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1巻
1-2
しおりを挟む「誰が誰だかさっぱりわかんないよ。そういえば、御三家って名前なんていうの?」
基本情報すら頭に入っていなかった。
あの似たり寄ったりの顔の中から、名前も知らない状態で御三家を抽出するのは至難の業だ。
「ええ? 一目見ればわかるんじゃないの? 『きゃあ、すごいイケメン!』とかって」
似合わない言葉遣いを途中に挟みながら、真紀がグッと身を乗り出してくる。
「一目どころか何度見たって、みんな同じ顔に見えるよ」
「御三家はね、田中……安藤…………宇都宮って名前よ」
真紀が視線を宙に向けて指を折りながら、たどたどしく三人の名前を口にする。
千尋は真紀にジト目を向けた。
「真紀、なんで御三家に興味あるの?」
「そりゃあ、お金になるもの」
びっくりする返事が戻ってきた。
「お金! ……ってまさか真紀、私が仕入れた情報売ろうとしてたの!?」
――おかしいと思った! その手の話には興味のなさそうな真紀がイケメンの情報をほしがるなんて!
真紀を睨みつけると、誤魔化すような笑みを浮かべた彼女は千尋の目の前でヒラヒラと手を振った。
「まあまあ。御三家の女性の好みがわかればランチご馳走してくれるって言うのよ~。乗らない手はないでしょ?」
同意を求められても、千尋にはなんの得もない。苦労して情報を取ってくるのはこっちにもかかわらず。
「ほら、千尋だってイケメンの情報ほしいでしょ? 絶賛彼氏募集中なんだから。一石二鳥ってやつよ」
わざとらしくにっこり笑った真紀を、千尋は睨みつけた。
――なにが一石二鳥だ。名前と顔が一致しない人間を誰が好きになるというのか。だいたい向こうにしてみれば、どうせ千尋はちんちくりんにしか見えてないに決まっている。
「そういうわけで、早めに仲よくなってよ」
真紀の笑いを含んだ適当な言葉に、千尋はテーブルに突っ伏した。
「無理だよう。誰が誰かわからないよう。みんなイケメンだよう。もう同じ顔ばっかり!」
「ええ~~? そうなの? 目が腐ってんじゃないの?」
なんて言い草だ。
「もう、名前だけじゃわかんないよ! 田中に関しては、多分二人いたもん」
「下の名前はさすがに覚えてないわあ」
さすがにじゃない。真紀も御三家そのものに興味がないから覚えてないのだ。
「二人の田中を並べて、格好いいほうが御三家よ、多分」
「その格好いいの基準は、私の好みでいいの?」
ため息交じりで呟いた言葉は、真紀にあっさりと却下される。
「ダメ」
――んじゃ、どうしろっていうんだ。
「一般的によ、一般的に。千尋の好みは『覚えやすい』っていう主観が入るからダメ。あ~、イケメンがたくさん身近にいるっていう恋のチャンスを活かせそうになくて可哀想だわ」
千尋は真紀に苦々しい顔を向けた。
自分が覚えられない顔の人と恋愛するなんて、明らかに無理だろう。
「一般的に」というのがどういう系統のものを指すか知らないが、仮に一課の二十人を全員並べたとしても、みんながみんな御三家を選ぶものだろうか。だったら……
「私、一般的な好みなんて持ち合わせてないもんね」
「――ぶはっ」
やさぐれた千尋の言葉に返事をするように、机を挟んだ向こう側から笑い声が聞こえた。そちらに目を向けると、イケメンが座っていた。
――この人は……覚えがあるような気がする。一課の人間だ、多分。
自分の記憶が確実ではないことに、千尋は悲しくなった。
「や、悪い。面白い話してるから」
箸を持ったままの手で口元を押さえ、彼は肩を震わせて笑っていた。
なにがそんなに面白かったのか、千尋にはよく理解できない。
それより先に真紀が反応して千尋に耳打ちしてくる。
「知り合い?」
――そう。多分、同じ課の人。でも名前がわからない。見覚えがあるけれど、どうしよう。
そんなことを考えていると、さっさと真紀が彼に話しかけていた。
「営業一課の方ですか? お名前を教えていただいてもいいですか?」
自分が二週間かけてできなかった質問をあっさりとしてしまう真紀の隣で、千尋は口を尖らせながら、目の前の彼の顔をじっと見た。傍から見ると睨みつけたような状態になっていたかもしれない。
なんとなく悔しくて、彼が答える前に名前を当てたくなった。
そんな千尋を、彼は面白いものでも見るように目を細めて眺めていた。
この人は見覚えがある。
――――そうだ、暫定……
「鈴木さん!」
千尋はビシッと人差し指を立てて呼んだ。
「はずれ」
彼から無情な答えが返ってきた。
「え、じゃあ佐藤さん」
首を横に振っている。
「高橋さん」
またも無言で首を横に振られて、千尋はやる気をなくした。無理、当たる気がしない。
「伊藤さん、渡辺さん、山本さん……」
「多そうな名字、手当たり次第言っているだけよね」
真紀の突っ込みに、またもや目の前の彼は肩を震わせる。
「もう、わかりません! でも、この間、朝データを取りにきた人ですよね?」
「ああ、なんだ。わかってるじゃないか。そうそう。田中です」
