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本編
5 凱旋の日
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――……御武運を。
ふるえる声で必死にそう伝えてきた少女の姿を、皚之は皇都から遠い、北の大地の空の下で思い出していた。
幕舎の外には、まだうっすらと雪が積もった光景が広がっている。その上に冴えた月光がそそぐ景色は、どこまでも神秘的に白かった。
ほう、と、吐く息は凍てつく。けれども皚之は、わずかに口許をゆるめた。
手には、あの日、雪玲から託された黒髪を編んで白玉に結び付けてつくった帯飾りがある。常に佩く剣の鞘につける章も、少女の髪を編んでつくったものだった。
「旅帥……皚之さま、こちらでしたか。――あ、それが噂の飾りですね?」
そう声をかけてきたのは麾下の士卒だ。名を史軒という。此度の出征にあたり、皚之は皇都にいた頃の百兵を率いる卒長から、一旅五百兵を率いる旅帥へと地位を進めていた。史軒は、それに伴って新しく皚之の麾下に加わったうちのひとりだ。
それでももう、付き合いは決して短くはなかった。
隣国との戦は、一進一退の戦況を繰り返し、思った以上に長引いた。ようやく敵を退け、戻れば次は一師二千五百兵を率いる師帥へ昇ること疑いなしと言われる程度の武功も立ててはいたが、出征からはすでに三年の月日が流れている。
ただ、掃討戦もひと段落して、いまはようやく皇都への帰還も見えてきていた。兵卒たちの雰囲気も、だから、いまはわりあい穏やかだ。
「噂?」
自分に関するどんな風聞が流れているんだ、と、皚之は麾兵に問い返した。史軒は、くつ、と、おもしろがるように喉を鳴らす。
「それ、女の髪なんでしょ? 旅帥にはどうやら出征時の形見に髪の毛を渡してくるような情の強い情人がいるらしいって、麾下の間では専らの噂です」
「ははっ、なるほどな」
皚之は相手の言葉を軽く笑い飛ばした。
(情が強い、か……それはたしかにそうかもしれん)
だが一方で、雪玲のことを思い出して、つい、くつくつ、と、ひとり喉を鳴らしてもいる。
別れの前日の夜、皚之のいのちを次代に繋ぐために情けを寄越せと迫った顔。出立の日、綺麗に化粧を施していたのは、涙の痕を覆い隠すためだったのだろう。
躊躇いなど欠片も見せず、絹の黒髪を断ち切って見せた姿が目に焼き付いている。雪玲は切実な眸で皚之を見詰め、皚之が死ねば自分も生きてはいない、と、そうきっぱりと言い切りさえしたのだ。
正直、一瞬、ぞくりとした。思わず掻き抱かずにはいられなかったほどだ。
一度戦に赴けば、無事に帰れる保障などどこにもない。だからこそ下手な約束など口にしないつもりでいたのに、終いには、つい、必ず帰るから待てとまで言っていた。
皚之は手の中の房飾りを見下ろし、すっと目を眇めた。
「その表情……で、実際のとこ、どうなんです?」
「なにがだ」
「だーから、噂の真相ですよ。ほんとに皚之さまの情人の髪なんですか、それ?」
「いや……俺の大事な雛のだよ」
皚之は苦笑するようにして言った。
「雛? 妹さんとかですか?」
史軒は訝しそうにする。
それに対して皚之は、くすん、と、肩をすくめて見せた。
「いちおう、形の上では妻になるな。ただ、出てくるときにはまだ十三歳だったから」
それで雛だ、と、答えてやった。
「ああ、政略結婚の名ばかり夫婦ってやつですか」
「似たようなもんだ」
雪玲は、李家と靖王府、それぞれの思惑によって嫁に出された娘であることは確かだった。ただ、皚之と雪玲との間には、互いへの情はそれなりにあったと思う。それでも、その気持ちは男女の間のそれとは異なるものだっただろうから、名ばかりの夫婦といわれればその通りなのかもしれなかった。
