その溺愛は行き場をさまよう

七天八狂

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9.らしくない

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 昨今のスマホに付随しているカメラは、モニターに映る時点で既に修正が施されているが、そんなありがたい機能の恩恵を受ける必要のない男が目の前にいる。
 彼は、寝ていても口が半開きだとか、よだれが出ているとか、寝癖で髪がぼさぼさなんてこともなく、腹立たしいほど完璧で、負の感情をすべて受け流してしまうなんて鼻につくことを平気でする。
 つねってやろうかとのいたずら心が顔をのぞかせるも、おそらくしたところで怒ることはない。驚きのあまり飛び起きて、ぽかんとするだけだろう。
 見つめていた生田は、時計を見てはっとして、隣で寝息を立てている久世の額に軽くキスをしてから起き上がった。

 洗面を済ませて、スーツに着替えたあと、昨夜の作り置きを盛り付けて朝食をとり始めた。
 何も聞いていないが、自分より先に出ていくことの多い久世が起きてこないということは、休みになったのか遅い出勤なのだろう。
 もしくは、昨日のようにまた晶と過ごすのかもしれない。
 暗澹たる気持ちになるも、だとしてどうしようもない。

 昨夜久世から聞いたのは、説明とはとても言えないような話だった。
 晶とは結婚しないと言いつつも、友人なので会うのをやめたりはしないのだと言う。
 それはいいとして、政略結婚なのにどう断るのかを聞くと、家を出るとしか答えず、具体的な解決策はないようだった。
 一応社会人であるはずだが、中身はまだお坊ちゃんというか、給料以上の金を使っている自覚がまるでないらしい。
 自分としてみれば、公務員である彼との給料を合わせれば、二人で暮らすには十分だと思う。ただ、彼にとっての十分がどれくらいなのかは、おそらく本人も考えたことはないだろうから、推し量ることができない。
 だから結局のところ、趣味も合うのだからわるくはないと言って、結婚という形に収まる気がしてならない。
 そして自分は、彼から別れを告げられない限りは離れることができないわけだから、やはり愛人としてしばらく囲われ、やがて彼に捨てられる結末を迎えるのだろう。

 どうしようもない予見に鬱々としながらも、真面目に一日の業務をこなした生田は、毎日のルーティン通りにスーパーへ寄った。
 なんにせよ日常は過ぎていく。悩んでいても普段のように夕食を用意しなければならないし、むしろすることで落ち着くとも言える。
 ルーティンモードに気分を切り替えつつ、作り置きがあるといっても、一品くらいは出来立てを出したいと考えて、青椒肉絲でも作ろうかとピーマンを物色していたところ、「お疲れ様です」と聞き覚えのある声に呼びかけられた。

「お疲れ様です。……よくお会いしますね」

 よくというより出会ってから毎日顔を合わせている、同じく仕事帰りといった出で立ちの真尋だった。

「生田さんとは、家が近いからでしょうか」
「えっ?」
「同じ駅でしたし、スーパーも一緒のようですから」
 彼女の返答を聞いて、あぁと納得した。昨日別れたあとマンションまでつけられたのかと思ったが、近いという概念がずれていただけだったらしい。
「確かにおっしゃるとおりかもしれません。えっと、宮本さんの献立は?」
「青椒肉絲に挑戦してみようかなって」
 どきりとする。
「……いいですね」
「はい。クックドゥを使ってみようと思ったんですが、生田さんにおすすめしてもらって買った、あの鶏ガラスープの素を使えば自分でもつくれるのかなって」
「ええ。オイスターソースもあればばっちりだと思います。レトルトを使うよりも好みの味にできますし、なにより美味しいですよ」

 そんなことを話しながら、昨日のように二人で店内を一周し、レジを済ませるまで連れ立っていた。
 店の外に出て、「それでは失礼します」と言って別れの挨拶をしたとき、真尋は「あの」と、まだ会話をしたりない様子を見せた。

