醒メて世カイに終ワリを告ゲルは

立津テト

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2.夢の途中と、大切な恩人。

2#3 希者

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「さてと、食事も済んだことだし、そろそろちゃんとお仕事しましょうか」

 俺の合図にルルとリリカも表情を引き締めて立ち上がった。
 そう、ここに来たのはピクニックが目的じゃない。ちゃんとしたクエスト、しかも三人がかりで挑むちょっと難易度の高いお仕事だ。

 仕事の内容は至って単純、魔獣の群れの殲滅。それだけ。
 それだけで報酬が金貨五枚だというのだから、これがどれだけ実入りのいい仕事かお分かりに……ならないだろうな。この世界の貨幣価値がわかんないと。

 この世界アステラでは中央大陸・東方大陸等関わらず、おおよそどの地域にも金か銀の貨幣が流通している。
 金本位か銀本位かや、そのときどきの時勢などで貨幣の価値は微妙に変動するが、金貨の方が高くて銀貨の方が安いっていう点はどっち本位でもだいたいの時勢でも共通だ。
 その金銀二貨と補助的に使われる一番価値の低い銅貨の三種類がアステラのお金となる。 
 一応紙幣も存在はするが、こいつは超高額取引とかの金銀貨じゃ重すぎて不便な時に利用するもので、小切手みたいなもんだな。
 これらは両替商――誤解を承知で言い換えれば銀行みたいなもの――に持ち込めば好きな貨幣に両替が可能だ。金額に応じた手数料を取られるけど。

 そんで具体的にどの貨幣がどのくらいの価値があるかって言うと、衛士――この世界の警察官みたいなもの。公務員の代表格――の初任給が金貨一枚と銀貨三十枚ほどだ。
 かなり大雑把な換算で金貨一枚は銀貨百枚分、銀貨は一枚で銅貨百枚分に相当する。
 庶民のひと月の生活費がおよそ金貨一枚とちょっとくらいだから、金貨五枚がいかに大金か推して知るべし、だろう?

 通常であればこんなオイシイ仕事はあっという間に斡旋請負委託業者――冒険者に雇われて割のいい仕事をもぎ取ってきたり、もぎとった割のいい仕事を冒険者に売りつけるいわゆる“業者”と呼ばれる連中――に先を越されるところなのだが、実はこの案件、訳ありで放置されていた。

 仕事の内容そのものは魔獣を倒すだけ。
 じゃあ何故か?
 成功条件がほとんど無理難題と言ってもいいくらい困難なのだ。
 標的の魔獣が強すぎる? 対象となる魔獣は数こそ多いがそれほど強くはない。
 クエスト任地が魔境? だったら俺たちみたいな貧乏人には準備の支度金が無いからそもそもクエスト達成の見込みがない。
 時間制限がシビア? ほとんどのクエストはよほど緊急でない限り余裕を持った期間が設けられてる。ちなみにこの討伐依頼は二週間だ。

 じゃあ何が困難かっていうと、その条件が完全殲滅だからだ。
 そんなの普通だって思わなかったか? 
 それがソレバークの特性と組み合わせると、無理難題になっちゃうんだよな。

 今回退治する魔獣は狼の変異した魔物で『ソレバーク』と呼ばれている。
 その特性はほぼ野生の狼を踏襲したものだ。ある程度の群れで行動し、主に森の中に潜んでいる、俊敏な動きと牙が強力な武器、鼻が利く、といった具合に。
 これだけだったら時間と労力を掛けてひたすら生息域をしらみつぶしにすればなんとかなるクエストなのだが、厄介なのは群れが壊滅状態になると残党が個々で四方に逃げ落ちる性質だ。
 しかも方々で仲間を集めて再び群れを作ると、一度追い払われた空白の土地にまた居座ろうと戻ってくる。
 戻ってきた際、別方向に逃げた群れとかち合うと群れ同士が衝突して縄張り争いが勃発する。そうするとただでさえ凶暴なソレバークが一層凶暴になるから人間側としても他人事として傍観できなくなるって寸法だ。
 これらの事情がこのクエストの難易度を大幅に上方修正していた。いや、攻略側からしたら下方修正だな。

 そんでソレバークの生息域は基本的に深い森の中。そして指定範囲のルー=フェル周辺はほとんどが山岳と森に包まれている。
 ある程度は縄張りで制限されるとはいえそれでも人間の足じゃ歩き回るのに丸一日かかるような広大な面積、しかも森林地帯だから歩きにくいこと視界が悪いことこの上ない環境、この条件下でこの地域にいる個体すべてを見逃すことなく完全殲滅とか、それこそ一個師団の兵隊を投入して草の根分けて囲い込まなきゃまず出来っこないのだ。

 いや、ちょっと大げさに言ったかな。
 実はかなりの範囲の目標魔獣を一か所に集める手段は存在する。奴らの鼻の良さを利用する方法、つまり匂いでソレバークを誘き出せる焚き物が存在するのだ。
 なので問題は数十頭のソレバークを如何にして一匹も逃さず殲滅するか、という一点に集中する。まあ、これだけとっても至難の業なわけだが。

 しかしその問題についての解決策は支度済みなのだ。ルルの考案した罠で一匹も逃さない算段が立っている。
 こうして焚き物とルルの罠のコンボで、誰も受けたがらなかった高難度クエストも俺達の手にかかれば攻略が成ったも同然の状態なわけだ。後は仕上げを御覧じろ、ってね。

 みんなでピクニック気分の後片付けを済ませると、俺は防具の装着チェックに入った。
 防具とはいってもそれらしいのは上半身に着けた革製の胸当てだけ。その下は着古した綿のブラウスとなめし革のズボンという出で立ちだ。ちなみに街の外に出た時は寝る時でもこの格好をしている。外に安全なんてないからな。
 安全って観点から言えば金属製の防具を使うとか防具でくまなく身を固めるとかして防御力を高めればいいという話なんだが、俺の戦術上ゴテゴテと防具に身を固めていても動きづらくなって不利になる。
 ガーラみたいに怪力オバケって訳でもないから重い防具をつけたって動けなくなるのが関の山だし、防御力よりも軽さと装着感を優先した結果このバランスになっている。 革よりも軽くて鋼に匹敵する強度を持つといわれる晶銀性の防具でも入手できれば最高なんだけどね。とんでもなく貴重な素材でナイフ一本で家が買えるらしいけど。
 そんな夢物語を軽い嘆息で吹き飛ばし、革鎧を留めているベルトが緩んでいないか確認する。緩んでいると身体を動かす時にちゃんとついてきてくれなくて動きがブレるからな。
 俺の愛用する小剣は腰に巻いた剣帯と、その剣帯を革鎧とつなぐサスペンダーで固定して安定感を高めている。これも激しく動いた時のブレ防止のためだ。腰裏に廻した鞘ともども、緩みがないか確認する。

「ようし、カンペキ」

「ルルの方も準備完了ですょ」

 これから敵を罠にかけようという気概からか、ルルが不敵な笑みを浮かべる。

「私も、いいよ~」

 対して荒事にはいつまで経っても慣れないリリカは、いつも通り初々しい緊張と不安を顔中に漂わせていた。
 
 実は罠の第一段階は食事前、この原っぱに到着した時点で発動してる。それはさっきも言ったソレバークを惹きつける香草の焚き物だ。だからちょっと青臭い、どちらかと言えば好きじゃない方の匂いが草原一帯に漂っている。
 まあ好きじゃないと言ってももっとひどい状況だって経験した俺からすれば、こんなもので食欲が減退するほど柔な神経はしてない。だからサンドイッチも美味しく頂けたわけだ。
 俺の匂いの好みはさておき、作戦全体から見るとこの一か所じゃクエスト指定範囲全部を討伐することは叶わない。なので範囲をずらして四回くらい同じ作業を繰り返すことで、もれなくこの付近のソレバークを一掃する計画になっている。
 一日一回四日に亘(わた)って行われるこの討滅作戦の、今日は記念すべき一日目だった。
 今までやったことのない作戦の、しかも初日ということで不安が無いといえば嘘になるが、作戦の内容そのものはいたってシンプルで失敗の可能性も少ない。
 ルルを信じていればほとんどの不安を忘れることができる程度だ。

 既に、開墾された草原と原生のままの森との境界から魔獣ソレバークの気配が密度を増して漂ってきている。焚き物に誘(おび)き寄せられてきた、この周辺を縄張りとする群体の気配が。

「さあ、今月分の家賃と光熱費と食費と更に来月分まで、稼がせてもらうわよ……!」

 切実な願望を口にして気を引き締める。

「来ました来ました……二、三……四……」

 半径百メートル周囲の微弱電流を読み取る門晶術により、ルルはソレバークの正確な数を把握できる。読み上げているのは罠の効果範囲に入ってきた敵の数だ。

 そろそろ臨戦態勢を取らないとな。
 俺は腰から小剣を抜くと右手に持って半身正眼に構えた。一般的なロングソードの三分の二程度の長さと厚さの、片手で扱う取り回し重視な剣だ。
 リリカもいつの間にか愛用のフレイルを取り出している。木製の持ち手に鋼の鎖で鋼の球を三つ繋ぎ合わせたシンプルな鈍器で、リリカの腕力じゃ軽やかに振り回すことはできなくとも、遠心力を利用した一撃はプレートアーマーをへこませられるだけの威力を持つ。
 ただし、この武器を十全に扱うには相応の腕力と熟練が必要となる。もちろん、日々を神様への献身に勤しんでるリリカにそんな修練を積む時間も意識もない。
 だが後方でサポートに徹するリリカにとって、武器なんて護身以上の意味はないのでそれで十分だった。それはつまり、基本的に前線で敵を撹乱したり食い止める俺の働きに掛かってるってことなんだけど。

「十、十一……」

 この頃には大型犬より一回り大きいくらいの魔獣の一団が、森の方から速足にこちらへ駆けてくるのも目視できた。

「大地にまどろむ我らが母よ、吾が願い、日々の祈りを糧として叶え給え……彼の者の躍動を助ける糧、御酒(みささ)を血潮、御食(みけ)を肉とし、血潮を意思、肉を力とし――」

