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第3章:広がる世界と、七歳の肖像
リサーナの再降臨
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「おばあ様! またですか! 隠居されている身で、そう頻繁に屋敷へ顔を出されては、王宮の儀礼官たちが泣きますよ!」
王宮の隅にある静かなはずの隠居所。アルベルトは扉の前で必死に両手を広げて立ちふさがりました。しかし、皇太后リサーナは華麗な刺繍が施された扇をパチンと閉じ、孫の鼻先を軽く突きました。
「アルベルト、何を言っているのです。わたくしは隠居したからこそ、誰に憚ることなく好きな場所へ行けるのですよ。……それに、ヴィンセントがあんなに慌てて帰ったのです。エレーナに何かあったのでしょう? どきなさい、さもなくば、あなたの来月の小遣いを凍結しますわよ」
「うぐっ……! おばあ様、それは卑怯です……!」
アルベルトの必死の抵抗も虚しく、リサーナは悠然と、しかし風のような速さで公爵邸行きの馬車に乗り込みました。
公爵邸に到着するなり、リサーナは周囲の挨拶を無視してエレーナの部屋へ直行しました。
部屋の中は、エレーナの悲痛な謝罪の声と、それを見守るしかないマギーたちの沈痛な空気が充満していました。
「――どきなさい。エレーナ、おばあ様が来ましたよ」
リサーナはベッドサイドへ歩み寄ると、震えるエレーナをひしと抱きしめました。
「ごめんなさい……いい子にするから……たたかないで……」
その弱々しい声を聞いた瞬間、リサーナの瞳に激しい怒りの炎が宿りましたが、エレーナに向ける声はどこまでも優しく響きました。
「……エレーナ。聞きなさい。あなたはロゼレイドの宝。このリサーナが認めた、わたくしの誇り高き孫娘です。血の繋がりなど、わたくしたちの絆の前では無意味なもの。過去の亡霊など、このわたくしがすべて追い払ってあげましょう」
リサーナはエレーナの耳元で、静かに子守唄を口ずさみました。その穏やかで強大な魔力に包まれ、エレーナは数時間ぶりに深い、安らかな眠りへと落ちていきました。
エレーナを寝かしつけた皇太后リサーナは、そのままアルベルトを引き連れて執務室へと足を踏み入れました。そこには、殺気立ったヴィンセントと、自責の念に駆られた騎士たちが揃っていました。
執務室の重厚な椅子に深く腰掛けたリサーナは、扇を優雅に揺らしながら、ヴィンセントたちを見回しました。その瞳には、隠居所から眺めていた「今の帝国」への冷ややかな評価が宿っています。
「ヴィンセント。あなたがエレーナを保護してからというもの、わたくしも少し調べてみたのですけれど……。今の社交界は、本当に嘆かわしいことになっていますわね」
リサーナは鼻で笑うように、言葉を続けました。
「あのヴァルグレイ侯爵夫人――。どこかから現れたと思えば、瞬く間に貴婦人たちを懐柔し、今や社交界の流行(トレンド)も、序列も、すべてあの女の指先一つで決まるという。……わたくしに言わせれば、あんなものはただの泥棒猫の集まりですわ」
ヴィンセントが険しい表情で問いかけます。
「母上。あの夫人は、地方の旧家の出身と聞いていますが……」
「建前など、いくらでも書き換えられますわ。ヴィンセント、あなたは気づかなかったの? あの女の立ち振る舞いには、根源的な『傲慢さ』と、過去を必死に隠そうとする『焦燥』が混ざっています。……あれは、正当な血筋の者の目ではありません」
リサーナは扇をぴしゃりと閉じました。
「おそらく、彼女はどこかの伯爵家か何かに『後妻』として入り込み、そこを足がかりにヴァルグレイへ取り入ったのでしょう。夫に死なれたのか、あるいは自ら葬ったのか……。そして、その『過去の家』には、疎ましく、邪魔な存在がいたはず」
