20 / 44
20.啓一郎の過去 啓一郎side
しおりを挟む初めて紗雪を見たとき、俺は天使だと思った。
ふわふわと右へ左へと舞い踊り、楽しくて仕方がないという感情が見ているだけで伝わってくる。
だけれど天使は人間の手の届く存在じゃない。
俺のような淡白で冷徹で、弱い心の持ち主のものになんてならない。
この手に落ちてくることなんて一生ない。そう思っていた。
*
昔から俺は人間関係に関しては淡白な人間で、諍いを起こさないように人からどう見えるのか考えながら生きていた。
そのおかげか周囲から人格者だの物腰柔らかだのと言われるようになっていたが、それは人付き合いを最低限で済ませようと考えていた俺の偽装の姿だった。
良い評判が経てば、学業や仕事でもなにかと気に入られることが多く、人生計画がスムーズに進むと思っていたからだ。
そう、すべては仮面であり、俺の心は常に空っぽで満たされてはいなかった。
『今日はありがとね』
『こちらこそ~! またシたくなったら電話して~! 啓一郎くんだったらいつでも歓迎だから。こんなふうにお互い割り切っな関係続けること出来る相手なんてなかなかいないし~』
『うん、じゃあまたよろしく』
己ながら最低だったと思う。
女性は基本、欲望を満たすだけの分かりきった関係ばかりで、それをお互いに承知できる大人の女性ばかりを相手にしていた。
本当は内心面倒でたまらなかったが、男としての生理現象を処理するのにうってつけの存在ばかりを求めていたのだ。
あの日──初めて紗雪の踊っている姿を観た時、俺の視線は釘付けになった。
重力を感じさせないほどの華麗な舞。
そしてなにより踊ることが楽しくて仕方がないという無邪気で無垢な感情が身体全体から溢れていた。
俺の空っぽだった心が満たされていく──そんな思いがした。
舞台が終わったあと、俺はまったく興味すらなかったバレエのそのバレエのパンフレットを購入し、あの女は一体誰なのかと探す。
舞台に出演していたバレエダンサーたちの宣材写真の中から、あの『天使』を探そうと夢中だった。
西洋人が多く所属しているバレエ団の中から、アジア系の顔立ちと華奢な体格の彼女を探すのは難しいことではないだろう。
役とアジア人という僅かな手掛かりですぐに見つかった。
彼女は──天使の名前は瑠璃川紗雪というらしい。
その小ぶりな顔の中に収まる瞳はぱっちりとしているが、比較的大人っぽい顔立ちをしている美人だった。
『……って調べてどうするんだ? ファンですって近づくか?』
俺は首を横に振る。
たしかに熊沢を頼れば瑠璃川紗雪に近づくことは容易だろう。
なにしろあいつの婚約者はあの舞台に出演していた主演バレリーナで、世界中で知名度の高いダンサーなのだから。
だがそんなことは許されないと思った。
瑠璃川紗雪が実際どんな声をしているのか、どんな性格をしているかなど全く知らない。
だが舞台で無邪気に踊っていた彼女は、他の誰よりもバレエに夢中であることは一目でわかった。
俺のような外ばかりを取り繕った嘘ばかりの男が近づいてはいけない存在。
正直、恋をしたのかと言われるとそういうわけではない。
ただ自分とは真逆の位置にいる瑠璃川紗雪のことが気になって仕方がないというだけだ。
興味本位で近づいて、万が一にもあの無邪気さを潰してしまうことがあれば俺は一生悔いるだろう。
だからこそ俺はこの想いを心の奥に眠らせたままでいようと、そう決意した。
だが──天使は自分から落ちてきた。
瑠璃川紗雪が怪我をして病院に運ばれて、すぐに緊急対応が必要だということを救命隊員に渡されたカルテで知った。
彼女の天使の羽は破れ、その足は地上に降りた。
紗雪は怪我に泣き、空へと戻れないこと──二度と今までのように踊ることが出来ないということに絶望している。
まるで、あの舞台を見る前の俺のような空っぽな瞳に胸が苦しくてたまらなかった。
どうにかしてあげたい、そう願った。
俺には昔、妹がいたのだが、その妹に対する気持ちに似たような感情を覚えていた。
慈しみたい、守ってあげたいと。
俺は告げる。
『──俺がお手伝いしますよ。あなたが希望を持てるように』
紗雪の希望になれるよう、また舞台で舞踊れるように尽くしたかった。
だが、このとき俺は気づいてなかった。
怪我が治って舞台に戻るということは、羽を失った天使が空へと帰ってしまうことで。
希望を持った彼女に俺の存在は必要なくなるに違いないということを。
天使を地上に留め置くには、何重にも鎖をつけて誰の目にも触れないところに閉じ込めておかなければならないことを。
妹に対する兄のような気持ちだと思っていた。
だが心細い心を取り繕うようにして微笑む彼女に少しずつ心が奪われていく。
触れ合う時間が多くなればなるほど、離れがたい気持ちになる。
退院してギプスも取れ、復帰できればもう二度と会うことは叶わないかもしれないと思うだけで胸が張り裂けそうだった。
それでも俺のトラウマ──弱い心はなかなか一歩先に踏み出せそうにない。
こんなにも身を焦がすような恋情を知るとは思わなかった。
淡白な俺は一生恋や愛なんて知らずに生きていくのだと疑ってなかった。
それに誰かに愛を伝えることは、全てを乗り越えなければならないということ。
未だ過去の幻影から抜け出せない俺には難しい。
まだ時間はある。
そう思っていた矢先だった。
紗雪からあの知らせを受けたのは。
0
あなたにおすすめの小説
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
叱られた冷淡御曹司は甘々御曹司へと成長する
花里 美佐
恋愛
冷淡財閥御曹司VS失業中の華道家
結婚に興味のない財閥御曹司は見合いを断り続けてきた。ある日、祖母の師匠である華道家の孫娘を紹介された。面と向かって彼の失礼な態度を指摘した彼女に興味を抱いた彼は、自分の財閥で花を活ける仕事を紹介する。
愛を知った財閥御曹司は彼女のために冷淡さをかなぐり捨て、甘く変貌していく。
婚約解消されたら隣にいた男に攫われて、強請るまで抱かれたんですけど?〜暴君の暴君が暴君過ぎた話〜
紬あおい
恋愛
婚約解消された瞬間「俺が貰う」と連れ去られ、もっとしてと強請るまで抱き潰されたお話。
連れ去った強引な男は、実は一途で高貴な人だった。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
若社長な旦那様は欲望に正直~新妻が可愛すぎて仕事が手につかない~
雪宮凛
恋愛
「来週からしばらく、在宅ワークをすることになった」
夕食時、突如告げられた夫の言葉に驚く静香。だけど、大好きな旦那様のために、少しでも良い仕事環境を整えようと奮闘する。
そんな健気な妻の姿を目の当たりにした夫の至は、仕事中にも関わらずムラムラしてしまい――。
全3話 ※タグにご注意ください/ムーンライトノベルズより転載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる