プリンの田中さんはケダモノ。

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1巻

1-3

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 天を仰ぐ千尋をにらみつけてから、プリンのほうの田中さんは見積書に視線を落とした。
「覚えてないのか」とぽつりと寂しそうに言ったのは聞こえなかったふりをしよう。今の千尋はこれでいっぱいいっぱいなのだ。
 フルネームはいつか、きっと、多分、……覚えるだろう。そういうことにしておこう。

「名越、これのサンプルあるかな?」

 田中さんが見積書の一番上を指差して言った。
 彼が示したのは、新発売のボールペンのらんだった。
 千尋が異動後に発売された商品で、完成したものはまだお目にかかっていない。時間を見つけて実物を見せてもらいに行こうと思っていた。

「今月初めに届いているはずですが、確認しておきます。どれくらいの量が必要ですか?」

 顧客こきゃく名簿をめくっている彼から大体の数字を聞くと、千尋はそれを商品管理課にメールすべく、メモを取る。

「在庫があれば、午後にでも持ってきます」

 是非ぜひ行かせていただきたい。新商品を手に取る時は本当にワクワクする。
 田中さんは「じゃあ、頼む」と言った後、ニコニコと笑っている千尋を見て――

「……仕事はできるのに」

 と心の底から残念そうにつぶやいた。
 ――そのセリフは、感心したように言ってくれてもいいのではないか?
 千尋は、今こそこの文房具への愛と情熱を語る時だと、こぶしをグッとにぎりしめた。

「だって、愛してますもん!」
「…………は?」

 目の前のイケメンがとぼけた顔になったけれど、そんなことはどうでもいい。ようやくめぐってきたチャンス(?)なのだ。逃してなるものかと、千尋は意気揚々いきようようとその愛の大きさを語り出した。

「あのボールペン、実は初期段階ではなんの変哲もない、ただのボールペンでした。通常のボールペンは学生や会社員をターゲットにしているでしょう? しかしなんとこのボールペンは、主婦にまとを絞ったのです。今まで主婦向けの文房具なんてあったでしょうか? 主婦だって文房具はよく使うんです。そこに目をつけて、このボールペンの改良は進みました。まずは低価格販売を狙って低コストを心がけたんです。なぜなら値段が高いボールペンなんて、家計を預かる主婦は絶対と言っていいくらい買わないから。徹底的に低コストに抑えて低価格を死守し、しかもデザインはおしゃれでないといけない。なぜなら女性はいくつになっても持ち物にこだわるところがありますからね。さらに女性の服には胸ポケットがついていないものが多いから、持ち歩く時はたいてい手帳にはさみます。そのため、まずこのクリップ部分を強力にして――」
「待て待て待て。この話は、いつ終わるんだ」

 目の前で手を振って制されて、千尋は語りを中断した。
 周りからびっくりした目で見られていることに気がついて、千尋は思わず照れ笑いをした。ちょっと熱くなりすぎたようだ。声も大きかったらしい。

「久々に愛する文房具たちの話ができるかと思って、つい……」

 そう言って千尋が頭を下げると、田中さんは口を手の平でおおった。

「ちょっと驚いた」

 そう言った彼まで恥ずかしがっているのはどういうわけだろう?
 しかも見積書で顔をおおって、ため息までついている。

「わかった。サンプルよろしく」

 田中さんは千尋をうらめしそうに見てから、もう行くとばかりに手を振った。
 なにかしてしまったのだろうかと千尋は首をかしげて少し考えてみたが、これといったことを思いつかないので、大丈夫だろうと判断した。
 随分ずいぶん一課にも慣れて、だんだんと仕事が面白くなってきた。大きな注文が入ると、営業担当と一緒に喜んでしまう。
 慣れてしまえば、ここ、営業一課は、商品管理課に負けず劣らず非常に居心地のいい場所だった。