 リリカが清水のように透き通った声で祈祷を始める。
 これは対象の心肺機能を高めて、通常時よりも長く力強く身体を動かせるようにする祈祷術だ。
 直に攻撃力や防御力が上がるわけじゃないけど、息切れを抑えて動き回れるってのは俺の戦い方にも集団戦でのセオリーにも適った効能だろう。

「十四……十六……十八……」

 この時、ソレバークの先頭集団は俺達の姿を認めて速足から疾駆に移り変わり、敵愾心むき出しのうなり声と牙の凄味がすっかり感じ取れる距離まで迫る。
 俺が踏み込みのために腰を少し沈めたのと、リリカの祈祷が功を奏して俺の身体を暖かな黄色の光が包み込んだのはほぼ同時だった。祈祷術は祈祷の間だけ効果を発揮する。滔々と祈りの言葉を紡ぎ続けるリリカに一瞥で感謝を示すと、すぐに正面に向き直る。
 目測およそ二十メートルってとこか……あと数瞬で俺の間合いだな。
 
「わかってるのかしら……そこはもう死線を切ってる、死地なのよ?」

 わかるはずががないとわかっていながら、俺は呟いた。これは癖だった。これから命を奪う相手に対しての警告、という形をとった自己正当化だ。俺は危ないって言ったからな、みたいな感じでさ。
 特に今回みたいな弱い者イジメになる時は、こうでもしないと後味が悪すぎる。

 右手にショートソードを提げそちら側を半歩引いた姿勢で、唸り声と地を蹴る音とを不気味に大きくしながら近づいてくる集団を見据える。
 一般人どころか冒険者が見ても肝を冷やすような光景だ。俺だって怖くないわけじゃない。でもこれまで自分が培ってきた経験を思い起こせば、その恐怖もだいぶ和らぐ。この程度の敵に後れを取る想像は、今の俺には無理だった。
 気持ちの余裕を確認して、深呼吸を一つ。強化された心肺機能が全身の細胞一つ一つにエネルギーを分配して、身体中に熱いものが満ち満ちていく。身体のどこにも緊張がないことを悟ると、俺はわずかに腰を落としてその瞬間を待った。

 その瞬間とは、俺が動くべき時のことだ。その一瞬は頭で判断するものじゃない。俺の持ちうる全感覚が、経験則に基づいて自然と判断してくれる。俺の意識はその囁きを聞き逃さないように集中していればいいのだ。

 魔獣の群れは僅かに散開して扇状に広がった。数の有利を利用してこちらを包囲するつもりなのだろうが……包囲網を敷く際、展開の最中は密な連携が取れなくなる一瞬がある。だから展開はなるべく相手の意識を逸らすか隠れてしなくちゃならない。やっぱこの辺は獣の浅知恵だな。
 だから俺の全感覚はこの瞬間を選んだ。

 頭の後ろで何かが囁く。今か、と静かに理解した途端、俺の視界が揺らぐ。揺らぎながら脳裏には半秒後に展開されるであろう光景が描かれている。それを頼りに小剣を振り下ろすと、過つ事なく先頭を走っていた一頭の頭蓋を斬り割っていた。
 グッと受け止めるような抵抗感の後、陶磁器を叩き割る時のカラッとした反動の消失を感じる。頭蓋骨を砕くとき特有の感触だ。
 いまだに慣れない死の感触に、一秒の数分の一だけ顔を歪める。
 包囲しようとした獲物に飛び込まれた上、その一角を崩されて獣たちの足が止まる。だがそれも一瞬のこと、すぐに気を取り直して襲い掛かってくるだろう。
 故に俺はこの機を逃さず次の行動に移らねば、それこそ相手の数に圧倒されて袋叩きに遭ってしまう。

 現在の俺の踏み込みはユールグに教わったそれとはもはや別次元の体術と化している。
 あの当時は踏み込み後の安定感が悪くて別の動作に移るのにわずかな隙が生じていたが、今では踏み込みの終わりと同時に一の太刀を繰り出し、そこから間断なく二の太刀あるいは続けざまの踏み込みに移ることができる。しかも前後左右好きな方向にだ。
 踏み込みと呼ぶにはあまりにも敏捷すぎるこの技を、ガーラは『瞬歩』と呼んでいた。その瞬歩を、今の俺は五、六回くらいなら安定して続けられる。
 
 これが俺の戦術の要の一つだ。機敏な動きで相手の出鼻をくじき、瞬歩の神速で撹乱する。
 そしてもう一つの要が、

「五十八式・甲、エルフ!」

 門晶術というトリッキーな攻撃手段。この機動力と遠近二つの攻撃を用いる全距離対応遊撃型オールラウンダー、それが俺の戦術上の役割であり戦法だ。

 力のこもった言葉に反応し、小剣を持たない左手から心中構築で無言の内に練り上げた炎の門晶術が迸る。エーテルから変換された純粋な熱の暴威は、俺の斜め後方で牙を剥いていた一匹の頭を容赦なく包み込んで炭化させた。
 剣だけじゃない、門晶術だってあの頃より威力も精度も上がってるぜ。もちろん、今では火球もちゃんと飛ぶから。

 ちなみに心中構築したから、本当は発動に呪文はいらない。
 じゃあなんで発声したかというと……まあ、ノリかな? 個人的には声に出すと威力が上がってる気がするんだ。そんだけ。
 ええ? 論理名の前の数がなんなのかって?
 それは……論理の登録番号で、論理が創出されてそれが門晶術学会の審査を通ると付与される型式番号みたいなもので……ああもう、そんなんどうでもいいじゃないか!
 ああそうだよ、言わなくてもいいのにかっこいい気がして言ってるだけだよ、もうほっとけ!

 まったく、こんなこと考えてる場合じゃないのに……。

 瞬く間に二頭の仲間を血祭りにあげられ、淀みなく流れていたソレバークの敵意が乱れ絡まりつつ俺に集中するのを感じる。
 だがそれで相手の戦意が高まったかと言えばそうでもなくて、俺は内心でギクリと首を竦めた。作戦の遂行に支障をきたした可能性を感じたからだ。その可能性――嫌な予感に足を取られ、様子を見るため俺の動きも鈍くなる。
 そうして敵も俺も動きが止まり……牙と悪意と困惑と焦りをこんがらがらせて睨み合う状況に陥った。

「……二十…………二十一……」

 だいぶゆっくりになったルルの計上が耳に入ってくる。数と速度から言って、このあたりの群体の七割は罠の範囲に収まった頃合いか。
 まだもう少し時間がかかるか……なんとしてもこの嫌な予感が現実にならないようにしないと。

 それほど大きくもないルルの声が聞こえたのは、それだけ俺の周囲が静かだったからだ。
 不穏な静けさだった。そして俺はこの静けさを知っている。煮えたぎる暗い熱気を押し隠した、不自然な忍耐からくる静けさだ。
 獲物へ一気に襲い掛かろうとする時、人も獣もこんな不気味な時空を発生させることがある。ただしそれは激情を種に生まれる時空のはずだ。

 この睨み合いが激情から生まれるのであれば、この獣たちはどうして激情を発してるのか?
 それはきっと血の匂いが獣の本能を揺さぶり、魔獣の魂がその動揺を極限まで増幅しているからだ。
 おそらく数瞬も待たずに包囲網の一画が暴発し、この静かな膠着状態が決壊する。そうして血に飢えた牙が俺めがけて殺到してくるだろう。
 魔獣の理屈じゃない凶暴性は、もうウンザリするほど見てきた……その凶暴性にルゥ婆も殺された……だから嫌でもわかってしまう、こいつらはもう逃げないと。
 そのやるせない確信をもって俺は安堵した。作戦はまだ有効だとわかったから。

 そう、嫌な予感は杞憂だった。
 二匹をあまりにたやすく殺しちゃったから他のソレバークが怯えて逃げ出さないか、それが杞憂の正体だ。群れのすべてが罠に入る前に逃散(ちょうさん)されたら作戦失敗だからな。
 ……しかしやっぱりエーテルに毒された魔獣の本能は伊達じゃないね。すごく獰猛だ。絶対、こんなの放っといちゃだめだ。また誰かが悲しむことになる。
 
 そう思う最中にも、決壊は背後から起こっていた。
 死角からの攻撃、獣だって命の遣り取りのセオリーは心得てるってか。でもだからこそ予想の範疇だ、おかげで対応しやすい。
 背後に七、正面に三の割合で保っていた俺の意識が、いち早く背後からの襲撃に反応して振り返る。
 またまた扇状に三匹。包囲を目的にした散開か。
 確かに一対多数ならセオリーだけど芸がない。とはいえやり過ごす隙は無さそうだ。となれば切り開くのみ!

 俺は三方向から押し包もうとするその正面一匹に狙いを定めると、即座に瞬歩で踏み込んだ。
 獣の本能でこの挟撃に呼応したか、俺の背後にいた四匹にも走り出す気配があった。こいつらが後詰に寄ってくるとなると、俺は正面の三匹をどうにかしない限り完全に包囲されることになる。一匹一匹は大したことないとはいえ、さすがにそれは気分のいい状況じゃあないな。
 まだなるべく殺傷は控えたいと思ってたが、そうもいかないか……。

 瞬歩に移る直前、景色が歪んだ刹那にそう判断を下した俺は僅かに身を捩って攻撃の姿勢を変じる。
 超高速でのすれ違い様、小剣で一抱えほどもある逞(たくま)しい首筋を撫で斬りにして俺の背後に血の花を咲かせた。
 辺りに漂う血の匂いが濃くなり、ソレバーク達が纏う悪意の気配もそれに応じて密度を増す。
 獲物に抜かれたと気付いた最初の二匹が体をくの字にして急旋回すると、その勢いを維持したまま再び俺に襲い掛かる。いつの間に回り込んだか、その背後から追従する別のソレバークの一群も見えた。

 すっかり頭に血が上ったみたいだな……それ自体はいいのだが、これをいなし続けるのは大変そうだ。殺さずただ挑発し続けるってのもしんどいぜ。
 でもここが正念場、ここさえ乗り切ればもうそろそろ俺達の罠が完成するはず。

 罠の事を思った俺の意識が、自然と十数メートル後方にいるルルに向く。しかしそれも一瞬、首を伸ばして牙を突き立てようとしたソレバークの一撃を躱しざま、瞬歩でその奥から襲ってきていた一頭の鼻っ面を蹴飛ばした。怯んだ隙に瞬歩で距離を取る。
 その直後、俺が寸前までいた空間にソレバークが殺到した。針金のような体毛が描く稜線の隙間から、殺気立った勢いに任せて仲間の喉笛を引き裂くのが見て取れる。その見境のない光景は思わず顔が歪む醜悪さだ。
 魔獣の凶暴性か……救いようがねえな。

