醒メて世カイに終ワリを告ゲルは

立津テト

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3.岩屋の死闘と、居ない人達。

3#2 異変

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「あ、リリカ、この遺跡迷宮はカンテラいらないわよ」

 大きな肩提げカバンに括りつけてある、カンテラを取り外そうとしていたリリカの手が止まった。

「ここも壁面照明なの~?」

「うん、そうらしいわ」

 確認のために『根絡みへの通廊』のマップを取り出す。リリカの言った『ここ“も”』という言葉で触発された辛い記憶を無理矢理封じ込めて紙面を開いた。
 ごわごわした長方形の紙に描かれているのはほぼ長方形の平面図が三つ、縦に並んでいる図だ。まるで横スクロールアクションのステージ見取り図みたいだが、一応れっきとした遺跡迷宮の地図である。

 新聞紙ほどの紙面の左上隅には『根絡みへの通廊』の名が筆記され、遺跡迷宮の名と並んで『ロイ・ヒャギン版』と明記されている。これは、このマップを完成させた――とされる――冒険者の名前だ。
 遺跡迷宮も人の手が何度も入った場所であればこうしてマップが作られ、それが冒険者協会に認定されるとこうして印刷出版される。
 しかし謎多き遺跡迷宮のマップだけに過信は禁物で、あるはずの道が無かったり無いはずの扉があったりと、単なる記載間違いかそれとも遺跡迷宮そのものが変動したのか、マップと現状が違うことなんてザラにある。

 壁面照明――光ってるわけじゃないのに白っぽい壁自体が謎の技術で照明の役割をしている、ってのも地図の備考欄に記載されていた情報だ。
 さすがに『根絡みへの通廊』くらい難度の低い遺跡になれば自然と地図の精度も上がって信頼性も高くなる。鵜呑みにしても大丈夫な情報だろう。暗かったら改めてカンテラに灯を入れればいいだけの話だしな。
 大雑把にルートを把握してマップを折り畳む。と言っても『根絡みへの通廊』はひたすらまっすぐ進むだけだが。

「さて、中に入る前に手順をおさらいしときましょうか」

 眼前に口を開ける遺跡の口を覗き込んだまま、背後の二人にそう告げる。
 こんもりと樹木を茂らせたなだらかな山腹、その一部を四角く切り抜いたそれが『根絡みへの通廊』の、そしてその奥に眠る『根絡みの大空洞』への入り口だった。
 ゆったりとしたスロープが続く入り口はしばらく行ったところで水平に折れて、その先は死角になって窺えない。
 その奥から乾いた空気が間欠的に吹き付けてくる。まるで迷宮自体が呼吸しているようでゾッとしないでもないが、奥の大空洞で空気が循環している為だとわかっているのだからそんなものは勘違いなのだ。それでもやっぱ薄気味悪く感じちゃうんだけどさ……。

 その短い通路の様子の中だけでも、根絡みという名前が示す通り木の根が絡み合った塊がそこかしこに見て取れる。長いあいだ浸透水と土の加重に晒された壁面が、あちこちから大自然の浸食を許しているのだ。
 さりとてそこまで見通せるほど壁面照明はしっかり残っている。足元にしっかり注意していれば足を取られてコケるような間抜けは演じないだろう。

「まず今回の主目的はジノパーティの捜索及び救出。その他の関りは基本的に無視するわよ」

「は~い」「しょーちです」

「次にベースキャンプだけど、今回は捜索と救出がメインだから、通常の冒険の時みたいに安全地点にキャンプを張ってそこを基点に周辺を探索、とはいかないわ」

「あ~、それで今日は荷物が少なかったんだね~」

 思わず振り返る。そしてリリカの感心したような顔を見て小さく嘆息した。
 リリカの今更な感想にちょっと気合の抜ける感じがしたがここはあえて無視して話を進める。多分こんな具合だろうと思って再確認してるわけだしな。

