醒メて世カイに終ワリを告ゲルは

立津テト

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2.夢の途中と、大切な恩人。

2#7 訪問

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 奇妙な少女との出会いから三日が経った。
 俺にとっては悶々とした三日間だった。
 下町が壊滅するという情報――というか信憑性って観点で言えば予言か。つまり情報としては裏付けのない噂以下の代物ってことで、これがもしエリサ以外の人間の口から伝えられたものであれば、俺もこうまで悩みはしなかっただろう。

 エリサ。春の夜の満月みたいなくすんだ黄金色の髪の少女。ふと現れ、不意に消えた不思議な女の子。
 今思えば……あれは本当に人間、だったのだろうか? 俺の見た幻ってことは……ないだろうな。彼女の消え去った後には、確かに空になったカップがあったんだから。
 だからこそ、彼女の言に惑わされるんだ。あんな尋常じゃない伝え方をされたら、どんな馬鹿げた話だって笑い飛ばすことができなくなる。

 オークの軍団が攻めてきて、下町が戦場になる。それが彼女の予言。
 エリクに会え。それが彼女の助言。

 問題も解決策もこれ以上ないくらいわかりやすく提示されている。
 だのに俺の頭はそれを受け入れようとしない。
 信じたくないのか信じられないのか……それすらも分からない混乱の渦中で、それこそ渦に揉まれてあっちに漂いこっちに漂いするように、エリサの言葉に翻弄されていた。

「そもそもエリクに会えってどこに行けば会えるのよ……っていうか会いたくないし、あんな奴」

 狗尾亭(えのころてい)のテーブルに突っ伏してぼやく。
 開店前の店内は夜の活気に備えるように静かで、使い込まれた木の感触がひんやりと頬に心地良い。

「希者に会いたいとか会いたくないとか年頃の娘みたいな独り言をほざいてる暇があるんなら、店の準備を手伝ってくれてもいいんだよ、シュー?」

 今日も朝から一仕事終わらせた気怠い午後、ルルとリリカが戻るまでの暇を持て余していた俺の独り言を聞き咎めるのは、厨房で夜の下拵えをしていたクリエラさんだ。作業がこっちのカウンターキッチンに移ったらしい。

 クリエラさんの言葉がしっくりこなくて、考え込む間に訪れるわずかな沈黙。食器を片付ける乾いた音だけが静かな店内のささやかなBGMだった。
 あ、そうか、わかった。そういや希者って一応この世界じゃ有名人だっけな。なんで希者と年頃の娘が並ぶのかしっくりこなかったんだ。
 なるほど、アイドル的なもんか。確かにあいつ、顔だけはいいもんな。
 得心がいったところで、俺はクリエラさんに暇つぶしの相手をしてもらうべく遅まきの返事をした。

「手伝ったら手伝ったで手際が悪いって怒られるんだもん。っていうかあたしはれっきとした年頃の娘ですー」

「年頃の娘が材料の下拵えもできないってのは、いかがなもんかねー」

「冒険には必要ないもん」

「そんな暢気に構えてたら、あっという間に嫁の貰い手がなくなるよ」

「お嫁に行く予定なんかないし、あたしは一生現役冒険者のつもりよ。っていうかクリエラさん、さっきから発言が時代錯誤! オヤジ臭い!」

「歳をとると老婆心が強くなってねぇ、自分と同じ道を征こうとしてる若者がいたら余計なお世話だとわかっていても忠告してあげたくなるんだよ」

 つまりその姿が俺の行きつく先だと。俺もすぐ歳喰って若者に余計な世話を焼くようになると。そう言いたいわけですか。
 俺の渋い顔を満足そうに見やって、クリエラさんはカウンターキッチンから奥の厨房へと去っていった。

 テーブルだけが並ぶ閑散とした店内で再び一人になる。
 一人になると、またエリサの事やエリクの事がモヤモヤグルグル渦を巻く。
 そういや、エリサとエリクって名前似てるな……兄妹か何かとか? 髪の色もそっくりだしなぁ……だとしたら、きっとエリサもすごい美人さんなんだろうな。こないだは前髪に隠れて目元がよくわからなかったし。
 惜しむらくは兄がいけ好かないってところか……ま、兄妹だったらの話だけど。

 下町がなくなる、かぁ……。
 もしなくなったら俺はどう思うんだろうか……?

 実は既に、ルー=フェルでの滞在期間の大半は下町での生活が占めている。俺のルー=フェルでの半年に及ぶ思い出は、ほとんど下町の景色を背景に展開されていた。
 楽しい思い出も、悲しい思い出も、悔しい思い出も、面白い思い出も、全部が俺の記憶の海で星屑のように輝いている。

 住人だって無関係な人ばかりじゃない。友人とまではいかなくとも、会えば挨拶を交わしたり時には世間話をして笑いあったりする程度の付き合いはある。

 憧れのルー=フェルにやってきて、些細なことで挫折して、ただ生きるためだけの生活に必死になっている間に、下町は俺の人生と切っても切り離せない大きな存在になっている……ような気がする。
 少なくとも、下町がなくなるって聞かされてそれを信じきれないのは、信じたくないからってのがある。信じたくないってのは、下町になくなって欲しいとは思わないってことの裏返しだ。

 そんな回りくどい論法を使わなくったって、俺は『下町が好きか嫌いか』と問われれば、間違いなく『好きな方だ』と答える。
 だから、そういうことだ。俺は下町がなくなったら困る。本当になくなってしまうのであればなんとかしたい。
 でも、どうやって?
 いやそもそも下町がオークに襲われるって話は本当なのか?