 なんて呆れて見物している暇もなく、その殺戮の輪に加わらなかった数匹が俺に向かって駆けてくる。俺は牽制の意味を込めて軽く小剣を横薙ぎに振ってソレバークの足を留めさせると、浅く踏み込んで流れる刃を打ち下ろしに変じさせる。
 だが敵もさるもの……いや犬か。不意打ち気味の初撃やさっきのすれ違い様の切り抜けこそ綺麗に喰らってくれたが、正面切っての攻撃は獣の反射神経で見事に見切られてしまった。でもそれはこっちも折り込み済み、浅く踏み込んだのには訳がある。
 浅い踏み込みのおかげで身体の重心を後ろに置いていた俺は、間断なく身を引いてソルバークの追い打ちを回避する。
 確かに全力で攻撃してたら隙だって生まれるかもしれないけどな、こういう牽制からならいくらでも身の処しようはある。ある種のフェイントだ。
 わざわざフェイントなんか噛ませて場を持たせなきゃなんないのも、作戦の進行上まだ痛撃を与えるべき段階じゃないからだ。でもそのことが俺にいつも以上の冷静さを与えてくれて、動きのキレを増している気がする。
 ま、そもそもちゃんと戦ったらこんな奴ら、ダース単位だろうとまとめて三十秒で片付けられるんだけどさ。

 一瞬の攻防に一息つき、再び隙を探りあう睨み合いが発生する。
 リリカの祈りのおかげで動きだけはやたらと激しい戦闘だったにもかかわらず、呼吸はまったく安定している。筋肉の疲労感もない。
 祈祷術の効果が顕れているということは、リリカが後方でお祈りの言葉を続けてくれているということだが、甘美であろうその声はここまで聞こえてこない。
 それもそのはず、祈祷術の祈りは神様にさえ届いていればいいらしいので、大きな声を出す必要はないのだ。ううん、残念。

 なんて、こんな具合に余裕をぶっこいていられるのも今の内かなぁ……数の暴力は伊達じゃないぜ、ここまで増えるとさすがに殺さずになんて悠長なこと言ってられないかも……。
 って、いくらなんでもそろそろソレバークの頭数も揃うんじゃないか?
 そう思って視界の隅でルルを見やると、何かの意図を含んだ視線とかちあった。まるで俺の期待を汲み取ったかのようなタイミングだ。

「ぉねぃさまっ、ほぼ集まったみたぃです! ぃきますょ!」

 ルルが本当の戦闘開始を声高に合図する。
 その声が俺の闘争本能をいやが上にも掻き立てる。

「ラドニュオラ・エグラル・シルトセレ・エガック!」

 合図の直後、ルルは力ある言葉を高らかに詠唱した。
 雷の門晶に増幅変換されたエーテルが俺達を、ソレバークの群れを包み込んでいくのを感じる。ちょっとピリッとした空気の変化にソレバーク達も気付いたみたいで、俺に対する敵意も忘れて周囲を警戒し始めた。
 でももう遅いんだなぁ、お前たちがここに集結した時点で俺達の勝ちは決まったんだよ。

 広がる雷のエーテルがある付近まで肥大化した時、それはあらかじめ設置しておいたあるガジェットに反応をもたらし起動する。
 さすがにここからじゃその起動を直には見れないけども、より濃密になった雷のエーテルのおかげでその発動を肌でしっかりと感じられた。

「起動完了です! これでもぅこぃつらは袋のネズミですょ!」

 犬だけどな。
 それはともかく、これでようやく窮屈な前哨戦から解放された。ここからが本当の討伐戦の始まりだ。

 改めて説明すると、作戦の全容はこんな感じになる。
 まずはソレバークだけに有効な香草の煙で、奴らをねぐらから悉(ことごと)く炙り出す。
 そうして群れのすべてが罠の効果範囲内に収まった時、ルルの門晶術『雷の檻』を発動する。

 『雷の檻』とは文字通り電気の格子で対象を封じ込める門晶術だ。格子に触れれば一瞬で黒焦げ、とはいかないまでも身体が一時的に麻痺する程度の電流で結界は作られる。
 だが普通に発動させただけではせいぜい半径一メートルほどしか囲えない。そこでこのガジェットの登場だ。

 冒険者協会の倉庫で眠っていたこのガジェットを見つけ出してきたのはルルの功績だった。
 ルルは門晶術研究とかガジェットいじりとか大好きな理系女子で、暇さえあればガジェット倉庫の目録を見たり国立図書館で晶導書の研究に勤しんでいたりする。
 あまりに熱の入った研究っぷりは寝食を忘れることもしょっちゅうで、出掛ける約束をすっぽかされるのはまだ可愛い方、気を付けてないとぶっ倒れるまで机にかじりついて死にかけたりするのが玉に瑕だ。でも今回はそれが大いに役立ってくれた。

 ルルが小一時間に亘(わた)って――本人はそれでもかなり簡潔にしたらしい――解説してくれた機構はよくわからなかったが、かいつまんで説明すればガジェットそのものは雷の門晶術を強化するだけの代物だという。しかしほとんどの人間が理解できないであろう操作――取説を読んだ俺でもさっぱりわからんかった――を加えると、その術に指向性を持たせてしかも増幅器同士で中継もできる代物だとか。
 んで、ルルは手ずから『雷の檻』用にこのガジェットをセッティングし、門晶術自体も範囲強化版を再構築し、それを更にガジェットで広域展開して……ってな具合でこの辺一帯ごと囲い込めるだけの術に強化発展させちまったわけだ。全く恐れ入るよ。

 そうやっていろいろ頑張った罠の中に封じ込めたらあとはこっちの思うがまま、っていうのが今回の作戦の全容でしたとさ。ちゃんちゃん。

 てなわけで作戦がようやく完成した。
 周囲の変化が自分達に直接関係のないものだと悟った――思い込んだソレバーク達が、再び俺への敵意をむき出しにして襲い掛かってくる。
 その先頭を走る一体に雷光が閃いたかと思うと、そいつはビクリと大きな身体を痙攣に波打たせて動かなくなった。ルルの援護射撃だ。
 『雷の檻』を展開しながら、よくまあ指向性雷撃の門晶術まで無詠唱できるなぁ、あいつ。頼もしいやら恐ろしいやら。

 いずれにしろ俺も負けてらんないな。
 不敵な笑みが口元に浮かぶのを自覚しつつ、仲間の死を意にも介さず走りくるソレバークの群れに瞬歩で切り込む。
 ふわりと天から降り立ったような優雅さで獣の濁流の中心に立った俺は、手当たり次第に周りのソレバークを切り崩しにかかった。

 前から飛び掛かってくる一匹を小剣で斬り払ってその死骸を半身で避け様、側面から牙を剥く一匹に無詠唱で火球をぶつける。その余波をかいくぐってきた二匹の内、一匹に紫電が走る。俺は内心で援護に感謝しながら余裕をもってもう一匹を回避し、相手が着地したところを小剣で始末した。ついでに背後にいた一匹を振り向くことなく背面突きで仕留める。

「これで十匹」

 血の匂いはソレバーク達の戦意を損なうどころかいや増しに増大させた。残った十数体が波状に攻撃を仕掛けてくる。
 その絶え間ない攻撃を躱しては斬り、ルルの援護を得ては返り討ちにする。
 俺を相手じゃ勝ち目がないと悟った小利口な奴らがより小柄なルルの方へと駆け出していくが、侮ったルル自身に黒焦げにされちまうんだから世話がない。それでも門晶術構築の合間を縫って、しぶとい一匹がルルに押し迫る。
 あわや、と思われた瞬間、その一匹が横っ飛びに吹っ飛んだ。ここぞという時は肝っ玉の据わっているリリカの仕事だ。ソレバークはフレイルで脳天を粉砕され、あえなく地べたに這いつくばる。

「後は何匹?」

 周りにはもう動くソレバークの姿はない。しかし俺の五感は戦闘中に不利を見て逃げ出した数匹を見逃さなかった。その数と行方をルルに問うと、彼女は意識を集中させるように少し目を閉じる。

「……ここからだと……北に二匹と西に一匹……ほどなく結界外周ですね」

 ここから北と西って言うと、どちらも森に向かう道だな……案の定、森に逃げ込もうとしたんだろうがそうは問屋が卸さないってね。まさかこの広さで逃げ道が塞がれてるなんて、奴らは思いも寄らないだろうな。
 これでもう後はルルの微弱電レーダーを頼りに残党を始末すればこの地域の掃滅は完了、金貨五枚の第一歩だ。ここまで思惑通りに行くなんて、こりゃかなりの大当たり、ボロい仕事になりそうだな。
 赤く濡れた愛用の小剣に血振りをくれると、俺は内心でほくそえみつつルルとリリカを振り返った。

「それじゃあ、まずは北から行きましょうか」

「はい~」

「了解です」

 これを後三回繰り返すだけで金貨五枚だよ金貨五枚。
 金貨五枚かぁ、どうしよっかなぁ。
 大冒険支度金に金貨二枚まわしても残り三枚、これを四人で分けたら――って、待て待て待て? 四人で分ける必要がどこにある? ここにいないガーラの取り分なんて当然無いだろ。
 俺と、リリカと、ルルの三等分でいいじゃないか。これならわかりやすく一人頭金貨一枚になるしな。うん、それがいい、そうしよう。

 確かにさ、ルルと違ってガーラの行状にいちいち目くじら立てたりはしないけどもさ、それはある種の諦めであって俺が無限の寛容を持ち合わせてるワケじゃあないんだよ。
 せっかくみんなで一緒に仕事に行こうと思ったのにさ、いないとかさ……最近付き合い悪いしさ……俺だって怒るときは怒るんだ。
 この稼ぎ、ガーラには銅貨一枚使わせるもんか。
 となると、俺の取り分は金貨一枚。生活費を捻出してもかなり残るな。

