嫁姑戦争in異世界!

更紗

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1巻

1-3

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 明らかに目が本気と書いてマジである。ううむ。生憎あいにくと監禁プレイの趣味はないのですが。そういえば、結婚前にマリッジブルーにおちいった時、一悶着あったなぁと気が遠くなった。あまり思い出して楽しい記憶ではないので、とりあえず笑顔で誤魔化しておく。
 そんなことをしていたら、再び両手でふんわり抱き締められた。
 錫杖しゃくじょうはいつの間にか消えている。出したりひっこめたり、便利なものだ。
 クレイヴからの抱擁ほうようは、先ほどまでの強過ぎる感じではなく、存在を確かめるみたいな優しいものだった。

「クレイヴ?」
「あー……本当にサエだ。サエの体温でサエの香りだ。どれだけ、恋しかったことか……」

 若干変態ちっくにも思える感想を呟きながら、クレイヴがあたしの首筋に顔をうずめて犬みたいにすんすん鼻を鳴らす。彼の声が振動となって肌に伝わって、あたしの首筋から上がぼふっと燃えた気がした。
 ちょ、それ本当にくすぐったいから勘弁してください……! 
 息! 息が当たってます! なんか背筋がぞくぞくします! 仕事明けの夫を気遣う気持ちはありますので、そろそろ身体を休めませんか! 嫁は夫の身体が心配です。

「え、ええと。その、クレイヴ? 帰ったばかりでお疲れでしょうし、そろそろ……」
「あはは。サエってば。俺を誰だと思ってるのかな。魔導師だよ? 疲労回復の術なんてとっくに使っているし、元々身体強化をかけてあるから、疲れることはないよ。だから……いつでも、俺は君をでることができる」
「え゛」

 れた声に濁点がつきました。はい、驚愕きょうがくではなく若干のおびえが混じっているのはいなめません。
 いえそれよりも、なぜ一瞬でまた寝室へと転移しているのでしょうか。便利ですね転移魔術って。
 しかもいつの間にか座位になっています。星の海に立っていた筈なのに、今やシーツの海で座っています。
 驚きと怯えおびで固まるあたしに、クレイヴの優しいキスが降ってくる。ひたいに触れた温もりは、常よりもずっと熱を帯びていて、甘かっただけの空気をどんどん融解ゆうかいさせていく。

「サエ、ごめん。今夜は覚悟して……あまり我慢できそうにないから」

 愛情ゆえの死刑宣告ともとれる言葉を吐いて、クレイヴは片手でとんっとあたしの身体を押し、クイーンサイズの寝台の海に沈ませた。それから上に覆い被さり、とろけるようなつややかな微笑を見せる。
 え、あれ。夫が優しいのに抵抗できません。
 これぞまさに問答無用と言うのでしょうか。
 って、さっきからあたしは誰に話してるんでしょう。心の中の自分にでしょうか。だって客観的に見ていないと死んでしまいそうなのですよ。主に夫の色気とか色気とか色気とかで。だから今お昼ですってば。
 実は毎日の嫁姑戦争で疲れてます、という言葉は回復魔術で呑み込まされ、あたしは結局、涼やかな瞳に熱を宿した夫の腕に溺れて落ちた。
 ――愛され過ぎも困りもの、なんて。
 昔の自分に言ったら、殴り倒されそうだけど。


「……それで、本当に何もなかったのか」

 静かな眠りの海に揺蕩たゆたいながら、あたしはその声を聞いていた。
 それは聞き慣れた、愛しい人が発する音の筈。
 なのに、どこか違っている。先ほどまで愛の言葉をつむいでいた声は硬質なものに変わっており、非情さすらうかがえた。

「なかったニャよ。ああ、でも配達に来た青年が焦げてたニャ。あれは可哀想だったニャ~」

 パロウが頷いているのか、彼女の耳に付いている鈴がチリンと鳴る音がした。それから、ふむ、と思案するような息遣いが聞こえる。

「サエに近づくからだ。しかし、いつもは年配の女性だろう。どうして男が来たんだ」
「ぎっくり腰になったらしくてネ。おいに代わりを頼んだらしいワヨ」

 刺々とげとげしく言ったクレイヴに、ネイが呟く。そして再び、鈴が鳴った。

「クレイヴ様~。いくらサエに異性を近づけたくないからって、屋敷の防護術式に男子禁制を組み込むのはやり過ぎニャ~」
「いいんだよ。それで」

 にべもないクレイヴの声の後、パロウの大きな溜息が聞こえた。

「ヤンデレにも程があるニャ……あんまり縛って、逃げられても知らないニャよ」
「逃すつもりも、解放する気もないよ。ああでも、そうなったら俺がどうなってしまうのか……興味はあるけど」
「そんな危ない橋、絶対渡りたくないニャ……」

 どこか底冷えするような楽しげな声音と、パロウの嫌そうな嘆きが聞こえる。その後、あたしの意識はゆっくりと、深淵しんえんの内に沈んでいった。



   第二章 隠し子疑惑と戦います!