 とまあ、話はこうしていつまでも堂々巡りを繰り返す。
 手掛かりがないわけじゃないんだが……唯一与えられた『エリクに会え』というヒントは、ぶっちゃけもうエリクの名前を思い出すと誰にともなく舌を出したくなる心境になるから、あんまり考えたくない。
 でも、エリサの話自体はなんか放り出しちゃいけない気がしてなぁ、気が付くと悶々としてるわけだ。

 そうだな、こんな風に答えの出ない問いに一人でのたうち回ってるくらいなら、我慢してエリクに会ってこよう。会って、殴ろう。それで気が済むまで殴ったらエリサのことを聞こう。うん、それなら俺もきっと我慢しきれる。

「さてじゃあ――」

 弾みをつけるべく独り言ちて立ち上がり、

「どこにいるの、エリクは?」

 間抜けな自問をした。
 そういや俺、あいつがどこに逗留してるのか知らないじゃん……。

 自分の迂闊さに軽く溜息を漏らしてなんとなく店の出入り口を見やると、午後の気怠げな光を背景に、小さな影が扉の枠に寄り添うように佇立(ちょりつ)していた。
 焦慮と疲労を顔に張り付けたガノ君だった。

「あら、ガノ君いらっしゃい」

「……うっす」

 子供らしからぬ疲れた顔が、薄暗い店内に青白く浮き上がる。

「今日は一人なのね」

「うん……」

 俺が立つ机のそばまで歩み寄ったガノ君は、そのまま俯いて立ち尽くす。
 その落ち込んだ様子に、俺は今まで考えの脇に押しやっていた事を思い出させられた。
 キャリン達が、未だに帰らないという事を。

 キャリン、ジノ、ヒャラポッカちゃん、ドズさんらパーティの帰還予定日から数えて三日。さすがに安穏としていられる期間は過ぎている。
 たしか場所はルー=フェルから西に三日行程のところで、その名を『根絡みの大空洞』という。大空洞の名前の通り、地下ウン百メートルという深い場所に、体育館のようなだだっ広い広間がいくつか並び、その内部はまるで公園か何かのように草木が生い茂る不思議な遺跡で、最大の広さの部屋になると一辺が五百メートル、高さが百メートル以上という地下の構造体にはありえない広さを持っている。
 こうも目印になるものが少ない遺跡だけあって先人の見落としも多く、意外と利用価値の高いガジェットが眠っている穴場と呼べるかもしれないダンジョンだ。

 これだけでも他にはない特色を持った遺跡迷宮なのだが、『根絡みの大空洞』の異色な点はもう一つ、大空洞に至るまでの道のりがまた別の遺跡迷宮として指定されている点だ。名前を『根絡みへの通廊』という。
 こちらはそれこそ初心者冒険者が実地訓練みたいな目的で潜るダンジョンで、地図が充実しているかわりに目新しいものも目ぼしいものもない、といった具合の名前通り通り抜けるだけのダンジョンとなっている。

 これが何でわざわざ遺跡迷宮に指定されているかといえば、通廊と大空洞の発見時期があまりにもかけ離れていたからだ。元々は通廊だけのダンジョンだったのが、百年近くたってから奥に大空洞なる大型遺跡迷宮が眠っていた。後の調査で二つはもともと一つの遺跡だったということが判明したものの、慣習的に呼び分けてたもんだから惰性で今も二つの遺跡として扱われているのだ。これが冒険者にとっては結構曲者だったりする。

 管理者である冒険者協会からすれば単に遺跡迷宮が二つ並んでいるだけなんだろうが、大空洞に潜ろうと思うとわざわざ遺跡迷宮探索申請を二か所出さなきゃいけないこっちとしては、手数料も掛かるし許可申請手続きが面倒だしでいいことが一つもないのだ。
 大空洞自体が割と人気な遺跡迷宮で不平不満の声も小さくはないから、近い内に刷新されるんじゃないかと期待している。刷新されたら潜ろうと思ってるから、なお期待してる。

 そういう期待もあっていろいろ調べたから詳しいわけだけど、『根絡みへの通廊』の難易度は下の下、『根絡みの大空洞』は中の下くらいでキャリン達であれば相当なアクシデントでも起こらない限りそうそう窮地に陥るようなダンジョンではない。
 魔獣も少なくないとはいえ、だだっ広いし隠れる場所には困らないから意外と簡単にやり過ごせるとも聞いている。
 帰還の時間と荷駄の食料を考えれば、予定超過三日はギリギリだ。遺跡迷宮の内部は魔獣とエーテルで変質した植物と数千年を経た訳の分からない物体しかなくて、食料にならないからな。
 俺たち冒険者でも不安を覚えるんだから、ガノ君の心配はなおいっそうだろう。あれこれ思い悩んでいて迂闊にも思い至らなかったけど。

「まだ、帰ってないんだね」

 今まで忘れてた罪悪感に慌てたせいか、そんなつまらない言葉が口を衝いた。そんなの、言われるまでもなくわかり切ってることじゃないか、何を聞いてんだ俺は……。
 対して聞かれたガノ君も心ここにあらずと言った態で、俺の無神経な言葉にも機械的に頷いただけだった。
 そして、沈黙。

「座ったら?」

 重苦しい沈黙に耐えかね、突っ立ったままのガノ君に椅子を勧めたところで自分も立ったままなのに気付いて慌てて腰を下ろす。
 そんな俺の間抜けも意に介さず――というか気付いた風もなく、言いなりになって俺の向かいにガノ君は腰かける。
 そしてまた沈黙。