「あ、でも、髪を贈るくらいだから、すくなくともあっちは旅帥のことを好いていたんですよね。ということは、まったくの形ばかりってわけでもないのか……」
独り言のように呟く麾下に、皚之は苦笑した。
「莫迦を言え。相手はまだ好いた惚れたなどわからん小童だ」
「わかりませんよ。ほら、幼くとも女は女だって、よく言うじゃないですか。それに、小童だったといっても、それは三年前のことでしょう? いまはもう十六歳になるわけですし」
言われて皚之は、はた、と、瞬いた。
(ああ、そうか……雪玲ももう、十六歳か)
別れから三年が経つのだから、それは当然のことである。けれども、皚之の中での雪玲の姿は十三歳の頃のままに時を止めていた。雪玲も成長しているはずだということに、実感が持てない。
(どんな娘になっているものか……想像もつかんな)
また、房飾りを見下ろした。少なくとも、あの出立の日に無残に切り落としてしまった髪は、いまではすっかり伸びていることだろう。それを思って、ふ、と、口許をゆるめる。
「ようやく帰れますね」
「そうだな。ただ、しばらく国境には注意が必要だし、下手をすれば駐屯部隊としてすぐに引き返してくることになるだろうが」
「えー、嫌なこと言わないでくださいよ。旅帥だって、帰ったら、かわいらしい奥様としばらくは一緒にいたいでしょ?」
「はは、たしかに。せめて半年くらいはな。そうでないと、目を吊り上げて、怒られそうだ」
戻ってすぐにまた皇都を離れることにでもなれば、雪玲はどんな表情をするだろうか。それを想像するに、帰ってからしばらくの間は、以前のように警邏や練兵をしながら日々を過ごせればいいと思う。
(じきに帰るぞ、雪玲)
必ず帰るというあの日の約束をどうやら果たすことが出来そうだと、皚之は、ほう、と、息をついた。
*
「すっごい人ですね、旅帥」
麾兵に声をかけられた皚之はちらりと後ろを振り返ると、くすん、と、肩をすくめた。
「そりゃあ、いちおう、華々しい凱旋だからな」
皇都を囲む城壁の手前、南門のすぐ傍の開けた場所に、隣国国境へと派遣され、無事に任務を終えて三年ぶりに戻った一軍が整然と並んでいた。
軍を率いた将軍が、勅使から褒誉と労いの聖旨を受け、虎符と呼ばれる兵権の象徴となる割符を返還すれば、軍はいったん解散となる。その儀を見守るのに、皇都の民が城外へと出てきているのだった。
「――皆、長い間、良く国のために戦ってくれた。褒賞については日を追って報せる。まずはそれぞれ懐かしい家へ帰り、存分に羽を休めてほしい」
将軍から言葉があり、わあ、と、一気に周りが湧き立った。この後、師帥以上の幹部たちは皇宮へ召されるようだが、それ以外の兵卒は、三々五々、帰途へつくことになる。皚之は肩から力が抜けるのを感じ、無意識に、ほう、と、息をついていた。
ここに集っている民の中には、息子や兄弟、夫や情人の帰りを待ち侘び、待ち兼ねて、迎えに来ている者もいるのだろう。解散の合図と共に散った兵卒が誰かのもとへと駆け寄る姿、あるいは逆に、兵卒のもとへと駆け寄ってくる姿が散見された。
(俺も、帰るか)
いまは下馬した状態の皚之が、傍の馬の頬を撫でたときだった。
「旅帥、旅帥。さっきからなんかずっとこっちを見てる子がいるって、みんなが騒いでます」
すぐ傍の史軒が、こそ、と、囁きかけてきた。麾下たちの様子を見ると、たしかに、群衆のほうを気にしながらさざめき立っているようだ。
「どうした?」
「いや、すっごい美人がこっちを見てるんで。誰が目当てかなって話してて」
「美人?」
