも小さな子供たちと同じ学校で勉強をすることになってしまった。
 けれど、僕はアリシアと同じ学校で勉強がしたいと思っていた。だから、一生懸命に頑張った。

 他の人が何年もかかって覚えることを僅かな時間で習得するには、学校以外の時間も勉強するしかなかった。でも、そのことは全く苦ではなかったんだ。

 知識を得るということはとても面白く、さらに、アリシアが毎晩つきっきりで僕に勉強を教えてくれたのがとても励みになった。
 そして、ついに今日、僕は先生に呼ばれて、明日以降はアリシアと同じ学校に通ってもいいとの許可を得ることができたんだ。

 まだ補習を毎日受けながらだけれど、今のペースならばそれもすぐに必要なくなるだろうと先生も言ってくれている。

「よ~し。今日はお母さん張り切って料理を作っちゃうわね。楽しみにしていて」
「あっ、その、ありがとうございます……」
 シーナさんはもう一度僕の頭を撫でて、軽い足取りで台所に向かって行った。

「もう、お母さんたら、はしゃいじゃって」
 口ではそう言いながらも、アリシアも満面の笑顔を浮かべている。

「……ありがとう、アリシア。本当に夢みたいだ。明日からは、僕もアリシアと同じ学校の仲間になれるなんて……」
「私も嬉しいわ。しかも、いいニュースが有るのよ」
 アリシアはそう言うと、シーナさんと同じように僕の頭を嬉しそうに撫でる。

「いいニュース?」
「ええ。私のクラスメートにリミファって子がいるんだけど、その子が先生からこっそり聞き出してくれたの。明日からは、貴方は私達と同じクラスになるらしいわ」
 その言葉に、僕は嬉しくて飛び上がりそうになった。

「本当? 本当に、僕はアリシアと同じクラスになれるの?」
「ええ、そうよ。これからは毎日一緒に同じ学校に通うだけじゃなくて、同じクラスで勉強することになるのよ」
 アリシアはそう言うと、ちらりと台所を確認してから、僕の頬を両手で優しく包む。そして、柔らかな唇を僕の唇に重ね合わせた。

 僕たちは目を閉じて、互いの唇の感触を確かめ合うようにキスをする。

 この三ヶ月で、アリシアは僕にとって何よりも大切な存在になっていた。

 こんなふうに誰かを大切に思えるようになるなんて、好きになることができるなんて思わなかった。その上、アリシアも同じように思ってくれているこの幸せを、神様に感謝したかった。

「ルイ。本当に、本当に頑張ったわね。明日からは、一緒に学校での生活を楽しもうね」
 唇を離すとすぐに、アリシアは僕を抱きしめてくれた。そして、僕もアリシアを抱きしめ返す。

「アリシアがついていてくれたからだよ。これからもずっと一緒だよ」
 もう一度軽く唇を合わせて、僕たちは微笑みあった。






 それからの毎日は、どんな宝石よりも輝いていたんだ。

 たくさん友だちもできた。

 勉強することも、運動することも、学校の行事も全てが楽しくて仕方がなかった。

 でも、そんなふうに思えるのは、シーナさんという優しいお母さんと、何者にも代えがたい大切な女の子が、いつもそばにいてくれたから。

 僕はどちらかというと自分で物事を決めるのは苦手だった。そんな僕にアリシアはいつも手を差し伸べて、引っ張ってくれた。
 でも、アリシアは少し無茶をしようとするところがあるから、僕がそれを宥めて二人でよく話し合って物事を決めることにする。

「もう、本当に妬けちゃうくらいに仲がいいわね、あんた達は」
 友人のリミファに呆れてそう言われたのも、一度や二度じゃない。

 でも、止められなかった。何か嬉しいことが有ると、アリシアにもそれを分けてあげたいと思う。アリシアが悲しそうだと、それを分けてほしいと思ってしまう。そんな気持ちを止めることができなくなってしまっていた。

 そして、あの晩に、僕とアリシアは……。







 その晩は、シーナさんが用事で家を留守にする予定になっていた。

 シーナさんが居ないのは初めてのことだったけれど、明日は学校も休みだったし、きちんと朝食もお弁当も夕食も準備してくれていたから、僕もアリシアも何も不便はなかったんだ。でも……。

 ただ、その日は朝からアリシアの様子が少し変だった。
 いつも一緒に行く学校にも、「今日だけは用事があるから、悪いけど一人で行って」と言い、僕は一人で登校することになってしまった。

 あまりにも珍しいことだったので、友人たちはもちろん、先生にまで「喧嘩でもしたの?」と心配されてしまうほど。
 けれど、少し遅くなっただけで、授業が始まる前にアリシアは学校にやって来た。