 そんな、異動先での環境に馴染なじんできた、とある水曜日の朝礼で課長が言った。

「今日の夜、歓迎会を開く」

 千尋は周囲を見渡して、誰の歓迎会だろうと首をかしげた。

「名越、お前のに決まっているだろう」

 その動きで課長は千尋の考えていることがわかったらしい。あきれたように声をかけられた。

「ちょうど接待もほとんど入っていないから、今日にする。名越もいいよな? 好きな店、予約しておけ」

 課長の突然の提案に千尋が軽く動揺しているにもかかわらず、他の人たちは「了解」とか「おー」とか適当に返事をしながら仕事に戻っていってしまった。
 営業職は接待が頻繁ひんぱんに入って、飲み会などで集まることのできる日が限られる。今日はたまたま集まれる人間が多そうだという理由で、課長がいきなり言い出したらしい。
 週のまん中の水曜日に飲み会を思いつくことにも驚いたが、『私の予定は聞かれないんだろうか』とか、『自分で自分の歓迎会のお店を予約するのか』とか、あれこれと疑問が千尋の頭の中を流れていった。が、しかし――

「名越の分は、俺がおごるから」
「ありがとうございます!」

 課長の言葉にそんな疑問は吹き飛んだ。
 ――よし! そういうことなら、ちょっと高い所にしよう。
 気持ちを弾ませた千尋は、普段は行けないようなお店を二十人くらいの人数で予約して、場所を一課の全員にメールで送った。準備は万端ばんたんだった。


 ――――が、しかし。ただ一つ、非常に重大な問題が残っていた。
 千尋は来客用カップにコーヒーを入れて、プリンの田中さんの机の上に置く。
 珍しくコーヒーをれて持ってきた千尋を不思議そうに見上げて、彼はパソコンを見る時だけかけているというメガネを触りながら言った。

「なんだ?」
「あの、ちょっとお話があるんです」

 千尋はひかえ目に切り出した。
 今からお願いしようとしていることが恥ずかしすぎて、どうしても小さな声になってしまう。
 千尋の言葉に「どうぞ」と先をうながしてくる彼に向かって、千尋は唇をみしめて頭を下げた。

「ここでは、その……言いにくいことなので……」

 休憩きゅうけいしつに移動してほしいと千尋が申し入れると、彼は目を見張る。

「今から?」

 ものすごく驚いた様子の彼に逆に驚きながら、千尋は手を振って否定した。

「あ、いえ。プリンの田中さんのご都合のいい時で構わないのでっ」

 ――そうだった。今は仕事中なのだ。
 まずは「今お時間よろしいですか」と聞かなければならなかった。
 千尋がさらに縮こまっていると、彼はメガネを外して立ち上がる。

「いや、今でも大丈夫だ。行こう」

 さっとスマホを持って、フロアの外へと歩き出した。目指す休憩きゅうけいしつには自動販売機と喫煙スペースがある。
 到着すると、今は誰もそこにいなかった。千尋は思わずホッとため息をつく。
 休憩きゅうけいしつに入って、田中さんが千尋を振り返った。どことなく怒っているような顔だと思ったけれど、千尋が緊張しているせいでそう見えるだけかもしれない。

「なに、話って?」

 千尋は胸の前で手をにぎり合わせて、彼を見上げた。

「今日の飲み会の時、そばにいてくれませんか」

 千尋の言葉に彼は目を細める。
 それから、ドキドキしつつ見上げている千尋の顔を見て、田中さんは口のはしり上げて満足げに笑った。

「今日の? それだけでいいの?」

 突然、一歩近づかれて、千尋は驚いて体を揺らしながらもうなずいた。

「はっ、はい。とりあえず、それだけでもしてくださったら……!」
「ふうん?」

 体をかがめて、田中さんは千尋の顔をのぞき込んでくる。
 ――近い近い!
 心の中で叫びながら、どうしていきなりこんなに近くで話してくるのかとか、妙に色っぽくて困るとか、軽いパニック状態の頭の中でぐるぐると考えていた。
 混乱している千尋の目の前で、田中さんの目が細められる。