皚之が麾下たちの視線の先を追うと、たしかに、目を惹く容姿の少女が立っている。
「誰の知り合いだよ?」
「知らねえ。ってか、あんな子にあんな熱烈に見詰められるとか、うらやましいやつだな」
麾兵たちが口々に言い合う横で、皚之は呆然と立ち尽くしていた。
「どうしたんですか、旅帥、ぼうっとして。え、まさか、ああいう子が好みとか? 旅帥も面食いだったんですねえ」
「でも、旅帥には、ちょっと若すぎるんじゃないです?」
からかうような言葉は、半分、耳に入ってはこない。皚之は帯につけた房飾りを無意識に手に取って握っていた。
記憶の中にある幼い姿と、いま目の前の美しい少女の姿とか、一瞬、二重映しのように重なる。
「……雪、玲……」
呆然と呟いた。
その刹那、それなりの距離を隔てた向こうで、少女が、くしゃ、と、顔を歪めたのが見て取れた。
「郎君……!」
彼女のくちびるが、そう、こちらを呼ばわる形に動く。
そうと認識した次の瞬間には、蝶が羽ばたくときのように襦裙の裾が翻り、細い身体が一目散にこちらへと飛び込んできていた。
「郎君……郎君っ」
ぎゅう、と、しがみついてくる相手を、皚之は目を瞠って受けとめる。
「雪玲」
ほう、と、吐息するようにその名を呼んだ。
彼女が、皚之の胸に埋めていた顔を上げる。その目は潤み、すでに眦からは滴がこぼれ落ちそうになっていた。うらはらに、薄っすらと紅を刷いた珊瑚のようなくちびるが、ほんのりと、きれいに、微笑んでいる。
「お帰りを、心より、お待ち申し上げておりました。――ご無事で、よかった……郎君」
「ああ……いま帰った」
(大きくなったな、見違えたぞ、と、顔を合わせたらそう笑って言ってやるつもりでいたのに)
どうしてか、言葉が出てこない。かわりに皚之は、雪玲の背にそっと腕をまわして、その身をやわらかく抱き締めた。
「なんだ、例の形見の髪の君でしたか」
傍で史軒がからかうように言って笑った。
ふるえる声で必死にそう伝えてきた少女の姿を、皚之は皇都から遠い、北の大地の空の下で思い出していた。
幕舎の外には、まだうっすらと雪が積もった光景が広がっている。その上に冴えた月光がそそぐ景色は、どこまでも神秘的に白かった。
ほう、と、吐く息は凍てつく。けれども皚之は、わずかに口許をゆるめた。
手には、あの日、雪玲から託された黒髪を編んで白玉に結び付けてつくった帯飾りがある。常に佩く剣の鞘につける章も、少女の髪を編んでつくったものだった。
「旅帥……皚之さま、こちらでしたか。――あ、それが噂の飾りですね?」
そう声をかけてきたのは麾下の士卒だ。名を史軒という。此度の出征にあたり、皚之は皇都にいた頃の百兵を率いる卒長から、一旅五百兵を率いる旅帥へと地位を進めていた。史軒は、それに伴って新しく皚之の麾下に加わったうちのひとりだ。
それでももう、付き合いは決して短くはなかった。
隣国との戦は、一進一退の戦況を繰り返し、思った以上に長引いた。ようやく敵を退け、戻れば次は一師二千五百兵を率いる師帥へ昇ること疑いなしと言われる程度の武功も立ててはいたが、出征からはすでに三年の月日が流れている。
ただ、掃討戦もひと段落して、いまはようやく皇都への帰還も見えてきていた。兵卒たちの雰囲気も、だから、いまはわりあい穏やかだ。
「噂?」
自分に関するどんな風聞が流れているんだ、と、皚之は麾兵に問い返した。史軒は、くつ、と、おもしろがるように喉を鳴らす。
「それ、女の髪なんでしょ? 旅帥にはどうやら出征時の形見に髪の毛を渡してくるような情の強い情人がいるらしいって、麾下の間では専らの噂です」
「ははっ、なるほどな」
皚之は相手の言葉を軽く笑い飛ばした。