「お義母様っ! 今日こそは引導を渡して差し上げますっ!」
「ほほほ! お尻の青いお嬢ちゃんが、片腹痛いわねっ!」

 一番鶏が鳴き終わり、白い朝日が山々を照らす頃。
 あたしは木しゃもじを、お義母様は銀のお玉を右手に持った状態で、食堂で対峙していた。勿論、互いに臨戦態勢である。
 それはさておき、家の中で、女の要塞ようさいと言えばどこになるか、おわかりだろうか。
 そう、ザ・台所である。その支配権を巡り、あたしとお義母様は日々こうして互いの料理で競いあっているのだ。あたしのレパートリーは日本食で、お義母様は皇国ティレファスの郷土料理で対抗してくるのである。
 毎朝恒例の「どっちの料理が美味おいしいでSHOW!」だ。ちなみにパロウからはネーミングセンスの欠片かけらもないって言われました。
 普段は料理に八割五分の確率で毒きのこが含まれているが、今日は夫のクレイヴがいるためその心配はない。入っていたところで彼の解毒魔術があれば一瞬で無効化されるけれど、あたしもお義母様も、普段仕事を頑張ってくれている彼に無駄な負担をいる気はないのである。

「ふっ! お袋の味を越えようなど十年早いわね! クレイヴは物心ついた時から、私のオムリア海老えびタラソワきのこソース添えに目がないのよ!」

 ばあん! と、お義母様が平たい銀の大皿をテーブルに披露ひろうする。そこには大量のエビチリに似た料理が盛り付けられていた。赤くプリプリした海老えびにかけられたきのこソースからは濃厚な香りがただよい、食欲をそそる。
 が、しかし。こちらにはお祖母ちゃん直伝のあの! 伝説の一品があるのです! 
 和食の基本と言えば一汁三菜! 汁と言えば、そう! 二日酔いから心の疲れにいたるまでやす! 海鮮王国日本にはなくてはならないこの一品! 

「なんの! 夫の味覚は妻が仕上げるもんですよお義母様! これぞ元祖日本の味! 疲れた身体にも心にも効く、アミーノしじみたっぷりな疲労回復味噌汁です!」

 あたしが嫁入りしてから食器棚の仲間に加わった木製のお椀には、たっぷりのアミーノしじみ(皇国ティレファス内エランド海産)が入っており、エラ昆布(皇国ティレファス内~以下同文)で取った、うま味たっぷりの出汁だしと相まって、奥深く懐かしい香りをただよわせている。
 ちなみに、味噌汁と断言しているだけあってちゃんとお味噌が入っていたりする。
 この世界にやってきた時、お味噌が恋しくて恋しくて、震えて半狂乱状態になったあたしを見かねたクレイヴが、魔術で再現してくれたのだ。
 小学校の時のグループ研究で「味噌の全て」を調べておいて本当に良かったと、この時はしみじみ思いました。人間何が役に立つかわからない。

「毎日毎朝、りないニャ~」
「ほんとよネ」

 った彫刻がほどこされた長いテーブルの端っこでは、パロウとネイがあたし達を遠巻きに眺め、何やら呟いていた。主人が帰宅しようが基本、傍観者な二人である。
 あたしとお義母様は、互いの作った料理を一通り配膳していった。卓上に所狭しと並べられた皿の数々はいろどりもあざやかで、朝食よりもディナーに近い品数だろう。
 白いご飯からバターの香りがする小麦のパンまで、和洋わよう折衷せっちゅうの料理を並べ終えたあたしとお義母様は、各々スプーンと箸を手に、互いの料理へ慎重に口をつけた。
 ひと噛みひと噛み、ゆっくり味や食感を堪能し、嚥下えんげして――互いに、卓上へと突っ伏した。