「なんで?」
「え?」

 千尋が聞き返すと、笑みを深めた彼が、もう一度同じ質問をした。

「だから、俺にそばにいてほしい理由を聞いてるんだよ」

 ――こういうちょっと意地悪っぽい笑い方が、この人はよく似合う。
 それはさておき、千尋は、田中さんにそう申し入れた理由なんてとっくにお見通しのくせにと思い、少し腹が立った。

「だって……!」

 だけど、しっかりと言わなければならない。はじを忍んでお願いに上がったのだ。理由を明確に話すことは当たり前のことである。
 まあ、千尋をからかって面白がっているだけだろうが、たとえそうだとしても、田中さんにお願いしなければ、今日の飲み会を無事に乗り越えられないのだ。

「営業一課の人たちがいまだ、誰が誰だかわからないんです!」

 飲み会での秘書役を先輩に頼んでいる時点でダメな後輩だが、最低限の礼儀だけは守らなければ。
 呆然ぼうぜんとした表情を目の前で見せられようとも、だ。

「私のための歓迎会ということで、いろんな人が話しかけてくださることが予想されます。だからその人たちの名前をそれとなく横で口にしてくださあぁい」



   5


 ――名越には、不意打ちでドキドキさせられてばかりでたまらない。
 宗介は彼女が去った後、休憩室きゅうけいしつの隣の喫煙室きつえんしつで一人ため息をついた。

『あの、ちょっとお話があるんです』

 先ほどは、すがるような目で宗介を見つめながら懇願こんがんする名越に、変な期待をしてしまった。
 ――まあ、用件はただ単に、一課の人間の名前を覚えていないことを隠す手伝いをしてほしいというだけだったが。
 そもそも、冷静に考えれば今は仕事中だ。告白なんて、されるわけない。
 しかし、そんなことも考えられないほど、宗介は舞い上がってしまった。
 本当にここのところ宗介は、自分でもどうかしていると思う。
 例えば、相変わらず名前と顔を覚えられない名越が、一課の人間はみんなイケメンで、同じ顔に見えるとぼやくたびに、そうか? と首をかしげたくなる。
 ――自分だって、御三家と称されるくらいだから、他と比べて少しは格好よくて見分けがつくのではないかと考えてしまう。これまでの人生で、格好いいと思われたいなんて発想なかった……はずなのに。
 そういえば名越が異動してきた当初は、彼女も前任の片瀬と同じように色目を使おうとしているのではと警戒けいかいしていた。
 しかし社食で会ったのをきっかけに、その考えを改めた。その後、名越をさりげなく観察していた結果、なにか言いたそうに見えるのは、どうやら相手が席に着くまで見送っているからだということに気がついた。
 チラリと名札のある場所にも目を走らせているが、営業の人間は外出が多いため、名札を出したりしまったりするのが面倒くさくて社内でも大体ポケットに入れていた。
 名越は仕事を頼んできた奴の席を把握はあくすると、付箋ふせんにメモを取ってから仕事を再開する。名前がわかれば自分から書類を渡しにいくし、無駄なおしゃべりをすることもない。
 ただ、名前がわからない相手に対しては、話しかけられるのを待っている、というだけだった。
 宗介も含め、名越がなかなか名前を覚えられないのは、だいたい忙しい奴だ。忙しいから、頼むだけ頼んで外へ飛び出ていってしまい席順表で確かめることもできないし、尋ねるすきもない。それが悪循環になっていた。
 宗介以外の御三家と呼ばれている宇都宮と安藤も忙しいので、同じ状態になっている。そして彼らも前任者の被害者だから、話しかけられるのを待っている様子の名越にイライラしているのがわかった。
 だから宗介は二人の肩を叩いてやったのだ。宗介は、その時のことを思い出す――