「きっと、その……明日には帰ってくるわよ! きっと収穫が多すぎて持ち帰るのに難儀してるんじゃないかな、たぶんっ!」

 ガノ君がゆっくりと青白い顔を持ち上げた。

「『ナンギ』って、なに」

「へ? あ、ああ、えーと、難儀っていうのはね、大変な思いをしてるーとか苦労してるーってことよ」

「ほんとかよ……」

「不安なら、辞書引いてこようか……?」

「ちげーよ。ほんとに明日帰ってくんのかよ」

「それは……きっとそうだと、思う」

 っていうか明日にでも帰ってこなきゃ本格的に未帰還冒険の可能性が出てきちまうから、帰ってきてくれないと困るっていう希望的観測なんだけど……さすがにこれは口に出しちゃだめだよな。

「ほんとかよ……」

 自分でも説得力無いなって思う予測だった。なのにガノ君は同じ言葉を繰り返すだけでそれ以上疑おうとはしない。
 きっとガノ君も兄やその婚約者と仲間たちが無事であると信じたいのだろう、再び俯いた陰にそう思わせる重い色があった。

「えーと、今日はどうしてここに?」

 場つなぎ的に聞いてみた。気軽に立ち寄るにも、下町の狗尾亭と中央区の冒険者協会宿舎じゃ子供の足では遠すぎる。何か目的があって来たと推量したのだ。
 答えはすぐに返ってこなかった。
 奥の厨房からクリエラさんが静かに出てきて、俺とガノ君の前にそれぞれカップをおいてまた厨房に引っ込んだ。カップの中ではミルクがなみなみと湯気を立てていて、温かな香気には蜂蜜の甘い香りが混じっていた。気分が落ち込んでいる時にはもってこいの飲み物だ。
 でもガノ君はそのクリエラさんの親切にも手を付けようとはせず、ただ白いカップの中身を見つめるだけだった。
 無理に聞き出すのも短気な気がして、さりとてこのままこうして黙りあっているのも芸がないというか情けないというか……。

「なあ」

 いつも自分のことに手一杯だったから、こんな時他人にどうやって接したらいいかなんてわかんないぞ……。

「シューねーちゃん」

「へ? あ、なに、なに?」

 心の中で頭を抱えてたから呼ばれてるのに気付かなかった。

「ねーちゃんも冒険者なんだよな」

「ええ、そうよ、これでも結構すごいんだから」

「すごいって、どれくらい?」

「えーと、そうね……どう言えばいいかな」

 冒険者の実力を説明しなきゃいけない時、基準となる物差しがないのは結構不便なんだよな。
 同じ冒険者同士であれば、ドコソコの遺跡迷宮を何層まで到達した、とかナントカって魔物を倒した、とか言えばおおよそ伝わるものなんだけど、カタギが相手だとそれを伝えたところで『じゃあその遺跡迷宮はどれくらい難しいの?』って具合に堂々巡りになっちまう。

 もっとわかりやすい冒険者ランクみたいなものがあればいいんだけど、っていうかそういう話がないわけじゃない。
 冒険者協会の方から冒険者の実力を把握するためにそうした階梯免許の制度は何度も具申されている。だけどほら、冒険者って人種は基本的に社会が手狭に感じるというか、アウトローっていうか、みんな良くも悪くも自由人だから、申請次第で自由にダンジョンに潜れてこそ冒険者だって反対意見が根強いんだよ。

 冒険者が免許制になった時もかなり揉めたらしいけど、今のランク制度はそれ以上に揉めてるみたいなんだよね。『これ以上俺達の自由を奪うな!』って感じに。
 そんなこんなで今現在、一言で冒険者の実力を説明できる基準が存在しないのだ。

「えーと、南のゼファルト空中庭園を踏破……って言ってもわかんないよね、ノガルド・ダーを四人で撃破した……も分かりづらいか……」

 どっちの功績も冒険者としては中堅以上の働きだ。まあ、俺の功績、というよりもガーラの冒険者としての経験とルルの並外れた門晶術技能があってこそではあったけど、俺だって役に立たなかったわけじゃないし。

「にーちゃんと比べたらどっちがすごいんだよ」

「あ、そっか、そうね、その手があった」

 身近な物差しを忘れてたぜ。

「ジノ達と比べたら、間違いなくあたし達の方が上よ」

「どのくらい」

 ガノ君の声にそこはかとなく不機嫌な色が混じる。
 敬愛する兄貴を下に置かれたせいだろうけど、事実だし聞いたのはガノ君だしなぁ……まあ、この質問にはちょっと気を付けて答えよう。

「そうね、んーと、ほんのちょっと、かな」

 実際は一枚も二枚も上手だって言いたかったけど、ここは謙虚に。

「そっか……」

 その答えにはガノ君もある程度の満足を感じてくれたみたいだ。ちょっと安心。
 なんて気を抜いていたせいで、続くガノ君の言葉に受けた衝撃をごまかす余裕がなくなってしまった。

「じゃあさ、にーちゃん達を探してきてよ、シューねーちゃん」

「……あー……」

 それは、考えないこともなかった。
 というか、帰還予定日を過ぎたあたりから何度も考えた。
 行先もおおよその予定も聞いている。可能性のあるアクシデントを念頭に、彼らの足取りを追うのはそれほど難しい事じゃなかった。俺『達』であれば。

 一人じゃさすがに無理なのだ。ルルやリリカ、仲間達の協力がいる。
 そしてパーティが動くとなるとそれなりの掛りが必要になる。さすがに捜索が目的であれば探索よりも少なくて済むだろうが、それでも金貨六枚は下らないだろう。
 そんな大金が俺の財布に鎮座しているわけもなく、じゃあ費用が嵩まないように少人数でいけばいいのかと言えば一人でもおよそ金貨二枚……公務員の月給二か月弱とかやっぱりあるわけがない。
 一昔前であれば一人分くらいの蓄えは個人でも持ってたが、それもガーラの一件で使い果たしている。それに結局一人じゃ行けないしな……。

