32 / 47
第3章:広がる世界と、七歳の肖像
死神の「異変」と、皇帝の好奇心
しおりを挟む
帝国の中心、白亜の王宮。その一角にある皇帝の私的な談話室は、今日、奇妙な熱気に包まれていた。
主である皇帝は、椅子に座ることも忘れて窓の外を眺めたり、執務机の周りを歩き回ったりと、明らかにソワソワと落ち着きがない。
「……ヴィンセント、貴公、今日は随分と顔色が……いや、空気が柔らかいではないか」
皇帝が声をかけた相手、ロゼレイド公爵ヴィンセントは、相変わらず「帝国の死神」の名にふさわしい、隙のない軍服姿で書類を捌いていた。彼にはすでに、亡き前妻との間に授かった二人の息子がいる。優秀で冷徹、ロゼレイドの血を引く跡取り息子たちの父親として、彼は完成された「家長」であったはずだ。
だが、今、王宮内はおろか帝都中の貴族たちが、ある「衝撃的な噂」に震えていた。
「おい、隠しても無駄だぞ。街の広場で、貴公が小さな女の子の手を引いて歩いていたという目撃情報が、余の耳に嫌というほど入ってきている。あの死神公爵が、露店に並ぶ飴細工を端から全部買い占めようとして、その幼い少女に『そんなにいらない』と嗜められ、情けないほど大人しく引き下がっていたとな!」
皇帝は身を乗り出し、机を叩いた。
「息子が二人いるのは知っている。だが、あの鉄面皮のお前を言いなりにする女の子など、どこから湧いて出たのだ? まさか、余に黙って隠し子でもいたのか!」
皇帝は身を乗り出して詰め寄る。「隠し子か?」という冗談交じりの問いに、ヴィンセントは静かにペンを置いた。
「……陛下。報告を失念しておりました。あの子――エレーナは、先日、陛下に『お前の血を引く優秀な娘が見たいものだ』と揶揄された、あの日の帰り道に拾ったのです」
「……拾った? あの猛吹雪の夜にか?」
皇帝の驚きをよそに、ヴィンセントはあの日、雪溜まりの中に半分埋もれていた小さな「塊」のことを語り始めた。
「最初は死体だと思いました。ですが、抱き上げれば、ボロボロの布切れを纏い、痩せ細って死にかけた5歳の少女だった。……全身、痣と傷だらけでしたよ。医者に見せたら、日常的に虐待を受けていた形跡がある、と。どこの誰が親かは知りませんが、あんな連中にエレーナを返す気はありません」
ヴィンセントの声が怒りで低く沈む。そして、彼がエレーナを「娘」に決めた決定的な理由を明かした。
「抱き上げた瞬間、あの子の能力が発動しました。『視界共有』……。私は、彼女が見ている絶望をその場で追体験したのです。凍え死ぬのを待つだけの真っ白な恐怖の中に、救いとして現れた私自身の姿を。……その瞳に映る私を見た瞬間、決めたのです。これは保護ではない、私の娘にするのだと」
「能力だと……?」
エレーナの能力について聞いた瞬間、皇帝の顔からからかうような色が消え、真剣な「王」の顔になった。
「……ヴィンセント。その能力、そしてその娘を保護したこと、まずは余から感謝を言わせてくれ。希少な能力者は帝国の宝だ。そんな過酷な環境で失われていたかもしれない才能を、貴公が独断で、しかもロゼレイドの名で守り抜いたことは、帝国にとって計り知れない利益だ。よくやってくれた」
皇帝は深く頷き、ヴィンセントの肩に手を置いた。だが、その瞳にはすぐにまた別の「好奇心」が宿る。
「だがな……、あの『死神』をそこまでデレデレにさせ、飴細工の言いなりにさせるほどの娘か。貴重な能力者としての公認も兼ねて、余自ら屋敷へ行って、その『お姫様』に会ってやらねばならんな! 近いうちに、護衛もつけずに突撃してやるから覚悟しておけよ!」
「……陛下。お断りいたします」
ヴィンセントは即座に、そして完璧な一礼をして談話室を後にした。
廊下を歩く彼の背中からは、先ほどまでの柔らかい空気は消え、代わりに軍師としての冷徹な「迎撃思考」がフル回転していた。
(……あの男、間違いなく来る。しかも『感謝』や『公認』という正論を盾にして、お忍びという名の不法侵入で突撃してきかねん)
皇帝は昔から、ヴィンセントが困る姿を見るためなら、公務さえ放り出す性格だ。
もし皇帝が不躾に現れ、エレーナが驚いて泣きでもしたら、彼女の能力が暴走して王宮の均衡すら崩れるかもしれない。何より、ようやく自分に懐き始めたエレーナの平穏を、あんな「好奇心の塊」のような男に乱されるわけにはいかなかった。
(早急に屋敷の隠し通路を封鎖し、エレーナを隠すための絶対的な『避難先』か『別邸』を確保しなければならない。……いっそ、あの子を連れて一時的に別荘へ身を隠すか。……対・皇帝用の防御結界を三重に張り直すべきか)
