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4 絶望に酔う

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 あれから、男は自ら死のうとするのをすっかりやめてしまった。何をしてもわたしが止めてしまうから、諦めてしまったのかもしれない。

 だが、なぜか、意味が分からない事に、使用人の真似事をし始め……その何もかもが下手くそすぎた。竈に火を付けることも、料理も、掃除も、洗濯も。全部、全部だ。

 この男は、わたしの怒りを買って手をかけさせようと画策しているのだろうか。いや、そうに違いない。だが。

「甘いんだよ。自分で言うのもなんだが、わたしはとんでもなくひねくれてるのだよ?」

 だからわたしは、男が失敗をするたびに腹の底から笑って、気が済んだら、言葉が通じない男に手取り足取り教えてやった。
 わたしの手が触れるたび男の体は小さく震え、それはまるで男を知らない生娘のよう。わたしを力で押さえつける事も容易いだろう男の体とちぐはぐな反応に、どうしてだか心が躍る。
 悲しみを糧にして生きる魔女だと言う事を、忘れそうになるほどに。

 そしてわたしは思い出す。

 ずっとずっと昔の、ただのつまらない人間の少女であった頃を。沢山の弟妹。家の事を一手に引き受けていた日々を。

 魔女となり、わたしについての記憶はなかった事になり、家族は皆、とっくの昔に灰となって、この世界にとって意味のない存在になった。

「……ばかばかしい」

 わたしは、思い出に浸るなどというくだらない行為を鼻で笑う。そして、少しはまともになった男の家事の様子を眺めながら言う。

「お前のいた世界は、お前みたいに何もできない奴でも生きていけるんだな」

 もしこの男がこの世界の人里に降りたなら、言葉も通じず、何もできない役立たずと罵られ、蹴り飛ばされ、森の奥深くに捨てられ、最期は野獣に喰い殺されるだろう。

 だが、家事もろくにできない男でも生きていける世界には、男が死を望むほどの絶望があるのだ。
 そして、死のうとする事をやめてしまったはずの男からは、今も絶望の香りがにじみ続けている。

 わたしは、男の正面に立ち、首の後ろに手を触れる。わたしの細い首とは違う筋張った太い首を指で撫で、そして力を入れてこちらに引き寄せる。

 唇が触れそうな距離で、わたしは男の瞳を覗き込む。男は、震え、それでもわたしから目を逸らさないまま。その瞳の奥にある底の見えない絶望は、わたしを一瞬で捕らえて離さない。

「お前に触れると、気分がいい」

 男の肌に触れる手が、絶望に酔う。

(もっと……もっと欲しい)

 わたしの体は欲望のまま動き、男に口付けていた。そしてわたしは、男の小さく震える唇を舌で割る。その唇も、その奥も、痺れるほどに苦く、わたしはそれを夢中になって貪り続けた……。
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