 とどのつまり、金がない。
 どんなに考えても、その点を解消する手段が見つからなかった。エリサに会ってからは考える余裕すらなかったし。

 エリサ。下町の壊滅。
 あー……こっちの問題もあった……なんで面倒な問題って、こうも同時に襲い掛かってくるんだろうな……。
 
「行きたいのは山々なんだけど……」

 はっきりと答えるのが心苦しいやら情けないやら申し訳ないやら悔しいやら、ついつい言葉を濁してしまう。
 しかしガノ君にとっては目の前にいる俺、冒険者シュリア・オーティスだけが頼みの綱なのだろう、追及の態度は厳しかった。

「なんだよ、やっぱ怖いのかよ」

「違う、怖いとかそういうんじゃないのよ」

「じゃあなんでだよ。シューねーちゃんだってキャリンねーちゃんが心配じゃないのかよ」

「それは心配よ!」

 思わず声が大きくなる。
 本当に、ちょっとだけ忘れてたけど、本当に心配なのだ。そんな言われようは心外だ。
 でも――。

「でもね……だめなの、探しに行きたくても行けないのよ」

「なんでだよ!」

 俺の大声に触発されてだろう、ガノ君は涙すら浮かべて怒鳴り返してきた。

「お金がね、ないの」

「お金ならオレの小遣いもあるぞ!」

「そういうレベルの金額じゃないのよ……あたし一人で金貨二枚。本格的に探しに行くなら金貨六枚は必要なの」

 その金額を聞いて、ガノ君はピンときた様子はないものの言葉を飲み込んだ。
 そうだよな、宗の子供の頃を思い出せばそうだ。数十万円単位のお金の話なんてどんな物が買えるのかもよくわかんなかったもん。しかも金貨六枚を換算したら安い軽自動車が買えるくらいの金額だ。この世界で言えば乗馬が二頭は購(あがな)える。

「なんだよ……なんでだよ……」

 その遣り切れなさは俺だって同じだよ、ガノ君……。
 だがあまりに深刻な少年の落胆に、そんな安い慰めみたいな言葉をかけることはできなかった。たとえ俺の本心であっても、今の彼が感じてる絶望に比肩するものはこの世の中に存在しないだろう。
 ルゥ婆を失った時、俺にはリリカっていう理解者がいてくれたからお互いの絶望の重さを冷静に見比べられたけど……ガノ君はジノがいなくなったら本当に一人ぼっちになってしまうのだ。
 それはきっと、とんでもなく恐ろしいことなんだろうな。

 それでも何か、彼の心を支えられる言葉を探して俺がまごまごしていると、ガノ君は弾かれたように椅子を蹴倒して立ち上がり、

「希者様にお願いしてくる」

 静かにそう宣言して店の出入り口に駆け出した。

「待って、希者様ってっ――」

 あんな奴を頼らせるのは癪(しゃく)だった。ただそれだけの感情で走り去ろうとするガノ君を呼び止めるが、

「もうシューねーちゃんには頼まねーよ、かいしょーなしっ!」

 伸ばした腕は手厳しくはねのけられて、ガノ君は風のように狗尾亭から飛び出して行ってしまった。

「甲斐性なし、か……」

 子供のくせに的確にこっちの弱みをえぐってくるぜ……どこでそんな言葉を覚えたのやら。

「情けないね」

 背後からそう言われて、俺は頷く事しかできなかった。振り返る必要もない。声の主はクリエラさん以外にあり得なかったから。

「あんたもだけどさ、アタシもそうさ。大人二人が雁首揃えて、子供の気持ち一つ支えてやれないなんてね」

「なんで、こんな風になっちゃうんでしょうね……あたしだって精一杯やってるのに……なんでこうなっちゃうのよ……」

 掌に走る痛みを感じて、初めて自分が拳を握りしめているのだと気付かされた。それも切り整えた爪が掌に食い込むほど、強く。
 宿舎を追い出された事に始まり、エリクの事とかエリサの事とか下町の事とかキャリンの事とか、もういっぱいいっぱいなんだ。なんで俺ばっかりこんなに苦労しなきゃなんないんだよ。納得がいかない。不公平だ。

「あんたもまだまだ子供だってことでしょうね」

 まるで俺の心底を見透かしたようなクリエラさんの言葉に、喉が詰まるような錯覚を覚える。不満が、すぐそこまで出かかってたのかもしれない。
 クリエラさんは押し黙った俺を余所に、結局一口も手を付けられなかったカップと、空のカップを持って厨房に戻っていった。
 それと入れ違うように、スウィングドアが馴染んだ軋み声で客の到来を告げる。

「ぁれ、ぉねぃさま、どぅかしたんですか?」

 ルルとリリカだった。

  ※

「なるほど、そぅぃぅ事でしたか」

 開店前のお店の一角、俺はルルとリリカと額を突き合わせて、つい先ほどの情けない話を聞いてもらった。

「それは仕方ぁりませんょ、おねぃさまの判断は間違ってません」

「そうよね、お金だってないし、まだ未帰還と決まったわけじゃないし、勝手に探索に行くわけにもいかないし……」

「そぅですょ、今回ばかりは間が悪ぃです」

 ルルの温かい慰めに、わだかまっていた罪悪感がほぐれていく。

「シューちゃんはぁ、本当にそれでいいの~……?」

 その言葉は冷水だった。
 心地の良い言葉に逃げようとしていた俺を、リリカがそっと引き留めてくれた。
 俺はまた、逃げようとしてたのか……。

「でも……だって他にどうしようも……」

「シューちゃんが納得しているのであれば、わたしはそれがどんな判断でも尊重するよ~。でも、今のシューちゃんは自分を誤魔化して無理矢理飲み込もうとしてるように見えるのよう」

