アークティカの商人(AP版)

半道海豚

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第4章 内乱

第30話 春雷

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 ここアークティカでは、春の訪れを告げる気象現象は春一番ではない。

 春雷。

 二月中旬、一片の雲さえない青空なのに、大地を揺るがすほどの雷鳴が轟いた。
 アークティカの大地に春の訪れを告げる大気の咆哮である。
 天候の状況から、おそらく雷ではなく他の現象なのだろうが、雷鳴にも砲声にも火山の噴火にも似ている凄まじい破裂音であった。

 そして、四月、三寒四温を経て花々が咲き誇る季節が到来する。

 この一年四カ月間は、驚天動地の連続であった。

 前々年の一二月下旬、マハカム川以南の沿岸部に遺棄された二〇〇人ほどの女性と乳幼児、そして推計一万頭の羊が見つかった。

 最初に接触したのは、アリアンが率いる警戒部隊で、リシュリンが先導していた。
 見つかった人々は、衣服や寝具を失っており、悲惨な状況であったが、羊乳などに頼って辛うじて生命を保っていた。

 そして、怯えていた。

 接触の際、DT125トレールに乗るリシュリンが羊の鳴き声を聞き、近づくと怯えきった数人の若い女性に出会った。
 リシュリンは、事情を尋ねようとバイクのエンジンを停止し、シートから降りた。
 一人の女性が歩み出た。彼女の右手には、反りの大きい長刀が握られている。刀身は錆が多く、刃こぼれも甚だしい。
 リシュリンは、殺気を放たない長刀の女性に対して一瞬当惑した。危害を加える意思を感じないが、状況は明らかにリシュリンを屠るための長刀だ。
 軍人・武人としてのリシュリンの技量が危険を知らせていれば、彼女は腰の背側に備えたホルスターのブローニングM1910自動拳銃を抜いていた。
 だが、リシュリンに危険を知らせたのは、鍛練を重ねて彼女が得た武芸の賜物ではなく、原初的な生物としての本能であった。
 リシュリンは、自分が意識していないのに、DT125にくくりつけていた長剣に手を伸ばしていた。
 次の瞬間、一切の殺気を伴わない峻烈な斬激がリシュリンを襲う。
 すでにリシュリンの意識は覚醒しており、油断や気後れはない。
 リシュリンは剣の腕ならば、老いたアリアンよりも、長巻使いのイリアよりも、サーベル巧者のメグよりも、双刀を操るマーリンよりも、剛剣を振るうジャベリンよりも、歴戦の戦士スコルよりも強い。
 アークティカ随一の剣豪である。
 そのリシュリンが完全に守勢に回っていた。破れのある粗末な踝までのスカートを履いた銀色の髪の女性は、ありとあらゆる剣技を繰り出しリシュリンを追い詰めていく。
 リシュリンは、周囲の風景を見ていた。ブドウの木、小さな石造りの家、羊の群れ。リシュリンは死を覚悟した。
 そのとき、遅れていたアリアンが指揮する小型の蒸気牽引車が到着。
 誰かが、空に向けて威嚇発砲した。
 アリアンが「双方、刀を引け!」と命ずる。
 リシュリンを追い詰めた敵は、刀を地面に投げ捨てると、一瞬で周囲の風景に同化した。
 二歳くらいの男の子が銀髪の女性に駆け寄り、足にしがみついた。銀髪の女性は、風景との同化を解き、ごく普通の母親の気を放った。
 アリアンが「何と、リシュリンを追い詰める剣士がいるとは!」と唸る。
 リシュリンは、軟らかい土の地面に剣を突き立て、柄を逆手に握ったまま片膝を地面につけた。
「死ぬと思ったぞ!
 お婆様ぁ、助かったぁ」
 アリアンは、蒸気車が牽引する軽貨車を降り、リシュリンと銀髪の女性の間に立った。
「其方〈そなた〉たちは、何者か?
 其方は北方人のようだが、なぜここにいる?」
 アリアンの声音は、詰問するものではなく、単に疑問を口にしただけの穏やかなものだった。
 銀髪の女性は数秒間沈黙していたが、意を決したように話し始めた。
「できるだけ早くアークティカの地を立ち去りますので、どうかお見逃しいただけませんか?」
「見逃す?
 大した武器も持たぬようだが……」
「私たちは、東方騎馬民の奴隷です。
 羊の世話と戦士となる男子〈おのこ〉を産むことが仕事」
「何と!」
「私たちは、何も知らぬままこの地に連れてこられ、撤退の足手まといとなるため捨てられたのです」
「……。其方、名は」
「クラリス」
「其方たちの指導者か?」
 クラリスよりも少し年上の女性が歩み出た。
「クラリスは、我らの希望。
 貴方たちの予言の娘と同じ。子を守り我らを自由の地に導く導師……」
「何人おるのだ?」
「おおよそ成人六〇、子が一四〇。
 子はすべて三歳に達していません」
「幼子を連れてどこへ行こうというのだ?」
「……」
「あてはないのだな」
 アリアンは、決心した。
「リシュリン、立て!
 すぐにシュン殿を呼んでこい」

 リシュリンがコルカ村に戻ったとき、私は居館の自室にいた。ミーナ、リリィ、ルキナ、ロロが仕事の邪魔をしている。
 リシュリンは、ドアを開け、机に向かって座る私を見ると同時に泣き出した。
「剣で負けたぁ~」
「銃の腕でメグに負け、この上、剣で上回るいい女が現れては、私はどうやって主殿をつなぎ止めればいいのだぁ~」
 子供たちが唖然としている。ミーナは、とりあえず座り込んだリシュリンの頭を撫でている。
 ロロは完全徹底無視。
 リリィとルキナは、部屋から静かに逃げ出した。
 ミーナが私を責めだした。
「おじちゃん。また、リシュリンを虐めたでしょ。どうして、リシュリンを虐めるの!」
 ミーナは知っている。こういう時は、私を一応責めていれば数分でリシュリンの機嫌が直ることを。
「主殿。大変なのだ。
 マハカム川の南数キロの海岸付近に東方騎馬民に捨てられた奴隷の一団がいる。
 大人は全て女だ。たくさんの乳飲み子がいるようだ。
 アリアンが主殿を呼んでこいと」
 リシュリンの泣き真似は唐突に終わり、重大な報告を平然とした。

 私がリシュリンをDT125のシートの後部に乗せ、奴隷だったという女性たちと羊の群れに接触したのは、夕暮れ間近になっていた。

 クラリスの話は壮絶なものだった。
 彼女たちは、東方騎馬民が奴隷商人から買った人々で、北方人、東方人、南方人、西方人、西南方人、東南方人など、ありとあらゆる方面から集められていた。
 この世界の言語は、基本的に一つしかないのだが、方言がある。彼女たちの集団は、互いの話し言葉がよくわからず、意思の疎通に困難があるものの、クラリスを中心に団結してきたそうだ。
 東方騎馬民が連れてきた奴隷には、他にもグループがあったようだが、戦闘終結と同時に四散したり、恐鳥や恐竜の襲撃にあうなどして消滅したらしい。
 また、彼女たちは、実態として東方騎馬民の家族ではなく、羊を管理する牧羊犬のような位置付けらしい。
 ついでに戦闘員を産むための道具の役目も担っていた。惨い話だ。
 女の子が生まれると、すぐに殺されると聞いて、アークティカの女性全員が涙した。
 また、奴隷である彼女たちは、個人の所有物ではなく、部族に帰属していた。だから、生まれてくる子供の父親は、わからないそうだ。
 言葉に詰まる。

 私は、コルカ村を拠点にしていることは、メハナト穀物商会の発展を阻害するのではないかと考えていた。
 実際、イファの蒸気車工場、地下空間の異界物研究施設、ヴェルンドの工房、マーリンの石鹸工場など、施設が分散してしまっている。
 さらに、フリートが発電所を造りたいとか、ジャベリンの妻シュクスナが照明器具のデザイン会社を起こしたいとか、ミクリンの蒸気車による内陸交易よりも船舶による航海交易に転換したいとか、とにかく問題山積で、どうなることやら、といった状況であった。
 少なくとも、コルカ村では手狭で、拠点を移す必要を感じていた。
 忘れていた。マーリンの姉でヴェルンドの妻となったフェリシアの食品会社というのもあった。どうも、ジャムの瓶詰めや焼き菓子を作って輸出するつもりらしい。
 私は決心していた。
「金はあるぞ、何でもやってくれ」とは絶対に言わない。

