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第26話 たったひとつの宝物
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その日私は、研究所で新しい薬の、認可用書類をまとめていた。
犬に噛まれることで発症する感染症、それに効果のある薬がやっと完成したのだ。治験も終わり、あとは申請を出して認可を待つ、というところまで来た。
そんな私の元に、急ぎ取り次ぎを願いたいというひとがいる、と受付の人が飛んできた。
聞き覚えのない名前だったが、私はとりあえず受付へ向かった。
そこにいたのは、どこか見覚えのある男性だった。でも、すぐに思い出せず、必死で記憶を手繰り寄せる。そして、ようやく思い出した。
「写真の方……!?」
そう……母が、フォールスと結婚できなかった時は、と渡してきた写真の男性がそこにいたのだ。
彼は、驚く私に苦笑し、ええ、ええ、あなたの夫候補だった男です、と頭をかいた。
私は、受付の側にある来客用ソファに彼を案内し、共に座る。
彼は、急に訪ねてしまった事を詫びると、少しのんびりした口調で話し始めた。
「実は私、ミスオーガンザの右腕として働いておりまして……あなたの夫候補というのは、ミスオーガンザの嘘……というか、発破をかける為の存在というか……ええ、まあ、そういう事です」
「そ、そうだったんですね……」
私は、絶対結婚できないと思ってしまった相手が目の前にいて、落ち着かないとともに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
気を取り直して、私は訪問の理由を聞いた。
「今日は、なぜ急にこちらに?」
私の問いに、彼は少し躊躇う様子を見せたものの、口を開いた。
「今日、ミスオーガンザが倒れました」
私は、頭が真っ白になる。
「母が……倒れた?」
「ええ、ええ。すぐに意識は戻ったのですが、私が無理やり医者のところに連れて行きました。だが、相当悪くなっているようで」
言われている事が、すぐに理解できない。
(相当……悪い?まさか……)
私の手は、誰から見てもわかるくらいに震え出す。
「母は、何か……重い病に、かかっているのですか?」
彼は無言で頷く。
「……そう、ですか。全然、知らなかった」
私の前では、背筋など曲げず、美しく、常に凛としていた母。
そんな母が、まさか重い病にかかっているなど、私はちっとも気づかなかった。
自分の観察力のなさに、私は打ちのめされる。医者だと言うのに、一番側にいるひとの病気にさえ気づかないなど、あり得ない。
悔しくて、唇を噛む。
「ミスオーガンザは、あなたにだけは、絶対に気づかれたくない、お前も決して他言するなと、そう言っていました。娘を、できるだけ悲しませたくないからと」
この人は何を言っているのだろう。そんな母を、私は知らない。
「でも、もう黙っていられない。だから私はここに来ました。失ってから、ああすればよかった、こうしていればよかったと後悔しても、取り返しがつかないのですから」
彼は、まるで過去にそんな経験があったのだろうか、というように、気持ちを込めて話す。
「けれど、私のためにそんな、母の言いつけを破ってまで……あなたは大丈夫なのですか?」
いくら右腕と言っても、自分と相容れないと分かれば、母は容赦なく切り捨ててしまうのではないか。
私は彼の事が心配になった。
だが彼は、ひとの良さそうな笑顔を見せ、言った。
「問題ありません。そうなったらそうなったで、何とかなります。あなたの苦しみに比べれば、軽い軽い」
はっはっは、と何でもないように笑う彼に、私は少し呆気に取られる。
母とは対極の……でも、きっと、だからこそ右腕としてやっていけるのかもしれない。
彼は、しばらく笑った後、ふっと真剣な表情を見せる。そして、ゆっくり頭を下げてきた。
「……お願いです。できるだけ、ミスオーガンザと過ごす時間を作ってやって下さい。仕事の方は、私が何とかします」
私は、何も言えなかった。私なんて、こんなに母を思ってくれる彼に、頭を下げてまで頼まれるような存在ではないというのに。
「そんなの、いくらだって作ります!だからお願い……頭を、上げてください」
彼は、ゆっくり顔を上げる。
「ありがとう。……それと、もうひとつ……」
言い淀むも、彼は言葉を続けた。