「それが……エレーナ、だと仰るのですか」
ヴィンセントの低い声が、執務室を震わせました。
「フェリミアという令嬢が、その女の連れ子。そしてエレーナが、その家に元からいた『先妻の娘』。……辻褄が合いますわね。邪魔な先妻の忘れ形見を、死んだことにして捨てる。よくある、しかし吐き気がするほど醜いお話ですわ。……今の社交界があの女に牛耳られていると思うと、不愉快で夜も眠れなくてよ」
「じゃあ……エレーナが怯えているのは、ヴァルグレイ侯爵家そのものじゃなくて、そこに今座っている『かつての義母と義姉』だっていうんですか……?」
アルベルトは背筋に冷たいものが走るのを感じました。もしそれが事実なら、エレーナを地獄に突き落としたのは、今や帝国の頂点に君臨する母娘ということになります。
「母上、そのどこの貴族かを特定することは可能ですか」
ヴィンセントの瞳には、静かな、しかし確実な殺意が灯っていました。
「隠居した身ですけれど、わたくしの手の者はまだ健在ですわ。ヴァルグレイ夫人が社交界に躍り出る直前、どの貴族が『急な不幸』に見舞われ、そして『娘が死んだ』と届けを出したか……。三日もあれば十分です」
リサーナは立ち上がり、アルベルトの肩を叩きました。
「アルベルト。おばあ様が屋敷に来すぎだと文句を言う暇があるなら、今のうちに『掃き溜め』のような社交界を掃除する準備をしておきなさい。……ロゼレイドの娘を傷つけた罪、あの女の地位も、名誉も、過去も、すべて粉々に砕いて差し上げますわ」
「おばあ様……」
アルベルトは、肩に置かれたリサーナの手の重みに息を呑みました。それは単なる身内の励ましではなく、帝国を裏から支えてきた女傑としての、逃れられぬ「命(めい)」でした。
「今の社交界が、その女の作り上げた虚飾で塗りつぶされているなら、すべて剥ぎ取って差し上げなさい。ロゼレイドが本気で動けば、あのような成り上がりの砂の城など、一突きで崩れますわ」
リサーナの言葉に、部屋の隅で控えていたフェイとジョエル、そして第二部隊長のゼノが、静かに、しかし力強く拳を握りしめました。彼らにとって、エレーナの涙は自分たちの不手際そのもの。その元凶が「社交界の女王」であろうと関係ありません。
「……クラウス。母上の言葉を元に、ヴァルグレイ夫人が入嫁する前の三年間を徹底的に洗え」
ヴィンセントの低い声が、執務室の空気を震わせます。
「『急死した先妻』『急死した伯爵』、そして『死んだことにされた令嬢』……。この条件に当てはまる伯爵家を、帝国の名簿から片端から照らし合わせるのだ。リサーナ様の『影』とも連携し、情報はすべて私に集めろ。……一分、一秒でも早く、あの子から光を奪った奴らの名を特定するのだ」
「御意に、閣下」
クラウスは深く頭を下げました。その瞳には、主人の怒りを体現するかのような冷徹な光が宿っていました。
第五節:嵐の前の静寂
リサーナは満足げに頷くと、最後にヴィンセントを鋭い眼光で見据えました。
「ヴィンセント。わたくしは今夜、このまま屋敷に泊まります。エレーナが目覚めた時、そばに誰がいるかで、あの子の心の傷の治り方は変わりますわよ」
「……母上、わざわざ王宮から……」
「隠居の身に、わざわざなどありません。わたくしは、わたくしのしたいようにするだけです。……さあ、アルベルト。突っ立っていないで、わたくしの着替えを用意させなさい。明日の朝、エレーナが目覚めた時に、美味しいスープの一杯でも飲ませてあげなくてはね」
リサーナはアルベルトを急かしながら、再びエレーナの部屋へと戻っていきました。
執務室に残されたヴィンセントは、窓の外の闇を見つめました。
その視線の先には、虚飾の栄華に酔いしれるヴァルグレイ侯爵家がある。