 イファはルドゥ川に面しており、水運に地の利がある。また、周囲には平地が多く、豊富な地下水にも恵まれている。
 さらに、南北を結ぶ道路を造れば地の利が生まれる。東西に関しては、アレナスまで二五キロあり、時速四〇キロで走行できる道路と蒸気乗合車を作れば、四〇分の時間距離だ。
 軽便鉄道のような交通機関でもいい。
 私は、イファが我々の拠点の適地だと考え始めていた。
 タルフォン交易商会のネストルは、アレナスに拠点を移し、赤い海の沿岸交易に活路を見いだそうとしている。
 アレナス造船所のシビルスが造る新しい蒸気機関は、ボイラーが高温高圧式で非常に効率がよく、赤い海沿岸との交易ならば帆走の必要がないらしい。そのボイラーの原設計は、メグの父親によるものだそうだ。
 ネストルは私に融資を要請していて、シビルスが私にネストルに金を貸せとうるさい。
 行政を司るリケルや軍人のスコルには理解できないだろうが、商家は次を見据えて、沿岸部への進出を考え始めていた。
 マーリンの祖父は、イファの西側に広大な土地を購入していた。小麦畑を作ろうとしていたようだが、マーリンの父親の代になり、穀物の交易が家業の主体となったことから、開墾されなかったようだ。
 マーリンの祖父が試掘した井戸が五本あり、長らく放置されていたが水は涸れていなかった。
 私は、この付近に今次会戦で使用した大量の木製プレハブ小屋を集めていた。その数、一二〇棟。行政府やタルフォン交易商会から買い取ったものもある。
 これをイファに街を作る際、建設関連要員の宿舎として利用するつもりだった。

 私は、アリアンとリシュリン、そしてクラリスとじっくりと話をした。
 日没後、多数のガソリンランタンが灯され、我々の会話は続いた。
 誰かが気を利かせて、コルカ村から食料を運んできた。朝焼きのパンと豆と魚の燻製スープだが、それを食べながらクラリスたちが泣き始めた。
 クラリスは、「何年も、何年も、人として扱われていなかった」と言った。
 その言葉で私は心を決めた。
「マハカム川を渡り、ルドゥ川沿いのイファという土地の西側に、予言の娘が所有する広大な土地がある。
 そこに住まないか?」
「貴方は、予言の娘とどういう関わりなのだ?」
「一応、夫らしい」
 リシュリンが「私も妻だ」と言うと、アリアンが「シュン殿は大変なのだ。そのうち、マーリンとリシュリンに精を吸い尽くされよう」と深刻な面持ちで言った。
 アークティカの人々全員が大笑いして、クラリスはどう反応していいか戸惑っていた。

 クラリスたちの移動は、翌早朝から開始された。
 私は深夜にリケル邸を訪れ、遺棄された東方騎馬民の奴隷たちのことと、イファへの移送を伝えた。
 リケルは狼狽し、一歩間違えばアークティカ人の憎しみがクラリスたちに向くことを恐れた。
 それは、私の危惧でもあった。だから、ルカナから離れたメハナト社の敷地に保護するのだと説明する。
 リケルは、とりあえず承認したが、最終決定は改めてするとした。

 二〇〇人弱の人の移動は簡単だが、一万頭の羊の移動は並大抵の苦労ではなかった。アークティカには、牧羊の経験者がおらず、乳幼児を伴う六〇人強のクラリスたちに頼る以外方法がなかった。
 意外だった。
 たくさんのアークティカ人が、一切何も問わず、羊の移動を手助けしてくれたのだ。
 アークティカに羊の放牧はない。誰もが東方騎馬民との関係を察すると思うのだが、何も言わず、何も問わず、ただ微笑むだけで、羊をイファの西に追ってくれた。
 すべてのアークティカ人が彼女たちに優しかったわけではないだろうが、少なくとも表だって彼女たちを責める住民はいなかった。