 眼鏡の奥から本当に心配してくれている事が伝わってくる、熱く潤んだ眼差しが俺を見ている。

「納得……できてるわけないじゃない……そうよ、あたしは自分を納得させようとしてる。だってしょうがないじゃない、無理矢理でも納得しなきゃ、他にどうしようもないんだもん。お金もない、時間もない、権利もない、そんな状況で何が出来るってのよ! そりゃ、探しにいけるなら今すぐにでも行きたいわよ、大切な友達だもの!」

「うん、そうだよねぇ……シューちゃんの気持ち、わかったよ~」

「大声出してごめん……ちょっと頭冷やしてくる……」

 気まずいやら恥ずかしいやらで居た堪れなくなった。

「お金はどうにかなると思うの」

「え……?」

 狗尾亭(えのころてい)を立ち去ろうとする俺の背中を、淡々としたリリカの声が引き留める。

「支度金を切り崩して、手持ちのガジェットを少し処分して……あとは生活費を少し切り詰めれば……うん、金貨六枚は用意できるよ。これで最低限の探索が可能な準備はできると思う。申請も大丈夫、目的地未設定で予備申請はいつも出してあるから、一両日中に許可申請は通るよ。今から申請して、あとの時間を準備に回せば、明日の朝には出立できる。あとは時間が問題。四人パーティで換算して多分三日分くらいしか食料は準備できないから、その間に根絡みの大空洞をどれだけ捜索できるか……」

 頭の中の記憶を確認しながらも滔々と必要な情報を並べたてたリリカの姿には、いつものふんわりのほほんとした頼りなさは微塵もない。
 でもこれもまたリリカなのだ。
 普段のリリカは確かに臆病で気弱で優しすぎるくらい優しくて胸が少し小さいことを気にする普通の女の子だ。でもそんな普通の女の子が俺やガーラ、そしてルルといった人並み外れたメンツと何年も一緒に旅をできるわけがない。リリカの強さは信仰という俺達の誰よりも逞しい芯と、この生活力にある。

 ぶっちゃけ、俺もルルも家計に関する関心も能力も長けてるとは言い難い。ガーラはここに並べるのもおこがましい。そんな三人が今まで生活破綻も起こさずそれどころかある程度の貯蓄まで成しえたのは、偏(ひとえ)にリリカの甲斐甲斐しさのおかげなのだ。
 これがどれだけ社会を生きていくのに必要なスキルか……一端の話だが、物の売買に関わる点がわかりやすい。

 現代日本じゃ品物の金額はある程度を法に保護されているが、アステラにそんな通商法なんてものは存在しない。
 場所柄で物の値段は倍にも半分にも推移し、それに加えて売る人間の胸三寸でいくらでも値段の吊り上げができる。その品物の適正価格がいくらなのか知らなければ、とてもじゃないけど旅をしながらまともな生活なんてできないのだ。

 俺とガーラの二人旅ではこの辺で何度も痛い目を見たが、何分ガーラの稼ぎがやけに良いので強引に生き抜いてきたものだ。
 生活用品に関わる適正価格、現在の俺達パーティメンバーの貯蓄と個々人の手持ち、最近の金銀為替指数、それに伴う物価変動の予測値、街道の状況、季節による特産の推移、その他etc.……リリカの頭の中には街頭商人も裸足で逃げ出すような経済情報がみっちり詰まっていて、俺達の生活を縁の下から力強く支えてくれている。これを良妻と言わずしてなんというか。
 そして今、リリカはその情報をフル活用して俺の前に道を示してくれた。俺の目には暗すぎる道に光明を授けてくれた。
 
「リリカ、ありがとう……」

 自然とその言葉が口からこぼれ出た。

「ううん、わたしにできる事なんてこのくらいだから~……それよりもね、時間が問題なの。捜索できる時間は限られてるから、でもそこはわたしじゃ力になれないから……」

「うん、それはあたし達が頑張る番よ。でもリリカ、あなたは荒事になると足手まといになるとか思ってるみたいだけど、あたし達が全力で戦えるのはリリカの祈祷術あってなのよ? 全然力になれないなんてことない。むしろリリカがいなきゃ困るわ、少しの無茶もできなくなるもの」

「シューちゃん……嬉しい」

 勢いに任せてずいぶん気恥ずかしいことを口走った気がするけど、これは紛れもない本心だしな、むしろ伝えられてよかった。
 リリカの涙を浮かべた笑顔を見ると、心の底からそう思える。

