インフィニット・ディズ

笠緒

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第二章 ほんとの自分

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 照明の半分が落とされたフロア内に、カタカタとキーボードを叩く音が響く。
 既に時刻は定時を四時間ほど過ぎており、パーテーションの向こう側に展開する営業部にも人はいない。
 コチ、コチ、コチ、コチ。
 無機質な時計の秒針ばかりが、季節柄乾燥しはじめた部屋に木霊する。
 状況的には日頃と大して変わりはない。
 もっと言うのであれば、昨夜の再現とも思える風景だ。

(こんなこと……、今までだってあったことじゃない)

 沈みゆく心とは裏腹に、キーボードを叩く指の動きはいつも以上に冷静で正確だった。伊達に五年もこの仕事をしていない。精神状況がそのまま仕事に左右されるほど若いわけでもない。
 目の前の画面に、澱みなく綴られる文字でさえ視界の中でクリアだった。
 意図されたものにしろ無意識にしろ、人から受ける悪意によって泣けるだけの感性は、もう残されていない。「あぁ、まただ」と、諦めという名の塵が心の奥底に降り積もっていくだけだ。

  ――仕事したフリだけして、真彩まあやのデータ消してたんじゃないですか?

 出勤時の浮ついた気持ちへと、一気に浴びせられた冷や水のような言の葉。
 一気に気持ちが氷点下まで冷え、日頃より乏しい表情がさらに色をなくしたのが自分でもわかった。その冷や水は、時間と共に蒸発することなく深いところまで染み込んでいき、どんどん心を重くした。
 部署へと戻り、仕事に取り掛かろうとしたところで上長から呼び出され、昨夜から今朝の出来事を再度説明させられ、時間を大幅にロス。さらには「どうせ頑張って仕事しても、誰かさんにデータ消されちゃうしぃ」という後輩たちは、いつにも増して仕事を進めようとしなかった。
 その後もメーカーとの商談から戻ってみれば、彼女たちに割り振られていたはずの仕事が瞳の机の上に山を作っており、その処理に追われて気づけば定時になっていた。

(っていうか、給料分くらい、働けっての!)

 沈み込もうとする心を無理やり上向かせようと、胸中で毒づいてみせるものの、水気を含んだ気持ちはどうしても浮かび上がってこない。

(部長に、事情を言った方が良かったのかな……)

 午前中に部長に呼び出され、小会議室で少し話をしたが、その時も特に真彩をはじめとする後輩たちの業務姿勢に関しては告げていない。ただ、あるがまま昨夜遅くまでデータ入力をしていたこと、そして今朝出社したらそのデータが消えていたことを報告しただけだった。

(でも、そもそもとして……日頃から与えられた仕事をしないことを部長に報告すべきなのよね。本当は)

 キーボードを打ち叩いていた指を止め、瞳は湿ったため息を吐く。
 後輩との関係は最悪の一言に尽きるが、それ以外の同僚や上司とは、親しくはないものの別段険悪というわけでもない。険悪になるだけの理由も、関係性もない状態だ。
 商品企画部の中でもデータ入力業務を行う社員の内、最年長は瞳であり、後輩たちを監督する立場にあるものの、そこにトラブルが生じればさらにその上――管理職に話を持っていくのが本来の筋でもある。
 けれど。

  ――そうやって媚びたような服装、やめなさい。いやらしい。
  ――担任、男の先生なの!? ……いい? 関わり合いになるんじゃないよ。

 記憶の中の母親の声が、まるでいま頭上から降ってきたかのように鼓膜に蘇る。
 心の中でいまだうずくまる幼い自分が、ビクッと怯えたように肩を揺らした。

(いつまで)

 自分は、過去の柵に囚われ生き続けるんだろう。

(あの日)

 家を出て、全てを捨てたはずなのに。

(捨てることが出来るって)