「そしたら……残りでおいしいもの食べてぇ……あ、久しぶりに浴場にも行きたいなー……」

 ここのところ切り詰めるためにずっと濡らした布だけで我慢してたからな、だいぶ暖かくなってきたとはいえやっぱりたっぷりの熱いお湯が恋しかったもん。

「新しい下着も欲しいしー……う、化粧水も切れそうだったんだ!」

 ……何もかも、いきすぎなくらいうまくいってるはずなのに、俺は不愉快で面白くない物足りなさを感じていた。
 それを誤魔化すように独り言だけはわざとらしいくらい明るく振舞う。
 一体なにが俺の気持ちを圧迫しているのか。その存在は感じるのにディティールがサッパリつかめない。

 もやもやした物足りなさは膨張していく。
 それを振り払おうとするかのように、俺の足は速くなる。

「シューちゃん、ちょっと速いよ~」

 後ろからリリカが詰るような声を投げつけてくるが、もやもやを振りほどいて歩く俺の耳には届かない。

「ぁれ? なんです……? 北から……」

 ルルの怪訝そうな声が遠ざかる。

「シューちゃん待って~! ルルちゃんが何か見つけたみたいなの~!」

 普段にないリリカの大声が癇に障って振り返り、二人をだいぶ後方に置き去りにしているのを見つけてさすがに俺も足を止めざるを得なかった。嫌な感覚に追いつかれた気がする。イライラする……。

「どうしたの、ルル」

 やけに真剣で複雑な表情を浮かべたルルのそばまで戻る。
 額に片手を添えたルルは、微弱電レーダー網に掛かった何かを何度も何度も確認するように首を振っていた。

「なにが起こったのよ!」

 なかなか状況を説明しようとしないルルに俺が痺れを切らしたその時だった。
 ピリピリと空気を震わせていた『雷の檻』のエーテルが風に吹き散らされたかのように霧散した。

「な……なんで解除するの!?」

「解除したんじゃぁりません、外から破られたんです! 反応は生物ですが、かなり大きぃですょ!」

「外からって、いったいどんなバケモノが『雷の檻』を解除したっていうのよっ」

 『雷の檻』は実体を持たない檻だ。破壊するには術が内包するエーテル、ここでは雷のエネルギーを中和するかすべて発散させなければならない。
 中和は同じ雷門晶術士なら苦労はするができないことはないと思う。しかし明らかに人為的な門晶術を勝手に解除するのは誰がどう考えても迷惑行為、しかるべき役所から罰せられるのは免れない。さすがにそこまでの恨みを買った覚えはないからこの線は除外だ。

 次のすべて発散ってのは、すなわち感電して電気を外に流すってことだ。これはとっても簡単だが、解除されるまで雷をその身に浴び続ければさすがに麻痺程度の電力でも命に関わってくる。その前に身体が反射的にその危機から脱しようとするはずだ。
 それを意に介さないほど雷に強い生物であれば話は別だが……。

「っ! 来ます!」

 切羽詰まった声が、北に延びる街道沿いを見た。
 森と草原の境を、なにか黒いものが走ってくる。それはみるみる巨大になり、小山のような巨体を揺るがしながら驀進(ばくしん)する熊のような魔獣に変貌する。

「イルザーグっ!?」

 それはまさしく熊みたいな野獣が変じた魔獣だった。
 立ち上がった時の体高はおよそ五メートルほどか、その巨体は鉄パイプみたいな灰色の上毛に覆われていて、並大抵の斬撃はチェインアーマーのようにからめとって無効化してしまう。だからと言って突きが有効かといえば、それも生半可な力じゃ密生した下毛の弾力に弾き返される。

 魔獣イルザーグ。攻撃そのものは馬鹿力にモノを言わせた猪突猛進型なので対応はしやすいのだが、物理攻撃だけじゃなく熱にも電気にも強いその被毛の防御力のせいで大抵の冒険者に毛嫌いされている魔獣だ。鋼鎧熊(こうがいぐま)の異名は伊達じゃない。
 もちろん俺も大っ嫌いだ。威力より手数で攻める俺の戦い方に真っ向からアンチテーゼをぶつけてきてるんだもんよ。

 だけどこいつはかなり臆病な性質であり、基本的には森の奥の縄張りから出ることはない。こんなところを大爆走しているような魔物じゃないのだ。
 だが現実にその嫌な相手がこちらに向かって走ってくる。対処しないことにはどんな被害が生まれるかわかったもんじゃない。

「嫌な予感の正体がこれだっていうのっ……?」

 ぼやいてみたって答えが返ってくるものでもない。
 作戦だってまだ完全じゃないんだ、『雷の檻』が破られた以上残ったソレバークにも手を打たなきゃならない。そうだ、まだ失敗したわけじゃない、状況が変わっただけなんだ、しっかりしろ、俺!
 ここは兎にも角にも三十六計が如(し)かないあれだ!

「ルル、リリカ、逃げるわよ!」

「がってんです!」

「ああん、シューちゃん待ってぇ~」

 なんで暴走してるのかわからんが、あんな嫌な奴をまともに相手してやる理由はない!
 それよりもソレバークだよソレバーク! あいつらを逃したら最悪クエスト失敗になっちまう!

「とにかくあいつの進行方向と直角に逃げるのよ! 東、東に!」

 走りながら叫ぶ。ルルとリリカもその後から必死についてきている。
 とにかくここはあいつの視界から消えることを第一目標に、北に逃げた奴はなんとかルルにトレースしといてもらって後回しだ。

「なのに――」

 逃げる方向は間違えてない。ヤツの進行方向とは交わらないように逃げている。

「なんで――」

 俺達がヤツを挑発した記憶はない。それでもなぜか――。

「追いかけてくるのよぉぉぉおっ!」

 イルザーグの巨体は俺達が駆け抜けてきた道筋をぴったりとなぞってその背後に迫っていたのだった。
 後日に知ったのだが、ソレバークが好むあの焚き物、イルザーグが嫌う匂いだそうで。それが季節外れな北風で絶妙にイルザーグをあの地点から東に進路変更させたようだった。
 それを知ってれば逃げる方向を変えるだけで済んだんだが……そうとは知らなかった俺達は、イルザーグの目的が俺たち自身なのだとすっかり思い込んでしまっていた。

「ああもう! 二人はソレバークの残党をお願い!」
 
 俊敏なソレバークを追いかけるのにルルのレーダーは必須だし、長い時間走り回るのにリリカの祈祷術もあった方がいいだろう。
 そうして分担から外れた俺に残った仕事はというと、

「あたしがあれを食い止めるから」

「シューちゃん一人でっ!?」

 悲鳴じみた声を上げて、リリカが立ち止まる。

「足止めだけなら危険な相手でもない、大丈夫だから走って!」

 リリカだって俺の実力とイルザーグの特性は知っている。理性で考えれば今の最善がどういうことか、わからないほど彼女は間抜けじゃない。ルルは言わずもがなだ。
 二人が連れだって森の茂みに消えるのを確認してから、俺は猛然と突進してくるイルザーグを見やった。
 まずはあれをどうやって停止させるか、なんだが……。

「力任せに押し留められるものじゃないわよねぇ……」

 だったら搦手(からめて)を使うしかないよな。
 魔獣と言えども所詮は獣。獣はたいてい火に驚く。
 俺は即座に論理を構築した。

「五十八式・甲! ギブ・エリフ!」

 今まで使っていた門晶術『オド・エリフ』の上位版だ。
 型式が一緒なのは結局エリフであることは変わらないから。単純にエリフの火力を上げただけの門晶術だからな。ちなみにこれも心中構築つまり無詠唱で発動できる。

 突き出した小剣の切っ先からさらに一メートルほど離れた前方に、一抱えほどの火球が生まれる。腕足す剣の長さで、都合俺の身体から二メートル半ほど離したわけだ。
 門晶術は基本的に自分の身体からしか発生できない。例外として身体に触れているものであればエーテルを経由させて発動場所を伸展させることができる。ただしその場合はえてして材質とその距離に応じた威力の減衰というデメリットが生じる。

 でもたとえそのデメリットに甘んじてもこいつは離して出さなきゃいけない。だってすごい熱いんだぞ、これ。
 二メートル離したこの距離でもチリチリとした熱気に皮膚の火照りを感じるくらいだ。鉄の武器経由だから半減くらいされてるのにこのエネルギーだぜ。間近で出だしたらこっちが焼け死んじまう。
 
 地響きを上げて迫りくるイルザークの巨体に正対する。
 ぶっちゃけこれを投げつけて俺も逃げたいところだけど、これ以上付きまとわれるのはもっと厄介だ。俺達の収入にも差し支える。
 俺は覚悟を決めると、緑萌える草地に向けて大きなエリフの火球を投げつけた。圧縮されたエーテルの火が春の大地に炸裂し、草花と土の灰を巻き上げながら炎の舌がイルザークの巨体を飲み込む。

 熱波と陽炎と煙と土埃と残り火で視界が複雑な惨劇を描く中、俺は不穏な情景の向こうに目を凝らし続けた。
 まず間違いなく、イルザークは生きている。鋼鎧熊の異名をとる被毛は熱すらも遮断する。この程度で焼け死ぬことはあり得ない。
 であるから、俺はもしイルザークが止まらなかった時のために全神経を総動員して警戒しなければいけなかった……のだが、それは無用だったみたいだ。

 フワリと包み込むように春風が吹き渡った草原に、めくれ上がった土肌とその真ん中に佇立する壁のような異形があった。
 垂れ下がった鉄棒のような長くて太い体毛に鼻も口も覆った姿は、雨に打たれてしょぼくれた風情を漂わせる。
 しかし体幹に比して長大な前腕とその分縮んだような後肢のアンバランスが、異様な圧迫感をけしかけてみじめな印象を不気味なものへと変じさせている。

 俺は我知らず、固唾を飲み下して喉を鳴らした。
 こちらの手札にはあの熊を傷付ける手段がない。対して向こうは一撃でも俺に当てればほぼ勝ちが決まる。
 その事実を再確認して緊迫の度合いを高める。緊張はしすぎると身体が動かなくなるが、程よいと逆に集中力を高めてくれる。
 でもその実、再確認したことを内心でちょっと後悔していた。やっぱこれ、とんでもないアンフェアゲームだよな……。