付箋ふせんをつけてやれ』
『は?』

 温厚なはずの宇都宮が、『なんだよそれ』と言わんばかりの態度でこっちをにらんだ。
 ――その気持ちはわかる。俺だってつい最近まで、宇都宮と同じ状態だった。

『名越は、まだ課の奴らの名前を覚えてないんだよ。メモに名前を書いて書類を渡したら、ちゃんと仕事するし、黙って机に置いといてくれるよ』

 話している途中で安藤も加わってきた。宗介は二人に事情を説明したのだが、二人ともいぶかしげな態度を崩さなかった。だから、二人を連れて名越に声をかけた。

『名越』
『はい?』

 不思議そうな顔で近寄ってくる名越の表情は、少し不安そうだった。宗介のことはプリンの一件で覚えたが、一緒にいるのが誰だかわからなかったのだろう。

『こっちは安藤だ。さっきサンプルを頼まれてただろ?』
『サンプル! よかった! 今は在庫が足りないんですけど、来週の頭にはそろいます。五十ほどでよければ、先にそれは準備できます』

 頼んでくれた人に進捗しんちょく状況を伝えたかったのだと言って、安心したように名越は笑った。そんな彼女に、もう一人も紹介する。

『こっちが宇都宮。多分、この見積もりを依頼したのはこいつだ』

 そう言いながら彼女の机の上にあった付箋ふせんを勝手に取って、『宇都宮』と書き込んだ。
 顔を上げると、感動したと言わんばかりの表情を浮かべた名越の顔が目に入る。
 そんな風にほおを染めて見上げられると、なんだかいろいろ勘違いしそうになってしまった。

『プリンの田中さんは秘書ですか! まるで秘書のようです! しばらく私の隣にいて、来る人の名前をどんどんつぶやいていってください』

 くだらないことを言っている。

『そうじゃなくて、仕事を考えたら、お前のほうが俺らのサポートだろ!』

 思わずつっこむと、安藤と宇都宮は名越の様子に驚きながらも、自分たちが偏見へんけんを持って名越に接していたことを理解してくれたようだった。
 その後は、二人が広めてくれたのか、名越に仕事を頼む時は付箋ふせんに名前を書いて渡すという方法が通例となった。そのことについて、名越がしきりにお礼を言ってきた。
 とはいえしばらくの間は、いろんな奴の名前を間違えていた。この間は安藤が、『仕事が早いほうが助かるから、名前くらい間違えても全然気にしないよ。適当に声をかけて』と言うと、すごい勢いでガンガン呼び間違う始末。
 あの時は、『いや待て、いくらなんでも間違えすぎだ』とひそかに笑った。
 またある時は宇都宮が席を立ち、宇都宮の席の近くの別な奴が先に帰ってきたところに、自信満々で『宇都宮さん!』と話しかけ、『さすがに、俺は似てないでしょ』とつっこまれていた。
 そんな風に名越が他の奴がわからない姿を見ては気をよくし、彼女の言葉に振り回されている。
 そう――名越の突拍子とっぴょうしもない発言はいつものことだが、数日前は本当にあせった。

『だって、愛してますもん!』

 突然彼女がそう叫んだ時、宗介の心臓は高鳴った。
 ――なにを? 誰を? 愛しているって――?
 実際には、自社製品を「愛している」と言っただけだったのだが、告白されたんじゃないかと、一瞬勘違いしそうになったのだ。
 ――――俺もだよ。
 咄嗟とっさに、そう言いそうになったことに気づいてあわてた。
 こうして宗介は、徐々にだが着実に名越のとりこになっていた。『プリンの田中さん』という妙なあだ名をつけられても、それさえ嬉しい。なにをされても、自分が特別なように思われている気がして嬉しい。
 少し前までの自分ならば、そんな男のことを、お花畑な恋愛脳の馬鹿と揶揄やゆしていたに違いない。それなのに、今は……
 ――――なんてこった。
 宗介は自分の変わりようと、そんな自分を不快に感じてないことが信じられなくて呆然とする。
 少しして我に返った宗介は、煙草の煙を吐き出しながら残りの仕事に取りかかるべく喫煙所を出る。
 今晩は、名越からおおせつかった彼女の秘書任務がひかえているのだ。遅れたらどうなるかわかったもんじゃない。