 そう、思っていたはずなのに――。


***


 瞳が物心ついたときに、父はすでに家庭にはおらず、母子家庭で育った。当時生きていた祖母と母の話から察するに、どうやら父親の度重なる浮気が原因で離婚をしたようだった。
 厳しい祖母に育てられ、さらに生来の気質もそうだったのだろう。瞳の母親は病的なほどに潔癖な人だった。さらに夫の浮気によって、その性格がひどくなったようで娘である瞳に対しても年相応に着飾ることや異性との関わりを持たせないようにしつけ、それが守られないとヒステリックに幼い彼女へと怒鳴り散らした。
 いまでいう「毒親」と呼ばれる部類の人だったのだろう。
 けれど、幼い瞳にとっては世界の全てが家庭であり、その中で母親に逆らわないという選択肢はなかった。
 年頃になり周りの友達たちがファッションなどに興味を持ち始めたときも、瞳はそれを許されなかった。それどころか、母親は周りの友人を「ふしだらな人間だ」と非難し始め、人付き合いを禁じ出した。
 それでも年齢的にも反抗期ということもあり、素直に母のいうことばかりに従っていたわけではない。けれど、やはり母の呪縛に囚われて生きている人間と、それらを謳歌出来る人間では歩幅が合わないことが増えてきた。
 子供特有の残酷さにより、あざ笑うような言葉を与えられることが増え、気づけば瞳は周りとの距離を自ら置くようになっていた。
 人と目を合わさずに、俯いたまま生きていく覚悟を決めたのは、ちょうどこんな季節だったように思う。


***


 ぼんやりと見つめていた画面がスクリーンセーバーに切り替わり、瞳はハッと肩を揺らす。気づけば過去に思考ごと囚われ、休まず動いていた指の動きが止まっていた。
 社内のほかの女性社員のようにサロンに行ってネイルアートを楽しんでいるわけでもないが、それでも形を整え綺麗に磨かれた爪先が、キーボードの上で遊んでいる。

  ――三年くらい前だっけ? 久々に見かけたら、おー、茶髪になったなーって思ったんだよねぇ。

 昨夜の、葛原の言葉通りの色をした髪が、肩口をさらりと流れていた。

(いくら出勤服をスーツから私服に変えたって、爪を綺麗にしたって、髪、染めたって)

 自分はなにも、変わっていない。
 実家を出れば、外見を変えれば、失った過去が取り戻せるわけでもないのに。
 ――否。
 服装にしたところで、スーツから私服にしたものの結局無難なものばかりを選んで着ている。いままで「オシャレ」という世界に触れてこなかった弊害か、流行のものを取り入れようとしても自分では着こなせないのではないかと躊躇してしまう。
 結果的に、クローゼットの中には袖を通すことのない流行りのものが、山ほど溢れているわけだが。

(は~~~~。ほんっと、いろんな意味で三船さんたちが羨ましい……。私だってなれるもんならああやって自分勝手になりたいっての)

 本日も定時でさらっと帰宅した後輩たちへとささやかな毒を吐きながら、瞳はタンッ! とキーボードを叩くとスクリーンセーバーを解除する。電子的な一瞬の揺らぎのあとに、再びマスター画面が表示された。

(違う)

 本当に羨ましいのは。
 本当に、なりたいのは。

(きっと)

 不意に思い浮かんだのは、ニパっと犬っころのように笑う顔。
 誰とでも――自分のように他者との壁を作ることばかりをするような人間にさえも、その距離を自然と詰めることが出来る人。
 懐に入り込んで、人を笑顔に出来る人。

(私がそういう人間だったら)

 きっと、こんな状況に陥ってはいなかっただろう。
 少なくとも、そもそもの原因から目を逸らし、後輩の悪いところばかりを論い、心を慰めるようなことにはなっていないはずだ。