「生田さんって、ご結婚されてるんですか?」
 いきなりされる質問としては驚くが、買う分量が多いからかもしれない、と思い当たる。
「いえ。独身です」
 客の出入りの邪魔にならないよう、自動販売機などが並んでいるほうへと誘導しつつ答えた。
「じゃあ、同棲されてらっしゃるとか?」
「ええ。食事つくりは僕の担当なんです」
「それは羨ましい」
 無邪気なほどの笑みで言う。昨夜誘われて断ったことに対して気にしている様子もなく、恋人がいると聞いてもあっけらかんとしている。
「出来立てを食べてもらいたいのに、何時に帰って来るのかわからないのがつらいところなんです」
 だからか、昨夜の愚痴のようなことを思わず言ってしまった。
「毎日帰りが遅いんですか?」
「いや、毎日というわけではありませんが……」
 休みかどうかの連絡はなかったから、おそらく遅く出勤していったのだと思う。朝が遅いとその分帰りも遅い傾向にある。
「もし今日もというのでしたら、青椒肉絲の味見をしてもらう時間とかって、あります?」

 驚くことではない。以前も誘われているし、話の流れ的にも不自然さはない。
 それに、恋人がいると聞いても動揺しないところを見るに、男女としての誘いではなさそうだ。
 そう楽観的に考えたくなったのは、もしまた仕事ではなく晶と一緒だったらなどと頭によぎり、昨日とは違ってやけになっていたことも影響していた。
「……30分くらいであれば」
 だから、普段なら絶対乗らなかったであろう誘いに、思わず乗ってしまったのだった。


 真尋のアパートは、いやマンションとも言える築浅のワンルームは、目と鼻の先だった。
 1LDKのそこはトイレ・バス別だしベランダもあり、モニター付きオートロックなんかもついて防犯もしっかりしている。
 近くと聞いてまさかと思っていたものの、新卒でそんなに給料がいいのかと驚くような価格帯のマンションだ。

「えっと、まずはピーマンの種を取るんですよね」
 言いながら包丁を持った真尋の手つきは、見ていてヒヤリとするほど危なっかしい。
 初心者だとは言え、三カ月も自炊していればもう少しマシだと思うのだが、不器用なのだろうか。
「ええ。スプーンで抉るように取ってもいいですし、慣れてきたら包丁でも」
「スプーン……」
 混乱させたのか、真尋は電源が切れたロボットのように静止してしまった。
 おかしくなり、手伝うべくジャケットを脱いで袖まくりをした。
「お借りしますよ」
 手を洗ったあと、目についたアルミのスプーンを手に取り、言ったように再現してみせる。
「こうやって、ちょっと力を入れたら簡単に取れます」
 おお、と感嘆の声を出した彼女に、やってみてくださいと、スプーンを渡す。
 すると、おそるおそるしながらもなんとかできるようになり、楽しそうな彼女を見てこちらも嬉しくなる。
 次はと教えていたらなんだか得意にもなって、二人でわいわいと料理をしていたら、30分なんてあっという間だった。

「美味しい! 中華料理屋さんみたいな味です」
「それは言い過ぎですよ」
「そんなことありません」

 ほら、と言って彼女はスプーンを再び青椒肉絲の山に突っ込んで、もう一口分すくいあげた。

「本当に美味しいですよ」

 目の前に食べてみろと言わんばかりに差し出された。
 なにやら、新婚夫婦めいたベタなシチュエーションである。
 料理はしてもらう側ではなくする側の自分には一生来ないと思っていたし、想像だけでもバカバカしいことだと思っていた。
 そのはずが、なぜか妙に緊張してしまっている。
 指が傷だらけで、手助けしなければならないほど庇護欲をそそる女の子だからだろうか。
 それとも、好みのタイプであり、引っ込み思案な仕草とは裏腹に積極的でもある彼女だからか……

「……僕もこれからつくりますから結構です。時間なので失礼します」

 味見をするという名目であがってきたのに、そう言って逃げるように部屋から出ていった。
 いや、まさに逃げ出さなければならなかった。なぜだかわからないが、キスを迫られた以上にときめいてしまっていたからだ。
 久世とは比較にならないが、それでもこれまで相手にしてきた何人もの女性以上に鼓動が跳ね上がってしまっていた。
 いや待て。彼と比較をするなんて、それ自体がバカげたことだ。彼以外に心を乱される相手なんて、いるはずがないのだから。

「今帰り?」

 声を聞いて足をとめる。
 そうだ。久世に対して感じるときめきは、他の誰に対するどれとも比較にならない。

「透こそ。早かったな」
「ああ。今ちょうど仕事が少ない時期なんだ。明日は休みになった」
 まさに仕事帰りという出で立ちを見て、ほっとした。晶と過ごしていたのではないらしい。
「そっか」
「それ」
 言いながら彼は、自分が両手に持っていたエコバッグを一つ取ってくれた。
「ありがとう」
「今夜は何?」
 話しながらマンションの入口へと歩みを進める。
「昨日つくり過ぎたから、追加でちょこっとつくるだけだよ。なに? お腹空いた?」
 しかし、ドアをくぐろうとしたとき、呼びかける声が聞こえて足をとめた。
 
「生田さん!」

 振り返ると、真尋が息を切らせて駆け寄ってきているところだった。

「……どうされたんですか?」
「あの、ネクタイを」
 あえぎあえぎ差し出したその手にあるのは、ダークレッドのネクタイだ。まさしく彼からもらったディオールである。
「ああ……ありがとうございます」
 調理のときに汚したくないと思って外していたのを忘れてきていたらしい。
「いいえ。……あ、こんばんは」
「……こんばんは」

 久世は不思議そうに、というより訝しんでいるとでも言える声で挨拶を返した。
 確かにそう感じるのも頷ける。真尋のことはどう紹介すべきだろうか。
 友人と言うほどの仲ではないし、かと言って他人でもない。同僚でもないわけで、知人と言えばいいのだろうか?

「あの、私は宮本真尋と申します。生田さんとは最近お友達に……お近づきというのでしょうか、料理を教えていただいたり、色々お話をしていただいて、とても助けられております。今日は私の部屋で、えっと、一緒に料理をしていて……」
 迷っていたら、言わなくてもいいことまでご丁寧に本人から説明してくれた。
「あー、えっと、そうなんだ……」
「久世と申します。ご親切にありがとうございました」
 まごついていたところ、久世が先に答えて、軽く頭をさげたあと一人でさっさと行ってしまった。

 初対面の相手に対して慎重な態度をとるのは常だから、無表情なのは不思議でない。ただ、怖じけることなくハキハキとしていたばかりか一方的に言うだけ言って立ち去るなんて彼らしくない。
 あれではまるで怒ってしまったみたいじゃないか。
 嫉妬なんてするはずのない久世が苛立つなんてあり得ないが、なぜか自分がするような反応──もし自分だったら、女性の家でネクタイを外すなんてどんな真似をしていたのかと、キレていたかのような反応だった。

「ご友人の方をお招きする日だったんですね。そんな日に失礼いたしました」

 声をかけられ、忘れかけていた真尋の存在を思い出す。

「いえ、もう少し遅くなると思っていたものですから。あの、これありがとうございました」
「いいえ。今度は八宝菜を試してみたいので、またよろしくお願いします」

 にっこりと満面の笑みで言った真尋は、深々と頭を下げて去っていった。
 ご友人の方と言われてなぜ否定しなかったのだろう。
 話題に出ていたのだから、彼がその同棲相手であることを伝えればよかったのに。
 言わずとも伝わることだと思ったからだろうか。
 いや、そんなはずはない。確かに異性であればそれで事足りたかもしれないが、相手は同性なのだから。
 単に知人レベルの相手に恋人を紹介することが恥ずかしかっただけだ。
 そうだ。それ以外の理由なんてあるはずがない。
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