「その、ごめんね、ルイ……」
 アリシアは教室に入ってくると、皆への挨拶もそこそこに、僕にそう言って謝る。

「いや、大丈夫だよ、アリシア」
 僕がそう言って微笑むと、アリシアは何故か顔を赤らめてプイッと僕から顔を背けてしまう。

「そっ、そう。良かったわ。けれど、帰りも少し寄るところがあるから、悪いけれど……」
「うん。わかったよ。でも、今日はシーナさんが居な……」
「わっ、わっ、わぁ~! そんな事言わないの! いいから今日だけは一人で帰って! でも、帰ってくるのが遅くなったら怒るからね!」
 アリシアは一方的にそう言い、何故か一層顔を赤くして自分の席に戻っていった。

「えっ? あの、アリシア?」
 僕には何も分からない。どうして朝からアリシアの様子はおかしいのだろう? 怒っているのだろうか? でも、僕は特に悪いことをした心当たりはない。

 僕はずっと疑問を押し殺して、授業をきちんと受けてから帰宅することにした。

 レイアやリミファが一緒に帰ろうと言ってくれたけれど、僕は謝ってそれを断った。少し頭の中を整理したかったから。僕が知らず知らずのうちにアリシアに嫌われるようなことをしてしまったのかを考えたかった。

「……昼食のときも何処かに行ってしまったし……。どうしたんだろう、本当に?」
 僕の胸は痛む。大切な女の子に嫌われてしまったのではないかと不安が募ってくる。
 けれど、そんな事を考えながら歩いているうちに、家に着いてしまう。

「あれっ? 開いている……」
 僕は鍵を使って玄関のドアを開けようとしたけれど、鍵は掛かっていなかった。

「ただいま」
 僕は帰宅の挨拶を口にして家の中に入る。すると、
「おっ、おかえりなさい。早かったのね、ルイ」
 アリシアが僕のことを微笑んで迎えてくれた。でも、その笑顔が何処かぎこちない気がする。

「うん。何処にも寄り道しないでまっすぐに帰ってきたから。アリシアこそ、用事があるんじゃあなかったの?」
 僕はそう言うと、カバンを下ろす暇も惜しんで、アリシアに詰め寄る。

「ねぇ、アリシア。僕は君を怒らせるようなことをしてしまったのかな? もしもそうだったらきちんと謝りたいんだ」
「えっ? なっ、何を言っているのよ。わっ、私は別に怒ってなんていないわよ」
 アリシアは慌てた様子でそう否定したけれど、それでは朝から様子が変だったことの説明がつかない。その事を指摘すると、アリシアは何故か顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「……ごめんなさい。心配をさせてしまって。でも、でもね……」
 アリシアの言葉はそれ以上続かない。きっと僕には話せない内容なんだろう。

「……アリシア。僕のこと、嫌いになっちゃったのかな?」
 不安で仕方がなくて、僕はアリシアに単刀直入に尋ねる。もしも、アリシアに嫌われてしまったのなら、どうしたらいいのかわからない。

「そんなわけないじゃない! 私はずっとルイのことが……大好きよ……」
 アリシアのその言葉が真実か確認したくて、僕は柔らかいアリシアの両頬を優しく包み込んで顔を近づける。でも、アリシアは僕の唇の前で人差し指を立ててキスを拒んだ。

「……アリシア……」

 僕は自分の心に亀裂が入っていくのを理解した。
 目の前が真っ黒になる。どうしようもない絶望感に身体から力が抜けてしまう。

 でも、アリシアは、僕の身体を抱きしめてくれた。そして、
「……ルイ。少しだけ……夜になるまで待って。それまでに心の準備を整えるから……。今晩、私の全てを貴方にあげるから……」
 アリシアのか細い声で囁かれた言葉に、僕は自分の耳を疑った。

「……あっ、アリシア。なっ、何をいっ……」
「少し早いけれど、もう少ししたら夕食にしましょう。それに、お風呂は沸かしてあるから、まずはルイから入って……。そして、部屋で待っていて……」
 僕の言葉を遮って、アリシアはそう告げる。

 密着した身体に、忙しない心臓の音が伝わってくる。それが僕の音なのかアリシアのものかまるで区別がつかないほど、二人とも激しく鼓動している。

「……ルイ。玄関の鍵を掛けて……。そうしたら、もう誰にも邪魔はされないから……。私も、もう逃げないから……」
 喉がカラカラになってくる。ただ家の鍵を掛けるだけの行動が、こんなにドキドキするとは思わなかった。

 ……僕は静かに家の鍵を掛けて振り返る。すると、アリシアは耳まで真っ赤にしながらも微笑んでいた。

「嬉しいわ、ルイ……」

 アリシアのそのあまりにも可憐で愛らしい笑顔に、僕は自分の中からこみ上げてくる欲求を、今すぐ彼女を抱きしめたい衝動を堪えるので精一杯だった。
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