「さて、と。もーちょい頑張りますか……」

 このまま沈み込む気持ちに意識を引っ張られていては、解除したはずのスクリーンセイバーが再び目の前に現れることとなる。なんとか上向きな言葉を唇へと滑らせてみるものの、それとは裏腹に、語尾に向かうほどに自然と頭を垂れていく。
 ズルズルと椅子の車輪が後ろへと転がっていき、身体がくの字に折れ曲がった。

「…………って……ほんとは頑張りたくなんて微塵もないけどぉおぉぉ」

 あぁ、どうして自分はこうなんだろう。
 否、だから、なのか。
 疲労感をたっぷりと孕んだ掠れ声のノリツッコミと共に、それでもなんとか仕事を再開しようと身体を起こしかけた、その瞬間。

「ぶっは! 早川さんて、結構独り言多いタイプ?」
「うっひゃぁ!」

 背後から笑いを多分に含んだ声が弾け、瞳の身体が大げさなほどにビクッと震えた。一瞬で跳ね上がった心臓の音を胸の内側に感じながら、声のかけられた方向へと視線を走らせる。
 社内にはすでに人気はなく、これほど静まり返っているのだから誰かが近づいたのならば気づきそうなものだが、よほど意識が過去の世界に囚われていたのだろうか。全く気配を感じなかった。
 振り返った先にいたのは、予想通りの人物だった。

「葛原、くん」
「よぅ、お疲れちゃ~ん」

 相変わらずの軽い口調で、慣れた足取りのままパーテーションを越え商品企画部内へと足を踏み入れてくる。けれどその声は瞳同様にやや掠れ、疲れの色が感じられた。
 日頃の彼の入眠時刻が何時なのかは知らないが、少なくとも今朝、遅刻ギリギリで出社してきたことを考えると、間違いなく今日一日は寝不足による不調が身体を侵していたはずだ。
 そんな日に、またもこうして深夜残業と呼ばれるような時刻まで残っていたら、そりゃあ疲れは溜まっていく一方だろう。

「……てっきり今日は、とっとと帰るかと思ってた」
「ぶはっ。そりゃま、帰れるならとっとと帰りたいけどねー」

 瞳の隣の席までやってきた葛原は、背もたれを回すと、そこへと当たり前のように腰を下す。ギ、と椅子が軋み、甲高い音をひとつ、室内へと木霊させた。

「っていうか、早川さんも早く帰りたいんじゃないの。いまも頑張りたくないって言ってたし?」
「そ! れ、は……。私には……仕事が、まだ残って、るから……っ」
「自分の仕事でもないのに~?」

 昨日も聞いたセリフだ。
 瞳はやや唇を尖らせると、横目に葛原へとやや冷えた視線を投げつける。けれど、その先にいる彼は、バカにするような揶揄いの色など感じられないというのにそれでも唇に柔らかな弧を描いており、なんとなく居心地が悪い。

「葛原くん」
「ん?」
「……朝、なんで私が田沼さんたちと一緒にシステム部にいたか、知ってるんでしょ?」
「あー……。まぁ、なんとなく?」
辻本つじもとリーダーから聞いたの?」
「いーや? 早川さんも聞いてたっしょ。あの人が『もう解決済み』って言った以上、それを掘り起こすような真似はしないよ」

 確かに面倒見はいいという評判ではあるものの、それ故に人を欠点や失敗をわざわざ掘り起こすような真似を辻本がするとは思えない。終わったと言い切った話を、その後不用意に漏らすわけはないだろう。

「でもま、そのあとの朝礼でシステムのサーバーに穴がないか調べて強化しろって指示されたら、なにがあったのかくらいは想像つくよね」
「そう……いうもの、なの?」
「そういうものなの」

 どうやら彼がいまこの時間まで残っていたのは、その業務が終わらなかったことが理由らしい。新システムを作り上げるにあたり、商品企画部での全商品の登録もそれなりに手間暇食う業務ではあるが、一番それに苦労をしているのは誰に訊いても間違いなくシステム部と回答するだろう。