 油断なく小剣を構えていつでも動けるように腰を落とした俺を、イルザークの方も敵とみなしたらしい。そこが口だったのかと思わせる部分がパカリと開き、暗灰色一辺倒だった場所に真っ赤に充血した口腔が咲いた。
 咲いたと思った途端、その牙をびっしり生やした花は生臭い匂いとそんなもの気にしていられないほど耳障りな爆音を轟かせた。
 イルザーグの咆哮だった。
 音というより風圧みたいな衝撃波に鋼鎧熊の全身の毛が波打ち、その隙間から充血した丸い眼が俺を睨み据える。

 ただ吠えただけだ。それなのに心臓を鷲掴みにされて上下左右に揺すぶられたような動揺が身体中を駆け巡る。それが恐怖だなのだと理解する前に、頭の上から針山のような腕が打ち下ろされた。
 間一髪、ほとんど反射神経だけでその攻撃を回避し、額から伝う冷たい汗を拭う。大した運動もしていないのに荒くなった呼吸と気持ちを整えると、第二撃に備えた。

 今の攻撃を避けられたのは俺の場慣れもあるがそれ以上にイルザークの動きが想像以上に鈍かったからだ。きっと硬い体毛と分厚い筋肉のせいで力はあるけど敏捷性に劣るのだろう。話に聞いていた以上にパワータイプなんだな。
 
 今度は咆哮なしでラリアットのような横薙ぎが襲い掛かる。まあもう吠えられても意表を突かれることはないからさっきみたいな醜態は晒さないけどな。
 軽く後ろに下がって攻撃を回避すると、ガラ空きの脇を瞬歩ですれ違い様に一閃する。だが返ってきた手応えは針金の束を撫でたようなざらつく感触。

「やっぱ剣も効かないわね……」

 言いながら、まだ振り返られずにいる矮小な後ろ足のアキレス腱あたりに小剣を突き込む。こちらも肉を寸断した手応えはなく、綿にくるまれたような鈍い反動だけだった。
 そこでようやく上体を回転させたイルザークが片腕を叩きつけてくる。その時にはもう瞬歩で十分な距離を取っている。

「さぁて、この程度なら時間稼ぎは難しくないけど……」

 できれば俺もルルやリリカと合流してソレバーク討伐に加わりたいところだ。
 しかしもうしっかり敵対行動とっちゃったから、おいそれとは逃がしてくれないだろうし……動作は鈍重だが走った時のトップスピードが速いのはついさっき見せつけられたばかりだ。

「こんな時こそガーラの攻撃力があればな……」

 不意に飛び出た自分の弱音に、俺は思わずきょとんとしてしまった。
 慌てて思い直す。

「いやいやいや、ガーラとか知らないし。あたし一人で十分だし」

 何か対策を考えなきゃいけない。
 一応切り札の一つや二つや三つくらいは俺にもある。だけどその内の一つはこいつには全く効かないだろうし、もう一つは半分自爆技なので決まらなかったら完全アウトになってしまう。
 最後の三つ目は……危ないからやめておこう。
 ふむ、こんなつまらない戦いで切れるような安い切り札には手持ちがないな……さて、この火力不足をどう切り抜けるか……。

 火力と言えば思い出すのはガーラだけじゃない。
 俺が十歳の時……ルゥ婆を失ったあの日、俺の中の何かが使って見せたエーテル爆発だ。
 今ならはっきりとわかる。あの時仮説を立てたように、あの力は門晶術じゃなくエーテルを圧縮爆発させただけの力技だ。門晶術という技術体系の表面だけをマネした全く別の力の使い方だった。
 無駄は多いし負担もでかすぎと技としては欠陥品以外の何物でもない。

 だからと言って俺の意思であのエーテル量が扱えればそれ以上の火力が出せるのかと言うと、そう簡単な話でもない。
 確かに今の俺ならば、上級門晶術が発動できるくらいのエーテル量――つまり十歳の時に使ったエーテル量に匹敵する量をコントロールはできる。しかしいかんせん、それをコントロールしたところで利用できる論理が今のところ俺の中に存在しない。

 論理そのものが存在しないわけじゃない。ここでもまた世知辛い話だが、そんな高級論理を買うお金がないのだ。
 この世界の魔法は金で買える。大昔のビデオゲームみたいにな。
 門晶術学会に登録された術論理は、学会事務局で販売される。その売り上げの何割かが特許として論理を開発した術者に支払われる仕組みだ。

 そこで問題になるのが自分で開発したものが既に登録されているものとあまりにも酷似していた場合だが、その時は特許料を支払わずに利用してもよいことになっている。新しく登録はできないけどな。
 だから自分で開発すれば論理にお金はかからないのだが、論理の開発ってかなりの頭脳労働だったりする。残念ながら冒険者として実用性ばかり求めている俺の知識じゃ初級程度の開発がやっとで、上級なんて論理の構築図を読み解くのがせいぜいだ。

 ルルはむしろそんな論理開発を嬉々として楽しんでるわけだが、残念なことに彼女の好奇心は雷門晶術一辺倒で熱の門晶術は専門外だった。
 そういうわけで、俺はあれ以降一度もあの量のエーテルを扱ったことがない。たぶんできると思うんだけど……。

 そもそもの話、あの現象が何だったのかという根本的なところはいまだにさっぱり訳が分からなかったりする。
 俺には今のところ『マイノリティ』の発現がないから、あれが何かしらの『マイノリティ』の一端だった可能性はあるんだが……。

 『マイノリティ』ってのは要するに固有特技みたいなものだ。
 他の人には扱えないその人固有の特殊能力で、持っている人の方が稀なレアスキルだったりもする。割合で言えば千人に一人くらいとか聞いた覚えがある。
 千人に一人って聞くと、結構いそうに感じるし、実際結構持ってる人に出会ったりする。俺のこれまでの人生でも三人ほど、『マイノリティ』持ちに会ったことがある。
 ただまあ『マイノリティ』もピンキリで、俺の会った三人は三人とも役に立つような立たなさそうな微妙なスキルの持ち主だった。『絶対じゃないけど一度記憶したことを忘れにくい』能力とか『なんとなく不幸なことが起こりそうになるとわかる』能力とか『動物と話せる』力とか。

 そう、最後の『動物と話せる』力の持ち主は、何を隠そうリリカのことだ。
 ここで一つの仮説を立ててみた。この世界で『マイノリティ』と呼ばれている能力は、転生するときに引き当てた特殊能力の項目のことを言ってるんじゃないか? ってさ。
 つまり、『マイノリティ』持ちはどこか別の世界から転生した人間ってことになる。
 『動物と話せる』特殊能力を引き当てた仁科エリが転生した姿である――はずのリリカの能力が『マイノリティ』と呼べるなら、その可能性は十分あるだろう。

 まてよ? この仮説に則ると、俺のあの力は『マイノリティ』じゃなかったってことにならないか?
 だって俺の転生時の特殊能力は『記憶保持』。『マイノリティ』が特殊能力のことだとしたら、俺の『マイノリティ』はすでに発現してるわけであって……あー、なんかよくわかんなくなってきたな……。
 まあとにかく、だ。

「そろそろ現実と向き合って、あんたの防火性能とあたしの放火性能、どっちが上か勝負してみましょうか……」

 放火性能とか聞きなれない単語を放ちつつ、俺はどう考えても泥沼にしかならない勝負に暗澹(あんたん)とした気持ちで挑もうと意識を切り替える。
 とりあえず今できる最大限を尽くすしか活路は開けない。『マイノリティ』だ特殊能力だとないものねだりはやめだ。意味がない。十歳のあの日から俺はそうやって生き延びてきたんだから、それだけは自信を持って言えるぜ。
 しかるにまずはさっきのギブ・エリフよりも火力の高い中級門晶術でもぶつけてみるかな。
 そう思って論理を構築し火球を発生させたその矢先、

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 熊が喋った。
 意外な反応に集中が途切れて火球も消える。さすがに熊から停戦を申し込まれる状況は予期していなかったな……抗戦されるより反応に困るぞ。
 俺が唖然と巨体を見上げていると、しかしすぐにそれが勘違いだったのだと気付かされる。
 停戦を申し込んだのは熊じゃなかった。しかしそっちの方がまだ理解するには苦しくなかったかもしれない。
 口を利いたのは熊の肩に乗った人間だったのだ。

「……誰」

「怪しいものではありません!」

 人間――五月人形みたいな赤い和風の甲冑武者がまったく説得力のないことを叫ぶと、熊が腕を振り下ろしてきた。俺は怪訝を張り付けた顔を男に向けたままそれを避けた。

「えーと、とりあえずこの熊があなたの所有物なら、まずは攻撃をやめさせてくれないかしら」

「いや、この熊に関しては確かに俺に責任があるんですが、俺の言うことを聞くような手合いじゃない――というか、俺にとっても敵です」

「それがなんでそんなとこにいるのよ」

「これには深い事情がありまして……」

 剛腕を唸らせて連続で叩きつけてくるのを、右に左にと軽いフットワークで潜り抜ける。
 男は激しく揺れる肩上に必死にしがみついていた。

「とりあえずそこから降りたら?」

「あ、そうですね。高みから失礼しました」

「そういう問題じゃないんだけど……」

 なんか、ちょっとずれた人だな……。
 しかも熊の背中側に降りればいいものをわざわざ俺の隣に飛び降りてきて、一緒に剛腕スタンプのダンスホールで軽やかなダンスを踊る羽目になっている。

「ああもうちょっと静かにしてよ!」

 このままじゃ落ち付いて話もできやしない。
 イルザークの鼻先にエリフの炎をぶつけると、一瞬だけ腕が止まる。その隙に俺と男は揃って後方に距離を取った。

「俺は匂盛(さきもり)・タツミ・カミオと申します」

 並んだ男の横顔は、兜に邪魔されて仔細は見て取れなかったが思ったよりも若々しく見えた。せいぜい俺と同い年くらいじゃなかろうか。
 バカ丁寧な名乗りに、しかし俺は当惑する。

「珍しい名前ね……えっと、タツミ君、でいいの?」

「はい、結構です。東方島嶼(とうほうとうしょ)出身なものでちょっと発音しづらいとは思いますが、どうぞ良しなにお願いいたします」

 東方島嶼。聞きかじった覚えはある。『東方大陸メウズ』の東にひっそりと寄り添う群島国家だ。大陸との連絡が困難で、それが独特の風俗と文化を育んでいるとは聞いていたが、まさかド直球に和風とはねぇ……。