「でも、無茶はあんまりしないでね~? 本当に心配なんだからぁ」

「あー、そこはそれ、言葉の綾よ、綾」

「そっか、じゃあしょうがないね~……あ」

 おかしそうに笑ったリリカが、不意に口を『あ』の形に凍り付かせた。
 その視線の先には、羨ましそうな不貞腐れたような顔のルルが突っ立っている。

「えーと……ルルちゃん、支度金を切り崩してもいいかなぁ……?」

 ……あ、それもそうだ。あれは俺達パーティ全員のお金なんだから、まずはルルにも許可を取ってしかるべきだ。うっかりしてた……。

「今更ここで反対したら、ルル一人だけ悪者じゃなぃですか……そもそも反対するつもりもなぃですけど、なんだかルルだけのけ者にされてたみたぃで面白くなぃです」

「ごめんねルルちゃん~、そういうつもりじゃなかったのよぅ~」

「そうそう、単に勢いの問題というか、ね? 悪気はなかったのだし謝るから機嫌直してよ」

「ぶー……仕方ないですね、ぉねぃさまが今晩添い寝してくれるなら」

「う、あたし独り寝じゃないと熟睡できないんだけど……」

「じゃあルルの機嫌は直りませんー」

「シューちゃん~」

「ああもうわかったわよ、今晩だけだからね!」

「やった!」

「なんかエビで釣られた気分だわ……」

 ひとまずこれで丸く収まった事にして、気を取り直す。

「そうしたらリリカには協会方面の手続きを、あたしとルルは冒険の支度を買い出しよ」

「ガーラさんはぃぃんですか?」

「いないものは相談のしようがないでしょ。ガーラもきっとわかってくれるわよ」

「待って、シューちゃん~」

「んん? どうかした?」

「買い出しはルルちゃんに任せて、シューちゃんは他にやるべきことがあるでしょ~」

「やるべきこと?」

 思い当たる節がなくて思わず聞き返す。

「ちゃんとガノ君にわたしたちが探しに行くことを伝えて励ましてあげないと~、このまま暴走して自分で探しに行くなんて勝手に出ていっちゃったら大変よ~」

「それは気の回し過ぎな気もするけど……そうね、ガノ君は元気づけてあげたいし、ルル、後から合流でも構わない?」

「バッチコイです」

「子供の足だしまだ宿舎にはついてないでしょうね、ひとっ走り行ってくるわ!」

「気を付けてね~」

  ※

「でなんで見つかんないのよっ……!」

 弾む息に乗せて吐き捨てる。
 すぐに見つかると思ったガノ君は、一体どこに消えてしまったものやら影も形も掴めなかった。

 下町はルー=フェルの南西の端、山裾に抱かれるようにして南北に細長く伸びる。
 俺はそこから目的地があるリィストーン広場――いわゆる中央広場付近の冒険者協会宿舎まで、ガノ君が利用しそうな道を速足に北上した。
 しかし二十分後、その姿を捉えることなく宿舎の前まで着いてしまう。敷居が高いのも我慢して舎監にガノ君の帰宅を尋ねても、渋い表情と一緒に返ってきたのは戻っていないという言葉だけだった。
 
 どこかで行き違ったのかと来た道とは別のルートで狗尾亭(えのころてい)までの道順をなぞるが、やはり見つからない。
 もうこうなったらガノ君が立ち寄りそうなところを片っ端にと下町から中央区までの公園や広場を尋ねて走り回ったが、これも空振りに終わってしまう。
 その間、近くによれば宿舎にガノ君の帰宅を尋ねるが、こちらも変わらぬ返事ばかり。

 探し始めたときはまだ明るかった空は、暗い青と濁った赤のグラデーションを東西に引いて、昼夜の交代を確実に進めていく。
 これ以上探す当てがなくて公園のベンチに腰を落ち着けてしまった俺の周囲にも、ほとんど夜と呼んで差し支えない闇が這い出してきていた。
 音もなく街灯ガジェットが点灯し、辺りの闇が固着化したように濃さと硬さを深める。
 こんな時間まで、ガノ君は一体どこをほっつき歩いてんだよ……見つけたらジノの分まで説教してやる。

 鼓動と呼吸が落ち着きを取り戻してきた頃合い、俺はもう一度頭の中の情報を整理した。
 ガノ君はどうやら宿舎に帰るつもりなくどこかを彷徨っているらしい。さりとてルー=フェル南西部はほぼくまなく探したにもかかわらずなんの手掛かりすら見つけられなかった。
 であればガノ君は南西部にはいない可能性が高い。しかしこの南西部以外に住宅地というと北西部に少しと南東部に少し、それだってこのあたりとほとんど変わらない、家とわずかな商店があるだけの住宅地なんだから、わざわざ足を運ぶ理由も思い当たらない。

 理由……。
 何か忘れている気がする。
 ガノ君は別れ際、なんと言っていた?
 何かとても不快な言葉を……甲斐性なし? 違う、言葉と言ってもそういうのじゃない。
 そう、名前だ。不快な名前。不快な……っ!

「エリク!」

 思わず叫んでいた。誰にも聞かれてないよな……気まずい思いで周囲を伺うが、人影どころか野良猫の姿すら見受けられずに、俺はひとまず安堵した。
 そうだよ思い出した。ガノ君は別れ際に『希者様に頼む』とか不穏当なことを言い残したんだった。
 ということはガノ君は有言実行言下にエリクの元へ兄と仲間の救出を陳情しに行った?
 
「……でもどこに……?」

 興味がない、というかエリクのことなんて知りたくもないからあいつの居場所なんて知らないぞ、俺。
 むしろガノ君は知ってるのか? 俺と同じく知らずにこの広いルー=フェルを当てもなく徘徊してるとしたら、そりゃ見つかりようもないぞ。
 新たな問題の出現に、座ったまま頭を抱えてしまう。

「あー、もう、このこと覚えてたら出てくる前にリリカかルルに聞いてみたのになぁ……」

 仕方ない、今から戻って聞いてみるか。他に手掛かりもないし……。
 そう思って顔を上げた瞬間、背筋がゾッと強張った。

 俺は六十四年間生きてきた中で、幽霊というものは見たことがない。
 見たことのないものを心から信じることはできなくて、だから怪談話なんて創作物以外の何物でもなかった。
 想像して怖い怖いと口にすることはあっても、その恐怖は強大な魔物と――そう、レッサードラゴンと対峙した時のそれとは比べるべくもなくて、どこか馬鹿にした気持ちがあった。だって、幽霊は俺に牙を剥いて殺しにかかってはこないだろ?

