ライオンガール

たらこ飴

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第3章〜新たな出発〜

ミハイル③

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「君にパントマイムを教えている間、何度も教えるのを辞めようと思った。だが君が余りに意欲的に取り組むものだから、止められなかった。君はまるで若い頃の俺だ。人を笑わせることに情熱を燃やし、新しい技術を習得することに貪欲で、そして愚かなほどに一途だ。君から全てを奪ってしまえば、君は泣きながら旅をやめてしまうんじゃないかと思った。そうであってほしかった」

『どうして?』

 マイムを教えることを躊躇っていた理由は? あんなに残酷な荒療治を行ってまで教え子から情熱を根こそぎ奪おうとする理由が、一体どこにあるというのか? 

「君も分かったろう。クラウンを演じるということは、想像以上に苦しいことだ。クラウンだった俺の親友は、最愛の母親が死んだときでさえリングに立ち続けた。俺もそうさ、可愛がっていた犬が病気で長くないと知ってもリングに立ち続けた。結局犬の死に目には会えなかった。

 クラウンは酷な仕事だ。例え自分の家族や恋人が死んでも他人を笑わせなければならない。他人の目に晒され笑われることは快感と痛みを伴う。俺は最初人に囲まれ誰かの笑顔を見ることが生きがいだったが、段々とクラウンの自分と本当の自分自身との境界が分からなくなり、自分を見失い苦しんだ。結局生活のためにサーカスを辞めたが、クラウンでなくなった俺を受け入れてくれる人は驚くほど少なかった。世界は俺たちのような人間に冷たい。俺はサーカスという夢の中でしか生きられなかった。現実世界のミハイルという俺は、道化の仮面を剥いだただの抜け殻だった」

『そんなことないわ』

 私はページの切れかけたノートに小さな字で思いを綴った。

『あなたは抜け殻なんかじゃない。あなたには人の心がある、優しさがある。私といるときのあなたはちゃんと人間の顔をしていた。マイムをしているときのあなたはすごくカッコよかった。

 私も自分とクラウンのキャラが切り離せなくなって苦しんだ。だけどこの旅で分かったわ。私は詩でもネロでもない、アヴリルっていう人を笑わせることが大好きなだけの1人の人間なんだって。私は私でしかないの。

 あなただってそうよ。クラウンは人なの。心を持った生身の人間よ。だから傷つくし苦しむ。自分を探して見つめようとしてもがく。だけど私はそれでいいの。例えもがいたって苦しんだって目の前の人を笑わせたい、感動させたいと思うのは愛があるから。あなたのマイムだってそうよ。自分で愛を作り出すことができるなら、あなたはまだ抜け殻なんかじゃ……』

「やめろ」

 鬱陶しそうに男が跳ねつける。

「全て綺麗事だ。もう手遅れなんだ。俺はお前を救いたかった。お前が成長していけばいくほどに、辞めさせなければと強く思うようになった。お前は神から貰った自分の才能を人のために酷使して、やがて壊れてしまうのではないかと。俺と同じ悲運を辿ることになると。

 だが違ったようだ。お前は俺が思うよりも強かった。そして誰よりも愚かだった」

 ミハイルは私のリュックからCDケースを取り出しまじまじと見つめまた皮肉に笑った。

「これがお前の愛の証というのか。私のように傷つかないうちに愛を捨て、ひたすら道化として生きる手もある。どちらも手に入れられるつもりになっているなら、それは大きな間違いだ。足枷になるかもしれない、自分を傷つけるかもしれないものは、今のうちに捨てた方が身のためだ」

 ミハイルはもう一度海の方に身体を向け、CDを持つ右手を振りかざした。

ーー駄目!!

 掠れた声にならない叫び声だけが漏れる。

 CD ケースは空を飛んだ。私は咄嗟に駆け出した。岬の先は断崖絶壁、その先は極寒の海だ。

「追うな!!」

 ミハイルが怒鳴る。

 岬の先端が近づいてくる。視界の先に空が見える。岬の先端に辿り着く。制止の手を振り切り地面を蹴る。一瞬身体が宙に浮き、そのまま静止したように思えた。眼下の激しく波打つ海と白波の打ち付ける岩肌に向かって落ちて行くCDケース。やがて引力に逆らった私の身体は、海に向かって真っ逆さまに落ちた。

 まるで0. 1倍速の無声映画のようだった。私の身体はプラスチックの正方形の容器を追いかけるようにして、ゆっくりと落下していく。前に突き出す苔むして剥き出しになった絶壁の岩肌にCDケースがぶつかって弾け、海面に着地する。

 青い海が眼前に迫ってくる。大きく息を吸い込む。やがてざぶんという音と大きな水飛沫をあげて私の身体は海に吸い込まれた。

 激しい衝撃とともに深く沈んだ私の身体は、水の中で静止した。2月の海は凍りつきそうに冷たい。塩っぱい海水が口に侵入してくる。息を止め、手脚を大きく動かして水を掻く。

 水面を漂うCDケースの姿が、水中から光に照らされて見える。

 海面まで上昇しそれを手で掴む。水濡れのCDはもう役に立たないかもしれない。

 しばらくもがいていたが、やがて体力を失った身体が少しずつ沈んでいく。手にはCDケースが握られている。

 呼吸が苦しくなる。

 下へ下へと沈んでゆく私の身体とは逆に、海面に向かってゆらゆらと上昇してゆく幾つもの気泡を見つめる。

ーーああ、私はここで死ぬんだ。

 ここまで来てオーロラに会うこともできないまま死ぬなんて。私の身体は魚たちの餌になり、やがて孤独な魂となって海を彷徨うのかもしれない。

 こんな風に死ぬなんて、いかにも道化らしいな。誰にも知られないまま、最後まで自分で自分を笑って死んでいく。

 せめて死ぬ前にオーロラに愛していると伝えたかった。手紙でも何でもいいから気持ちを伝えておくんだった。

 オーロラをこんなに好きだということに、どうしてこの15年もの間気づかなかったんだろう。もし早い段階で気づいていたら、想いを伝えるチャンスなんていくらでもあったはずだ。

 私がここで死んだことをオーロラは知らなくていい。私はどこかで生きていて、いつか突然電柱の影から戯けて飛び出してオーロラを驚かせるんだって信じていてほしい。

 意識が遠のく。青く冷たい水の中に漂う泡の輪郭がぼやけ、やがて視界が完全な闇に包まれた。
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