   6


 そして迎えた千尋の歓迎会。席に着いた千尋は、少し緊張しながらチューハイをちびりとめた。それからそっと、隣をうかがう。すると……

「宇都宮」

 ムスッとした表情のまま、隣でビールを呑みながら田中さんがつぶやく。約束通りにそばにはいてくれるものの、彼はすこぶる機嫌が悪そうだ。さりげなさのかけらもない状態で、今のようにボソッと名字みょうじつぶやくだけである。

「なんだ?」

 目の前にやって来たばかりの宇都宮さんが田中さんを見て首をかしげる。

「どっ、どうぞ、呑んでください!」

 ものすごく不機嫌な田中さんを気にしながら、千尋は宇都宮さんにビール瓶を差し出した。
 千尋の歓迎会なので、千尋のところにみんながどんどん挨拶あいさつに来てくれる。
 自分の立場を考えればそれはあまりにもおこがましいことなので、むしろこっちから行きたいところだが、『主役はうろうろせずに座っていろ』と課長に言われてしまった。
 とはいえ、こうなるだろうと思っていたからこそ、田中さんに隣にいてくれるよう無茶なお願いをしたのでもあるが。

「……頑張れよー」

 宇都宮さんは少し話をしてから、なぜか千尋ではなく田中さんにそう声をかけて離れていった。すると田中さんはますます機嫌が悪くなった。

「あの、怒ってますか?」

 田中さんに小さく声をかけると、思い切りにらまれた。

「別に」

 絶対に嘘だ。だけど、まだ名前を覚えられてない自分が悪いので、ここはおとなしく落ち込んでおくことにしよう。
 周りを見渡してみても、とにかくまだまだ全員の名前と顔が一致しない。千尋は絶望感にさいなまれた。
 今日みたいな日に、この人が〇〇さんであの人が○○さんか、と確認していけばいいわけだが、どうにも隣が気になってそれどころではない。
 でもそれは言い訳どころか、下手をすると田中さんに責任転嫁てんかしているようなことになりかねないので口にはしないが。
 あぐらをかいたひざの上に頬杖ほおづえをついてこちらを見上げる田中さん。そんな彼を見て、千尋はなぜかドキッとしてしまう。こんな長時間、彼の顔を間近で見たことは今までなかった。ともあれ、ここまで不機嫌そうだと、飲み会での田中さんの楽しい時間をつぶしてしまったことは間違いないだろう。
 千尋がしゅんとしてチューハイの入ったグラスをにぎりしめていると、隣から「あー……」と低い声がした。

「本当に怒ってないから」

 小さく息を吐きながら、田中さんが千尋の頭の上に軽く手を置いた。

「ちょっと考え事してたんだ。名越とは関係ないから。悪いな」

 自分の機嫌が悪かったことを謝ってくれたのだと思うが、千尋はなんとなく胸がもやっとした。
 自分は関係ないと言われたのだから……本当だったら、安堵あんどするはずなのに。千尋はなんとなく落ち込んでしまった。
 その理由を突き詰めて考えたくなくて、思考を振り払おうとして持っていたグラスの中のお酒をグイッと呑んだ。