「……なにやってんだろうね、私。昨日あれだけ苦労して入力したデータ、消えちゃって。それだけならまぁPCのトラブルだし、しょうがないかなぁって思うけど。でもやっぱり、頑張ったことがなくなっちゃうのはショックだった……な」
「……早川さん」
「せっかく消えちゃったデータ、復旧してもらったのに情けないよね。でもね、そんなところへ、ミスしたのはお前じゃないのかって責められたらそりゃ流石の私も凹むよね。あ、葛原くん、知ってるよね。私、何歳も年下の後輩たちに、業務上での注意さえできなくってね。注意どころか業務連絡さえ、まともに出来ない人間なの」
「早川さん」
「葛原くんは、私のことしゃべってて面白いって言ってくれたけどね。ほんとはそんなことないの。言いたいことがあっても言い返すだけの度胸もないし……っていうか、日頃からしゃべってないんだから、そりゃトラブルあっても誰も助けてくれるわけないってーの」

 あはは、と乾いた笑いが唇を上滑りする。
 誰も助けてくれない?

(違う)

 そもそも、人間関係のトラブルがあったことを、上司に告げずにいたのは自分だ。
 過去の呪縛に囚われて、人に信じてもらおうとすることを、人との距離を詰めることを諦めてしまった自分のせいだ。
 瞳は再び画面が切り替わり、スクリーンセーバーの流れ始めた液晶をじっと見つめたまま言葉を続ける。元々自分は人付き合いも苦手で、生来明るい気質という人間でもないが、それでも彼に――葛原にこんな自虐にも似た感情を見せたくはないのに、止まらない。
 そのくせ、涙ひとつ流すだけの可愛げさえもない。
 けれど、いま涙を零したら、きっと自分は自分をもっと嫌いになる。

「本当はね、昨日葛原くんとの会話ね、口下手な自分としてはかなり頑張った方だって思えてた。葛原くんからしたら、お世辞だったかもしれないけど、それでもしゃべりやすいって言ってもらえて嬉しかった」
「早川さん」
「だからちょっと、自分を勘違いしてたのかな……。でもさ、せっかく葛原くんはそんなこと言ってくれたのに、なのに、あんな……、あんな惨めな姿、とか、見られたくなか――」
「早川さんっ」

 やや声を荒げた葛原に、瞳の肩がビクッ、と揺れた。
 頭上に落ちる影に、視線を上へと持ち上げると、そこにはいつの間に席を立ったのか、同期である男の姿があった。す、と下げられていた彼の腕が瞳へと伸びてきて、視界に袖口の時計のシルバーが顔を覗かせる。
 ふわ、と濃くなるマリンと同時に、ぽん、と暖かな手のひらが頭上へと優しく落とされた。

(チャラいくせに)

 この香水だって、確かに爽やかではあるし彼にはよく似合っているとは思うが、世間的なイメージとしてはいかにもチャラい男が好みそうなものだというのに。

(っていうか、私、香水とかつけてる男の人、苦手だったのに)

 なのに。

(なんで、こんなに)

 心ごと、解されていくような気持ちになるんだろう。
 彼のようになりたいと、そう思っているせいか。
 自分が憧れるからこそ、勝手に慰められているだけなのか。
 ぽんぽん、と宥めるように何度か落とされる手のひらに、瞳はささくれだった心が上げた叫び声を飲み込むと、は、と小さく息を吐き出し、「ゴメン」と呟く。その声に、ふ、っと音なき笑みが頭上から降ってきて、ゆっくり手のひらは離れていった。

「葛原くん、関係ないのに……八つ当たってごめんなさい」
「えぇ? ちょっともー、二晩も一緒に過ごしてるのに、関係ないって寂しいセリフ過ぎない?」
「言い方」
「ははっ。でも、嘘は言ってないっしょ。ふたり仲良く、夜遅くまでガンバッタじゃん?」
「言い方っ」
「ぶっは! それそれ。THE・早川さんのしゃべり方」