「エレーナ……。パパが、必ずお前を縛る鎖を断ち切ってやる」
帝国の守護卿、そして隠居した皇太后。
二人の怪物が、エレーナという一人の少女のために、帝国の表と裏から牙を剥き始めました。
王宮の隅にある静かなはずの隠居所。アルベルトは扉の前で必死に両手を広げて立ちふさがりました。しかし、皇太后リサーナは華麗な刺繍が施された扇をパチンと閉じ、孫の鼻先を軽く突きました。
「アルベルト、何を言っているのです。わたくしは隠居したからこそ、誰に憚ることなく好きな場所へ行けるのですよ。……それに、ヴィンセントがあんなに慌てて帰ったのです。エレーナに何かあったのでしょう? どきなさい、さもなくば、あなたの来月の小遣いを凍結しますわよ」
「うぐっ……! おばあ様、それは卑怯です……!」
アルベルトの必死の抵抗も虚しく、リサーナは悠然と、しかし風のような速さで公爵邸行きの馬車に乗り込みました。
公爵邸に到着するなり、リサーナは周囲の挨拶を無視してエレーナの部屋へ直行しました。
部屋の中は、エレーナの悲痛な謝罪の声と、それを見守るしかないマギーたちの沈痛な空気が充満していました。
「――どきなさい。エレーナ、おばあ様が来ましたよ」
リサーナはベッドサイドへ歩み寄ると、震えるエレーナをひしと抱きしめました。
「ごめんなさい……いい子にするから……たたかないで……」
その弱々しい声を聞いた瞬間、リサーナの瞳に激しい怒りの炎が宿りましたが、エレーナに向ける声はどこまでも優しく響きました。
「……エレーナ。聞きなさい。あなたはロゼレイドの宝。このリサーナが認めた、わたくしの誇り高き孫娘です。血の繋がりなど、わたくしたちの絆の前では無意味なもの。過去の亡霊など、このわたくしがすべて追い払ってあげましょう」
リサーナはエレーナの耳元で、静かに子守唄を口ずさみました。その穏やかで強大な魔力に包まれ、エレーナは数時間ぶりに深い、安らかな眠りへと落ちていきました。
エレーナを寝かしつけた皇太后リサーナは、そのままアルベルトを引き連れて執務室へと足を踏み入れました。そこには、殺気立ったヴィンセントと、自責の念に駆られた騎士たちが揃っていました。
執務室の重厚な椅子に深く腰掛けたリサーナは、扇を優雅に揺らしながら、ヴィンセントたちを見回しました。その瞳には、隠居所から眺めていた「今の帝国」への冷ややかな評価が宿っています。
「ヴィンセント。あなたがエレーナを保護してからというもの、わたくしも少し調べてみたのですけれど……。今の社交界は、本当に嘆かわしいことになっていますわね」
リサーナは鼻で笑うように、言葉を続けました。
「あのヴァルグレイ侯爵夫人――。どこかから現れたと思えば、瞬く間に貴婦人たちを懐柔し、今や社交界の流行(トレンド)も、序列も、すべてあの女の指先一つで決まるという。……わたくしに言わせれば、あんなものはただの泥棒猫の集まりですわ」
ヴィンセントが険しい表情で問いかけます。
「母上。あの夫人は、地方の旧家の出身と聞いていますが……」
「建前など、いくらでも書き換えられますわ。ヴィンセント、あなたは気づかなかったの? あの女の立ち振る舞いには、根源的な『傲慢さ』と、過去を必死に隠そうとする『焦燥』が混ざっています。……あれは、正当な血筋の者の目ではありません」
リサーナは扇をぴしゃりと閉じました。
「おそらく、彼女はどこかの伯爵家か何かに『後妻』として入り込み、そこを足がかりにヴァルグレイへ取り入ったのでしょう。夫に死なれたのか、あるいは自ら葬ったのか……。そして、その『過去の家』には、疎ましく、邪魔な存在がいたはず」
「それが……エレーナ、だと仰るのですか」
ヴィンセントの低い声が、執務室を震わせました。