「あたしは冒険者のシュリア・オーティス。シューでいいわ」

「シュリアさん……麗しいお名前ですね」

「よく言われる」

 偽名だけどね。
 しかし俺はこの非常識な闖入者(ちんにゅうしゃ)をちょっと見直した。
 名前や容姿を褒められることはままあれど、その言葉には大抵この美貌を値踏みするようないやらしい視線が付きまとっていた。
 タツミにはそれがなかった。場違いなほどに爽やかな声と眩しそうな眼差しが、真っ直ぐに俺のことを褒めてくれた。
 ちょっと返答が素っ気なくなったのは、実のところその実直さが気恥ずかしかったからだ。

「で、タツミ君はどうしてあんな所にいたのよ」

「それはですね――っと」

 ようやく本題に入りかけたところで、またもやイルザークが俺たちに襲い掛かる。
 
「先にこいつを倒してしまいましょうか」

 タツミは困った相手を見るような顔で事も無げに言ってのけた。

「倒すって、どうやって……?」

 俺は不審と苛立ちを七対三でブレンドしたような顔で聞き返す。

「俺に対して背中を向けるように誘導できますか」

「それは……そんなの簡単だけど……」

 腹だろうが背中だろうが、あいつのチェインメイルみたいな被毛を貫き通すにはガーラが愛用するツヴァイハンダーのような大剣と剛腕が必要だ。
 対してタツミはというと、俺のショートソードよりは大きいけどせいぜい刃渡り九十センチ程度の大太刀を帯取りで提げ、その半分程度の小太刀を腰紐に差しているだけ。
 体格だって俺よりちょっと背が高い程度で、甲冑の上からでも細身なのが見て取れるほどスリムだ。
 武器も力も必要最低限すら持ち合わせているようには見えなかった。

「俺に任せてみて下さい」

 躊躇(ためら)う俺を諭すように重ねて言われ、しぶしぶ動き出す。
 
「んもう、言うからには頼んだからね!」

 瞬歩でイルザークの懐まで一瞬で移動する。鋼鎧熊は獣の反応速度で俺の気配に応じて予備動作ナシで片腕を打ち下ろしてきた。
 だけど反応が良くても毛と筋肉の硬さに邪魔された動きそのものはやっぱりトロい。
 瞬歩を使うまでもなく、俺は身体をひねってイルザークの側面を回り込むように背後へ移動した。俺の動きを追いかけて、イルザークが振り返る。
 ちなみにどっかに弱点でもないかとここまでの間に五回は小剣を振るってみたものの、それっぽいところは全部弾かれてしまった。まったく、どんだけ硬いんだよ

「こんな頑丈オバケ、ホントに倒せるんでしょうねっ!」

 その言葉に力を載せて、エリフの炎を解き放つ。
 振り返り様のイルザークの鼻面へ。
 それも一発じゃない。
 どこぞの戦闘民族よろしく五発、十発と連射する。
 一発一発に練り込めるエーテルは減少するが、相手を怯ませたり牽制には便利な技だ。事実、イルザークは俺の方を向いたまま一歩、二歩と後退してタツミの方へと追いやられていく。

 さて、これで頼まれた仕事は全うしたと思うが……とタツミの方を見ると、タツミはいつの間にか腰の大太刀を正眼に構えている。おお、なんかすごくそれっぽい。ザ・サムライって感じだ。
 だけどガラ空きのイルザークの背中に、タツミは仕掛ける様子がない。
 俺は訝しみつつも火球の連打を続ける。このままイルザークが俺の火球に圧せられて後退を続ければ、タツミの間合いに押し込む結果になる。タツミは何かしらの理由からその時を待っているのかもしれない。

 だがまあ、期待したら裏切られるのが世の常だ。無防備に火炎を食らい続けていたイルザークが、いつの間にか後退をやめて前進に転じていた。タツミを見ていた俺はその変化に気付くのがわずかに遅れた。そのわずかな遅れが生死の間仕切りを反転させた。

「こなくそっ!」

 連射エリフから上位版エリフに切り替える。
 だが悲しいかな、同じ手を何度も使いすぎた。さすがにイルザークも俺の炎が自分には効かないと学習してしまったみたいだ。意にも介さず腕を伸ばしてくる。

「ヒュギ・グノルト――っ!」

 咄嗟に詠唱した中級火炎魔法は、しかし間に合いそうになかった。恐怖に息を詰まらせて、詠唱しきれなかった。
 空気をひしゃげさせながら、イルザークの汚い爪が眼前に迫る。これがヒットすれば俺の美貌はもう二度と取り返せないところに消えるだろう。っていうか俺の命そのものがその前になくなるな。
 ……ルゥ婆……ごめんよ……俺、結局何も見つけられずに――。

「匂盛タツミ、越入道長宗(こしにゅうどうながむね)、参る」

 迫りくる死の向こうから、そんな名乗りが静かに響く。
 もう遅い、そう思いながら聞いていた。
 イルザークの爪が、俺の頬を掠めて左に流れていった。
 一瞬前まで視界を埋め尽くしていた暗灰色の姿は、いつの間にかなかった。代わりに、拝み打ちに大太刀を斬り下げた姿のタツミの姿があった。

「表一式……一点突破」

 残心というヤツだろうか、伏し目がちだが炯々と光るタツミの眼差しの下から、おそらく技名であろう単語が飛び出す。
 その時ようやく、縦一文字に斬り割られたイルザークの巨体が、俺の左右に地響きを立てて崩れ落ちたのだった。

「……すごい……」

 恐怖すら忘れて、その完璧と思える残心の構えに魅入る。
 タツミが意識させずに構えを解き、慣れた手つきで大太刀に血振りをくれる。片手に刀を提げたまま、反対の手で器用に兜を脱ぎ去った。
 赤く塗られた兜の下からは、後ろで無造作に黒髪を縛った、青年と少年の狭間を行き交う無邪気な笑顔が出てきた。

「すごいのは貴女の方ですよ。まさかこちらの方であそこまで瞬歩を使いこなせる剣士がいようとは、お見逸れ致しました」

「え? ああ、うん……ありがと……」

 いかん、なんかタツミの爽やかスマイルに魅入られてた……こいつ、結構イケメンだな……。

「そして怖い思いをさせて申し訳ありませんでした。貴女の身のこなしに見惚れていて、ちょっと仕掛けるのが遅くなりました」

 そういったタツミは、照れたように頭を掻いて苦笑する。

「ああ、そう……結果的に助かったからいいけどね……」

 本当は文句の一つもぶつけたいところだったが、その苦笑に毒気を抜かれて口に出しそびれてしまった。
 俺が視線を少し逸らした隙にタツミはツカツカと距離を詰めて、真剣な眼差しと篭手に包まれた右手を俺の左頬に軽く添える。

「……傷付けてしまいましたね……」

 心底無念そうな声音と真っ直ぐに後悔する瞳に鼓動が速まる。
 タツミの言う通り、俺はわずかに避け損なったイルザークの爪に掠められ、左頬に掠り傷を負っていた。

「だ、大丈夫よ! このくらいツバつけとけば治るし!」

 なんだか急に気恥ずかしくなって、タツミの視線から傷を隠すように身体を捻る。そこにはイルザークの半分になった惨死体が横たわっているのだが、なぜだか全く気にならなかった。

「あはは、貴女みたいに綺麗な人でもそういう風に考えるものなんですね。僕も浅い傷ならそう思いますよ」

 俺の照れ隠しを軽やかに笑い飛ばす。なんだかそう言われると俺が粗雑っぽく言われてるような気がするが、怒りはなかった。
 むしろより一層の恥ずかしさで頬が余計に熱くなる。もうどうしたらいいかも考えつかずに俯いたところで、タツミの篭手に包まれた大きな掌が伸びてきた。
 達人の動きに無駄はなく、俺は抵抗のタイミングも掴めぬままされるがままに顔を上げさせられる。
 傷を負った左の頬を、顔を朱に染める血液よりも熱い何かが這った。
 すぐ目の前にタツミの耳がある。温かい。その感触を味わっている間に、耳だったタツミの横顔が微笑む黒い瞳に代わっていた。

「帰ったらちゃんと消毒して下さいね」

 にこやかにそう言われても、俺は暴走する思考の中で返す言葉を失っていた。

 今、何された?
 頬を舐められた? 本当に? なんで? 傷を舐めた? ツバつけた? 治療?
 ツバつけるって……いやいや治療でしょ。そういうんじゃないし。期待とかしてないし。期待? 何を? え? 何を考えてる?
 あたし、いま、こいつに……?

 混乱した思考を突き放そうとするかわりに、俺はタツミを突き飛ばしていた。

「おわっとっと?」

「~~~~っ!」

 もう恥ずかしすぎて声も出ない。
 だけど胸中に渦巻くのは感謝と驚きだけで不快感はない。だからこそ余計に困惑してるんだけど……。
 涙目でタツミを睨み据えて、破裂しそうなくらい早打ちする心臓が落ち着くのを待つしかなかった。

「あ~……俺、もしかして失礼なことしました? 妹には喜ばれるんですが……」

 悪びれた様子もなく俺を見てくるタツミの言葉に他意はなさそうだった。
 どんだけ天然なんだ、このサムライは……。
 そんな無意味な恨み言が脳裏を過(よぎ)りもしたが口には出さない。たぶん出しても皮肉だって気付いてもらえないだろうから。

「おうおう、生きておったか小僧」

 唐突に、聞きなれない女の声が流れてきた。
 声のした方を見やれば、街道方面から三人の男女がこちらに駆け寄ってくるところに出くわす。

「太夫(だゆう)! コウトとミオも一緒か!」

 振り返ったタツミの顔に、パッと喜色の花が咲く。
 こいつ、ホントにいろんな笑顔を浮かべるなぁ。俺より年上っぽく見えるのに、この笑顔のせいで少年にも見える不思議な奴だ。

「これはまた、派手に散らかしたものじゃのう」

 太夫と呼ばれた退廃的な雰囲気と振り袖を纏(まと)う女性が、裾で口元を抑えたまま情感豊かな声を酸っぱそうに歪める。太夫って呼ばれるだけに、彼女は妙齢の美女で、遊女って言葉がしっくりくる婀娜(あだ)っぷりだった。