 THE・早川とは一体どんなしゃべり方だ。
 瞳が無言で睨むと、目尻を下げままの彼がますます笑みを頬へと溶けさせる。そしてそのまま近くにあった椅子の背もたれを引き寄せ、大きく足を広げ後ろ向きに座り込んだ。
 両腕を背もたれへと回し、その上に顎を乗せるとセットされていない前髪がさらりと柔らかそうに額の上に流れる。日頃よりも幼い印象に映るそのその様子は、やはり犬っころを連想させた。

「まぁ俺としても、昨日早川さんが仕事頑張ってしてたの知ってたから、データが消えたってのはちょっとね、って思ったよ」
「…………まぁ、それは仕方のないこともあるし」

 現に昨夜だって瞳が悪かったとはいえ、PCトラブルによりフリーズし、データが消える騒動になったのだ。その件に関しては、仕方がないと素直に受け止められる。

「でさぁ、まぁ辻本リーダーとかには内緒で、昨日みたいにログ追ってデータ掬い上げても良かったんだけどさ。でも、ぶっちゃけ今日俺も忙しくて、そんな暇なくってさぁ」
「あ、いいんですいいんです。そもそも、システム部への依頼許可が出ないようなことを、葛原くんにやらせるわけにはいかないし」
「ははっ。まぁ、昨晩もうやっちゃってっけどね」
「…………ソウデシタ……。すみません……」
「ぶはっ。ま、こっそりログ漁りして、経緯はちらっと確かめたけどね」
「経緯……?」

 瞳が睫毛を上下させると、イタズラ小僧のように彼は唇の端を持ち上げる。

「誰がデータ消したか、とか? ぜーんぶわかっちゃったけど、どうする? 早川さん、知りたい?」
「……っ」

 そりゃあ、知りたいか知りたくないかで問われたら、当然知りたい。
 そのせいで今日の自分は散々な目に遭ったのだから、知る権利はあるのではないだろうか。
 けれど。

「なんていうか……データが消えたってことが問題じゃなくて、私が……後輩たちと上手く行ってないことだとか、部長にそのことを相談できてないことが、そもそもの原因なんだよね……」

 瞳個人としては、データを消した犯人探しをしたいというよりも、自分に纏わりつく疑いの眼差しをなくしたいという気持ちの方がどちらかと言えば大きい。けれど、今回の件が冤罪だったとわかったところで、きっと自分を取り巻く環境は恐らくなにも変わりはしない。
 いま以上居心地の悪い状況なんてないだろうし、彼女たちにしてみればきっと瞳がデータ削除の犯人でなかったにせよ、今まで通り疎む気持ちに変わりはないだろう。だとしたら、無理に犯人探しをして余計な揉め事なんて起こさない方がいいのかもしれない。

「まー、誰がいい悪いの問題はさておいて、システム上のトラブル云々っていうよりも、今回は確実にそっちがメインのトラブルで話がおっきくなった節はあるよねー」
「でしょう? だから、誰が犯人かとか、そういう次元の話じゃないかなって……」

 それは紛れもない、瞳の本音のひとつだ。
 ――が。

「んじゃ、聞かない方がいーい?」
「っていう建前はあるんだけど」

 ほぼ同時に、葛原と瞳の唇が方向を真逆にする言葉を落とした。
 一瞬、互いに滑らせていた唇の動きを止め、ちらりと視線を這わせる。睫毛の先にいるお互いの表情はきっと同じようなものなのだろう。

「……続き、どーぞ?」

 いち早く、状況を察したらしい葛原が唇を歪めながら手のひらを瞳へとス、と向けてきた。彼の先ほどの言を聞いてしまった以上、本音の置き場になんとも居心地の悪さを感るが、ここまできたらすでに九割方バレているだろう。
 体裁を気にして上辺を取り繕うのなんて、彼を前にして今さら無意味だ。