「でもキャンプを指定しないわけじゃない。キャリン達の痕跡を見つけてそこを基点にした方がいいと判断したら、あるいはジノパーティの誰かを発見して動かせない状況であればそこに仮キャンプを張って――」

「わたしが治療とお留守番するんだよね~」

「そこはちゃんと覚えてたのね」

「うん~」

「期限は二泊三日。最終日は脱出の時間も入ってるから、丸一日使えるのは一日だけね。とにかくジノパーティの足跡を探しながら大空洞の奥まで可能な限り足を延ばすつもり」

「ベースキャンプなしで大空洞ですか……きっつぃですね」

「わかってる、でもそれを承知でついてきてくれたんでしょ?」

「ぉねぃさまの向かぅところならたとぇ火の中水の中、ですょ」

「頼りにしてる」

 本当に頼もしいルルの宣言に笑みを向けてから、もう一度『根絡みへの通廊』の入り口に向き直った。

「準備はいい?」

 そう問いつつ、俺自身も頭の中で自分の持ち物を再確認する。
 キルトのシャツに革のロングパンツ、脛まで防護するなめし革のブーツに同じ素材のグローブ。そしてハゲが目立つようになってきた革の胸当てに、剣帯で腰に廻したショートソード。
 露出は可能な限り少な目だ。いや、ビキニアーマーみたいのは自然環境の中じゃ普通に危険だから。虫刺されで命を落とすような場所だぜ? 出さなくていい肌は出さないのが鉄則だ。ガーラとか例外はあるけど……あいつ、武器が防具みたいになるから、着ている――というか身に着けてるのは剣帯だけで実質裸なんだよな……虫刺され以前の問題だ。よくあんな格好で街中とか歩けるよ。
 ま、ここにいない奴はさておき……後は身体のあちこちに固定したポシェットか。これらには緊急時の食料と水、傷薬と包帯や腹下しの薬といった救護用品、あとはさっきのマップとかコンパスとか必携の品が細かく分別されて収められていた。
 それらのどれ一つとして抜かりがないことを再確認してから、視線だけで背後を振り返り見る。

「ぃけます」

「いいよ~」

 平静な二人の声を背中に、俺は久方ぶりの遺跡迷宮――なのに目的は親友の捜索という皮肉な使命への第一歩を踏み出した。
 石でも金属でもない不思議な白い素材に囲まれた傾斜をゆっくりと下る。スロープを折り切った先には、上からでは見えなかった遺跡迷宮内部が果てしなく伸びて――るはずだ。
 というのも、通廊はひたすらまっすぐで見通しを悪くするものはないはずなのだが、俺の視界はせいぜい数十メートル先くらいまでしか白い壁を視認できていない。後は真っ暗だ。
 これが壁面照明の面倒なところなんだよな。
 どういう理屈なのか知らないけど、壁面照明ってのはその周辺では光を感じさせずに物を見えるように出来るのだが、少し離れると照明としての役割を果たさなくなっちまう。だからずっと壁面照明の通路が続いていてもずっと先まで見通せるわけじゃない。昔の人はこれを不便に思わなかったのかね、まったく。

「リリカ、足元注意してね、あちこち根っこのコブがある」

「うん~、ありがとう~」

 この中で一番大きな荷物を背負っているのがリリカなので気を遣って声を掛ける。戦闘要員ではないリリカは緊急時に即座の対応が必要ないので必然的にこういう役割分担になっているのだ。
 別に役に立たないから荷物持ちにしてるってわけじゃないぞ。

「ルル、『ダエル』は使える?」

「ダメみたぃです……さっきからずっと具象しょぅとはしてるんですけど、なんの反応もぁりませんね」

「そう……しらみ潰しに行くしかない、か……気を引き締めてね」

 『ダエル』とは論理の、そしてそれを使った門晶術の名前で、こないだのソレバーク討伐で大活躍したレーダー魔法のことだ。
 これが使えればソレバークの時みたいに周囲の生体反応を確認しながら進めるので、魔獣の奇襲とか探し物の見落としを極端に減らせる。