「っく……! やるわね、サエさん!」
「お、お義母様こそっ……!」

 そして、お互いの料理の評価を悔しがりながら述べていく。

「このマルル芋の煮っ転がしなんて最高だわ……! 作った後、少し冷ましておいたのね! よく味が染み込んでる……!」
「お義母様のブロムカポタージュもコクがあってまろやかで……はっ! これはもしや、ミニュー牛のクリームチーズを入れたのでは⁉ なんという濃厚さ……!」

「ぐぬぬ」だとか、「なんとっ……」だとか、苦渋をにじませたり驚愕きょうがくしたり、感嘆の溜息をらしたりしつつ、あたしとお義母様は思い思いに料理を堪能する。パロウとネイは「今日も豪勢ニャ」「そうネ」と、それぞれ嗜好しこうにあったものを取り分け食べていた。これもいつもの光景である。
 そんな感じに、お義母様と二人一緒に料理に身悶みもだえていたら、突然あたしの傍の卓上にふっと黒い影がかかった。
 なので、条件反射で上を見たら――

「目覚めた時、君が隣にいなくて寂しかった……」
「ふぁ⁉」

 魅惑のかすれ声が鼓膜に届き、同時にぎゅうと背後から抱き込まれ、あたしの顔が暴発した。
 顔面粉塵爆発ふんじんばくはつである。
 はて? 今日の料理に粉物はなかった筈だが、なぜだろうか。と一瞬気が遠くなってしまったのも無理はないと弁解しておく。
 いやいや。だってね? 朝っぱらから褐色かっしょく肌の良い筋肉がついた上半身裸とか見てみなさいな。半裸ですよ半裸。
 一応ローブを軽く羽織はおってるけど、胸筋と腹筋丸出しですよ? 
 なおかつその良い筋肉に後ろから抱き締められてみなさいな。もう一回言いますけど朝っぱらからですよ? 
 顔が爆発する程度で済んだだけマシですから! 

「くくくく、クレイヴ! 裸! 裸だから! 何か着てーーーっ!」

 絶叫するあたしの前、テーブルの反対側にいるお義母様がわなわな震えていた。
 握り締めたスプーンが、ハンドパワー(物理)で綺麗にへし折れている辺り、彼女の感情がうかがえる。

「ちょっと……っ‼ 朝っぱらからっ‼ 母親の前で‼ 堂々とやらないで頂戴っ‼」

 あ、やっぱりキレてた。
 うん。気持ちはわかりますお義母様。とてもよくわかります。ですが貴女の息子さん、寝る時に裸族になるのどうにかしてくださいませんか。嫁の心臓が保ちません。流石さすがに今は下を穿いていますが、寝台ではいつも生まれたままのお姿ですから。朝一でギリシャ彫刻みたいな姿を見せられるあたしの立場にもなってほしいです。いつもそっとシーツを掛けて部屋を出るけれど、見ないように動くって難しいんですよ意外と。あ、つい愚痴ぐちりました。

「もう、クレイヴ。朝ご飯が冷めちゃいますし、早く顔と手を洗ってきてください」

 お義母様の不機嫌をこれ以上こじらせないようにと、朝から色気過多な夫をたしなめながら首元に回っている両腕をぽんぽん叩く。が、なぜか母親と同じく息子にも不満げな顔をされてしまった。

「え~。俺はもう一度、サエと二人きりになりたいんだけど……駄目?」
「だ・め・で・す。お義母様もあたしも、頑張って作ったんですよ。それにクレイヴのことだから、仕事中はまた無茶な生活をしていたんでしょう?」
「う……」

 ざすざす刺さってくるお義母様の視線を知らんふりしながら、離れている間、ろくな生活を送っていなかっただろう夫を見上げた。すると、たちまち彼の表情が困り顔に変わる。図星らしい。

「やっぱり。また食事も取らずに回復魔術だけで済ませてましたね? いくら早く帰りたいからって、食事も睡眠も削るのは駄目って、前も言ったじゃないですか」
「いやぁ……」