「…………流石に、昨日今日と尻ぬぐいというかむしろ仕事全部押し付けられて、挙げ句トラブルも全部押し付けられるとか……ふざけんなっていう、そういう気持ちもアリマシテ」
「ぶっはっ!! 超、本音」
「だって! 葛原くんがどうぞって言ったんじゃない!」
「ぶははははっ、わっるいわっるい。言った言った。だっよなぁ~! 俺、早川さんの一見イイコちゃんっぽいのに実はめっちゃ毒吐いてるとこ、超好き」
「す……っ!?!?」

 さらりと、なんの気負いもなく落とされた爆弾のような語尾に、瞳の唇が思わず単語を繰り返しそうになる。けれど笑顔のままの声を察するに、これは違う。そういう意味ではないと跳ね上がった心臓ごと声を飲み込んだ。
 けれど勢いあまって出てしまった声は今さら回収など出来ず、勘違いをしてしまった恥ずかしさと、それでも彼の声で自身に向けて紡がれた「すき」の音に、日頃感情の起伏の少ないおもてが一瞬で沸騰をする。
 顔が、耳が、思考が。

(熱い……)

 落ち着こうと大きく息を吸い込めば、鼻腔を擽るマリンの香りにますます胸が息苦しさを訴える。熱を孕む心とは裏腹に、緊張からか冷え切った手を頬に当てれば、冷たさよりも熱さばかりを手のひらが思い知った。

「ご、ごめんなさい……いや、別に本気に受け止めてはいないんだけどっ! ちょ、っと、吃驚しすぎて……ッ」
「ぶはっ! なに本気って! いやいや、本気で受け止めちゃっていーよ。早川さんめっちゃ面白いし、俺は好きだよ」
「いやだから……す、す……っ、すきって……!」

 このチャラ男め。
 人付き合いが苦手でろくに人と接してこなかったコミュ症に、その言葉がどれほどの重みがあるのかわからないのか。
 いっそ恨めしささえ滲む双眸で軽くめつけると、瞳のその表情がますます笑いのツボに入るのか、口元を抑えながら喉の奥で生まれた笑いを必死に殺している。

「ま、だからさ。真彩チャンたちが早川さんに今日みたいな嫌がらせする意味がちょっとわっかんないよね。あ、でも美人だから嫌うってのはあんのかなー」
「…………えっ?」
「ん? あ、だからさ早川さん美人だから、」
「じゃなくて……えっ、真彩……三船さん?」
「あ」

 明らかに失言だったと言わんばかりに、小さく「やべ」と呟いた唇が三日月を維持しながらも一気に薄っぺらなものへと変じていった。逃れるように、ゆるゆると葛原の視線が瞳から逸らされ誰もいない室内を泳いでいく。
 確かに、この商品企画部においてのアンチ瞳の筆頭といえば、三船真彩みふねまあやだろう。後輩たちの中での力関係がそうさせているのか、単に瞳をより嫌いなのが真彩なのかは定かではないが、恐らくその認識は間違ってはいないはずだ。
 けれど、今日に関して言えば、システム部への直談判を決行したのは田沼美咲たぬまみさきであり、少なくとも真彩は当事者でありながら完全に蚊帳の外にいた状態だった。
 それなのに、葛原は「真彩チャン」と彼女の名を筆頭に挙げた。
 とどのつまり――。

「……データを消したのは、三船さん?」
「あー、いや。うん……まぁ、あー。どうだったかなー」
「葛原くん」
「いやだって、言っていいかどうか早川さんからはっきり聞いてなかったしさぁ、その状況で勝手に言っちゃうのはどーかと……」
「聞く気満々だったに決まってるじゃないっ」

 その情報を得たところで何がどうなるわけでもないが、それでもただ嫌がらせを受け続けて耐えるばかりの人間ではない。少なくとも、社会人として最低限のことさえも出来ない人間ならば、心の底から軽蔑してやろうと思う気持ちは十分にある。