(情が強い、か……それはたしかにそうかもしれん)
だが一方で、雪玲のことを思い出して、つい、くつくつ、と、ひとり喉を鳴らしてもいる。
別れの前日の夜、皚之のいのちを次代に繋ぐために情けを寄越せと迫った顔。出立の日、綺麗に化粧を施していたのは、涙の痕を覆い隠すためだったのだろう。
躊躇いなど欠片も見せず、絹の黒髪を断ち切って見せた姿が目に焼き付いている。雪玲は切実な眸で皚之を見詰め、皚之が死ねば自分も生きてはいない、と、そうきっぱりと言い切りさえしたのだ。
正直、一瞬、ぞくりとした。思わず掻き抱かずにはいられなかったほどだ。
一度戦に赴けば、無事に帰れる保障などどこにもない。だからこそ下手な約束など口にしないつもりでいたのに、終いには、つい、必ず帰るから待てとまで言っていた。
皚之は手の中の房飾りを見下ろし、すっと目を眇めた。
「その表情……で、実際のとこ、どうなんです?」
「なにがだ」
「だーから、噂の真相ですよ。ほんとに皚之さまの情人の髪なんですか、それ?」
「いや……俺の大事な雛のだよ」
皚之は苦笑するようにして言った。
「雛? 妹さんとかですか?」
史軒は訝しそうにする。
それに対して皚之は、くすん、と、肩をすくめて見せた。
「いちおう、形の上では妻になるな。ただ、出てくるときにはまだ十三歳だったから」
それで雛だ、と、答えてやった。
「ああ、政略結婚の名ばかり夫婦ってやつですか」
「似たようなもんだ」
雪玲は、李家と靖王府、それぞれの思惑によって嫁に出された娘であることは確かだった。ただ、皚之と雪玲との間には、互いへの情はそれなりにあったと思う。それでも、その気持ちは男女の間のそれとは異なるものだっただろうから、名ばかりの夫婦といわれればその通りなのかもしれなかった。
「あ、でも、髪を贈るくらいだから、すくなくともあっちは旅帥のことを好いていたんですよね。ということは、まったくの形ばかりってわけでもないのか……」
独り言のように呟く麾下に、皚之は苦笑した。
「莫迦を言え。相手はまだ好いた惚れたなどわからん小童だ」
「わかりませんよ。ほら、幼くとも女は女だって、よく言うじゃないですか。それに、小童だったといっても、それは三年前のことでしょう? いまはもう十六歳になるわけですし」
言われて皚之は、はた、と、瞬いた。
(ああ、そうか……雪玲ももう、十六歳か)
別れから三年が経つのだから、それは当然のことである。けれども、皚之の中での雪玲の姿は十三歳の頃のままに時を止めていた。雪玲も成長しているはずだということに、実感が持てない。
(どんな娘になっているものか……想像もつかんな)
また、房飾りを見下ろした。少なくとも、あの出立の日に無残に切り落としてしまった髪は、いまではすっかり伸びていることだろう。それを思って、ふ、と、口許をゆるめる。
「ようやく帰れますね」
「そうだな。ただ、しばらく国境には注意が必要だし、下手をすれば駐屯部隊としてすぐに引き返してくることになるだろうが」
「えー、嫌なこと言わないでくださいよ。旅帥だって、帰ったら、かわいらしい奥様としばらくは一緒にいたいでしょ?」
「はは、たしかに。せめて半年くらいはな。そうでないと、目を吊り上げて、怒られそうだ」
戻ってすぐにまた皇都を離れることにでもなれば、雪玲はどんな表情をするだろうか。それを想像するに、帰ってからしばらくの間は、以前のように警邏や練兵をしながら日々を過ごせればいいと思う。
(じきに帰るぞ、雪玲)
必ず帰るというあの日の約束をどうやら果たすことが出来そうだと、皚之は、ほう、と、息をついた。
*
「すっごい人ですね、旅帥」
麾兵に声をかけられた皚之はちらりと後ろを振り返ると、くすん、と、肩をすくめた。
「そりゃあ、いちおう、華々しい凱旋だからな」
皇都を囲む城壁の手前、南門のすぐ傍の開けた場所に、隣国国境へと派遣され、無事に任務を終えて三年ぶりに戻った一軍が整然と並んでいた。
軍を率いた将軍が、勅使から褒誉と労いの聖旨を受け、虎符と呼ばれる兵権の象徴となる割符を返還すれば、軍はいったん解散となる。その儀を見守るのに、皇都の民が城外へと出てきているのだった。
「――皆、長い間、良く国のために戦ってくれた。褒賞については日を追って報せる。まずはそれぞれ懐かしい家へ帰り、存分に羽を休めてほしい」
将軍から言葉があり、わあ、と、一気に周りが湧き立った。この後、師帥以上の幹部たちは皇宮へ召されるようだが、それ以外の兵卒は、三々五々、帰途へつくことになる。皚之は肩から力が抜けるのを感じ、無意識に、ほう、と、息をついていた。
ここに集っている民の中には、息子や兄弟、夫や情人の帰りを待ち侘び、待ち兼ねて、迎えに来ている者もいるのだろう。解散の合図と共に散った兵卒が誰かのもとへと駆け寄る姿、あるいは逆に、兵卒のもとへと駆け寄ってくる姿が散見された。
(俺も、帰るか)
いまは下馬した状態の皚之が、傍の馬の頬を撫でたときだった。
「旅帥、旅帥。さっきからなんかずっとこっちを見てる子がいるって、みんなが騒いでます」
すぐ傍の史軒が、こそ、と、囁きかけてきた。麾下たちの様子を見ると、たしかに、群衆のほうを気にしながらさざめき立っているようだ。
「どうした?」
「いや、すっごい美人がこっちを見てるんで。誰が目当てかなって話してて」
「美人?」
皚之が麾下たちの視線の先を追うと、たしかに、目を惹く容姿の少女が立っている。
「誰の知り合いだよ?」
「知らねえ。ってか、あんな子にあんな熱烈に見詰められるとか、うらやましいやつだな」
麾兵たちが口々に言い合う横で、皚之は呆然と立ち尽くしていた。
「どうしたんですか、旅帥、ぼうっとして。え、まさか、ああいう子が好みとか? 旅帥も面食いだったんですねえ」
「でも、旅帥には、ちょっと若すぎるんじゃないです?」
からかうような言葉は、半分、耳に入ってはこない。皚之は帯につけた房飾りを無意識に手に取って握っていた。
記憶の中にある幼い姿と、いま目の前の美しい少女の姿とか、一瞬、二重映しのように重なる。
「……雪、玲……」
呆然と呟いた。
その刹那、それなりの距離を隔てた向こうで、少女が、くしゃ、と、顔を歪めたのが見て取れた。
「郎君……!」
彼女のくちびるが、そう、こちらを呼ばわる形に動く。
そうと認識した次の瞬間には、蝶が羽ばたくときのように襦裙の裾が翻り、細い身体が一目散にこちらへと飛び込んできていた。
「郎君……郎君っ」
ぎゅう、と、しがみついてくる相手を、皚之は目を瞠って受けとめる。
「雪玲」
ほう、と、吐息するようにその名を呼んだ。
彼女が、皚之の胸に埋めていた顔を上げる。その目は潤み、すでに眦からは滴がこぼれ落ちそうになっていた。うらはらに、薄っすらと紅を刷いた珊瑚のようなくちびるが、ほんのりと、きれいに、微笑んでいる。
「お帰りを、心より、お待ち申し上げておりました。――ご無事で、よかった……郎君」
「ああ……いま帰った」
(大きくなったな、見違えたぞ、と、顔を合わせたらそう笑って言ってやるつもりでいたのに)
どうしてか、言葉が出てこない。かわりに皚之は、雪玲の背にそっと腕をまわして、その身をやわらかく抱き締めた。
「なんだ、例の形見の髪の君でしたか」
傍で史軒がからかうように言って笑った。
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