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第3章〜新たな出発〜
中東へ②
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ひたすらどこまでも走った。
人気のない路地に入り込み呼吸を整えていたとき、突然ドオーン!! という爆音に鼓膜が破れそうになり、地響きが身体を揺らした。
辺りを見渡すと、500Mほど離れた場所から煙が上がっているのが見えた。もう一度同じ爆音が地を揺るがし、今度は別の場所から煙が上がる。
踵を返して逃げ出したあとハッと気づいた。
イスラエルではテロ組織の攻撃により民間人の死者が多数出ていると昨日のニュースで報道されていた。もしかしたら、爆撃の犠牲になった人がいるかもしれない。
引き返し煙のする方へ走った。自分の命のことなどこのときの私には頭になかった。
有刺鉄線の張られた柵を乗り越え走った。
間もなく瓦礫と化した建物の残骸が積み重なる場所に出た。巻き上がる粉塵に咳が出る。すぐ目の前の崩れ落ちた石の建物から赤い炎と黒煙が上がっている。
赤く染まる空の下逃げ惑う人々、腹から血を流しぐったりした様子の男の子を抱き抱え慟哭する男性、ガラスの破片が身体に刺さり泣き叫ぶ子どもーー。まさに地獄絵図だ。
不意に、崩れた建物の下から女性の声が聴こえることに気づいた。地面に膝をついて覗き込むと、無惨に積み重なる瓦礫の下に女性の顔が覗いている。彼女は白い布で包まれた何かを必死に守るように抱き抱え、泣き叫びながら私に何かを訴えていた。白い布の中からはけたたましい赤子の泣き声がする。今この絶望的な瞬間を懸命に生き抜こうとするかのような大きな泣き声だった。
女性がその白い布に包まれた何かを差し出したとき、受け取る以外に選択肢はなかった。女性は泣きながらこの子をお願いと伝えているように見えた。この瓦礫を人力で取り去るのは不可能だ。明日にはこの不運で哀れな女性の命は潰えてしまうかもしれない。だが彼女は自分の命と引き換えに赤ん坊を守り、見ず知らずの外国人である私に手渡したのだ。
何度も頷きながら涙が溢れ出てくる。その間も爆撃は続く。
この子をどこか安全なところへーー。
浮かんだ場所は一つしかなかった。
赤子を抱え有刺鉄線を上り、駅のホームへひたすら走った。私の腕の中で赤子は泣き続けている。この子は実の母親の腕の中で泣くことはできない。乳をもらうことも一緒に食卓を囲んで笑い合うことも、実の母親に叱られることも喧嘩をして家出することもないのだ。そう考えると一緒に泣くことしかできなかった。
ホームにはまだサーカス列車が停まっていた。汽笛を上げ、今にも走り出そうとしている。ここにこの子と一緒に飛び乗ることを考えないわけではなかった。だがまだあの場所には怪我をして泣いている子どもがいる。死を思い浮かべながら助けを待つ大人たちも。
列車が走り出す。必死にそれを追いかける。
「誰か!! 誰か来て!!」
叫び声のすぐあとにジュリエッタが乗車口に現れた。彼女は驚いたように私と腕の中の赤子を見た。私は赤子を差し出した。
「この子をお願い!! 私は行かなきゃいけないから!!」
ジュリエッタは状況を少し理解したのかこくこくと頷いた。そのあと赤子を抱いて車両の中に消え、間もなく戻ってきて走る列車の窓からリュックとCDを投げた。
「ネロ!! 絶対に……絶対に生きて!! そしてCDを渡しなさい、大切な子に!!」
「ネロ!!」
「ネロ、駄目だ乗るんだ!!」
車窓からシンディ、ジャン、アルフレッドが顔を出す。コリンズの姿も見える。シンディは泣いていた。
私はホームの先端で立ち止まり、走り去る列車に向かって大きく手を振った。
「皆、元気で!! また生きて会おう!!」
爆撃された地帯に着くなり、先ほどの女性のいた場所に向かった。だが女性の姿は無情に崩れた瓦礫の壁に覆われて見えなかった。呼びかけても返事はない。死を覚悟した彼女の想いーー例え自分の命を失っても子どもだけは守りたいという気持ちに心が激しく震えた。残酷な現実の中で何を遺すべきかという選択は、あまりに悲しく切実だった。
あの赤子の無防備で無垢な姿と張り裂けんばかりの泣き声が今も耳から離れない。彼なのか彼女なのかすら分からない生まれたての命が、今後危険に晒されることなく育っていくことを祈った。列車が爆撃に巻き込まれたり事故に遭う可能性もある。だけどあのサーカス列車の中にいるうちは、あの列車が走り続けるうちは少なくともここよりは安全だという確信があった。あのとき私にできることは、あの女性から託された赤ん坊を一刻も早く安全な場所に送ることだった。あの子が安心して眠れるような、守ってくれる人がたくさんいる場所に。
人気のない路地に入り込み呼吸を整えていたとき、突然ドオーン!! という爆音に鼓膜が破れそうになり、地響きが身体を揺らした。
辺りを見渡すと、500Mほど離れた場所から煙が上がっているのが見えた。もう一度同じ爆音が地を揺るがし、今度は別の場所から煙が上がる。
踵を返して逃げ出したあとハッと気づいた。
イスラエルではテロ組織の攻撃により民間人の死者が多数出ていると昨日のニュースで報道されていた。もしかしたら、爆撃の犠牲になった人がいるかもしれない。
引き返し煙のする方へ走った。自分の命のことなどこのときの私には頭になかった。
有刺鉄線の張られた柵を乗り越え走った。
間もなく瓦礫と化した建物の残骸が積み重なる場所に出た。巻き上がる粉塵に咳が出る。すぐ目の前の崩れ落ちた石の建物から赤い炎と黒煙が上がっている。
赤く染まる空の下逃げ惑う人々、腹から血を流しぐったりした様子の男の子を抱き抱え慟哭する男性、ガラスの破片が身体に刺さり泣き叫ぶ子どもーー。まさに地獄絵図だ。
不意に、崩れた建物の下から女性の声が聴こえることに気づいた。地面に膝をついて覗き込むと、無惨に積み重なる瓦礫の下に女性の顔が覗いている。彼女は白い布で包まれた何かを必死に守るように抱き抱え、泣き叫びながら私に何かを訴えていた。白い布の中からはけたたましい赤子の泣き声がする。今この絶望的な瞬間を懸命に生き抜こうとするかのような大きな泣き声だった。
女性がその白い布に包まれた何かを差し出したとき、受け取る以外に選択肢はなかった。女性は泣きながらこの子をお願いと伝えているように見えた。この瓦礫を人力で取り去るのは不可能だ。明日にはこの不運で哀れな女性の命は潰えてしまうかもしれない。だが彼女は自分の命と引き換えに赤ん坊を守り、見ず知らずの外国人である私に手渡したのだ。
何度も頷きながら涙が溢れ出てくる。その間も爆撃は続く。
この子をどこか安全なところへーー。
浮かんだ場所は一つしかなかった。
赤子を抱え有刺鉄線を上り、駅のホームへひたすら走った。私の腕の中で赤子は泣き続けている。この子は実の母親の腕の中で泣くことはできない。乳をもらうことも一緒に食卓を囲んで笑い合うことも、実の母親に叱られることも喧嘩をして家出することもないのだ。そう考えると一緒に泣くことしかできなかった。
ホームにはまだサーカス列車が停まっていた。汽笛を上げ、今にも走り出そうとしている。ここにこの子と一緒に飛び乗ることを考えないわけではなかった。だがまだあの場所には怪我をして泣いている子どもがいる。死を思い浮かべながら助けを待つ大人たちも。
列車が走り出す。必死にそれを追いかける。
「誰か!! 誰か来て!!」
叫び声のすぐあとにジュリエッタが乗車口に現れた。彼女は驚いたように私と腕の中の赤子を見た。私は赤子を差し出した。
「この子をお願い!! 私は行かなきゃいけないから!!」
ジュリエッタは状況を少し理解したのかこくこくと頷いた。そのあと赤子を抱いて車両の中に消え、間もなく戻ってきて走る列車の窓からリュックとCDを投げた。
「ネロ!! 絶対に……絶対に生きて!! そしてCDを渡しなさい、大切な子に!!」
「ネロ!!」
「ネロ、駄目だ乗るんだ!!」
車窓からシンディ、ジャン、アルフレッドが顔を出す。コリンズの姿も見える。シンディは泣いていた。
私はホームの先端で立ち止まり、走り去る列車に向かって大きく手を振った。
「皆、元気で!! また生きて会おう!!」
爆撃された地帯に着くなり、先ほどの女性のいた場所に向かった。だが女性の姿は無情に崩れた瓦礫の壁に覆われて見えなかった。呼びかけても返事はない。死を覚悟した彼女の想いーー例え自分の命を失っても子どもだけは守りたいという気持ちに心が激しく震えた。残酷な現実の中で何を遺すべきかという選択は、あまりに悲しく切実だった。
あの赤子の無防備で無垢な姿と張り裂けんばかりの泣き声が今も耳から離れない。彼なのか彼女なのかすら分からない生まれたての命が、今後危険に晒されることなく育っていくことを祈った。列車が爆撃に巻き込まれたり事故に遭う可能性もある。だけどあのサーカス列車の中にいるうちは、あの列車が走り続けるうちは少なくともここよりは安全だという確信があった。あのとき私にできることは、あの女性から託された赤ん坊を一刻も早く安全な場所に送ることだった。あの子が安心して眠れるような、守ってくれる人がたくさんいる場所に。
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