「ぶはっ、聞く気満々って……っ」
「だ、だって、ここまでしゃべってるのに、肝心なとこ聞かないって選択肢あるわけがないじゃない」
「ま、そりゃそーだ」

 ふは、とひとつ笑いを零して、逸らされていた彼の視線が再び瞳へと戻ってきた。いまだ唇には緩やかな弧が刻まれているものの、瞳のものと交わったその双眸には、揶揄うような色はない。

「葛原くん」
「あー、っと……。そうだね」

 葛原は体重をかけていた背もたれから身体を起こすと、一度腰を浮かせた。そしてくるりと椅子を回転させた後、再びそこへと座り、靴裏で軽くタイルカーペットを蹴る。
 瞳の隣のPCまで流れるように進んだ椅子は、伸ばされた彼の指がマウスを捉えたと同時にすぅ、と止まった。

「ま、百聞は一見にしかず。口で説明するより見せた方が早いっつーことで……」

 葛原は横目に瞳を見遣ると、唇の端を持ち上げ一本指で「内緒ね」と笑う。
 そしてそのままもう片方の手が、PCの電源ボタンに触れようとした――その、瞬間。

「――まだ、残っていたの?」

 女にしては低い、けれど決して聞き取りにくいわけではない声が背後からかけられた。瞳はびくり、と肩を揺らし、葛原へと向けていた双眸を声の方向へとさ、っと流す。
 パーテーションの向こう側には、今朝出勤してすぐに顔を合わせ迷惑をかけた相手――辻本静香つじもとしずかの姿があった。すでに出勤から半日以上が経過しているとは思えないほど外見に乱れがなく、背を流れる巻かれた髪も今朝見た時と変わらない。今日かなりの繁忙を極めたらしいシステム部のリーダーという立場にありながら、それでも少しの化粧崩れも感じさせないのは、流石社内の高嶺の花と称えられるだけのことはある。

「辻本リーダー」
「葛原くん。PCトラブルが起こったわけでもないでしょうに、他部署に足を運ぶのはどうかと思うけれど?」
「……ですねー。さーせんっした」
「あ、葛原くんは……私がひとり残っていたので、多分心配して声をかけてくれただけ、だと思うので……」

 パーテーションを越え、ゆっくりと近づいてきた辻本は葛原の目の前にあるPCへと睫毛の先を向ける。幸いにも起動する前だ。どこまで会話が聞かれたのかはわからないが、ここで彼がルール違反をしようとしていたという証拠がない以上、言った言わないの水掛け論になる可能性のある詰問を彼女がするとも思えなかった。
 案の定、辻本はPCへと縫い止めていた視線を断ち切り、す、と形の良い双眸を瞳へと向けてきた。

「そう、ね。同期の早川さんがひとり遅くまで残っていて、葛原くんが心配するのはわかります。でも……もう二人とも帰りなさい。いくら仕事とは言え、こんな遅くまでの残業が続くのは流石にはいそうですか、とは認められないわ」

 ふ、と壁の時計に目をやれば、既に時刻は今日が終わろうとする時刻だ。仕事の納期が差し迫っているのならばともかく、後輩への当てつけのようなただの意地で残っていい時間ではないだろう。

「はい……すいませんでした……」
「お疲れ様。ちゃんと、残業時間はつけるのよ」

 そう言いながらも、辻本がこの部屋から出ていく素振りがないところを見ると、どうやらPCを落とすまでお目付け役として残るつもりらしい。
 瞳がちら、と葛原へと睫毛を向ければ、同じように視線を寄越してきた彼の困ったような笑みが視界の先で揺れている。

(しょーがない、か……)

 彼と似た笑みを頬へと浮かべた瞳は、マウスを手繰り寄せるとシャットダウンするために画面の中でポインタを素早く走らせた。
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