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本編
終
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「はあ……」
皚之は自分の腕に抱かれたまま、穏やかな顔で目を瞑っている相手を見る。思わず漏れたのは、大きな嘆息だった。
「あの……わたし、なにかおかしかったですか」
するとふいに目を開けた雪玲が、不安げにこちらを見つめ返してきた。
「っ、おまえ、起きていたのか」
すっかり眠っているものと思っていたので、不意をつかれ、目を瞬く。
「だって……眠ってしまうのがもったいない気がして」
相手がそう言ってしあわせそうに微笑し、それでようやく、皚之も口の端をゆるめた。少女を胸に抱き寄せ、つややかな黒髪を梳いてやる。
「あの、わたし……何か粗相をいたしましたか? ご満足いただけなかったでしょうか?」
「何の話だ?」
「いま、大きな溜め息をおつきになりました」
「ああ」
指摘されて、皚之は苦笑する。
「庇護すべき雛にとうとう手を出してしまったなあという罪悪感は、そうそう拭えん。それだけだ」
かつて幼い雪玲によくそうしたように、彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「おまえは俺にとって、妹のように大事に思う相手だった。だというのに、生生しい慾をぶつけてしまった、と……自分で自分に呆れている。兄のように俺を慕ってくれていた幼い日のおまえを裏切ったような、申し訳ないような、なんともいえん気分だ」
皚之は正直に気持ちを吐露――あるいは白状――して、再び嘆息をこぼしたが、対する雪玲は、ことん、と、不思議そうに小首を傾げる仕草をした。
「わたしは郎君を兄上様だなどと思ったことはありませんが」
きょとん、と、する。
「何?」
それはそれで衝撃というか、淋しいような気持ちがあって、つい、聴き咎める口調で皚之は言った。
真意を確かめるように相手を見ると、雪玲の鳶色の大きな眸もまた、じっと皚之を見詰めていた。
「李宅へ連れて来ていただいたその日から、わたしはずっと郎君の妻のつもりでおりました。だから、兄上様と思ったことはございません」
雪玲は何でもないことのように言って、ふわ、と、口許に笑みを浮かべた。
皚之は目を瞠り、それから、はは、と、笑う。
「参ったな」
そう呟いて、額を押さえた。
(女は幼くとも一端の女なのだと、言ったのは史軒だったか)
たしかにそうかもしれない、と、麾下の言葉を思い起こしつつ、皚之は苦笑する。自分が雪玲に惹かれたのはいつだったろう。十六歳になった彼女の、うつくしく生い立った姿を見たときだろうか。
否、おそらく初めて雪玲が皚之の胸に棲みついたのは、惜しげもなくその黒髪を切り落とした彼女が、皚之の武運を祈ってくれたあの瞬間だ。
(それでも、幼童に手を出すなんて不埒な真似をするつもりは、さらさらなかったが……)
裏を返せば、雪玲が大人になりさえすれば、もはや皚之の側にも気持ちを押し止めておく理由などなかったのかもしれない。
そして、雪玲は最初から皚之を伴侶と見、ただの家族ではなく、ひとりの男としての皚之を恋い慕ってきた。想いを募らせてきていたのだという。
だったら、自分たちは早晩、こうなったのに違いない。
「――……参った!」
再び言って、皚之は雪玲を抱き締めた。
「郎君……?」
「ん?」
「どうなさったのですか?」
「いや……この俺を降参させる女など、おまえぐらいだと思っただけだ」
皚之がくつくつと喉を鳴らすと、一瞬はきょとんとした雪玲だったが、すぐにふわりと微笑んで、皚之の胸に頬を寄せた。
*
李皚之は、やがて武門の名家として嶌国の朝廷において揺るがぬ立場を得ることとなる李家の、初代当主である。
商家の嫡男として生を受けながらも、国が中原を平定するにあたり数々の武功を立てて終には将軍職を賜るまでに名を立てることとなる彼は、敵国には、鬼の将軍として恐れられた。