 クレイヴの目が泳ぐ。昨日確認した限りでは、体調は良さそうだったけど、あくまで結果論である。
 皇国では随一の魔導師とされるクレイヴは、基本『なんでも』できてしまう。
 転移から、解毒、疲労回復など種類を問わず、お風呂についても、入らずとも魔術で一瞬で浄化できるのだ。単に本人の気分の問題でお風呂を使っているだけで。
 で、ここで問題となるのが、彼の性格である。
 クレイヴは早く帰りたいがために、とにかく最短で仕事を終わらせようとする。かなり無理をしてまで。
 あたしが見ていないのを良いことに、家にいない間は、食事や睡眠は回復魔術でまかなってしまうし、お風呂は浄化で済ませてしまうのだ。
 本人はそれで大丈夫と言っているけれど……実際に朝起きて、ちゃんとご飯を食べて夜眠るからこそ、人は心も身体も休めるのだと思う。
 なのであたしは彼が帰るたび、崩壊した生活リズムを直そうと奮闘しているのである。それは、お義母様も同じだ。

「不本意だけど、今のはサエさんに賛成ね。貴方は昔から危なっかしいんだから……」
「母さん、それは」

 呆れ顔で眺めていただけのお義母様が突然口を開いたかと思えば、クレイヴが厳しい声音で言葉をはばんだ。
 初めて見る光景に、少し面食らう。

「……わかってるわよ。でも黙っていてほしいなら、自分の嫁に無駄な心配をさせないようにすることね」

 念を押すように言ってから、お義母様が視線をあたしに移す。その含みを感じる物言いに疑問符を浮かべたあたしは、そういえば、クレイヴはあまり過去の話を口にしないなと思い返した。
 特に、子供の頃については全く聞いたことがない。それもあってあたしが知っているのは、彼がある程度成長してからの話ばかり。
 二年前に出会ってからずっと「俺の昔の話なんて聞いても楽しくないよ」と言って、はぐらかされていたからだ。
 あまり詮索せんさくするのもどうかと思って、そこで聞けなくなるのだけど、やはり好きな人のことだ。知りたいと感じるのは、傲慢ごうまんなのだろうか。
 しつこく聞けば嫌われてしまうかなと口にしないでいたし、お義母様も「私からは言えないわ」の一言だったので、未だにあたしは聞けないでいた。
 特に不便を感じなかった、という理由もある。
 だけど……出会って二年、結ばれて一年。
 元より相手のことを全て知ってから結婚するなんて人はそういない。夫婦となって初めて知ることの方が多い場合だってあるだろう。
 だけど、あたし達の間には、それでは済まないくらい、知らないことが数多くあるのかもしれない。

「クレイヴ」

 しばしの沈黙の後。
 真面目な声で名を呼ぶと、クレイヴはほんの少し眉尻を下げてから嘆息し、まるで降参するみたいに両手を上げて笑った。

「わかったよ……本当に、俺の奥さんは優しくてしっかり者なんだから。でも知っていてほしい。俺に不足しているのはサエだけなんだってことを。仕事中の生活については……まあ善処するよ……っと、ああ、またか」

 話の途中で、クレイヴがやや荒っぽく言い捨てた。普段穏やかな彼にしては珍しいと思っていると、褐色かっしょくの手の甲が淡く青い光を放っているのに気付く。

「クレイヴ様~連絡が来てますニャ。出ないと後でまた五月蠅うるさいニャよ」
「知ってる」

 今まで傍観を決め込んでいたパロウが食事の手を止めずにのんびりうながす。するとクレイヴは短い溜息をついて、手を中空にかざした。
 途端、彼の手の甲から青い光がするすると伸びていく。
 クレイヴの手には、普段は見えないが複雑な魔術式が刻まれている。発動時だけ現れるタトゥーに似た模様は、れっきとした連絡用の魔術方陣らしい。丸い円の中に幾何学きかがく的な文様が浮かび、そこから出た青い光が空間に細い線で文字を描き出していく。

「魔導師団長からネ。緊急みたいヨ」

 空中につづられた文字を見て、今度はネイが口をもごもご動かしながら呟いた。
 こらこら、ちゃんと呑み込んでから話そうよ、ネイ。牙が凄く見えてますよ。
 どうやら、連絡は皇国ティレファスにある魔導師団の団長からのようだった。
 二十行ほどの文字の連なりの後に、三日月を背にした一角獣の印章が見える。これは魔導師が公式に使用している印章で、白い一角獣をかたどっているものだ。皇国ティレファスには太古の昔、白い一角獣によって人に魔力が与えられたという伝承があり、そのため魔導師団のシンボルとなっているらしい。
 クレイヴの錫杖しゃくじょうにいるのは黒い一角獣だけど。そういえばこれも理由を知らないな、とふと思う。