 だけどまあ世の中そう都合よくいかないのが常で、ダレウの走査能力はかなりデリケートらしい。何もないところであればそれなりの反応を得られるものの、遺跡迷宮の内部ではなぜかエーテルが撹乱されてまともな探知が出来ないことがあるのだ。
 今回みたいに反応がないだけならまだマシで、間違った反応が返ってくるようだとむしろ頼る方が危険になってしまうこともある。
 変な反応が返ってきても怖いし、使えないなら使わない方が無難かな。

 しかしダレウが使えないとなると少し進行速度を落とさないとだなぁ……。
 遺跡迷宮というのは基本的にエーテル密度が濃い場所だ。エーテル密度が濃いということは生物のエーテル変異が起きやすいということでもある。
 つまり、遺跡迷宮は魔獣の巣窟である、というのが一般的な認識だ。そしてそれが間違っていた事は俺の今までの経験にも存在しない。

 いくら『根絡みへの通廊』が『初心者向け冒険した気分になれるダンジョン』だったとしても、魔獣はいる。
 これはマップに書いてあった情報だが、ここに出るのは基本的に土の中に眠っていた虫が魔獣化した魔物だという。
 虫の魔獣は基本的に凶暴だが、あまり巨大なものがいないというのも特徴の一つだ。なので自然とその脅威は低くなり、そんなに恐ろしい魔獣ってイメージはない。

 ただ、小さな体を利してこの根絡みの中に隠れ潜まれていたら厄介だ。
 決して狭いわけじゃないが都市部の地下通路然としたこの通路の、上下左右が奴らの身の隠し場所だとしたら気の休まる暇がない。
 それだけじゃなくて、たまに迷い込んだ四足獣型の魔獣――ソレバークや草食獣の類――が棲みついてることもあるらしく、そいつらとエンカウントするのも勘弁してもらいたい。
 倒すのはさほど難しくないが、いちいち相手にしてたらとにかく面倒だ。この閉鎖空間だと逃げ道がないし、何より俺の最大火力である火の門晶術が半ば封じられるって点が特にな。
 だって、こんな狭いところで巨大な火を焚いたら熱の逃げ場がなくてこっちまで蒸し焼きになっちまうだろう?
 ルルの雷門晶術も電位差操作が云々と味方を巻き込まないようにするのが難しくなるような事を言っていたし、どうしても普段みたいに全力全開では戦えなくなる。
 ま、手加減がめんどいってだけで、脅威じゃない事に変わりはないんだけどさ。

 パッと見はボロボロの遺跡って具合だが、それなりに頻繁に人の手が入る――というかつい先日ジノパーティが通過したのであろう痕跡はいくつも見受けられた。
 通路を塞いでいた根絡みが切り落とされていたり、床がめくれて土の露出した部分に複数人の足跡が残っていたり、まだ新しい小瓶が転がっていたり――ってかゴミは各自持ち帰りましょう――そうした人跡がところどころに残っている。彼らがここを通ったのは間違いないようだ。

 しかし不思議なのは――。

「ルル、おかしいと思わない?」

「はぃ、明らかにぉかしぃです」

「えぇ? なにが~」

 進むにつれて表情を引き締めていく俺とルルに対して、リリカはきょとんと問い返してきた。

「魔獣がいないのよ」

 周囲を警戒しながら端的に答える。その間にも、ルルは自然と殿(しんがり)に回って俺との間にリリカを挟む形をとった。
 多少の怪我はリリカさえ無事なら即座に治せる。彼女を守ることこそがいろんな意味で俺達の戦術の第一目標だ。
 その守られるべきお姫様は、相変わらずその意味が理解できない様子で首を捻っている。