「お前、あんまり食ってないだろ。食わずに呑むのはよくないぞ」

 そんなことはお互い様だ。目の前には手つかずの料理が並んでいる。

「プリンの田中さんもどうぞ」

 千尋は気分を変えて、田中さんの分の料理をとりわけた。


 ――数時間後。
 高らかに文房具への愛を語る千尋ができあがっていた。

「いいですか? クリアファイル一枚にしても、試行錯誤を重ね、大いなる工夫がほどこされているわけですよ!」

 田中さんも隣で耳を傾けてくれているが、数人の人が入れ替わり立ち替わり、千尋の言葉を興味深そうに聞いてくれていた。
 さすがは営業一課の人たちだ。「なるほど」とうなずきながら真剣に聞いてくれる人がいるため、千尋は調子に乗っていた。
 喉のかわきをチューハイでうるおしながら千尋は滔々とうとうと語る。
 ――これだ。これこそが営業一課に来た醍醐味だいごみというやつだ。一晩中でも文房具への愛を語り明かしたいと思っていた!


「じゃ、そろそろお開きにしようか」

 ――そう思っていたのに、課長の言葉でさっさと終わってしまった。

「あれえ?」

 まだまだ語りたいことが山ほどあるのに、みんなさっさと立ち上がって帰り仕度じたくをし始めてしまう。

「あれえ? じゃないぞ。明日も仕事だからな」

 田中さんは隣で立ち上がって千尋を待っていてくれた。

「はあい」

 フワンフワンする頭を振りながら、千尋はヨロヨロと立ち上がる。
 立った途端とたんにフラリとよろめいて、田中さんに支えてもらった。

「おいおい。大丈夫か?」
「らいじょーぶですっ!」

 元気よく答えると、眉をハの字にした彼が「まいったな」とつぶやいた。
 その声に、これでは迷惑をかけてしまうと足に力を入れるのだが、やっぱり足元がふらついてしまう。

「おい、名越、大丈夫か?」

 課長の声がした。
 その声で、自分を支えていた温もりが離れそうになる気配を感じて、千尋は無意識のうちにその温もりにすり寄る。

「――俺が送っていきますから」

 自分を支える腕に力が入った気がして、千尋はニヘッと笑った。
 ほおに触れる空気が、店の熱気から夜の涼やかな風に変わる。
 いろいろな挨拶あいさつの声がして、喧騒けんそうが遠ざかっていく。
 遠くで自分の名前を呼んでいる声がときどき聞こえてはくるけれど、返事ができているかどうかわからない。申し訳ないが非常に眠たくなってきた。

「こら、寝るな」

 その声が心地よくて、千尋はだらしなく笑いながら眠りに引き込まれていった。



   7


 名越をしっかり抱きとめながら、今のこの状況と自分の気持ちに戸惑っていた。
 名越と酒を呑んだのは初めてだったわけだが、こんなに弱いと思わなかった。そして、酒に酔い、赤ら顔の女を見て、可愛いと思う日が来るとも。
 ふらふらしながら歩こうとする名越を支えてやろうと手を伸ばしたら、なんと彼女が抱きついてきて……思わず固まった。顔に熱が集まってしまったのを感じた。
 課長が心配してかけてくれた言葉に、どうにかうなずいた。

「遅すぎる青春を謳歌おうかしている奴は辛いな」

 にこやかに毒を吐いて、安藤がさっさとかたわらを通り過ぎていく。

「お、役得」

 けたけた笑いながらこちらを見ている奴らも、手を貸そうとはしない。……仮にそんな奴がいたとしても、もちろん手を借りる訳はないのだが。

「名越、とりあえず外に出るぞ」

 さすがに店のど真ん中でずっと抱き合っているわけにはいかない。名越をうながして歩き始めると、「うー」とか「あー」とかうなり声が聞こえてきたが、ちゃんと足を動かした。
 そして、ぼんやりとあたりを見回したかと思うと、宗介の上着の中にもぐり込もうとした。

「ここじゃダメだろ!?」

 ――言ってから気がついた。そういう問題じゃないんだよ。

「お前、さすがに意識がない状態の女性を襲うなよ」

 宇都宮があきれた顔をして言った。もちろんだと顔をしかめて答えたが、そのあたりのことは、己の理性に頑張ってもらうしかない。


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