「田中!」
そんな多い苗字を忘れるなんて不覚だ。あと数個言わせてくれたら当たったかもしれないのに。
「きゃあ。御三家のほうの?」
真紀が嬉しそうな声を上げる。
やっぱり、真紀も御三家の外見を知らなかったらしい。
それを訴えようとする千尋と押しとどめる真紀が無言で揉み合っていると、彼が席を立った。
真紀のほうを見て苦笑いしながらうなずいている。
この人が例の御三家か。とりあえずこの人だけでもしっかり覚えようと千尋が顔を見ていると、彼が自分のトレーにのっていたプリンを千尋の目の前に差し出した。
「ランチと交換するほどの情報はあげられないけど、これをあげる」
千尋は慌てて両手でプリンを受け取る。
「自己紹介もせずに苦労させて、ごめんね?」
なんと、謝ってくれた。しかも笑顔で。
明らかに面白がっているものであったとしても、笑顔を目にすると今までのイライラがちょっとは晴れるというものだ。
というか、さっきまで、この人の話を目の前で繰り広げてしまっていたことを今さらながら思い出して恥ずかしくなる。しかし受け取ったプリンの魅力にそれも掻き消えた。
ランチの陰の主役ともいえるデザートを差し出してくれるとは! なんていい人!
「うわあ。ありがとうございます! 鈴木さん!」
千尋は満面の笑みでお礼を言った。
「田中」
彼は笑顔から一転、眉間にシワを寄せて訂正を入れた。しまった、ちょっと間違えた。
一度インプットすると、なかなか変更がきかないのは困ったものだ。が、しかし!
手の中のプリンをニコニコしながら眺めて、千尋は自信満々に答えた。
「大丈夫です。もう覚えました。プリンの田中さん!」
ドヤ顔で胸を張ると、横と上からため息が返ってきた。が、そんなのは気にしないことにしよう。
3
営業一課の前任の事務員・片瀬は『最悪』の一言に尽きると田中宗介は思っていた。
決して仕事ができないわけではない。頼めば必ず期日までに終わらせるし、ミスもほとんどない。
ただ、すごく面倒くさかったのだ。だから宗介は、営業事務の女性にはかなりの警戒心を持っていた。
――たとえば片瀬に仕事を頼んだ場合は、こんなことになる。
「片瀬さん、頼んでいた見積もりできてる?」
「もちろんです」
ハートマークを飛ばしながら嬉しそうに振り返られると、正直うんざりする。
仕事の依頼も受け取りもすべて、彼女に直接話しかけないことにはなにもしてもらえない。メモを残しているだけじゃ、「見ていません」で押し切られてしまうのだ。
ただ依頼を直接するだけならいい。そのほうが確実だという点でも異論はない。
だが……
「あのう、今夜食事一緒に行きませんかあ?」
必ず誘われることがついて回る。
「今日は無理なんだ」
「だったら、いつにします?」
断っても、性懲りもなく何度も誘ってくるのだ。一度でも付き合ったらダメだと思ってOKしたことはないけれど、ただ見積書を頼んだだけでそれでは、時間がいくらあっても足りない。
さっさとその場から立ち去りたくても、自分がほしい書類は彼女の手の中なのだ。
「悪いけど、急ぐんだ」
繰り返されるやりとりにいい加減疲れてきて、断りの言葉もはっきりと言うようになった。
もちろん、自分だけではなく他の社員も。
そのことに、彼女は不満を感じていたらしい。
そんな彼女は、次の言葉を放ったのを最後に、営業一課を去ることになった。
「一緒に食事してくれないなら、もう見積もり作ってあげません!」
仕草だけは可愛く、ぷいっと顔をそらされた。
呆れ果てて反論しようとしたところで、怒声が響いた。
「なんだ、その態度は! お前のしていることはセクハラだ!」
席の離れた課長にまで聞こえていたようで、先ほどの彼女の言葉に課長は立ち上がって怒っていた。
「仕事を盾にして交際を迫るというのはどういうことだ。だったら、お前はいらない。出ていけ!」
温和な課長が怒るところは滅多に見たことがない。
「そんなっ、私は……」
片瀬が身を震わせて声を上げたが、課長の一睨みで黙る。
「もういい。出ていけ」
一歩も引かない課長に、彼女は手に持っていた見積書をゆっくりと机にのせて静かに退室していった。
営業事務がいなくなる。
それはすごく大変なことだけれど、室内にはどこかホッとした雰囲気が流れた。
「後任は……既婚者にお願いする」
課長が苦々しい口調で呟いた。
『営業一課にはイケメン御三家がいる』
社内にそういう噂が流れていることは宗介も知っていた。
決して自分からそう名乗っているわけではないが、宗介もその一人として名を連ねていた。
そんな宗介に話しかけられることを、片瀬はある種のステータスのように感じていたらしい。だが、その彼女もそんなことがあって一課からいなくなった。
その一ヶ月後、新しい営業事務が入った。
「おはようございまーす」
ようやく、忙しすぎる地獄の日々から少しは解放されると思っていたのに、可愛らしい声で入ってきたのは、どう見ても二十代前半の女性。
――既婚女性はどうなった? それとも意外と彼女は既婚者……?