「魔獣がいないのなら、良いことじゃないの~?」

「確かにこれ自体は良ぃ事なんですけど……その原因がわからなければ、これは最大級の異常事態なのですょ」

 静かな異常事態だった。
 ルルの硬い声が見通しの効く通路の彼方に反響を残して吸い込まれていく。
 あまりにも平穏な不穏。背筋を嫌な汗が伝うほどに。

 この異常はいつからなのだろう。
 もしジノパーティが侵入する前からだとしたら、彼らはこの冒険を断念したはず。これはそれほどの異常だ。
 どんな危険が潜んでいるのかわからない場所にわざわざ首を突っ込むのは、今どきの『冒険』とは呼ばない。ただの自殺行為だ。
 俺達が遺跡迷宮に入ってから物の数分で気付いた事実に、いくらなんでも彼らが気付かないはずはない。でも、彼らが通路の奥に進んでいった事は痕跡が物語っている。

 であればこの異常はキャリン達が進む最中に起こり、彼らを何かのっぴきならない状況に巻き込んだ?
 それか俺の想像の及ばない確信を得て安全だと判断し、探索を続行した?
 それとも考え難いことではあるが、この異常はキャリン達の遭難とは無関係とか……。

 考えれば考えるだけ可能性が広がり、予測がこんがらがっていく。今の段階じゃ考えるだけ無駄か……。
 いずれにしろ注意を怠ればミイラ取りがミイラになりかねないってのは心得ておかなきゃな。

「進むわよ」

 俺の低い声が宣言して、前進が再開された。
 『根絡みへの通廊』は三階層で成り立っている。地上と通じる地下一階から、地下二階、三階と降りていく形だ。そして地下三階は地中奥深くに待ち受ける本番、『根絡みの大空洞』へと続いている。

 マップによれば第一階層から第三階層まで、『根絡みへの通廊』の構造は変わらないらしい。通路の左右に部屋が時折あるだけ。その部屋も物置みたいに小さな部屋ばかりで、ちょっと覗き込めば一通り見回せる程度だ。
 嫌な思い出だがシュベー領の遺跡と似ているといえば似てるな。もっとも、向こうの通路はあくまで部屋と部屋を繋ぐ廊下であったのに対し、こっちはあくまで通路が主構造で部屋は何かの保守のためにあるように見受けられる。
 ま、構造物の目的がさっぱりわからんって共通点が似てるんだよな。あれ、それって遺跡迷宮全般そうじゃ……。

 捜索を続ける俺達は予期された非常も期待した成果もなく、小一時間で第二階層に降りた。魔物がいないと単純な構造の『根絡みへの通廊』はとても進行が速い。
 第二階層は第一階層とは逆に北から南へ進む。第三階層はさらにその逆だな。
 第一階層と相変わらずの第二階層通路を慎重に、しかし迅速に進む。ここにもやはり魔物の姿は見当たらなかった。
 
「ルル、ダエルは?」

「ダメですね」

 何度目かも分からないやり取りを繰り返す。
 明るすぎず暗すぎず、空気の循環もしっかりしている地下通路で、得体のしれない閉塞感を感じる。焦りと恐怖がないまぜになった暗幕が、俺の心を覆いつくそうとしているんだ。
 これならまだ魔物だらけの方がマシだったな……わかりやすい脅威であればわかりやすい威力で蹴散らしていけば済む話だ。俺達にはその力がある。
 だが今のような明らかに異常なんだけどその異常の原因がわからない状況では、こうして石橋を叩いて渡るような手探りの進行しか出来ない。寄りにも寄ってこのクソ急いでるときにさ……。
 ここで癇癪(かんしゃく)を起して駆け抜けられるような無謀な勇気の持ち合わせは俺にはないから、ただひたすらに辛抱辛抱のもどかしい辛さがジワジワと身も心も溶かしていくようだ。