 今この瞬間、その考え方が間違っていたことに気付かされた。
 わかりやすい物理的な脅威に対する恐い思いと、幽霊が代表する得体のしれないものに対する怖い思いは全くの別物だ。
 本当に目の当たりにしてみて初めて気付かされた。何をしてくるのか想像もつかない存在の恐怖が、こんなにも冷酷で深刻なものだったなんて。

 俺の目の前には少女がいた。
 地面まで届きそうな滑らかな黒髪を影のように背負った少女は、屍肉のように白い着物と血のように赤黒い袴を身に着けている。いわゆる巫女さんの格好なんだろうが、この世界でこんなものにお目に掛った驚きよりも冷たい戦慄の方が先立って呆れた心境になりようもない。

 その着物より白い小造りな顔には表情らしい表情はなく、ただぼんやりと奈落のような深い黒の瞳を俺に向けていた。

 見返すとそのまま吸い込まれてしまいそうなどこまでも透き通った黒だった。一瞬だけ視線を絡ませてしまい、慌てて目を逸らす。
 だから、その血を啜ったように赤い唇が動く瞬間を見逃した。

「吾(あ)が尊主(みことぬし)がお持ちです」

 はっきりとその言葉が聞こえた。
 幽霊が喋った。しかも意味の分かる……ようなやっぱりわからないような言葉を。

「ミコトヌシ……って、誰よ」

 その声が意外と可愛らしく生気の宿ったものだったので、俺の方にも少し余裕が出た。
 っていうかちょっと待て、この子、本当に幽霊か?

「吾が尊主は尊主です。言伝(ことづて)です。『迷惑だから早く連れ帰ってよ☆』だ、そうです」

「あー……」

 意外とうまい口真似でわかったよ……この子、あの野郎のお使いか。今まさにどこにいるか知りたかった希者様、エリク・ノーラの。

「それはご丁寧にどーも。まったくずいぶん都合のいいタイミングでご登場ね……」

 この子に罪はないんだが、そのくらいの嫌味も言いたくなる。それくらいさっきの登場には驚かされた。
 っていうかエリクといいこの子といい、気配もなく人の目の前に立つのが流行ってるのか? それとも希者流の礼儀作法なのか?

「疾(と)く、参られませい」

 なんてしょうもないことを考えてたら、巫女さんが踵を返した。

「ちょ、ちょっと待って!」

 俺の制止に巫女さんが足を止めて振り返る。振り返り、固まる。目顔だけで用件を聞く構えだ。

「エリクはどこにいるの」

 俺の問いに巫女さんは固まったままだった。視線を動かすどころかどこかぼんやりした双眸は瞬きすらしない。これ、本当に生きてるんだよな……?
 俺が不安になるだけの時間をたっぷりとって、巫女さんがわずかに小首を傾げた。振り返りながら小首を傾げるとか、首の筋を違えそうな芸当だ。

「ご存じないのですか」

 その物言いにハッとさせられる。
 ガノ君も知ってそうな感じだし……もしかして知ってないとおかしいことだった……?

「……そんな有名なことなの……?」

「吾が尊主は只今総督府のお屋敷に御逗留なさっております」

「総督府……」

 ああ……確かに納得だわ……国家の賓客にすら匹敵する希者様だものな、その辺の安宿を根城にするわけないか……。

「それでは、お急ぎ下さいまし」

「ああ、最後にっ!」

 今度の制止には振り返りすらしなかった。
 とりあえず待ってくれたものと解して最後の用件を口にする。

「あなた、名前は? 伝言を受けた相手の名前くらい確認しとかないと、変な行き違いがあったら困るし」

「……シュユ」

「シュユちゃんね。わかった、ところであなたは――」

 一緒に行く気はないか? と、聞こうとしてる間に、彼女の姿は長髪と闇の黒に紛れて忽然と消えてしまった。まるで同じ黒の中に溶けてしまったかのように。

「ほんと……なんなのかしらね……」

 とりあえずやること自体ははっきりしたんだから、この遣り切れない感情は何とか飲み込むしかないかな……。

  ※

 総督府。皇玉国から派遣されたルー=フェルの正式な行政機関。の、一つ。
 もう一つは共王国からノして来ている監察府。
 それぞれの本拠地はルー=フェルの南北の端にあった。総督府は皇玉国側である南に、監察府はその反対だ。

 俺は見学程度だけど総督府も監察府も見たことがある。
 監察府の建物は貴族の屋敷かと見紛うような豪奢な造りで無駄と余裕を勘違いしたような広さを誇示していた。
 対して総督府の官舎だが、単純な広さだけで言えば総督府は監察府の何倍も広い。それもそのはず、総督府は敷地のほとんどが自然公園の中にあるのだ。
 ルー=フェルを取り巻く天然の森から人工の公園へと、不自然にならないグラデーションを描いて照葉樹、常緑樹、落葉樹がバランスよく配置され、季節の折々に花樹や紅葉が楽しめる。
 そうした気遣いが表すようにこの自然公園は散策がメインとなる公園で、樹木だけじゃなく噴水や花壇が巧妙に遊歩道を形作り、しかもそれが巧みに折り重なって一周や二週じゃ飽きさせない造りになっていた。
 しかもこの政府公用地であるはずの公園は出入り自由で、誰でもいつでもこの巧妙な自然と人造の調和を楽しむことができた。