期待した目を課長に向けても、申し訳なさそうに首を横に振られた。
「今日からお世話になります。営業事務として配属された名越千尋です」
にこにこと元気よく挨拶する姿には好感が持てたが、納得いかなかった。
加えて、課長に怒鳴られてから一課にはほとんど足を踏み入れていなかった片瀬が、引き継ぎのために来ていて、それも宗介を苛立たせた。
名越と名乗っていた女性が、片瀬の不十分な引き継ぎに目を白黒させている様子が見て取れた。
課長に目を向けると、深いため息をついて宗介を手招きしている。
宗介は課長の席に近づいた。
「悪い。後任も若い独身の女の子だ」
――そうだと思った。思わず顔をしかめると、課長はあの女の子が異動してきたわけを話した。
「ドロドロ三角関係はやめてほしいんだとよ」
つまり、既婚や彼氏持ちの女性が、御三家と付き合えるのなら夫や恋人なんて捨てるわ~♪ みたいな感じにならないようにという上層部の判断らしい。
――そんな起きてもいない色恋沙汰を心配するよりも、今、目の前にある仕事を優先すべきだろう!?
そう叫び出したい気持ちを課長もわかってくれているようで、もう一度「すまない」と頭を下げられた。課長にそこまで謝られて、さらにそれ以上の文句を口に出せるはずもなく、宗介は黙るしかなかった。
サポートしてくれる事務がいないままで一課の仕事をこなすのは、やはり非常に難しいし、何度か顧客を大きく待たせることにもなった。
「明日には見積もりを出しますので」と言えないのだ。
若い女性はたいていが面倒くさい。新任の彼女だって見た目は小さくて可愛いが、面倒くさいに決まっている。
「あれでも、色恋に興味がなさそうで、即戦力になるという条件をクリアしてきた子だから」
課長はそんな風に言ったが、見た感じはいたって普通の女の子だ。
だったらいっそのこと男にしてほしかったが、残念なことに、技術職に男が多いのと同じように事務員には女が多い。
苦々しくてやりきれない思いで、宗介はすべての文句を心の中にしまい込んだ。
そして三日後、ついに彼女に仕事を頼まなければならない時がきた。
「名越さん、これできる? 明日までにほしいんだけど」
「あ、大丈夫です」
話しかけてみると、ニコニコと愛想よく受け答えをする。頼んだ商品のこともよくわかっているようで安心する。
商品データを渡して立ち去ろうとすると、問いかけるような視線を感じた。
大きく息を吐きたくなるのをこらえ、イライラして刺々しくなった気持ちを落ち着かせるために喫煙室へと向かった。
――やっぱり、彼女も片瀬と同じ。もう、うんざりだ。
次の日、宗介は自分の感情をはっきりと表情に押し出して彼女に話しかけた。
「昨日の書類はまだ?」
自分の声がイラついているのがわかる。
まだ一課に来て日が浅い彼女に対して、いくらなんでもこの態度はないだろうと宗介も思う。しかしこれまでの面倒くさいやりとりの積み重ねで、これ以上はもう我慢ができないところまできていた。
「――ああ! できてます。どうぞ。あの……」
わざとらしく、忘れていたというような態度を装って、彼女が書類を差し出してきた。
すべてが計算して作った演技のように見えてしまう。
「次からは机の上に置いといてくれればいいから」
彼女がなにかを話そうとするのを遮って、書類だけを受け取って外回りに出た。