「また獣魔が首都に出たんだって。はあ……どうして俺ばっかり呼び出されるかな。あっちにだって魔導師や騎士はいるのに。おかげでサエと全然ゆっくり過ごせない」

 光で筆記された文字を全て読み終わった後、クレイヴが顔をしかめ不満をらした。無理もない。昨日帰ったばかりだというのに、次の日には呼び出しとは。かなりのハードスケジュールだ。

「クレイヴ様は皇国でも一番の魔導師だから仕方ないニャ」
「なら父さんだっていいじゃないか。やっとサエと過ごせると思ったのに」
「ヴルガは研究中でしょウ。こうなることは、子主こあるじ殿も承知の上でハ?」

 愚痴ぐちこぼすクレイヴを、猫と狼の獣魔がなだめる。お義母様といえば、何やらぶつぶつ言いながら、自分の作った料理をフォークでちくちくつついていた。「ヴルガの馬鹿」とか「いつになったら帰るのよ」とかいう言葉が聞こえてくる。
 いじけてますな。明らかに。

「あー……行きたくない。サエと一緒にいたい。せっかく帰ってきたのに……あ、そうだ」
「クレイヴ?」

 後ろから夫に抱きつかれているので動けず、仕方なく各々の観察をしていたら、突然ぱっと手を離した夫が上機嫌な声を出した。視線を上げて見上げれば、周囲にキラキラと星でも飛んでいそうなほど神々こうごうしい王子様がいる。

「こんな要請はなかったことにしてしまおうか。俺は見なかったって言い張れば大丈夫」

 エキゾチックな褐色かっしょくの王子は、空中に描かれた魔導師団長直々じきじきの要請を、まるで黒板の文字を消すみたいにてのひらでざっと消そうとしていた。というか、ちょっと撫でただけで既に数文字消えている。
 本気だ。本気で証拠隠滅いんめつを図ろうとしている。我が夫は。あたしはぎょっとしながら、完全に仕事放棄モードに入ってしまったクレイヴの腕を掴んだ。

「いやいやいや」
「ん? どうしたのサエ」
「どうしたもこうしたも。正式な署名入ってますよね、これ。断れない系の」
「まあそうだけど。でも証拠さえなければ大丈夫だよ」
「全然大丈夫じゃないです。行きたくないのはわかりますが、証拠隠滅いんめつはやめてください。休むなら休むで、ちゃんと欠勤連絡は入れないと」
「ええー……」

 休みたいと言ったところで、相手が了承するかどうかは不明というか、ほとんど期待はできないけれど、それでもなかったことにするのはまずい。というより元OLとして、あたし自身が看過できないのだ。
 なんといっても、クレイヴの魔導師という職業は皇国ティレファスでは上級公務員のような扱いになっている。
 その上、彼は獣魔獣じゅうまじゅうという皇国最大の敵を封じた英雄なのだ。おかげで役職はかなり上の方にあるらしい。
 あたしはクレイヴによって異世界転移した時、それまでの仕事も全て放り投げてきた。
 だからこそ、余計に仕事はちゃんとすべきだと思ってしまうのだろう。

「仕方ないな……サエに仕事しない男だと思われるのも嫌だから、行ってくるよ。行きたくないけど」
「すみません。大変なのはクレイヴなのに、偉そうに言って」

 諦めでがっくり肩を落とす夫に申し訳ない気持ちが湧く。
 代われるものなら代わってあげたいが、それは無理な話である。皇国一とも言われるクレイヴに代わる人など彼の父親くらいのものだ。
 むしろあたしの場合は、魔力がないのでそれ以前の問題なのだけど。

「大丈夫だよ、わかってるから。でも……あ~、本当、君ともっといたかったな」

 クレイヴは仕方ないなとばかりに微笑を浮かべ、あたしの頭を撫でた。優しい手つきに、沈みかけた心が浮上する。

「あたしも、クレイヴとゆっくりしたいです。難しいと思いますけど、今度はお休みをもぎ取って来てくださいね」

 頭を撫でた大きな手を両手でぎゅっと握りながら言えば、夫はいている方の手で口元を覆い、「やっぱりなかったことにしようかな」なんてもごもご呟いていた。ええと、聞こえてますよ? 