一方で、彼の麾下をはじめ嶌国の者たちの間では、幼くして娶った妻を溺愛する類稀なる愛妻家として、よく知られていたのだという。
皚之は自分の腕に抱かれたまま、穏やかな顔で目を瞑っている相手を見る。思わず漏れたのは、大きな嘆息だった。
「あの……わたし、なにかおかしかったですか」
するとふいに目を開けた雪玲が、不安げにこちらを見つめ返してきた。
「っ、おまえ、起きていたのか」
すっかり眠っているものと思っていたので、不意をつかれ、目を瞬く。
「だって……眠ってしまうのがもったいない気がして」
相手がそう言ってしあわせそうに微笑し、それでようやく、皚之も口の端をゆるめた。少女を胸に抱き寄せ、つややかな黒髪を梳いてやる。
「あの、わたし……何か粗相をいたしましたか? ご満足いただけなかったでしょうか?」
「何の話だ?」
「いま、大きな溜め息をおつきになりました」
「ああ」
指摘されて、皚之は苦笑する。
「庇護すべき雛にとうとう手を出してしまったなあという罪悪感は、そうそう拭えん。それだけだ」
かつて幼い雪玲によくそうしたように、彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「おまえは俺にとって、妹のように大事に思う相手だった。だというのに、生生しい慾をぶつけてしまった、と……自分で自分に呆れている。兄のように俺を慕ってくれていた幼い日のおまえを裏切ったような、申し訳ないような、なんともいえん気分だ」
皚之は正直に気持ちを吐露――あるいは白状――して、再び嘆息をこぼしたが、対する雪玲は、ことん、と、不思議そうに小首を傾げる仕草をした。
「わたしは郎君を兄上様だなどと思ったことはありませんが」
きょとん、と、する。
「何?」
それはそれで衝撃というか、淋しいような気持ちがあって、つい、聴き咎める口調で皚之は言った。
真意を確かめるように相手を見ると、雪玲の鳶色の大きな眸もまた、じっと皚之を見詰めていた。
「李宅へ連れて来ていただいたその日から、わたしはずっと郎君の妻のつもりでおりました。だから、兄上様と思ったことはございません」
雪玲は何でもないことのように言って、ふわ、と、口許に笑みを浮かべた。
皚之は目を瞠り、それから、はは、と、笑う。
「参ったな」
そう呟いて、額を押さえた。
(女は幼くとも一端の女なのだと、言ったのは史軒だったか)
たしかにそうかもしれない、と、麾下の言葉を思い起こしつつ、皚之は苦笑する。自分が雪玲に惹かれたのはいつだったろう。十六歳になった彼女の、うつくしく生い立った姿を見たときだろうか。
否、おそらく初めて雪玲が皚之の胸に棲みついたのは、惜しげもなくその黒髪を切り落とした彼女が、皚之の武運を祈ってくれたあの瞬間だ。
(それでも、幼童に手を出すなんて不埒な真似をするつもりは、さらさらなかったが……)
裏を返せば、雪玲が大人になりさえすれば、もはや皚之の側にも気持ちを押し止めておく理由などなかったのかもしれない。
そして、雪玲は最初から皚之を伴侶と見、ただの家族ではなく、ひとりの男としての皚之を恋い慕ってきた。想いを募らせてきていたのだという。
だったら、自分たちは早晩、こうなったのに違いない。
「――……参った!」
再び言って、皚之は雪玲を抱き締めた。
「郎君……?」
「ん?」
「どうなさったのですか?」
「いや……この俺を降参させる女など、おまえぐらいだと思っただけだ」
皚之がくつくつと喉を鳴らすと、一瞬はきょとんとした雪玲だったが、すぐにふわりと微笑んで、皚之の胸に頬を寄せた。
*
李皚之は、やがて武門の名家として嶌国の朝廷において揺るがぬ立場を得ることとなる李家の、初代当主である。
商家の嫡男として生を受けながらも、国が中原を平定するにあたり数々の武功を立てて終には将軍職を賜るまでに名を立てることとなる彼は、敵国には、鬼の将軍として恐れられた。
一方で、彼の麾下をはじめ嶌国の者たちの間では、幼くして娶った妻を溺愛する類稀なる愛妻家として、よく知られていたのだという。
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