 総督府の中枢である肝心の屋敷はその公園の最南端、公園を広大な前庭とする形で背の高いシンプルな鉄柵だけを境界として鎮座している。
 前庭が大自然とか昔住んでいたシュベー領の屋敷を思い起こさせるところは実に開放的だが、素朴だったシュベー領の屋敷と違いこちらはさすがに行政機関だけあって重厚……というか質実剛健な佇まいの中に物々しさすら感じさせる屋敷だった。
 敷地内のあちこちに衛視のための詰め所が設けられ、非常時にはこの建物がすぐさま軍兵の本営に移行できる工夫が随所に散見できる。
 しかもそう、既に真っ暗闇の今の時間でも建物の特徴が見分けられるほど、敷地内は明るく照らし出されていた。そこかしこに配置された照明ガジェットの明りだ。

 その明かりは鉄柵で囲われた範囲からだいぶ外まで照らしており、その漏れた光を背負って大きな影二つと揉み合う小さな影が見えた。近づけば激しく言い合う声も聞こえてくる。
 まだ幼い少年の声がひときわ甲高く響き渡り、すぐにそれが俺の探し求めていた人物、ガノ君だとわかった。
 
「希者様に会わせてくれよっ! にーちゃんが大変なんだよ!」

「だから何度も言っているだろう、今日の受付は終わったんだ! 明日の朝九時から行政受付で正式に面談手続きを取って後日の順番まで待ちなさい!」

「そんなんじゃ手遅れになっちまう!」

 少し上り坂になった道を足早に登っていくと、すぐ目の前に大きな鉄門扉と厳(いか)めしい制服にバイザーメットを装備した二人の衛視、そしてガノ君の背中が目に飛び込んでくる。

「ガノ君!」

 俺は全員の注意を惹きつけるように大きな声でその名を呼んだ。
 衛視の二対の視線と、ガノ君の必死の顔が俺に集まる。薄闇の中で青年と中年衛視の困った顔が保護者の登場に少し緩んだように見えた。

「ガノ君、ここにいてもしょうがないから、帰りましょう」

「いやだ! オレは希者様ににーちゃんたちを探してきてもらうんだ!」

「あたしが探しに行くから!」

「ねーちゃんはさっき金がないからダメだって……!」

「なんとかなったの! リリカとルルが協力してくれて、探しに行けるようになったのよ! 明日の早朝からすぐに出発する。だからもうエリクなんかに頼る必要はないの!」

「じゃあ――」「僕なんか、とは散々な言われようだなぁ☆」

 何かを言いかけたガノ君の声を遮って、のんびりとしたいけ好かない声が闇の中からこだまする。
 衛視の二人がさっと門の両脇に退いて、敬礼した。その向こう、門扉の奥にあったのはにっくきエリクの姿だった。

「……なんであんたが出てくんのよ」

 もしかしてこの騒ぎを聞きつけて自分を頼ろうとしている人に救いの手を? でもそうしたら捜索に行くといった俺の立場が……なんて殊勝なことを期待した俺の思惑はあっさりと否定された。

「ちゃんとこの迷惑な訪問者を引き取りに来てくれたか確認と、ちょっとした挨拶に☆」

 そうだよ、シュユちゃんを使いに出して迷惑だから連れ帰れって言伝したのは誰でもないこいつだったよ……。

「迷惑って……あんた、希者なんでしょ? 希者ってのは人助けをするもんじゃないの?」

「そうだよ☆ でもいちいち一人ずつ助けてたらキリがないじゃないか。だから僕は大勢を一度に助けるようにしてるんだ。例えば、ルー=フェルの住人ほぼ全員、とかね」

「ほぼ、ね……それって一部は入ってないってこと」

「そりゃ僕だって万能じゃないからね、全員は無理さ☆」

「だからってこんな子供のささやかな願いも無視するなんて、あんたそれでも神様に選ばれた人間なの?」

「選んでくれと頼んだ覚えはないよ。彼らが勝手に選んだんだ。僕の力を利用するためにね☆ そして僕も一つしかない肉体の軛(くびき)に囚われている以上どうしても手の届く範囲が決まってるのさ。だから手が回らない希(のぞ)みは無視するようにしてる。君たちは僕がどれほどの希みを背負っているかなんて想像もできないだろうけど、それを説明されてどうしようもない無力感を味わうくらいなら、希みを叶えない僕を恨んでいる方がきっと楽だろうって親切心でもあるんだよ☆」

「なによそれ、まるで恨まれたいように聞こえるけど」

「正確にはどうでもいいんだよ、他人にどう思われようがさ。僕にとっては希(のぞ)みも恨みも変わらない。どちらも受け入れ消化する。それだけ。中身に興味なんてないんだ☆」

「……ガノ君、帰るわよ。わかったでしょ、希者なんてこんなものなのよ。大勢の人に感謝されてるってだけで、その陰でわずかに捨て置いた人を無視する、そんな陳腐な正義なのよ」

「……うん……」

 まだ幼いこの子は、エリクの言っていることなんて半分も理解できないだろう。だけど、こいつが助けてくれないってことだけは身に染みてわかったはずだ。
 エリクの物言いに戸惑っているのは何もガノ君だけじゃない。左右に侍っていた衛視の二人だってそうだ。腑に落ちないものを抱えながらも無理に納得しようとしているように見える。

 ああ確かに世の中にゃそうやって割り切らなきゃいけない物事がゴマンとあるよ。
 だけど、いやだからこそ、たまにはその不条理に真正面から立ち向かってみてもいいんじゃないか?
 特に希者なんて名声も地位も力もある奴はなおさらさ。

 エリクの薄気味悪い微笑に背を向けて、俺はガノ君を促した。
 ガノ君はさっきまでの威勢はどこへやら、大人しく俺の手に従って公園への道を下っていく。
 
 ああ、すっかり遅くなっちまったな……ルル、怒ってるかなぁ。
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