 ジノパーティの痕跡は確かに遺跡の奥へと続いている。それを丁寧に集めるように歩を進め、ジリジリと炙られるような時間を掛けて事もなく第二階層も踏破した。
 そして暗澹(あんたん)とした気持ちになる。
 第三階層でも第二階層と同じ状況が待ち受けていた。静謐(静謐)な通路に動く影はなく、人跡だけが過去の幻影を引きずっている。ああ、無駄に詩的になっちゃうほど気持ちがメランコリックに……。
 
 時間の変化を想像で補うしかないってのも、気持ちが圧迫される要因かもしれない。
 いろいろ便利なものが多いガジェットにも、腕時計や懐中時計みたいな時間を示すものはない。あるのかもしれないけど超古代謹製のガジェットには現代の時間を示すものは存在しないはずだ。
 だから実際に今どれだけの時間が経過したかは自然の変化と自分の勘に頼るしかなく、地下遺跡にこもっている時なんかは太陽の動きも星の位置も空の明るさも見ることができない。
 俺の体感じゃ今は日がとっぷり暮れた午後八時くらいって告げてるけど、焦りや不安に染まった気持ちがその予測を否定する。
 まだそんなに経っていないんじゃないか? いや、本当はもっと経っているのかもしれない……。
 そんな風に期待と憂鬱で心が翻弄される。

 俺をせっつくのは時間だけじゃない。この不合理な状況もだ。
 ジノパーティの目的が大空洞探索である以上、その途中の通廊じゃ成果は上がらないと覚悟はしていたものの、ずっと喉に引っかかるような違和感があった。それは通廊の第三階層まで到達して吐き出したいほどに大きくなっている。
 違和感とは、一見問題なさそうに進んでいく痕跡と魔物が一匹も存在しない遺跡という異常が食い違っている点だ。
 明らかにおかしいのだ、こんな状況を進んでいくなんて。でも、彼らは迷うことなく進み続けている。
 それは痕跡が時系列順に奥へと、大空洞方面へと向かっているのが物語る。つまり彼らに戻ろうという意思はなく、同時に……ここまで戻ってきてもいないのだ。

 となると異常の原因は大空洞にあると考えるのが自然か。ジノパーティがここを通る時にまだ異常はなかった。大空洞に到達した後、何かの問題が発生して通廊の魔物は居なくなってしまった。
 しかしその事実は異常の原因に注意しながらキャリン達の痕跡を探すという、二重の課題を突き付けられた事になる。捜索する身としては意識を二分される嫌な状況だ。
 そもそも魔物が一掃されるような異常ってなんだよ……どう考えても俺達の手に負えるようなシロモノじゃなさそうだぞ……。

 予定でも全ては回れないだろうと覚悟してたものの、この調子だと三分の一も見て回れないんじゃなかろうか……。
 考えれば考えるほど、進めば進むほどに焦りと不安が頭上からのしかかる。

 もしこのまま何も見つからず、キャリン達の手がかりすら掴めなかったらどうしよう……ガノくんになんて伝えればいい?
 何も見つかりませんでした、じゃあまりにも役立たずすぎてかっこ悪い。何より、伝える以前に合わせる顔がないぜ……。

 そうだ、ウジウジ考える前に一歩でも多く前に進んで、何か少しでも手掛かりをつかまなきゃいけないんだ。
 とにかく前へ、前へ……。

 なんとか無理矢理に気持ちを前向きへと切り替えた直後だった。
 第三階層もあと百数メートルといった通路で、リリカが息を詰まらせたような声を上げた。

「シューちゃん、待って……」

「リリカ?」

「……血の跡がある」

「なんですって」

 俺とルルがリリカの指し示す場所まで戻ってみると、確認したはずの部屋の扉のない入り口、白壁のくりぬかれた腰よりも低いところに手で擦り付けたような黒い汚れがあった。
 進行方向からじゃ木の根の死角になっていて気付かなかったんだ。しかも一見すればそこかしこにあるよくわからない汚れに紛れてしまって、血の跡だなんて気付かない。