 慣れぬ作業のため、羊の移動は三日を要した。
 その間に木製プレハブ小屋を設置し、水場を作った。まだまだ、人が住むためのインフラは整っていないが、しばらくは我慢して欲しい。

 この出来事を決起に、メハナト社のイファ移転が本格化する。
 まず、身の軽いフリートがイファの工場内事務棟の一角に居を移す。
 続いて、ミクリンがアレナス市街の東側に一室を借りて、活動の拠点にした。
 地下空間の面々とヴェルンドの工房は、工場敷地内南側の一角に拠点を移した。
 だが、食料の調達は日々の業務であり、コルカ村には大多数の住民が残っている。生活のためのインフラが整っていないイファには、簡単に移住することはできない。

 そして年が明けた一月の寒い朝、一万頭の羊の群れよりも驚愕する出来事があった。

 ミクリンはフェイトと仲がよかった。夜通しのおしゃべりを楽しみ、夜が明ける直前の早朝、白い息を吐きながら地下空間からコルカ村に向かって歩いていた。
 ミクリンが近道である裏口の北門からマーリン邸敷地内に入ろうとすると、ぼんやりと南門の近くに人影が見えた。
 不審に思い近づいていくと、自分と同じ赤い髪のまん丸ほっぺの女の子が振り向いた。三歳くらいで、暖かそうなコートを着ているが、素足で寒そうな様子だ。塀際の大きな石に座っている。
 その子はミクリンを見るとニコニコしている。
 ミクリンが「何をしているの?」と尋ねると、南側、鉄の橋の方向を指さした。
 ミクリンは被っていたストールをその子の膝に掛けてやると、とても嬉しそうに微笑む。だが、声は発しない。
 ミクリンは放ってはおけないと、その子を抱き上げ、正門である南門の門衛に声をかけた。
「すみません。
 小さな子が……」
 門衛をしていた護衛隊員が、慌てて通用扉を開けると、五歳くらいの男の子が「サーニャ!」と叫んで走ってくる。
 そしてミクリンたちに、包丁を突き付け「サーニャを離せ!」と叫んだ。
 ミクリンはメグならばどうするか考えた。メグならばきっと、落ち着いて膝を屈し、この子たちの目線で話をすると思った。
 だから、ミクリンも同じことをしようとした。
 抱き上げていた女の子を降ろし、その際に片膝を地面につけ、その姿勢のまま男の子に話しかけた。
「この子は、貴方の妹?
 私と同じ髪の色。アークティカ人の髪の色ね」
 男の子は突然泣き出した。ギャン泣きだ。
 その泣き声に朝食の支度を始めていたイリアが気付いて、ミクリンたちのいる門までやって来た。
 そして、彼女の家に入れ、どこから来たのかを聞き出した。
 男の子の話は信じられないもので、両親が奴隷商人に捕らえられて以来、ずっと自宅の地下室に潜んでいたそうだ。
 地下室には食料があり、水は夜間に地下室から出て補給していたとか。一〇カ月近く、そうやって隠れていたらしい。
 食料が乏しくなり、わずかな食べ物を持ってルカナを目指していた。コルカ村まで来て、妹が水を欲し、妹と離れて探していたところでミクリンが妹を見つけたようだ。

 この一件から、まだ隠れている人々がいるのではないかと、破壊を免れた街や村に軍が赴いて調査が行われた。
 その結果、八〇人が救出された。

 それだけではない。
 アークティカ東南の国境付近、マルマという街に一〇〇〇人の住民と一〇〇〇人の避難民が無事でいた。
 この二〇〇〇人のグループとの接触は、難航を極めたが、相互の往来が始まると、急速に打ち解けていった。

 サーニャは、声をほとんど発しない。彼女の兄ユルクによると、声を出すと奴隷商人に見つかると何度も言い聞かせたことで、声を出すことができなくなったらしい。
 いつもニコニコしている女の子だが、心はひどく傷ついているのだろう。
 ただ、少しお姉さんのミーナ、リリィ、ルキナがよく遊んであげるので、少しずつ回復していくことを願っている。