「妻が可愛過ぎて辛い……」

 それから、およそ皇国一の魔導師とは言いがたい、背中を丸めた格好のクレイヴはいじけ気味に転移魔術で消えていった。服を変え魔導師の姿で消える寸前、ちらりとあたしを見た彼が「帰ったらサエにいっぱいやしてもらうからね」なんていう恐怖の言葉を告げていったのは、聞かなかったことにする。

「我が息子ながら、嫁ラブ過ぎて引くわ……」

 げんなり、を体現しているお義母様が、テーブルの上で項垂うなだれたまま呟いた。目の前で繰り広げられる溺愛に、口を挟むのを諦めていたのだろう。
 大丈夫ですお義母様。嫁のあたしですら未だに慣れません。
 嫁と姑の攻防と、それを傍観する獣魔二匹。
 そして再び出かけていった、格好良くて、自分を溺愛してくれる魔導師の夫。
 これが、元OL本﨑紗江の、今はサエ=オルダイアとなったあたしの――日常である。


 クレイヴがまた仕事に出てから数時間後。
 オルダイア家の屋敷……というか城だけど、ちょうど尖塔のてっぺんに白い太陽が差す真っ昼間、晴れた空の下であたしとパロウは洗濯物を干していた。
 オルダイア家は皇国の中心部からは遠く離れた場所にあり、屋敷の外には見渡す限りの平原が広がっている。
 ぶっちゃけ田舎いなかだ。
 この国には領地という概念がなく、皇国の国有地か、もしくは個人の居住地という、日本によく似た土地形態をとっているのでわかりやすい。ちなみにうちのお隣さんは、歩きなら三時間、馬車なら一時間くらいの場所にある小さな村だ。時々、お義母様やパロウとネイを連れて散策することもある。
 のんびりした田舎いなか暮らし。元のハードワークなOL時代とは雲泥の差がある生活を送っている。

「これで全部かニャ~。やっぱりお日様の下で干すと気持ちが良いニャ」

 普段着ているフロックコートを脱ぎ、少しだけ軽装になっているパロウが達成感たっぷりの声を上げた。それに合わせて黒耳の鈴がリンと鳴る。

「ほんとね」

 パロウと一緒に、風にはためく真っ白いシーツ達を眺めた。吹き抜ける風が天然の扇風機よろしくにじんだ汗を冷やしてくれる。
 うん。やっぱり洗濯物はこうでなくては。
 何本も張られたロープに、ずらりと並んだ洗濯物を前にして、あたしは満足じゃ、とばかりにこくこく頷いた。
 夫のクレイヴがいれば、魔術一つで事足りるので洗濯なんてしなくても良いのだけど、いない場合はこうやって元の世界と同じ方法で洋服や寝具を洗濯している。
 何しろ万能な夫は掃除だって錫杖しゃくじょう一振りでこなしてしまうので、油断しているとすぐになまけ癖がついてしまう。
 仕事をしている訳ではない専業主婦の状態で、今のところは子供もいないのだ。この上家事までしないとなると、正直言って立つ瀬がなくなってしまう。
 元々、日本にいた頃は高校入学と同時にバイトに明け暮れ、就職してからは朝から晩まで休日も返上で働いていた。そのせいか何もしないでいると変な罪悪感を覚えるのだ。まさしく貧乏性と言えよう。
 クレイヴがいると家事をさせてもらえないどころか、下手をするとベッドの住人にされるため、あたしは今のうちとばかりに動き回っているのである。
 人間働かなきゃいかん。ゴロゴロしていたら駄肉が増えるだけだ。
 かといって、お義母様みたいに毎日毎日鍛錬やら、高笑いやらする趣味はあたしにはないし。
 で、そのお義母様と言えば……あ、ちょうどやってきた。ネイも一緒だ。

「あぁ~らサエさん。何をぼさっとしているのかしら? お洗濯物がまだ残っていてよ?」

 とか何とか言いながら、今日も真紅しんく金刺繍きんししゅうマーメイドドレス姿のお義母様は、中くらいの布包みを片手に持ってあたしとパロウのところに歩いてきた。
 朝と変わらずスタイルばっちり、メイクばっちりなお義母様である。女子力高過ぎて参考にすらなりませぬ。それに毎日お化粧している割にお肌が綺麗なのは素直にうらやましい。
 若返りの魔術とかあるのかとクレイヴに聞いたら、ないと言っていたけれど、お義母様のことだから若返り薬を作っていても不思議はないなと思う。毒きのこにやたら詳しいし、美魔女であることを誇りにしてそうな人だし。


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