不老ふしあわせ

くま邦彦

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第二章 夏一族( 建安九年・西暦ニ〇四年 )

水行三十日、陸行一月

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 行列の最後尾には、蘇奈国王の徐達がついた。梯儁の動きを後ろから見る役目である。おそらく梯儁は、司馬懿から難升米の動きをよく見張るゆうに命令を受けているはずだ。したがって、先頭にいる難升米に注意がいけば、後ろにいる徐達のことなど念頭にない。そこに隙が生まれ、それを見つけて難升米に報告するのである。これは呂強からの情報だが、梯儁は酒と女に弱いという。徐熊たちにとって、つけ込む隙はそこにもあった。
 奈国では、役所から直接冨実国に向かった。今日は、国境の手前に用意された宿泊所で寝食をとる。この一年、徐熊(難升米)が各国に指示したのは、耶馬一国までの宿泊所の設置だった。この先、梯儁たちが寝泊まりする宿泊所は、すべて今回のために急遽作られたものばかりである。そして、梯儁たちが役目を終えて帯方郡に帰った後は、すべて取り壊すことになっている。だから、彼らが見た本物の建物は奈国の役所だけなのだ。
 徐熊は「宿泊所は粗末なものでよい。しかし、食べ物と妓女は最高のものを用意しろ」と指示した。そして、この指示に従って各国はしのぎを削って準備したのである。
 最初の宿泊所は奈国が用意したものだった。耶馬一連合と梯儁との最初の勝負の場である。各国の王たちも、その結果を固唾を呑んで見ていた。
 梯儁が武官でよかった。宿泊所が粗末であることなど全く気にする様子はなかった。また、戦場ではないと、これほどにも気を許すものなのかと驚くほど、酒と女に没頭した。
 大成功である。徐熊も国王たちも、今後の対応に自信を持ち始めた。
 二日目、冨実国に入った。「ここから東馬国までは、船で行きます」と説明し、冨実国の港に案内した。梯儁を始め、部下の五人が航海に関してどれくらい知識を持っているかは、全く分からない。ここで徐熊の企みが見抜かれたら、元も子もなくなる。
 港には、六艘の船が用意されていた。漁舟よりは大きいが交易に使う大型船よりは小さな中型船である。徐熊は、航海中はできるだけ六人が連絡を取り合えないように、ばらばらにしたかった。そこで、六艘に下賜品を分け、それぞれを見張るためにと各船に一人ずつが乗り込むように仕向けた。
 港を出て一刻もたたないうちに、徐熊の心配は杞憂だと分かった。梯儁ら六人は船酔いで甲板に上がってくることができなかった。外海に出ると曇り空で、たとえ甲板に上がってきても船の位置などわかるはずはなかったが、幸先は良い。
 徐熊が国王たちに示した策略は、こうだった。
 港を出たら沖合に船を走らせる。昼を過ぎた頃、海風に乗ってゆっくりと岸に戻ってくる。このとき、山一つ越した隣の港に船を着ける。出発した港と到着した港は、山一つ隔てただけの陸路なら四刻ほどで着く距離である。少し位置を変えただけで、普段から見慣れた者でないと、なかなか気づかないことを利用したのだ。
 そのために、目印となるような高い木は伐採し、特徴のある山などは逆に木を植えたりして航路作っていった。そして、冨実国の港から東馬国の港まで二十の港と宿泊所が作られたのである。
 ところが、十日目になるとさすがに船に慣れてきたのか、役人の一人が甲板に出てきた。この日は雲一つない晴れ間だったので、太陽を眺めながら「今、東に向けて航行しているのか」と船頭に話しかけた。船頭はついうっかり、「はい、東に向かっておりますだ」と、答えてしまった。
 船頭はすべて蘇奈国が用意した者たちだが、徐達から「言葉は分からないふりをしろ」と命令を受けていた。このことを思い出し、船頭はすぐに船長に報告した。
「小さな事を見落とすと、この策略は失敗する」と、注意されていた船長は、慌てて徐達の乗る船に連絡を送った。連絡を受け取った徐達の乗る船が、速度を落としながら近づいてきた。
 並走すると、船の手すりに梯子をかけ徐達がすばやく乗り移ってきた。
 事情を聞くと、一大事である。徐熊から、方角に関しては梯儁らにどのような情報も与えてはならないと注意されている。
「しかたがない、船長。役人には酒を振る舞い、夕方港に入る前に、うっかりして海に落ちてもらおう」それだけ言って戻っていった。
 夕方近く、港に入る直前で「海に落ちた」という叫び声が聞こえた。
 梯儁もその声を聞きつけて、甲板に上がると、最後尾の船から船頭が飛び込むのが見えた。しばらくの間、その船頭の姿は見えなかったが、「ぶわぁ」と、水しぶきを上げて海中から顔を出した。その時、落ちた役人の首をつかまえていた。甲板にいた船長に綱を投げるように叫び、引き上げたが全く動く気配がない。
 港に着くと、梯儁の前に運ばれてきたが、役人はすでに死んでいた。役人からは酒の臭いがぷんぷんしていた。
「帰国の際に連れて帰るので、それまでえいに入れておいてくれ」と梯儁が言ったが、槥が何なのか分からない。ようやく棺のことだと分かると、徐熊はこの港の長に、「丁重に保管しなさい」と命じた。
 使者たちが、航海に関して知識が乏しかったことは、徐熊たちにとって追い風となった。まさにこの風で、計略通り二十日で東馬国に着いた。
 役人たちは、昼間は船に酔い、港についたら、酒と女で酔いつぶれた。司馬懿の命令など、全く実行できない状態で二十日を過ごした。おそらく帯方郡に帰ったら、「冨実国から東馬国までは、船で二十日の航行でした」と報告してくれるだろう。
 東馬国から耶馬一国までは陸路で三日の距離である。
 ここを、徐熊は水路で十日、陸路で三十日かける策略を指示した。大遠回りをして進まなければならない。そうなると途中、耶馬一国に敵対心を持っている狗南国のそばを通らなければならない。もし争いにでもなったら大変である。徐熊はヒダカ一族の木百岐きはくき国、児湯こゆ国、囲胡いご国の兵士を護衛に付くように頼み込んだ。いくら狗南国といえ、同族の兵士に戦いを仕掛けてくることはないだろうと考えたのである。
 まずは東馬国から海路で木百岐国まで行く。ここまでは、これまでと同様、十の港を設け、沖と港の行き来で彼らの注意を逸らす。船にも慣れてきたので船酔いはしなくなり、天気の良い日は甲板に頻繁に出てくるようになった。そこで油断はしないように注意した。ただ、港間の距離はかなり長くなったので、船の向きを悟られてもごまかし様はいくらでもあった。
 十日後、木百岐国の港に着くと、ここからは陸路になる。すべて山道である。梯儁ら六人と徐熊、徐達は馬で、護衛の兵士と下賜品を運ぶ住民は徒歩である。山道では荷馬車は使えない。
 一日に進むのは五十里とし、そこに宿泊所を、途中で一息入れる休息所を各国に作らせていた。ここでも「建物は粗末でいい、食べ物と妓女だけは最高のものを用意するように」と指示していた。
 役人たちは陸路にはいると、さすがに職務を思い出したのか、特に梯儁は記録を取り始めた。兵士の数や人夫の数を書きとめ、通過する集落の様子や住民の様子を細かく記録している。
 しかし、集落も住民も、すべて四百年前のヒダカ一族の生活を再現したもので、梯儁はさぞかし未開の土地だとあきれ返っていることだろう。
 陸路は太陽や山など、位置を知るのに役立つ目印がたくさんある。ただ、一旦森の中に入ると中は迷路である。森を抜け出したとき、目印にしていた山は、形も大きさも大きく変わってしまっている。
 陸路も半ば過ぎた頃、雨の季節に入った。梯儁らも帯方郡で長雨を経験しているのだろうが、雨の中の山道を歩いたことはないだろう。馬に乗っていても、疲労はたまる一方だ。
 宿泊所に着くとすぐに床に就き、以前のように宴会を楽しむ余裕はなくなってきた。策略はすべてうまくいっているが。梯儁たちが倒れてしまっては、元も子もない。後半は無理をせず、雨を理由に丸一日宿泊所で休む日も設けた。
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