「リリカ、よく気付いたわね」

「白い包帯についた乾いた血は、光に透かすと独特の色に見えるから~」

「そっか、怪我人の世話とかも正教神会のお勤めだったわね」

 いくら回復の祈祷術があるといっても、常にそれだけで治療するわけにもいかない。怪我自体は治療できても怪我人の体力自体は戻らないから何でもかんでも回復すればいいわけじゃないし、なにより回復には功徳という代償が必要になる。いくら無償奉仕がモットーでも経済活動に寄り添って存在する限り、必要なものは必要になるのだ。
 なので相当緊急でもない限り、あるいは術者本人が自ら志願しない限り、教会での治療にはお金が掛かった。それも消費した功徳に比例するお金が。
 この点に関してはマリベル正教神会でも純統派と敷衍(ふえん)派で侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が繰り返されており、代価の基準もそもそもの是非も時と場所で複雑に変転していた。
 たくさんの人の利害が絡む問題だ、そう簡単に解決の日の目は見ないだろうな。

 そういう理由から、祈祷術でなく普通に怪我の治療をする事も多々あるリリカの見識が辛うじて具体的な痕跡を発見してくれたわけだ。
 確かに、白い壁にこびりついた血は、よく見るとほのかに赤みを宿した焦げ茶色をしている。

「後はこれがなんの血痕かってことよね……」

 血痕の形的に、何かが部屋の中に入ろうとして身体を支えたような形跡だ。指の跡が残るところからして人間のものだろう。キャリン達の誰かである可能性は高い。
 背丈からいってヒャラボッカちゃんかドズさんか……いずれにしろこの部屋の中にまだいるだろうか。

「誰かいないっ? 助けにきたわよっ!」

 一見すると誰もいない部屋の中に向かって叫ぶと、声は空しく反響した。
 この部屋は壁面照明の白壁が激しく崩落している。そのせいで室内はゴチャゴチャしている上にけっこう暗い。
 それなのにさっきはまともに確認もせず通り過ぎようとしたのだ。あくまで目的地は大空洞であって通廊にはきっと何もないだろうと頭のどこかで決めつけていた。魔物がいない事で逆に心のどこかが油断していたか、それともキャリン達を求めるあまりの焦りからか……。

 居るとしたら人間だろうという予測は立てたものの、実際にそれを確認するまでは何がいるのかわからない。遺跡迷宮っていうのはそういうところだ。
 血糊の乾き具合からしてだいぶ時間も経っているようだし、そもそも何もいないかもしれないが……いや、最悪なのは『かつて居た』よりも『反応できない状態』にあることか。
 『反応できない状態』の最たるものは、想像したくないけど、『死』だ。

 血の話が出てから、俺の胸中はザワザワと嫌な予感に荒れていた。
 考えないようにしていても、どうしたって想像の迷い路はそこに辿り着く。
 そして辿り着いたそこにはガーラの言葉が待っている。
 いつ永遠の別れが訪れるかわからない。冒険者とはそういうものだ、と。

 俺だってわかってる。覚悟だって出来てるつもりだ。
 だけど最初からそんな突き放した考え方、嫌じゃないか。諦めてるっていうかさ、悪足掻きは無駄だって決めつけられてるみたいでなんか悔しい。
 利口な振りして努力しないのは、後が辛いんだぞ……。

 何が起こっても対処できるように奥から俺、ルルと入ってリリカは出入口付近を担当する。こういう役割分担は俺達のパーティのお決まりだから、無言の裡(うち)に散開する。
 部屋の中は薄暗く、瓦礫が小さな山を築いて見通しが悪い。その瓦礫に寄り添う濃い影の中を見透かして、落胆とも安堵ともわからない溜息をつく。
 それほど広くはない室内だ、二箇所ほどそんな事を繰り返したとき、リリカの悲鳴が上がった。

「ジノさんっ!」

 悲痛な声に俺もルルも弾かれたようにリリカの声がした方へと走る。

「見つかったのっ!?」

「ジノさんがっ! でもボロボロでっ! しっかりしてくださいっ、ジノさんっ!!」

「生きてはいるのねっ?」

 リリカがしゃがみ込む瓦礫の陰に、滑り込むようにして顔を突き込む。隣にルルも駆け付けた。
 瓦礫と壁に挟まれたわずかな空間に、背をもたれかけさせた男性の姿があった。やや窶(やつ)れ、見る影もないほど汚れた顔はずっと探し求めていたものの一つ、ジノだった。
 暗がりに眼が慣れてジノの全身が視界に入った瞬間、背筋が凍り付くような衝撃が脳天から打ち下ろされた。

 パーティの前衛を務めるジノは俺と同じ前衛及び遊撃を担うウェポンユーザーだ。ただし俊敏な動きと門晶術で敵を撹乱する俺と違い、門晶術が使えない彼はそこそこの防御力と侮れない攻撃力を装備で補っている。
 その防具が、まるで段ボール紙で出来ているかのように引き裂かれ、ただれていた。もはや防具というよりガラクタを身体にくっつけているようなありさまで、一体どんな魔物と戦えばこんだけボロボロになれるのか……想像するだに恐ろしい。
 だけど防具の損壊ほどに身体そのものの怪我は大した事なさそうだ。確かに傷だらけだけで特に火傷が目立つけど、大きな怪我や手足が無いなんてことはない。五体満足で、でもピクリとも動かない。

「ジノ……ほんとに生きてるの……」

「……ぁー……?」

 リリカに確認した声に、掠れた呻き声が応えた。
 ジノが反応したのだ。

「ジノっ!」

「シューちゃん静かにっ!」

 リリカの剣幕に制され、慌てて口を紡ぐ。
 
「誰か……いるのか……」

「いますよ、もう大丈夫です、すぐに傷は治しますからね」

 目が見えていないのか、やかましいばかりだったジノの面影など微塵もない弱々しい声が、震える手が、虚空に向けて伸ばされる。
 手の平は虚空を指すように歪む。何を指し示そうとしているのか。

「仲間が……まだ……大空洞に……オークが……」

「オーク?」

 既にリリカの祈祷術は始まっている。
 苦悶に塗れていた声と呼吸が、みるみる安静を取り戻していく。

「オークの大群が……大空洞に……仲間を……キャリンを……助け……」

 だがそこで最後の力まで振り絞ったのか、何かを求めていた手がパタリと落ちた。

「ジ……ノ……?」

 まさか、死んだとか……ないよな……?

「大丈夫、気を失っただけだよ~」

「そう……よかった……」

 本当に、ここまで来て死なれたらあんまりにもあんまりだったぜ。

「でも身体がすごく衰弱してる~、すぐには動かせないよ~」

「回復にどれくらいかかりそう?」

「二日って言いたいところだけど~、十二時間で運べる程度にはなんとかしてみる~」

「うん、頼りにしてる。じゃあ、打合せ通りここを簡易キャンプにしてリリカはジノの治療を、あたしとルルはこのまま大空洞にキャリン達を助けに行くわよ!」

「りょーかぃです!」

 ようやく……ようやく確かな手掛かりを掴めた。
 この先にキャリンが、みんながいる。きっと待ってる。俺達が助けに来るのをきっと待っててくれてる。
 誰よりも率先して敵の攻撃を受けるジノが生きてたんだ、きっとみんなもどうにかして生き残っていてくれてるはずだ。絶対そうだ。
 だから、急がなくちゃいけない。どんな障害があってもそれを排除して、前に進まなきゃいけない。

 この希望を逃したくない。
 湧き上がる力と、膨らむ期待が背中を押してくれる。
 大丈夫、きっと、大丈夫だ。

「待っててね……キャリン……!」
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