 マルマとの交流が始まったが、なぜマルマが、奴隷商人や東方騎馬民を退けられたのかは不明なままだ。
 マルマのすぐ近くには、キジルという街があり、村も点在していた。キジルはこの地方の中核都市だ。
 彼らの説明では、キジルと周辺の村を放棄し、東と南北が深い山地に囲まれた街マルマを拠点に立て籠もったという。
 ただ、西だけが開けた防衛に適した地形であっても、軽騎兵である東方騎馬民はともかくとして、重装備を持つ奴隷商人軍を阻止できたとは思えない。
 しかも、彼らはキジルに宿営した奴隷商人軍歩兵一〇〇〇を一カ月間包囲し、壮絶な市街戦を仕掛け、殲滅まであと一歩のところまで追い詰めたという。

 前年の七月中旬、ルカナとマルマは、相互防衛協定を結んだ。ルカナが攻められればマルマが救援し、マルマが攻められればルカナが軍を送って支援する、という条約だ。

 アークティカは、この二つの街を核にして、再出発の道を歩み始める。

 ルドゥ川に架かる石の橋北岸よりも西側では、パノリアに逃れていた二〇〇人ほどの人々が、作物の植え付けが可能かどうかの調査で帰還していた。
 この地域は戦場となり、また首都チュレンは神聖マルムーク帝国の支配下にあり、沿岸のいくつかの都市を除いて、全てが灰燼に帰していた。
 ルカナは彼らに対して、食料、農業用蒸気車などの機材、また木製プレハブ小屋などを提供した。
 パノリアは、アークティカからの避難民に寛容で、故国への帰還を希望しないものも少なくなかった。

 遡るが前年の三月末、突然、ローリアからアークティカの避難民一〇〇〇人を帰還させると連絡があった。
 直後から続々と帰還者がローリアとの国境を越えてきた。
 彼らは、財はもちろん携帯する食料さえ持たず、着の身着のままでローリアを追い出されてきたようだ。
 ローリア領内での扱いも劣悪で、難民キャンプに封じ込まれ、食糧や医薬品の不足に苦しんでいた。
 アークティカ北東部は東方騎馬民に最も苦しめられた地域で、帰還者たちは疲弊しきっていた。
 パノリアからの帰還者たちとは異なり、機材や物資の支援でどうにかなりそうな状況ではない。
 我々はやむを得ず難民キャンプを設営し、帰還者の健康を回復させ、その上で耕作地への帰還を促すことにした。

 リケルは続々と帰還する難民への食料確保と、その食料を購入するための資金確保で奔走している。
 アトリアは、戦時賠償の協定を反故にした。そして、拘束しているアトリア国王は行き場を失った。彼は故国に捨てられた。
 リケルは疲れ切っていたが、休むことは許されなかった。
 メハナト社は、イファの工場とその周辺の土地を行政府から買い取った。行政府にはエリス金貨三〇〇〇枚を支払った。
 この金は、マーリンが作り、ミクリンが輸出した石鹸、イファの工場で作った蒸気機関と蒸気車の代金でまかなわれた。
 イファの工場では、小型のレシプロ蒸気機関を開発し、洗濯機の動力として大々的に拡販していた。
 また、オースチン7をモデルに低価格の小型蒸気乗用車を開発。沿岸諸国で富裕層に爆発的に売れていた。
 アレナス造船所では、高速蒸気レシプロ貨物船を開発。排水量五〇〇トンほどの船だが、最大船速一五ノットは驚異的な高速で、小型貨物船市場を独占する勢いだ。
 この貨物船を使って、沿岸貿易を始めたタルフォン交易商会は、他国の帆船や機帆船との競争に勝ち、良質な商品を素早く買い付け、いち早く売ることで業績を伸ばしている。
 その後をミクリンの貿易グループが追い、何とか食らいついている。

 ことの始まりはミクリンだった。
 彼女は私に「シュン様、どうやったらタルフォンの船を抜き去ることができますか?」と尋ねた。
 私は気軽に「そりゃ、タービン船しかないだろうなぁ」と答えてしまった。
 私は、大学で機械工学を学んでした。それもターボ機械だった。
 フリートからもレシプロ機関よりも効率のいい火力発電機の相談を受けていた。
 フリートは思慮深い静かな少年なのだが、ミクリンはマーリンとそっくりな強引さがある。
 こうして、不本意ながら忘れかけている乏しい知識をかき集めて、蒸気衝動タービンの開発を始めた。
 私はコルカ村に帰れなくなりつつあった。