「嘘でもいいのです……どうか、あなたが結婚する姿を、ミスオーガンザに見せてやってほしい」
「結婚を……なぜなのですか」
まただ。なぜ母も彼も、そんなに結婚にこだわるのか。
だが、ずっと抱えていた疑問の答えが、続く彼の言葉で分かった。
「ミスオーガンザは、自分が死んだ後、混血のあなたに強力な後ろ盾が必要だと考えた。金ならいくらでも残せるが、地位だけはどうにもならない。……そうして目をつけたのが、新しい領主だったのです」
「じゃあ母は、私のために結婚を急いでいた……?」
「そうです。ミスオーガンザは、あの新しい領主に全てを賭けたのです。自分の娘の、未来を守るために」
そうなのか……そのために母は、危険なネタを使ってまでフォールスを脅し、私と結婚させようとしたのか。
「私の……未来のため……」
呆然とする私に、彼は優しく微笑んだ。
「アステさん。あなたは、ミスオーガンザが人生の全てを賭けて幸せにしようとした、たった一つの宝物なんです。だからどうか、あなたが幸せな姿を、最後に見せてやってほしい」
彼は、私の手を取ると、強く握りしめてくる。願いを叶えてくれといわんばかりに。
でも私には、彼の言う事に、頭がついていかない。
「……今ここで、答えは聞きません。あまりも勝手なお願いだ。どうするかは、あなたにお任せします」
そう言うと、彼は私の手を解放して、ゆっくり立ち上がる。
「……お仕事中なのに、申し訳ありませんでした。私はそろそろ戻ります。……私がここに来た事は、内緒にしておいて下さい」
私も、彼を追うように、慌てて立ち上がる。
「もちろんです……決して母に知られないようにします。あなたが教えてくれなければ私……本当に……」
私は深く頭を下げる。
「いいえ……本当はもっと早くお教えするべきだった。それをしなかった私の、せめてもの罪滅ぼしなのです。だから、気にしないで下さい。では……」
そう言い残し、彼は帰っていく。
彼の背中を見送る私の頭の中で、彼の言葉が繰り返される。
(人生の全てを賭けて幸せにしようとした、たった一つの宝物……)
それが本当の話なのか、私には分からない。でも、もう考えるのはやめた。
迷っている時間など、残っていない。
(愛されるのを待つのは、もうやめるわ。私は、私の思うように母を愛してやる……)
そう、心に決めた。
犬に噛まれることで発症する感染症、それに効果のある薬がやっと完成したのだ。治験も終わり、あとは申請を出して認可を待つ、というところまで来た。
そんな私の元に、急ぎ取り次ぎを願いたいというひとがいる、と受付の人が飛んできた。
聞き覚えのない名前だったが、私はとりあえず受付へ向かった。
そこにいたのは、どこか見覚えのある男性だった。でも、すぐに思い出せず、必死で記憶を手繰り寄せる。そして、ようやく思い出した。
「写真の方……!?」
そう……母が、フォールスと結婚できなかった時は、と渡してきた写真の男性がそこにいたのだ。
彼は、驚く私に苦笑し、ええ、ええ、あなたの夫候補だった男です、と頭をかいた。
私は、受付の側にある来客用ソファに彼を案内し、共に座る。
彼は、急に訪ねてしまった事を詫びると、少しのんびりした口調で話し始めた。
「実は私、ミスオーガンザの右腕として働いておりまして……あなたの夫候補というのは、ミスオーガンザの嘘……というか、発破をかける為の存在というか……ええ、まあ、そういう事です」
「そ、そうだったんですね……」
私は、絶対結婚できないと思ってしまった相手が目の前にいて、落ち着かないとともに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
気を取り直して、私は訪問の理由を聞いた。
「今日は、なぜ急にこちらに?」
私の問いに、彼は少し躊躇う様子を見せたものの、口を開いた。
「今日、ミスオーガンザが倒れました」
私は、頭が真っ白になる。
「母が……倒れた?」
「ええ、ええ。すぐに意識は戻ったのですが、私が無理やり医者のところに連れて行きました。だが、相当悪くなっているようで」
言われている事が、すぐに理解できない。
(相当……悪い?まさか……)
私の手は、誰から見てもわかるくらいに震え出す。
「母は、何か……重い病に、かかっているのですか?」
彼は無言で頷く。
「……そう、ですか。全然、知らなかった」
私の前では、背筋など曲げず、美しく、常に凛としていた母。
そんな母が、まさか重い病にかかっているなど、私はちっとも気づかなかった。
自分の観察力のなさに、私は打ちのめされる。医者だと言うのに、一番側にいるひとの病気にさえ気づかないなど、あり得ない。
悔しくて、唇を噛む。
「ミスオーガンザは、あなたにだけは、絶対に気づかれたくない、お前も決して他言するなと、そう言っていました。娘を、できるだけ悲しませたくないからと」
この人は何を言っているのだろう。そんな母を、私は知らない。
「でも、もう黙っていられない。だから私はここに来ました。失ってから、ああすればよかった、こうしていればよかったと後悔しても、取り返しがつかないのですから」
彼は、まるで過去にそんな経験があったのだろうか、というように、気持ちを込めて話す。
「けれど、私のためにそんな、母の言いつけを破ってまで……あなたは大丈夫なのですか?」
いくら右腕と言っても、自分と相容れないと分かれば、母は容赦なく切り捨ててしまうのではないか。
私は彼の事が心配になった。
だが彼は、ひとの良さそうな笑顔を見せ、言った。
「問題ありません。そうなったらそうなったで、何とかなります。あなたの苦しみに比べれば、軽い軽い」
はっはっは、と何でもないように笑う彼に、私は少し呆気に取られる。
母とは対極の……でも、きっと、だからこそ右腕としてやっていけるのかもしれない。
彼は、しばらく笑った後、ふっと真剣な表情を見せる。そして、ゆっくり頭を下げてきた。
「……お願いです。できるだけ、ミスオーガンザと過ごす時間を作ってやって下さい。仕事の方は、私が何とかします」
私は、何も言えなかった。私なんて、こんなに母を思ってくれる彼に、頭を下げてまで頼まれるような存在ではないというのに。
「そんなの、いくらだって作ります!だからお願い……頭を、上げてください」
彼は、ゆっくり顔を上げる。
「ありがとう。……それと、もうひとつ……」
言い淀むも、彼は言葉を続けた。
「嘘でもいいのです……どうか、あなたが結婚する姿を、ミスオーガンザに見せてやってほしい」
「結婚を……なぜなのですか」
まただ。なぜ母も彼も、そんなに結婚にこだわるのか。
だが、ずっと抱えていた疑問の答えが、続く彼の言葉で分かった。
「ミスオーガンザは、自分が死んだ後、混血のあなたに強力な後ろ盾が必要だと考えた。金ならいくらでも残せるが、地位だけはどうにもならない。……そうして目をつけたのが、新しい領主だったのです」
「じゃあ母は、私のために結婚を急いでいた……?」
「そうです。ミスオーガンザは、あの新しい領主に全てを賭けたのです。自分の娘の、未来を守るために」
そうなのか……そのために母は、危険なネタを使ってまでフォールスを脅し、私と結婚させようとしたのか。
「私の……未来のため……」
呆然とする私に、彼は優しく微笑んだ。
「アステさん。あなたは、ミスオーガンザが人生の全てを賭けて幸せにしようとした、たった一つの宝物なんです。だからどうか、あなたが幸せな姿を、最後に見せてやってほしい」
彼は、私の手を取ると、強く握りしめてくる。願いを叶えてくれといわんばかりに。
でも私には、彼の言う事に、頭がついていかない。
「……今ここで、答えは聞きません。あまりも勝手なお願いだ。どうするかは、あなたにお任せします」
そう言うと、彼は私の手を解放して、ゆっくり立ち上がる。
「……お仕事中なのに、申し訳ありませんでした。私はそろそろ戻ります。……私がここに来た事は、内緒にしておいて下さい」
私も、彼を追うように、慌てて立ち上がる。
「もちろんです……決して母に知られないようにします。あなたが教えてくれなければ私……本当に……」
私は深く頭を下げる。
「いいえ……本当はもっと早くお教えするべきだった。それをしなかった私の、せめてもの罪滅ぼしなのです。だから、気にしないで下さい。では……」
そう言い残し、彼は帰っていく。
彼の背中を見送る私の頭の中で、彼の言葉が繰り返される。
(人生の全てを賭けて幸せにしようとした、たった一つの宝物……)
それが本当の話なのか、私には分からない。でも、もう考えるのはやめた。
迷っている時間など、残っていない。
(愛されるのを待つのは、もうやめるわ。私は、私の思うように母を愛してやる……)
そう、心に決めた。
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