――書類の作成も、ここ一ヶ月は一人でできたんだ。これからも自分でやろうか――
そう考えながら、重い足を引きずって営業に回った。
それからの二週間は、幸いなことに一人でできる仕事が続き、彼女に話しかけられることもなく過ごせた。
今日は午前中に取引先で打ち合わせをして、帰社したのはちょうど昼休憩の時間帯。社員食堂が一番混む時間だが、午後からまた外出予定があるので仕方なく向かう。
これなら外で食べてくればよかったと思いながら、仕方なく女性社員の向かいの席に座った。そこしか空いてなかったのだ。
「うん。仕事は大丈夫」
聞き覚えのある声に目を向けると、なんと営業事務の新任、名越が目の前にいた。
――なんてこった。
大いに後悔していると……
「社内にいる時は、名札をちゃんとつけてくれないかなあ」
辛そうな声が聞こえた。名札? なんのことだと思っていると、名越の隣に座っている女性が弾んだ声を上げた。
「ねえねえ、そんなことより! 御三家、いた?」
その言葉に、ムカッとする気持ちが腹の底から湧き上がる。
――本当に、こいつらはなにをしに会社に来ているんだ。
『俺は仕事をしに来ているんだ。それを邪魔しないでくれ』と怒鳴りつけたい気分だった。
彼女の受け答えによっては、イライラを抑えきれずに椅子を蹴り倒して立ち上がっていたかもしれない。
この後のやり取りを聞かなければ、たぶんずっと彼女のことを誤解したままだっただろう。
「誰が誰だかさっぱりわかんないよ。そういえば、御三家って名前なんていうの?」
「ええ? 一目見ればわかるんじゃないの? 『きゃあ、すごいイケメン!』とかって」
この二人は御三家が誰だか知らないのか? と思っていたら、名越がテーブルに突っ伏した。
「みんなイケメンだよう。もう同じ顔ばっかり!」
「ええ~~? そうなの? 目が腐ってんじゃないの?」
そう言いながらも、二人は目の前にいる自分に目もくれない。本気で宗介のことがわかっていないのだ。
この二人の話を小耳に挟んだ女性社員が微妙な視線を宗介に向けてくる。まあ、本人の目の前で噂話を繰り広げているんだから、当然の反応だ。
素知らぬ顔でそのまま耳を澄ましていると、女性社員の間では御三家のプライベートな情報がランチと引き換えに取り引きされているらしいことがわかった。
しかしそんなことよりも、名越はまだ一課の人間の名前と顔がさっぱり一致してないらしく、初対面の人間に仕事を頼んだら名前ぐらい名乗れと憤慨していた。
自己紹介……初日に挨拶くらいはした、はずだ。
適当に名字だけ言ったような気がする。
周りはみんな好き勝手に「御三家」呼ばわりしてあれこれ噂話をしてるから、名越もどうせ知っているんだろうという気持ちだったことも思い出した。
彼女の言葉を聞きながら自分の行動を思い返して、ひどく申し訳なく思った。彼女が宗介の名前を尋ねる時間など与えなかった。というか、名越がなにかを話そうとしていたのをわかっていて、それを遮った。
「もう、名前だけじゃわかんないよ! 田中に関しては、多分二人いたもん」
田中……もう一人の田中は、メガネをかけている。宗介はそのもう一人の田中と似ているとは一度も言われたことがない。
「二人の田中を並べて、格好いいほうが御三家よ、多分」
「その格好いいの基準は、私の好みでいいの?」
「ダメ」
――どっちが御三家かと聞かれて……わからないのか?