「タツミ、怪我はない?」

 背中には黒塗りの金具で補強された大きな木箱を背負い、額にはゴーグルをかけた少女が太夫とは好対照に落ち着いた声音で問う。
 歳の頃は俺より少し下、ルルと同じくらいか。落ち着いた、というよりも感情の読み取り辛い無表情な女の子だ。
 タツミに駆け寄った彼女は、次いで俺を見た。その眼差しには何故か隠そうともしない警戒がある。
 俺がこんなに警戒されるなんて珍しいな。と他人事みたいに内心で嘆息していると、タツミがそれを察したように俺と女の子に等分に視線を配った。

「大丈夫だよ、ミオ」
 
 小裂(こぎれ)で刀身を拭い終えた大太刀を鞘に戻しつつ、その一言に自分の無事と俺の無害を込めたタツミが優しく微笑んだ。

「全く、一対一であれば敵無しなのにどうして集団戦ではこうも隙だらけなんだお前は」

「そう言うなよコウト、だから俺はお前が必要なんじゃないか」

 コウトと呼ばれた神主の正装みたいな姿の青年は、一瞬だけ面食らったように眼鏡の下の黒瞳を剥いた後、仕方ない奴といった様子で首を振った。

「全くその通りだな、次からはちゃんと僕が気を付けよう」

「して、そのおなごは……?」

 太夫が水を向けて、四対の視線が一斉に俺を向く。

「あたしは……シュリア・オーティス。冒険者よ」

「シュリアさんは気絶した俺が引っかかったままだったイルザークを止めてくれた上に、退治の手伝いまでしてくれた恩人なんだ」

 手短な俺の挨拶にタツミが言い添える。
 気絶してた……?

「そういえばタツミは何でイルザークの肩になんていたの?」

 このままタツミ一行の雰囲気に流されていたらこの最大の謎が解けず仕舞いに終わってしまいそうだ。
 俺の質問にまず反応したのはコウトだった。

「お初にお目に掛る、兼康(かねやす)・コウト・タカミヤだ。貴殿と同じく冒険者の端に名を連ねている」

 なんかまた時代錯誤な口調だな……堅苦しいぞ……。
 名乗りの後に自分が東方島嶼の出身だから変わった名前をしていると断った後に、

「こちらとしても状況の詳細を掴みかねている現状、事実だけを掻い摘んで説明させて頂く。発端は私達一行を妨げたオークの一団にある――」

 そんな事情説明が始まった。
 コウトの学校教諭を思わせる淡々とした説明曰(いわ)く……ルー=フェルから少し離れた山中にとある小さな村落があり、その村の付近にいつの間にかイルザークの巣が複数出来ていたという。
 元々あまり人里近くには出てこない魔獣だ。ただでさえ恐ろしげな見た目の魔物に不吉なものも加わって、住人たちは早急な討伐を冒険者協会に依頼した。そしてその依頼をタツミ達一行が受けた。
 そこまではよかった。
 問題は現地でイルザーク達を捉えて退治しにかかった最中に発生する。
 これまたこの地域では珍しいオークの集団に乱入されたのだ。それも一体どこから湧き出したのかと目を疑うほどの集団が。
 オークたちはイルザークもタツミ達も関係なく暴れ始め、その目的が村の襲撃だと推測したコウトの提案によってイレギュラーながら『タツミ一行VSオークVSイルザーク』という混戦にもつれ込んだ。
 タツミ達は三つ巴ながら善戦したという。
 しかしコウトが注意したようにタツミは若干集中力に欠けるところがあり、乱戦が苦手だとか。
 その弱点が悪く働き、オークと切り結んでいた横合いからイルザークの巨体にぶちかまされて暴走するイルザークともども戦線離脱、その体に引っ掛けられて五キロ近く離れた俺のところまで連れてこられた、ということらしい。

 ここで問題になるオークとは――この世界アステラにおけるオークとは人間種族の名称だ。一応。
 この世界には俺達以外にもたくさんの『人間』が生活している。
 有名どころでは俺が属する獣人科猿人属ヒト、もふもふケモノ系の獣人科猫人属ゴブリンと獣人科犬人属コボルト。この三種族が全人口の六割を占める。
 他にもあまりお目に掛ることはないが中央大陸西方の深山に住む精霊科樹人属エルフ、地下空洞で生活し鋼の肉体を持つ精霊科鉱人属ドワーフなんてのもいる。

 それら人間と総称される種族と魔物の大きな違いは、『門晶を持ち』『安定した人口』と『文化活動』を維持している点なのだが、それらを曲がりなりに満たしているオークを人間として扱う種族は少ない。
 弛(たる)んだ巨躯(きょく)と豚鼻に小さな眼が醜さの代名詞にまでなっている醜悪な容貌。そしてそれらを霞ませるほどの横暴で残忍な性向。
 そういった理由からオークを魔獣と同一視する人間種族が多いのだ。特に俺たち猿人属ヒトは種族のほぼ全体がオークを魔獣と魔族の間の子だと思ってる。

 魔獣と魔族の間の子というのはその醜怪さだけでなく高い戦闘能力にもいわれがある。生半可な戦士では下っ端オークにすら敵わない。
 その要因は耐火や耐冷、耐毒などなど各耐性に優れた分厚い皮膚とツヴァイハンダーを片手で振り回す馬鹿力、それに加えて火の門晶術まで操る戦巧者っぷりを兼ね備えているからだ。

 そのオークが徒党を組んで横槍を入れてきたということだが、コウトの言には一抹の謎が残る。
 オークはその脂肪の厚さと皮膚の厚さと発熱量から暑さに弱く寒さに強いため、中央大陸の北に集中して生息している。温帯、亜熱帯と気温が上がってくる大陸半ばまで下りてくることは稀だ。
 確かに部族社会から爪弾きにされた個体が行き場をなくして南に流れてくることはよくあるが、今回のは徒党を組んでいるとなると言うのだからなおさら理由がわからなくなる。

 話を聞き終えた時、俺はすっかりコウトの深刻ぶった表情を塗り移されていた。
 オークだけじゃない。人里近くに出てきたイルザークにしたってそうだ。このルー=フェルにも及ぶ異変が――奴らの生態系を狂わすような環境の異変みたいなものが起きているのだろうか……?
 確証がないだけに不安ばかりが残る。

「ところでシュリアさんはどうしてこんなところにいたんですか?」

 コウトと俺の悩みを半分ずつ分けてあげたくなるくらいのほほんとしたタツミの質問に、俺は顔を上げて答え……あ。

「ああぁぁぁああっ!」

「わあぁぁっ!? い、いきなりなんですか?」

「ソレバーク! ルルとリリカも!」

「な、何の話ですか」

「あたしこんなのんびりしてる暇ないのよ! ソレバークがクエストでイルザークで逃げちゃって……!」

 タツミの顔に無邪気な疑問符が浮かぶ。
 わかるように説明してあげたいけど今はそれどころじゃないんだった……!

「じゃ、失礼だけど急いでるから!」

 慌てて立ち去ろうとする俺の背中に、のんびりとした制止がぶつけられたのはそのタイミングだ。

「お待ちなんし。主はクエストで逃したソレバークとそれを追いかけたお仲間を探しに行くと言いなさるな?」

 恐ろしい理解力を発揮したのは真っ白な厚化粧の美女、俺とタツミに最初に声をかけてきた太夫だ。

「それならばウチが力になれるかも知らん」

 ただでさえ胡散臭い風体の背徳的な美女の申し出だ、俺はこれ以上ないくらい怪訝なものを見る目を彼女に向けた。

「どうやって……?」

「占うのじゃ」

 言いつつ振り袖からつまめる程度の大きさだが厚手のカードの山を取り出した。
 胡乱気な俺の視線にはおかまいなしだ。

「花札占いと言うてな――」

「あ、いえ、急いでるので結構です」

 花札かよ! って突っ込みは何とか飲み込んで、それだけ言って立ち去ろうとする。っていうか、この世界にも花札ってあるんだな。

「待って下さいっ、カルナ太夫の占いはちゃんと当たりますから!」

 俺の手を取って引き留めたのは、俺の反応ももっともだと言わんばかりの顔をしたタツミだった。
 しっかりと手を握られた途端、何故かさっきのことを思い出してしまい身体が硬直する。
 その隙にカルナ太夫はこなれた手つきで花札を繰って山札から一枚二枚と札を抜き出した。

「東北東の方角、黒と白、待ち受けるは――うん? 何やら摩訶不思議な……すべて?」

 黒と白ってのはルルとリリカのことだろうか……それくらいしか思い浮かばない。東北東に二人がいるってことかな?
 そうだな、ソレバーク討伐の状況を確認するためにも、まずは二人と合流すべきか。

「東北東の方角ね……本当に信じていいのね?」

 カルナではなくタツミに確認する。視界の隅でカルナが憮然と頬を膨らませたような気がしたが気にしない。

「ええ、太夫がこうだと言ったら望む結果が得られるまでそうした方がいいんです。長い付き合いの僕らが保証します」

「あなたがそこまで言うなら信じるわ」

 こいつの正直さは信頼に足る気がする。
 ……いや、別に他意はないからなっ?