「フェリミアという令嬢が、その女の連れ子。そしてエレーナが、その家に元からいた『先妻の娘』。……辻褄が合いますわね。邪魔な先妻の忘れ形見を、死んだことにして捨てる。よくある、しかし吐き気がするほど醜いお話ですわ。……今の社交界があの女に牛耳られていると思うと、不愉快で夜も眠れなくてよ」
「じゃあ……エレーナが怯えているのは、ヴァルグレイ侯爵家そのものじゃなくて、そこに今座っている『かつての義母と義姉』だっていうんですか……?」
アルベルトは背筋に冷たいものが走るのを感じました。もしそれが事実なら、エレーナを地獄に突き落としたのは、今や帝国の頂点に君臨する母娘ということになります。
「母上、そのどこの貴族かを特定することは可能ですか」
ヴィンセントの瞳には、静かな、しかし確実な殺意が灯っていました。
「隠居した身ですけれど、わたくしの手の者はまだ健在ですわ。ヴァルグレイ夫人が社交界に躍り出る直前、どの貴族が『急な不幸』に見舞われ、そして『娘が死んだ』と届けを出したか……。三日もあれば十分です」
リサーナは立ち上がり、アルベルトの肩を叩きました。
「アルベルト。おばあ様が屋敷に来すぎだと文句を言う暇があるなら、今のうちに『掃き溜め』のような社交界を掃除する準備をしておきなさい。……ロゼレイドの娘を傷つけた罪、あの女の地位も、名誉も、過去も、すべて粉々に砕いて差し上げますわ」
「おばあ様……」
アルベルトは、肩に置かれたリサーナの手の重みに息を呑みました。それは単なる身内の励ましではなく、帝国を裏から支えてきた女傑としての、逃れられぬ「命(めい)」でした。
「今の社交界が、その女の作り上げた虚飾で塗りつぶされているなら、すべて剥ぎ取って差し上げなさい。ロゼレイドが本気で動けば、あのような成り上がりの砂の城など、一突きで崩れますわ」
リサーナの言葉に、部屋の隅で控えていたフェイとジョエル、そして第二部隊長のゼノが、静かに、しかし力強く拳を握りしめました。彼らにとって、エレーナの涙は自分たちの不手際そのもの。その元凶が「社交界の女王」であろうと関係ありません。
「……クラウス。母上の言葉を元に、ヴァルグレイ夫人が入嫁する前の三年間を徹底的に洗え」
ヴィンセントの低い声が、執務室の空気を震わせます。
「『急死した先妻』『急死した伯爵』、そして『死んだことにされた令嬢』……。この条件に当てはまる伯爵家を、帝国の名簿から片端から照らし合わせるのだ。リサーナ様の『影』とも連携し、情報はすべて私に集めろ。……一分、一秒でも早く、あの子から光を奪った奴らの名を特定するのだ」
「御意に、閣下」
クラウスは深く頭を下げました。その瞳には、主人の怒りを体現するかのような冷徹な光が宿っていました。
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リサーナは満足げに頷くと、最後にヴィンセントを鋭い眼光で見据えました。
「ヴィンセント。わたくしは今夜、このまま屋敷に泊まります。エレーナが目覚めた時、そばに誰がいるかで、あの子の心の傷の治り方は変わりますわよ」
「……母上、わざわざ王宮から……」
「隠居の身に、わざわざなどありません。わたくしは、わたくしのしたいようにするだけです。……さあ、アルベルト。突っ立っていないで、わたくしの着替えを用意させなさい。明日の朝、エレーナが目覚めた時に、美味しいスープの一杯でも飲ませてあげなくてはね」
リサーナはアルベルトを急かしながら、再びエレーナの部屋へと戻っていきました。
執務室に残されたヴィンセントは、窓の外の闇を見つめました。
その視線の先には、虚飾の栄華に酔いしれるヴァルグレイ侯爵家がある。
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