ヴィンセントは、愛娘を誰にも――例え皇帝であっても――触れさせないために、真剣に「隠蔽計画」を練りながら、馬車へと急いだ。
「エレーナ、待っていなさい。お前のパパが、どんな外敵(陛下)からもお前を守り抜いてやろう」
「帝国の死神」は、今や一人の「最強の過保護な父親」として、親友である皇帝を最大の警戒対象に見定め、戦略的な隠蔽の準備を始めるのだった。
主である皇帝は、椅子に座ることも忘れて窓の外を眺めたり、執務机の周りを歩き回ったりと、明らかにソワソワと落ち着きがない。
「……ヴィンセント、貴公、今日は随分と顔色が……いや、空気が柔らかいではないか」
皇帝が声をかけた相手、ロゼレイド公爵ヴィンセントは、相変わらず「帝国の死神」の名にふさわしい、隙のない軍服姿で書類を捌いていた。彼にはすでに、亡き前妻との間に授かった二人の息子がいる。優秀で冷徹、ロゼレイドの血を引く跡取り息子たちの父親として、彼は完成された「家長」であったはずだ。
だが、今、王宮内はおろか帝都中の貴族たちが、ある「衝撃的な噂」に震えていた。
「おい、隠しても無駄だぞ。街の広場で、貴公が小さな女の子の手を引いて歩いていたという目撃情報が、余の耳に嫌というほど入ってきている。あの死神公爵が、露店に並ぶ飴細工を端から全部買い占めようとして、その幼い少女に『そんなにいらない』と嗜められ、情けないほど大人しく引き下がっていたとな!」
皇帝は身を乗り出し、机を叩いた。
「息子が二人いるのは知っている。だが、あの鉄面皮のお前を言いなりにする女の子など、どこから湧いて出たのだ? まさか、余に黙って隠し子でもいたのか!」
皇帝は身を乗り出して詰め寄る。「隠し子か?」という冗談交じりの問いに、ヴィンセントは静かにペンを置いた。
「……陛下。報告を失念しておりました。あの子――エレーナは、先日、陛下に『お前の血を引く優秀な娘が見たいものだ』と揶揄された、あの日の帰り道に拾ったのです」
「……拾った? あの猛吹雪の夜にか?」
皇帝の驚きをよそに、ヴィンセントはあの日、雪溜まりの中に半分埋もれていた小さな「塊」のことを語り始めた。
「最初は死体だと思いました。ですが、抱き上げれば、ボロボロの布切れを纏い、痩せ細って死にかけた5歳の少女だった。……全身、痣と傷だらけでしたよ。医者に見せたら、日常的に虐待を受けていた形跡がある、と。どこの誰が親かは知りませんが、あんな連中にエレーナを返す気はありません」
ヴィンセントの声が怒りで低く沈む。そして、彼がエレーナを「娘」に決めた決定的な理由を明かした。
「抱き上げた瞬間、あの子の能力が発動しました。『視界共有』……。私は、彼女が見ている絶望をその場で追体験したのです。凍え死ぬのを待つだけの真っ白な恐怖の中に、救いとして現れた私自身の姿を。……その瞳に映る私を見た瞬間、決めたのです。これは保護ではない、私の娘にするのだと」
「能力だと……?」
エレーナの能力について聞いた瞬間、皇帝の顔からからかうような色が消え、真剣な「王」の顔になった。
「……ヴィンセント。その能力、そしてその娘を保護したこと、まずは余から感謝を言わせてくれ。希少な能力者は帝国の宝だ。そんな過酷な環境で失われていたかもしれない才能を、貴公が独断で、しかもロゼレイドの名で守り抜いたことは、帝国にとって計り知れない利益だ。よくやってくれた」
皇帝は深く頷き、ヴィンセントの肩に手を置いた。だが、その瞳にはすぐにまた別の「好奇心」が宿る。
「だがな……、あの『死神』をそこまでデレデレにさせ、飴細工の言いなりにさせるほどの娘か。貴重な能力者としての公認も兼ねて、余自ら屋敷へ行って、その『お姫様』に会ってやらねばならんな! 近いうちに、護衛もつけずに突撃してやるから覚悟しておけよ!」
「……陛下。お断りいたします」
ヴィンセントは即座に、そして完璧な一礼をして談話室を後にした。
廊下を歩く彼の背中からは、先ほどまでの柔らかい空気は消え、代わりに軍師としての冷徹な「迎撃思考」がフル回転していた。
(……あの男、間違いなく来る。しかも『感謝』や『公認』という正論を盾にして、お忍びという名の不法侵入で突撃してきかねん)
皇帝は昔から、ヴィンセントが困る姿を見るためなら、公務さえ放り出す性格だ。