 タービンとは、流体が有するエネルギーを回転運動に変えて動力として利用する原動機の一種だ。
 動力源となる流体には、水、空気、蒸気、ガスなどがある。
 タービンは、ベーン(回転羽根)、ローター、ホイールなどで構成されていて、それ自体の力では回転しない。ベーンに、水、空気、蒸気、ガスを噴射することで、タービンが回転し、これが動力となる。
 蒸気タービンの最も簡単な構成は、薬缶と水、湯を沸かす熱源、そして風車だ。
 湯を沸かすと薬缶の注ぎ口から蒸気が噴き出す。その蒸気に風車を当てると、回転を始める。これが蒸気タービンの原理だ。
 水車や風車もタービン機関の一種だ。水の流れに水車を置けば、水流が水車を回転させる。風車は空気の流れ、風を利用するが、原理は水車と同じ。
 どちらも羽根車を回転させて、その回転を動力として取り出す。

 水力発電は水の落下をタービンで受け止め、タービン軸の回転エネルギーを発電機に伝えて発電する。風力発電は、水が空気(風)に変わるが、原理は同じ。
 火力発電には二種類あり、ボイラーで湯を沸かし、その蒸気でタービンを回転させる蒸気タービン。と、燃料を燃焼させて高温のガスを発生させ、そのガスを回転羽根に噴射して回転軸を駆動するガスタービンがある。
 ガスタービンは内燃機関に分類され、短時間で始動でき、重量と体積の割に出力が高く、冷却水が不要という特徴がある。
 私が開発を目指しているのは、高温高圧にさらされることから難易度が高くなるガスタービンではなく、ボイラーでお湯を沸かし、その蒸気を利用する蒸気タービンだ。
 イファは蒸気車を製造しているが、その蒸気車用ボイラーは蒸気タービンに利用できるし、さらに大型のボイラーはアレナスの造船所が製造している。
 動力の源泉となる流体の生成は、既存技術が応用できる。
 蒸気車、蒸気船とも蒸気をピストンに導いて往復運動に変換して動力とするレシプロ機関を搭載しているが、往復運動を回転運動に変換するので、原理的に非効率だ。ただ、構造的、機械的な工作精度はアバウトでよく、その点は効率的ではある。
 だから、この世界では蒸気レシプロ機関が主流になっている。

 私は五人ほどの水車と風車の職人、ボイラーの設計技師、減速ギアなどの設計技師でチームを編成し、単純な単段の衝動タービンを開発している。
 蒸気をノズルから噴射させると、圧力と温度が低下し、それが速度に変換される。その蒸気の速度をタービンに当て、タービンとタービン軸を回転させて動力とする。
 タービン軸は高速で回転するので、タービン軸とスクリュープロペラの間に減速機が必要になる。
 推力は、小さなプロペラを高速で回転させるより、大きなプロペラをゆっくりと回転させるほうが大きくなる。
 タービンの設計も苦労したが、減速機の開発も困難なことであった。
 私は、この大事業に没頭することは許されなかったが、開発スタッフは徐々に増え、やがて私の範疇から飛び出していく。

 蒸気タービン開発チームは、明確な成果を示す必要を感じていたのだろう。
 彼らが最初に手を付けたのが、蒸気タービン発電機だった。タービン軸と発電機の回転軸を直結して、中圧、低圧タービンもなく、使い終わった蒸気を回収して高温の水に戻す復水器も備えず、無理矢理発電に近いが、それでも動いた。
 しかも、今後の可能性を感じさせる、大きな発電能力を発揮した。

 この時点で、イファの工場は大騒ぎとなった。蒸気タービン機関が、得体の知れない機械から、可能性の高い動力に昇格したのだ。
 スタッフが急速に増え、資金の投入も増加していく。
 次は、イファの工場内の〝驚き〟から、アークティカの〝驚異〟にしなければならない。

 イファの工場では、蒸気車に蒸気タービン機関を搭載する案と、タービン船を開発しようという案が対立していた。
 私は軋轢覚悟で、タービン船開発を支持し、問答無用でその方向を指示した。
 船体はアレナスの造船所に発注した。全長三五メートル、全幅五メートル、排水量八〇トン。
 この船は、新開発の沿岸警備用の蒸気レシプロ艇と同じだ。この警備艇はソニック艇と呼ばれ、超高速と言える最大船速二二ノット(時速四〇・七キロ)を発揮する。
 ボイラーはイファの蒸気車工場が高温高圧型を設計。燃料はケロン、灯油質だ。灯油炊きのボイラーで、高温高圧の蒸気を発生させ、三段軸流タービンを駆動する。
 減速ギアと復水器も備えた。減速ギアはイファの蒸気車工場製、復水器はアレナス造船所から購入した。
 後進用タービンはなく、前進しかできないまったくの試作船だが、目標はこのソニック艇を上回る速度を目指していた。

 ソニック艇と大差ない外見の新造船タービニア号は、一切の河川交通を遮断したルドゥ川に浮かんでいる。
 ソニック艇は、地下空間にあったクルーザーの船形をモデルとした高速艇だ。船の大きさや船体の形状は、第二次世界大戦時のドイツ海軍高速魚雷艇Sボートに似ている。

 ルドゥ川沿岸には、多くの見物人。イファがアレナスに対抗して、高速船を開発しているという噂は広まっていた。
 実際はそんな事実はなく、イファは蒸気タービンを開発しているだけで、船体まで造ろうとは考えていない。
 だが、一般人はそうは思わない。軍人もそうは思わないし、政治家もそうは思っていない。アレナス造船所の社員たちも。
 きっと、シビルスもそうは思っていない。
 見物には、政治家、軍人、商人、農民などいろいろな人がいる。
 主賓席には、シビルスと彼の部下はもちろん、チルルやスコル、リケルもいる。

 そんな人々の気持ちの中で、ボイラー二機、タービン二機二軸のタービニア号は最初のテスト航行を行った。
 そして、二八ノットを記録。二度目は三〇ノットを超え、五度目で三四・八八ノットを達成する。
 ミクリンはタルフォン交易商会に商戦に勝てると驚喜し、スコルは興奮している。シビルスは「共同開発」と言う言葉を、私に連呼している。

 この時期、アークティカ沿岸を防衛するため、新たに組織されたアークティカ海軍は高速砲艇の開発に力を入れていたが、小型艇に搭載できる砲の口径は小さく、大型船との交戦は実質的に不可能だった。
 せいぜい、海上から上陸を謀る敵のボートを攻撃し、意図を阻止できる程度だ。
 そこで、魚雷の開発に力を入れていた。この魚雷だが、純粋にアークティカで考案されたもので、異界物のコピーではない。
 エンジンは直径400ミリの四重星形二八気筒ガソリンエンジンで、冷却には海水を使用。出力は一万二〇〇〇回転で四〇〇馬力を発揮する。燃料はガソリン質のソラトで、酸化剤として圧縮空気を搭載する。
 エンジンの作動寿命は三〇分程度と短く、このエンジンの回転によって、二重反転プロペラを駆動する。
 姿勢制御にはジャイロスコープを使用するが、このジャイロスコープの回転はエンジンからの出力を利用した。駆動は直結で、一万二〇〇〇回転。
 弾頭の炸薬は無鉛火薬。
 直径四五センチ、全長五・二メートル、重量約八〇〇キロ。
 水面下を三五ノット(時速六五キロ)で推進する。有効射程は一五〇〇メートル。
 命中すると船舶の喫水下に致命的な大穴を開ける。
 当初、魚雷は沿岸防衛用の兵器として、陸上からの発射を考えられていたが、魚雷と高速艇の結合はすぐに考えつく。
 やがて、アークティカの弱小海軍は、高速艇と魚雷を中心とした戦術の確立に邁進することになる。

 タービニア号の成功は、避けることのできないマムルーク帝国との戦いにおいて、高速小型艇から発射される魚雷が、海上での決戦兵器となると期待されるようになっていく。
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