思わずもう一人の田中に対して失礼なことを考えてしまって反省する。別に自分のほうが格好いいと思われたいわけではないが、心のどこかにそういう気持ちがあったのかと少し戸惑った。
「一般的によ、一般的に。千尋の好みは『覚えやすい』っていう主観が入るからダメ」
「……私、一般的な好みなんて持ち合わせてないもんね」
名越のぶすくれた返事を耳にして、抑えられずに思わず噴き出した後、思い切り笑い出してしまった。
すると宗介の笑い声に、驚いたように顔を上げた名越と目が合う。
その瞬間、「あっ!」という顔をしたものの、眉間にシワを寄せて考え込んでいる。「この人は見覚えがある」とその表情が語っていた。
もう一人の女性が急かすのを押しとどめて、名越は真剣に考え込んでいた。
別に目の前にいるのだから名前を聞いてもらっても一向に構わないのだが。そう思いながら彼女を見ていると、どうやら名前を思い出しらしく、急にぱあっと明るい表情を見せた。
不覚にもその笑顔が可愛くてドキッとしてしまった……が。
「鈴木さん!」という、残念な答えだった。
――鈴木って、もっと年配だろう。俺とはまったく違う。ああ、でも席は近い。座席表を頼りに、当たりをつけていたのだろう。
その後、一度外してしまってやる気をなくしたらしい名越は、当てずっぽうでいろんな名前を言った。
それにしても、彼女たちの会話は面白い。笑いを噛み殺すのに苦労する。
「もう、わかりません! でも、この間、朝データを取りにきた人ですよね?」
唇を尖らせてから出た言葉に、お! と思わず眉が上がった。
「ああ、なんだ。わかってるじゃないか。そうそう。田中です」
ようやく自己紹介をすると、二人とも驚いた顔をしている。
「田中!」
「きゃあ。御三家のほうの?」
やっぱり顔と名前を知らなかったらしい二人がじゃれているのを見ながら、思った以上に時間が経っていることに気がついた。午後からの打ち合わせに出る前に、必要な書類をまとめてしまいたいと思い、宗介は席を立つ。
ふと視線を落とすと、トレーの上に今日の定食のデザートが手つかずのまま残っていた。
宗介はとくに深く考えずに、なんとなくそれを名越に差し出す。
すると、向こうも条件反射のように手を差し出してきたので、その手の上にプリンをのせた。
「自己紹介もせずに苦労させて、ごめんね?」
今まで彼女に対して失礼過ぎる態度を取っていたことは宗介も自覚している。こっちの先入観だけで、しなくてもいい苦労を彼女にさせてしまったのだ。
プリン一つでそれが許されると考えたわけではなかった。ただ、目の前にあったから、とりあえず渡してみようと思っただけだ。
「うわあ。ありがとうございます!」
それが、こんなに満面の笑みで受け取ってもらえるなんて、想定外だった。
「鈴木さん!」
この言葉がなかったら、宗介は名越の可愛さに赤面していたかもしれない。
「田中」
即座に切り返した。今、教えたばかりだよな? 覚える気がないだろう?
しかし彼女はちゃんと覚えたので大丈夫だと、自信満々のドヤ顔を見せた。
そうして『プリンの田中さん』というあだ名を言い渡されたのである。
プリンを渡さなかったら、自分はしばらく名越にとって『鈴木さん』のままだっただろう――宗介はそう思った。
4
社員食堂での一件から一週間。千尋の職場環境は劇的によくなっていた。
「プリンの田中さん、見積もりができました」
「いい加減、その呼び方はやめろ」
形のいい眉をひそめながら、彼は千尋を振り返った。
愛想のなかった彼が、社員食堂で話して以来、とても感じのいい人に変わった。といっても、表情がよく変わるようになっただけで、優しく笑いかけてくれたりするわけではない。
どうやら彼が、あれほど無愛想だったのは前任者の片瀬さんが原因と判明した。彼女が不必要に接触を持とうとしてきたため、千尋もそうなのではないかと警戒していたらしい。最終的には課長が彼女の態度にキレて、千尋がここへ来ることになったわけだが。
――あの課長、キレるのか。……是非とも怒らせないようにしたい。
「最初からこの人数を覚えられるわけないよな。悪かった」
しかもただ謝ってくれただけではなく、全課員に『まだ名前を覚えてないみたいだから、彼女に渡す書類に付箋を貼って、そこに名前を書いてやって』と言ってくれたのだ!
すると、名前の付箋がついた書類が千尋のもとに集まるようになった。そのおかげで、仕事の速度が急激に上がったことは、もちろん言うまでもない。
処理済みの書類で埋もれていた千尋の机は、あっという間に綺麗になった。最近では鼻歌を歌いながらコーヒーを飲む余裕まであるのだ。めでたい。
ただし付箋で名前がわかるようになったので、作成が終わった見積もりなどを担当者の机の上に置いて終わりということもある。だから、頼んできた人と顔を合わせないまま仕事が終了したりもする。異動して一ヶ月が経つというのに、いまだに顔と名前が一致しない人が多数いることは、ちょっとした弊害だったりもするが、それもまあ大事の前の小事ってやつだ。
そんな状態の中、あだ名をつけてでも名前を覚えようとしているこの努力を買ってほしい。千尋はそんな風に思いながら、さりげなく反論した。
「もう一人の田中さんと区別するためです」
――そう、やはり田中さんはもう一人いたのだ。ちょっとまだ顔がおぼろげで見分けるのに自信はないが、確か優しげな印象の人だったはず。
「下の名前は違うだろう!?」
「この上、ファーストネームまで覚えろと言うんですか!? なんて鬼畜!」
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