もし皇帝が不躾に現れ、エレーナが驚いて泣きでもしたら、彼女の能力が暴走して王宮の均衡すら崩れるかもしれない。何より、ようやく自分に懐き始めたエレーナの平穏を、あんな「好奇心の塊」のような男に乱されるわけにはいかなかった。
(早急に屋敷の隠し通路を封鎖し、エレーナを隠すための絶対的な『避難先』か『別邸』を確保しなければならない。……いっそ、あの子を連れて一時的に別荘へ身を隠すか。……対・皇帝用の防御結界を三重に張り直すべきか)
ヴィンセントは、愛娘を誰にも――例え皇帝であっても――触れさせないために、真剣に「隠蔽計画」を練りながら、馬車へと急いだ。
「エレーナ、待っていなさい。お前のパパが、どんな外敵(陛下)からもお前を守り抜いてやろう」
「帝国の死神」は、今や一人の「最強の過保護な父親」として、親友である皇帝を最大の警戒対象に見定め、戦略的な隠蔽の準備を始めるのだった。
8
あなたにおすすめの小説
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
【完結】ある二人の皇女
つくも茄子
ファンタジー
美しき姉妹の皇女がいた。
姉は物静か淑やかな美女、妹は勝気で闊達な美女。
成長した二人は同じ夫・皇太子に嫁ぐ。
最初に嫁いだ姉であったが、皇后になったのは妹。
何故か?
それは夫が皇帝に即位する前に姉が亡くなったからである。
皇后には息子が一人いた。
ライバルは亡き姉の忘れ形見の皇子。
不穏な空気が漂う中で謀反が起こる。
我が子に隠された秘密を皇后が知るのは全てが終わった時であった。
他のサイトにも公開中。
どうぞお好きに
音無砂月
ファンタジー
公爵家に生まれたスカーレット・ミレイユ。
王命で第二王子であるセルフと婚約することになったけれど彼が商家の娘であるシャーベットを囲っているのはとても有名な話だった。そのせいか、なかなか婚約話が進まず、あまり野心のない公爵家にまで縁談話が来てしまった。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
奪われ系令嬢になるのはごめんなので逃げて幸せになるぞ!
よもぎ
ファンタジー
とある伯爵家の令嬢アリサは転生者である。薄々察していたヤバい未来が現実になる前に逃げおおせ、好き勝手生きる決意をキメていた彼女は家を追放されても想定通りという顔で旅立つのだった。
“いつまでも一緒”の鎖、貴方にお返しいたします
柊
ファンタジー
男爵令嬢エリナ・ブランシュは、幼馴染であるマルグリット・シャンテリィの引き立て役だった。
マルグリットに婚約が決まり開放されると思ったのも束の間、彼女は婚約者であるティオ・ソルベに、家へ迎え入れてくれないかというお願いをする。
それをティオに承諾されたエリナは、冷酷な手段をとることを決意し……。
※複数のサイトに投稿しております。
私の、虐げられていた親友の幸せな結婚
オレンジ方解石
ファンタジー
女学院に通う、女学生のイリス。
彼女は、親友のシュゼットがいつも妹に持ち物や見せ場を奪われることに怒りつつも、何もできずに悔しい思いをしていた。
だがある日、シュゼットは名門公爵令息に見初められ、婚約する。
「もう、シュゼットが妹や両親に利用されることはない」
安堵したイリスだが、親友の言葉に違和感が残り…………。
私の容姿は中の下だと、婚約者が話していたのを小耳に挟んでしまいました
山田ランチ
恋愛
想い合う二人のすれ違いラブストーリー。
※以前掲載しておりましたものを、加筆の為再投稿致しました。お読み下さっていた方は重複しますので、ご注意下さいませ。
コレット・ロシニョール 侯爵家令嬢。ジャンの双子の姉。
ジャン・ロシニョール 侯爵家嫡男。コレットの双子の弟。
トリスタン・デュボワ 公爵家嫡男。コレットの婚約者。
クレマン・ルゥセーブル・ジハァーウ、王太子。
シモン・グレンツェ 辺境伯家嫡男。コレットの従兄。
ルネ ロシニョール家の侍女でコレット付き。
シルヴィー・ペレス 子爵令嬢。
〈あらすじ〉
コレットは愛しの婚約者が自分の容姿について話しているのを聞いてしまう。このまま大好きな婚約者のそばにいれば疎まれてしまうと思ったコレットは、親類の領地へ向かう事に。そこで新しい商売を始めたコレットは、知らない間に国の重要人物になってしまう。そしてトリスタンにも女性の影が見え隠れして……。
ジレジレ、すれ違いラブストーリー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる