その溺愛は行き場をさまよう

七天八狂

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10.今夜は帰る

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 真尋を見送ったあとマンションへ向かうと、ロビーにはすでに久世の姿はなく、先に上がってしまったようだった。
 らしくない。
 帰宅してもリビングどころかキッチンにもおらず、エコバッグが置かれたままである。
 バスルームから音が聞こえてきたため、まさかと覗くと、脱衣場に彼の着ていたシャツが丁寧に折りたたまれていた。

「早すぎだろ」

 ドア越しに軽口を叩いてみる。しかし、聞こえていないのか返事がない。
 それならばと、生田も服を脱いで中へ突撃した。

「黙って先に入るなんて水くさいな」

 シャワーのお湯をかぶりながら後ろから抱きしめた。
 彼は驚いたのかびくと身体を震わせながらも、洗う手を止めてくれたので、その滑らかな肌にキスをした。
 しかし、答えないばかりか硬直したように動かなくなってしまった。

「聞こえてる?」
 
 キスをやめて彼の前へ回り込み、顔を覗き込んでみる。
 覗き込んだというか、見上げたのだが、彼は顔をあげてシャワーを顔面に受けていて、反応しないどころか表情もわからない。
 それじゃあ修行僧でもつらいぞと呆れつつ、なぜ無反応なのだろうと首を傾げる。

「今夜は帰る」

 ようやく返ってきた言葉はそれだけで、抱きしめ返してくれもせず、見るも驚く早さでシャワーブースを出ていった。
 帰るって、どこにだよ。
 心のなかでつっこむも、久世邸、つまり彼の自宅であることはわかっている。ただ、ここへ越してきて以来用事がない限り帰宅したことなどなく、それどころか、ここから家へことなんて一度もない。
 らしくないどころか、耳を疑うレベルのことである。

 真意を確認するべくバスローブを引っ掛けて彼のあとを追ったが、既にその姿はなかった。
 行動力に関しては常々感心しているものの、この状況でもその能力を発揮してくれなくてもいいのに。

 買い物袋の中身を処理したあと、バスルームへと戻ってシャワーを浴び直した。
 浴びながら舌打ちをして、せっかく買ってきた刺し身が無駄になってしまったことを悔やんだ。残り物があることを知りつつも、給料日だったこともあって奮発したのである。
 いや『今夜は帰る』と言ってたくらいだから明日は来るのだろう。新鮮さは失うが、説明もないままに帰って無駄にしたのは彼なのだから、明日食べてもらえばいい。
 バスルームから出たあと、昨夜の残り物をよそって簡単に夕飯をとることにした。
 一人で食べる夕食というのは味気ない。普段は遅くとも彼の帰宅を待っているから、出張でもなく一人で食べる機会なんて久しくなかった。
 考え始めると、口論したわけでもないのに喧嘩したように思えて落ち着かなくなってくる。
 何やらむしゃくしゃとしてきて、酒でも飲むかと冷蔵庫へ向かいかけたとき、スマホが着信を告げた。

「はい」
『やっほ。ぼくと飲みに行かない?』

 もう疑ってかかるのは十分だ。監視カメラがあるに違いない。
 八乙女から何度となく着信を受けたことがあるが、久世といるときにかかってきたことは一度もないのである。カメラか何かがなければ説明がつかないだろう。

「あのクラブでしたら遠慮します」
『てことなBじゃなければいいんだ?』
「いえ……」

 言葉の綾だと言いかけたが、事実かもしれないと考え直す。
 飲みたい気分だったし、一人でよりは誰かと一緒のほうが気も紛れるかもしれない。

「……いいですよ」
『ふふ。じゃあ五分で着くから』

 そして宣言通り、どこかで待機していたのかと疑うような早さでLINEが入り、マンションの外に出ると、そこには八乙女家のリムジンが停まっていた。

「透と喧嘩でもした?」

 乗り込んで開口一番に問いかけられる。王はご機嫌な様子で珍しくも煙草……いや、葉巻だろうか、その煙をくゆらせている。

「どうしてなんでもお見通しなんですか?」
「あ、監視カメラなんてないよ。セックスはやはり見るよりするほうが好きだからね」
 どこに設置する話をしてんだよ。
「……想像力が違うんだ。人間を動かすためには次の行動を予測しなきゃいけないからね」
 それも御曹司あるあるなんだろうか。
「じゃあ、その想像力を用いてお聞かせ願いたいのですが、喧嘩の理由は何だと思いますか?」
「それは、雅紀くんの嫉妬だよ。二日連続で山科の令嬢と一緒だったんだ。絶対口論になると思ったね」

 おい、こちとらその前提自体を知らなかったぞ。しかも口論なら既に昨夜済ませている。
 まだまだだなと思いながらも笑えない。結果としては似たようなものだからだ。
 久世が出ていった理由が口論の結果じゃなかったとしても、あの慌てようを見るに映画のこと以外にあり得ない。つまり今日も会っていたという晶とのことで何かを思い出したのだろう。
 くそ。明日も仕事だけど構うまい。浴びるほど飲んでやる。

「どこへ向かっているんですか?」
「えーっと、雅紀くんを喜ばせるところ」

 なにやらぞっとしないな。

「何? その顔。本当だって。ぼくが嘘ついたことある?」

 確かに、八乙女は正直な男である。正直過ぎるというか、不必要なことすら言う。
 陰謀渦巻く財政界で生き抜く教育を受けているはずだから、長けてはいるのだろうけど、一般人の自分を相手に嘘などつく必要はないのだろう。
 ただ、今の自分を喜ばせるレベルのことなどあるはずがないとも思う。
 美味い酒に美食だったとしても嬉しくない。女の子なんてなおのこと。
 久世との未来に垂れ込める暗雲を晴らす以外に、心が躍ることなどない。

 そのようにまったく期待していなかったのだが、八乙女を感心、いや感謝せざるを得なかった。
 八乙女に連れて行かれたのは少し敷居の高そうなホテルのバーで、案内を受けた席には西園寺がすでに来ていた。
 そして西園寺は挨拶もそこそこに、あごをしゃくってどこかを指し示し、ぶすっとした顔で言ったのである。
 
「晶はあの女に夢中らしい。透なんて目じゃないくらい惚れているようだ。あいつらは本気で趣味の話だけで意気投合したみたいだな」

 指し示された方向にはカウンターがあり、斜め後ろからだが確かに晶と見える女性が座っていた。バイカーの格好をしたショートカットの美女なんて他に考えられないし、西園寺が言うからには間違いないだろう。
 その隣には、晶と寄り添い合いながら、彼女に匹敵しつつも別種の美女が座っていた。ボディラインがくっきりと出た服を身にまとい、その凹凸は目に麗しく、古い言い方をすればセックスシンボルめいた美女だ。
 
「とりあえずシャンディガフがいいかな? 雅紀くんビール好きでしょ?」
「えっ? ……はい。なんでもいいです」
「じゃあ、僕はマティーニ」
 八乙女が注文をしている横で、西園寺が煙草の箱を差し出してきた。
「……吸うか?」
 眉間に皺を寄せると、ははっと笑われる。
「これは普通の煙草だ。それより、醜い感情をぶつけるのも大概にしておけ」
 一本いただいて問いかける。
「醜い感情ってなんですか?」
「嫉妬なんてするなってことだ。結婚するのは避けて通れないわけだが、透は同時に二人を相手にできないって言っただろ」
「……だから僕のほうがお役御免なんじゃないですか」
「それを言うな。透をへこませるつもりはなかったんだ」
 どういう意味だろう。西園寺の言う意味がわからず、返答に詰まる。
「悠輔こそ雅紀くんにその醜い感情とやらをぶつけるのはやめたら?」
 すると、グラスを受け取った八乙女が口を挟んできた。
「パリで散々透のこと惚気ていたからショックなのはわかるけど、だからって新しい男に嫉妬するなんて、西園寺家の跡継ぎがすることだとは思えないな」
 
 驚くことを耳にして、煙草を取り落としそうになった。
 西園寺は鋭く細めた目をどこかへ向けただけで、反論しようとする様子はない。
 
「それであれを吸わせなんて、やることが陰険過ぎるね。逆に本気なのを見せつけられて、ようやく受け入れる気になったんでしょ? 嫉妬っていうか、昔の男に入れ込むなんて信じられないよ」
「……少しは必要な感情だ。そんなふうに必要な感情を無下にしていると、八乙女家も危うくなるぞ」
「はっ! バカなことを」
「とにかく」西園寺は、八乙女からこちらのほうへ顔を向けた。「あの辛抱強い透を出て行かせるほどキレるなってことだ」 
「……なんで部屋を出ていったってわかるんですか?」
 西園寺も八乙女のように想像力とやらを働かせたのだろうか?
「雅紀くん、悠輔はね、本物のストーカーなんだ。透にGPSつけてるからね」
「人聞きの悪いことを言うな。ただ久世家の使用人に聞いただけだ」
「それにしては情報が早すぎませんか?」
「怖いね。きっとスパイだよ」
 確かに執着の度が過ぎている振る舞いではある。
 だとして、豪胆な見た目や居丈高な態度とは裏腹に、嫉妬心からそんなことをするなんて、まるで自分のようだ。
 なにやら、わずかばかりだが親しみが湧く。

「透が自宅に戻ったのは喧嘩したせいではありません。おそらく山科さんに……」
 だから、事情を説明してやる気になったのだが、言いかけてはたと気がついた。
 晶ならすぐ目の前にいるじゃないか。
 ということは、彼女との用事ではなかったことになる。
「なんだ?」
 西園寺に聞かれたので、久世が出ていった状況を説明した。
 すると、八乙女が見たこともないくらい愉快げに笑い始めた。

「なんてことだ! 揃いも揃っておかしくなってるなんて」
 
 涙すら浮かべて腹を抱えながら笑っている。
 反して西園寺のほうは緩んできたはずの目つきが再び鋭くなった。

「なにがおかしいんですか?」
「いや、悠輔だけじゃなく透すらも嫉妬なんて感情に乱されるなんて、おかしくてたまらないよ。これが恋ってやつ? キモすぎ!」
 ああ、楽しいと言ってさらに笑いはヒートアップし、バーの雰囲気がぶち壊しになるほど声量が増した。

「透は嫉妬なんてしない。それは俺が試した」
「それってパリに行った理由のこと? 透から連絡が来るかを試して結局一度も来ないまま失敗した話だろ? 嫉妬しないんじゃなくて、そもそもする相手じゃなかったってだけの話だろ?」
 八乙女はそう言ってせせら笑い、西園寺は目で殺さんばかりの睨みを返した。
「振られてはいない。雅紀に出会ったせいで心変わりしただけだ」
「それが振られたってことだろ? つまり、悠輔は弄ばれたわけだよ。久世の息子なんかに」
 
 西園寺は話にならんとばかりに立ち上がり、何も言わずに店の奥のほうへと去っていった。
 
「西園寺家の息子を袖にするような男から惚れられているなんて、雅紀くんの魅力に間違いはないな」
 
 言いながら八乙女は、笑いすぎて涙で潤んだ瞳をこちらに向けて、いつぞやに見たように三日月型に歪めてみせた。
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