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第2章 街での暮らし⑨『イリアスの微笑』

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 イリアスに連れられ屋敷に戻ると、海人は急ごしらえしてくれた風呂に入った。
 左腕の傷は湯につけないよう言われたが、湯をかけてしまい、傷がしみた。

 傷は腕の皮を切る程度で縫うほどのことではなかった。
 
 拉致らちされかけたと聞いたグレンとマーシャはことの外、海人を心配した。
 食事も喉を通りやすいものにしてくれ、精神の昂ぶりを治めてくれるハーブティーも淹れてくれた。
 
 ひとりにならないように、代わる代わるそばにいてくれた。

 イリアスはシモンと共に駐屯地に戻った。

 本当はそばにいて欲しかったが、何かと後処理があるようで、我がままは言えなかった。
 
 陽が落ちた頃にイリアスが帰ってきた。
 
 部屋で休んでいた海人を見に来てくれたときには、だいぶ落ち着いていた。

 海人はイリアスの顔を見るなり、謝った。

「ごめんなさい……」

 言いつけを破り、ひとりで出掛けたことはわかっているだろう。
 まさかこんなことになるとは思わなかった。
 
 辺境警備隊の誰かと一緒にいるということがどれほど相手への抑止力になっていたのか、わかっていなかった。
 それに、自分は本当に狙われる存在だったのだと身をもって知った。
 それまではどこか他人事のように感じていたのだ。
 
 顔を上げられない海人に、イリアスはひとこと、無事でよかった、とだけ言った。
 
 海人はその優しさにまた涙が出そうになり、ベッドに潜った。

「ゆっくり休め」

 イリアスが部屋から出ていく。
 
 海人は布団の中で声を押し殺して泣いた。

 どれくらい泣いただろうか。
 
 涙が出尽くし、疲れ果てているのに、なかなか眠れなかった。
 寝ようとすると、さらわれた恐怖が舞い戻ってくるのだ。

 殴られた腹、切られた腕。縛り上げられ身動きできず、どこに連れて行かれるのかもわからない恐怖。

 そして何より人間の断末魔が一番怖かった。

 布団から顔を出すと、部屋は月光で照らされていた。

 屋敷にはイリアスもいて安全なはずなのに、窓から侵入者があるように思えて、気が気でなかった。

 幾度も寝返りを打ったあと、海人は起き出し、そろりと部屋を出た。
 
 不安で眠れなくて、イリアスの部屋の前まで来る。

 ノックをしようとしたとき、グレンからイリアスの部屋には入ってはいけないと言われたことを思い出した。
 
 部屋に戻ろうと思ったが、近くに人がいないのは不安だった。
 イリアスの部屋の前をしばしうろうろしていたが、扉の横に座り込んだ。

(少しだけ)

 そう思いながら、海人は目を閉じた。


 ***

 
 目が覚めたとき、海人はいつもと違う部屋にいることに気がついた。
 
 窓を見ると、外は薄青い。鳥のさえずりがかすかに聞こえた。

 体を起こしてみると、椅子に座ったまま寝ているイリアスがいた。
 長い脚を組んで、頬杖をついたままだ。

(ここ……イリアスの部屋?)

 昨夜、眠れなくてイリアスの部屋まで来て、座ったら眠ってしまったようだ。
 あれだけ寝付けなかったのに、不思議だった。

 部屋の前で寝ていた海人をベッドに運んでくれたのだろうが、まったく気づかなかった。
 精神が憔悴しょうすいしきっていたからかもしれない。

(そばにいてくれたんだ)

 イリアスは海人がこの世界にやって来てから、ずっと守ってくれていた。
 海人の意見を尊重してくれ、働きに応じて報酬だってくれた。

 そして拉致されたときは真っ先に助けに来てくれた。
 海人は強くて綺麗なこの人が、そこまでしてくれる価値が自分にあるのかと思ってしまった。
 
 跳躍者だけが持つという、特別な能力。
 
 しかしその力が本当にあるかどうかわからない。

 方法さえ教わっていない。
 だが本当に魔力を付与できる力があるとしたら、自分が彼にできることは、その力を差し出すことだけだ。
 
 海人が眠っているイリアスを見つめていると、視線に気づいたかのように、目を開けた。
 
 どきりとする。

「起きてたのか」

 イリアスは体の前で両手を組み、軽く伸びをした。

「あの、ベッド、ごめん」

 なぜか急に恥ずかしくなった。肩を回しながら、彼は気にするな、と言った。

「今日は屋敷でゆっくりしていろ。まだ疲れがとれていないだろう」

 イリアスが気遣ってくれるが、海人は首を振った。
 駐屯地には行くつもりだった。

「あんなことがあったから、みんなに謝りに行かなきゃ」
「あんなことがあったから、休めと言っているんだがな」

 イリアスが呆れたように言ったので、海人は笑った。

「大丈夫。みんなに御礼も言いたいんだ」

 ベッドから抜け出した海人はイリアスに向かって頭を下げた。

「イリアス。助けてくれて、ありがとう」

 心からの謝辞にイリアスは軽く目を見張った後、ふと口元を和らげた。

「もう、ひとりになるなよ」

 海人は初めて、イリアスが微笑んだのを見た。
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