「ありがとうございます! お礼というかお詫びというか、作戦を破綻させてしまった原因は僕らにもありますし、お仲間の捜索をお手伝いさせて下さいシュリアさん!」

「タツミが行くならわたしも行く」

「人手は多い方がいいだろう、うちのリーダーが迷惑をかけたみたいだしな」

 心強い、と顔に書いて頷くと、俺は駆け出した。その後をタツミ、ミオ、コウト、と三人の気配が追いかけてくる。

「さっきから走り通しで疲れたからな、ウチはここでお留守番じゃぁ~」

 カルナの声だけが俺の耳から遠く離れていくのだった。

 機動力を武器にする俺だけに、速力と持久力は命綱だ。
 身体ができ始めてからは武術以上に意識して鍛えている部分だから、そのへんの冒険者にはそうそう劣らない自負がある。実際、俺の周囲でこの全速力についてこられるのはガーラくらいのもんだった。この時までは。
 あの斬撃を持つタツミが俺についてこれるのはまあわかる。あの細身でってのはやっぱり驚きだけど、しっかり全身を鍛え上げているからこそ出せる力だろう。まあ、細身はお互い様だしな。
 ところがあんな動きづらそうな長衣を着たコウトやあまつさえ重そうな木箱を背負った女の子にまでしっかりついてこられるなんて……東方島嶼の人間って身体能力が極端に高いとかあんのか? そうとでも考えなきゃちょっと自信なくしちゃいそうだぜ……。
 
 でも今は驚きや自信喪失以上に心強さが先に立つ。これだけ動ける人達が援軍として加わってくれるなら二人の捜索も捗るってもんだ。
 ルル達と合流さえ出来ればそのままルルの門晶術で逃げたソレバークの痕跡を追える。ルルとリリカなら倒せずとも完全に見失うようなヘマはしてないだろうし。
 そんでなし崩し的に討伐の方も協力してもらって、この戦力でソレバークを追い詰められれば……。うん、それなら全部結果オーライだ。

 俺達は既に森へと突入し、周囲は鬱蒼と茂る樹影に視界を覆われていた。
 腐葉土に覆われた地面の下にはのたうつ木の根が隠れているが、飛ぶように走る俺達は茂みも張り出した枝も湿った土の匂いも蹴散らして東北東を目指す。
 目的地はわからないがただひたすら東北東を目指すだけの強行軍だ。ときたまコンパスを確認していればいずれ必ずその時が訪れると、この時の俺は無条件に信じて走る。

 それは自分でも不思議に思っているタツミへの信頼を表に、藁にも縋る思いを裏に合わせたコインみたいな境地だった。それもクルクルと回るコイン。どちらにひっくり返ってもおかしくない状況……一言で言えば不安。不安から目を逸らすため、俺は走り続ける。

 盲信しているだけに、東北東を目指す足を別の方向に向ける意思も理由もこれっぽっちもない。
 それなのに、まったくもって不可解なことに、俺はなぜか後ろをついてきていた三人とはぐれてしまった。
 最初はやっぱり俺の速度についてこれなくなったのかと思ったが、気配が失せたと気付いた瞬間に背後を振り返ったにもかかわらずそこにはすでに誰もいなかった。まるで神隠しにでも遭ったかのように忽然と姿を消してしまったのだ。それも三人が三人、まったく同時に。

 どう考えても尋常じゃない。しかしこれが神隠しだとしたら――。

「遭ったのは三人じゃなくてあたしの方……よね、きっと」

 三人を隠すより一人を隠した方が楽だもんな、たぶん。
 まあ、そんなワケのわからない妄想はおいといて、何か異変が起こったのは確かだろう。油断禁物だ。

 そう考えて気を引き締めると、足の速さを緩めて探るような足取りに変える。
 そんな感じで慎重に茂みをかき分け進んでいると、急に陽の光が大量に瞳に飛び込んできた。反射的に目を細める。
 慣らすようにゆっくりと瞼を開けた先、そこは円形にぽっかりと木々が避けた広場になっていた。自分の眉が不快げに寄ったのを感じる。

 というのも、こういう場所は『妖精の憩場』と呼ばれていてあまり縁起のいい場所ではない。長居すると妖精の祟りがあるとかなんとか云われていて、神話の中でもよく悲劇の舞台にされる空間だ。
 そう伝えられるのも無理からぬ話でちゃんと理屈にあった原因がある。こういった深い森の中にある樹木が生えない空地は、大抵エーテル渦が突発的か定期的に発生している場所なのだ。
 巻き込まれればよくて失神、下手すると幻覚症状や引き付け、呼吸障害といった急性エーテル中毒症候群の症状で死に至る可能性もある。

 要するにこんな場所に長居するもんじゃないって話だ。
 今はエーテル渦が発生している様子もないが、いつ巻き起こるか分かったもんじゃない。
 俺が早々にこの場を立ち去ろうと回れ右したその背中を、不意に呼び止める声がした。

「あれ☆ 帰っちゃうの?」

 それは瑞々しく抗いがたい魅力を持った青年の声だった。
 こんなところじゃなきゃ快く振り返ったろう。だがしかし、場所が場所だけに不吉な響きしかない。
 好奇心からというより警戒心から振り返った俺の視界に、ついさっきまでそこにいなかった人影が飛び込んでくる。

「それでいいよ、いい子だ☆」

 小さな家なら一軒くらい収まりそうな広さの空地に乗り出すと、そこだけ森の中とは思えない暖かな空気に満たされていた。
 それなのに、広場の中心で降り落ちる光に照らされた男はいやに硬質で、冷たい印象を受ける。

 顔は一言でいえば非の打ちどころのないイケメン顔だ。それだけになんだか作り物めいて見え、いけ好かない。
 年の頃は俺と同じか少し上くらいだろう。長く伸ばした金髪は陽光を吸い寄せるようにけぶって輝き、癖っ毛なのか後ろで一本にまとめて垂らしてるおさげが鱗の生えた尻尾を思わせた。そう、ちょうどレッサードラゴンの尻尾に似ている。その点も不愉快だ。
 法衣なのかケープなのかコートなのか……丈の長い乳白の布地を幾重にも重ねた上着に、長身で均整の取れた身体を包んでいる。それがかっこいいと思ってんだろうか。鬱陶しいことこの上ない。

「んー☆ 君は誰だい?」

「あなたこそ誰よ」
 
「僕はエリク・ノーラ。希者って言った方が通りがいいかな☆」

「……キシャ? じゃあ煙でも吹いてどこかに走り去ってくれないかしら」

「その汽車じゃないけどね。希(のぞ)まれし者。それで希者。僕は世界に希まれて生まれた希望の体現者なんだってさ☆」

「ふぅんそうなんだすごいわねじゃああたし忙しいからもう行くわね」

「待ってよ」

 まただ。またこの声だ。
 捲(まく)し立てた勢いでこの場を立ち去ろうとした俺の足が、有無を言わさず止められた。

「僕はちゃんと名乗ったのに、まだ君の名前を聞いてないよ? 教えてよ☆」

「……シュリア・オーティス」

 振り返った俺はほとんど睨むような視線で相手を見た。

「そっちの名前じゃないよ☆」

 その視線が苛立ちから驚きへと、次いで警戒へと変わるのを意識しながら、エリクと名乗った青年の言葉を待つ。
 今の一言だけじゃエリクの意のあるところが知れなかった。だから何を言っているのかわかりかねるといった様子を装って誤魔化す、それが出来なければもう少し情報を引き出したいところだ。
 俺の本名を知っているのはほんの一握りだけ。こんな見ず知らずの軽薄な奴が知っていていい名前じゃない。

「君の本当の名前を教えてよ」

 だが俺の期待は退けられた。エリクが求めてるのは知っているはずのないものだった。
 それを、抗いがたい声音で聞いてくる。ほとんど口が勝手に久方ぶりの本名を吐き出していた。

「シューレリア……オル・ティスト」

「シューレリアかぁ……なんだか継ぎ接ぎばかりで無駄に太った駄馬みたいな名前だね」

 こいつ、人の名前になんちゅういちゃもんを! 結構気に入ってるんだぞこの名前!
 そう俺が食って掛かろうとする機先を制して、エリクが顎に指をあてて少し宙を仰いだ。何かを考えているような素振りにうっかり肩透かしを食らってしまう。

「うーん、そうだねぇ……シューレリア、シューレ……ううーん」

「……なによ」

 考えてもみればこいつがさっきから気にしているのは俺個人の名前であって家名の方じゃない。皇玉国内において青爵家ティストの名を聞きながらそれを無視できる相手というのもまた珍しい。
 ホントになんなんだ、こいつは……。

「うん、そうだ☆ 君は今日からレリアって名乗るんだ。シューはいらない。レリア、そう名乗るんだよ?」

 女性であれば老若構わず虜にするような甘い笑みを浮かべて、えらい無礼なことを言ってのけられて、

「あんたにそんなこと指図されるいわれはないわよ!」

 さすがの俺も怒鳴り返していた。

「じゃ、これはお礼に貰っていくね」

「なにがお礼――っ!?」

 厚かましいことをほざく口が、いつの間にか俺の言葉を遮っていた。
 比喩じゃない。
 ……物理的にだ。

 俺が認識できない速さで、エリクは俺にキスをしていた。それもマウストゥマウスで。
 ついさっきタツミにされたほっぺだけでもあれだけ狼狽した俺が、この暴挙に何も行動を起こさなかったのは……情けないことにあまりにも衝撃が大きすぎて身動きどころか思考そのものが停止していたからに他ならない。
 その思考が再開するきっかけも最悪のものだった。

 口内に柔らかく滑らかで、それでいて淫靡(いんび)な感触が生まれた。
 それは今まで味わったことがないほど甘くて優しくて切なくなるような動きで俺の歯裏を丁寧に舐めまわし、舌を擦り上げ、愛撫する。
 蕩けて腰砕けに鳴りそうになった身体が自然とバランスをとって踏みとどまると、その反動でわずかに意識が思考する。そのわずかな思考が現状を把握するきっかけになり、よりはっきりとした脳の活動を取り戻す。いっそそのまま気絶して何も知らないまま終わりたかったけどな……。
 力の限りエリクの身体を突き飛ばし、その反動の中で剣を抜く。

「……殺す」

 ようやく戻った俺の思考は、その決意一色だった。
 だが、突き飛ばしたはずのエリクの姿が眼前のどこにもない。明るく切り抜かれた広場のどこにも、あのいけ好かない長身は見当たらなかった。

「どこに行ったっ! 出てこい、殺すから!」

 深い森の中に俺の怒声ばかりがこだまする。
 そう言われて出てくる阿呆の顔を見てみたいと思ったのはずっと後、人心地ついて気持ちが落ち着いてからのことだ。
 
『やっぱり君は僕がずっと探し求めてた人に間違いないみたいだ☆』

 声は森の闇の向こうから、地中から、光溢れる空から、どこからともなく響いてくる。

「いいから出てこい! いっぺん殺して生き返らせてもっかい殺す!」

 この世界に生き返らせる手段があるわけじゃないぞ。単に俺自身、怒りのあまり何を言っているのか訳が分からなくなってただけだ。男言葉に戻ってるしな。

『あそうそう、君の探してた魔物はそこにあるからね、好きにしなよ☆』

 怒りに打ち震えながら空を仰いでいた俺は、何の話か理解しないまま視線を落とす。そこにはいつの間にか三つの死骸が横たわっていた。
 眠るように息絶えた、ソレバークの死骸が。
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