インフィニット・ディズ

笠緒

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第二章 ほんとの自分

2-3

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 木枯らしが、ビルの間を切り裂くような甲高い音を立てながら吹き抜けていく。
 空気は透度を日に日に増して、空には星の見えない暗闇がどこまでも広がっていた。バサ、とトレンチコートの裾が風を孕む音が足に纏わりつき、そのすぐ下を落ち葉が乾いた音で駆け抜ける。
 コツコツとヒールが歩道を叩く音と、ハ、ハ、とやや荒い息。まだ吐く息で空気は白く濁らないものの、小刻みに繰り返す呼吸には少々苦しさを覚えるほどの寒さだった。如何にオフィス街とはいえ、時間も時間。既に眠りについたらしい街を、ひとみはやや足早にすり抜けていく。

早川はやかわさん、時間へーき?」
「う、ん……多分、だいじょうぶ」

 瞳の少し前を行く葛原くずはらが肩越しに振り返りながら訊いてくるのを、手首の時計へと少し視線を落としながら答える。時刻はすでに短針が真上を越えており、シンデレラならとっくにタイムアップの時間。
 瞳にしても、きっと目の前を走る葛原にしても、あと数分で最終電車に間に合わないギリギリの時間だった。

(こんなことならいつも通り、低いヒールで出勤すればよかった……っ!)

 昨夜の出来事からの浮かれた感情が、日頃履きなれた低いヒールのパンプスではなく例によって買ったまま放置されていた五センチほどのものを選択させたわけだが、まさにそれが運命の分かれ道。日頃の三センチヒールならば全力ダッシュも出来るだろうが、流石にこの高さでは難しい。
 ちら、と見遣った先を走る、まさに瞳にこの「浮かれた五センチヒール」を選択させた同期の男は、革靴とはいえフラットな靴底でさほど走ることに支障があるようには思えない。

「あ、ごめん……葛原くん。気にせず先行っちゃって。終電逃したらまずい」
「いやいやいやいや。ここで『じゃ、おっ先!』って早川さん置いて全力ダッシュするってどんだけ俺、人でなしよ?」

 いつも通り、笑いを声に含ませた彼の呼吸に特に乱れはない。流石はフットサルをやってそうなチャラ男なだけはある。――真偽のほどは、未確認のままだが。
 うまく信号にも引っかからず、車の通りなど全くない横断歩道をふたつの影が走り抜けていく。点字ブロックを避けながら、徐々に地下鉄への階段が視界の中で大きくなる。大通りに沿って植えられた街路樹の色を、流れる景色に捉えながら、地下鉄への入り口階段へ、あと少し――というまさにその瞬間。

「あれ? リーチくんじゃーん」

 ちょうど地下鉄入り口の正面にある雑居ビルから出てきた集団からかけられた声に、目の前をいく葛原が止まる。時計へとチラチラ視線を落としていた瞳は、急にかけられた声に気を取られ、軽く彼の背中へと突っ込んだ。
 「わ、ブっ」という自分でもよくわからない声が漏れる。それなりに勢いよくぶつかった鼻がやや痛いが、幸いにも、彼の上着が瞳の化粧で汚れた形跡はなかったようだ。
 瞳はほっと心の中で息を吐きながら、視線を葛原からその横へとずらしていく。どうやら一階のバーから出てきたらしい集団は、男女合わせて十人に満たない人数でほぼ同世代と思われた。
 一瞬社内の人間かとも思ったが、瞳の見知った顔はいないようだ。

「あ、本当だ。リーチだリーチ」
「ヤバいウケる! 超なつかしーんですけどー」
「いつぶりだっけ?」
「バァカ、二か月くらいなもんだろ」
「きゃははっ、マジかっ! そんなもんだっけー?」

 などといった声が、次々に彼らから寄せられる。
 においさえも凍り付きそうなほどの寒空の中で、それでもふわりとアルコールが漂っており、全員それなりにテンションが高めの様子だ。
 終電まであと三分。
 いますぐ地下鉄へと下る階段を駆け下りて、改札までダッシュすればなんとか間に合いそうなギリギリの時間だが、いまここでこの集団をそのまま無視して帰路を目指すという選択肢が取れるほど瞳の神経は図太くなかった。
 何より葛原が足を止めている以上、先ほどの彼の言ではないが「じゃあお先に」というわけにもいかないだろう。

「なんだよ、みんなえらい酔ってんねー」

 葛原は肩越しに一度、軽く瞳を見遣り視線で「ごめん」と告げたあと、いつも通りの笑顔をへらりと集団へと向ける。すると、肩ほどまで伸びた髪に緩くパーマをかけた女性が集団の中から一歩、前へ出てきて持ち上げた手をひらひらと振った。
 年のころは瞳よりもやや下――けれど、真彩よりは上に見えるほど。ちょうど中間あたりの年齢に思える。夜目にも肌が綺麗そうなことがはっきりとわかる、美人と可愛いが混在する顔立ちだった。やや釣り目がちな大きな目が、気まぐれな猫を思わせる。
 彼女のコートの袖口から見える細い手首には、時計のほかに街路灯の光をキラキラ弾く貴金属が飾られていた。

「やっほー、リイチくん。ひさしぶり」
「おー、愛実まなみチャンじゃーん」
「あははっ、そのカルい感じ、超リイチくんだねー」
「ぶっは、なにそれ?」

 くしゃり、と顔を崩して笑う葛原は、先ほどまで一緒に残業をしていた人間と同一人物でありながら、どこか知らない人のように思えた。愛実と呼ばれた彼女を先頭に、集団が次々に葛原との距離を詰めていき、気安そうに互いの腕や肩などへとタッチを繰り返す。

(まぁ、それは私がここで完全に浮いた存在だからかもしれないけど)

 葛原が人影に隠れてしまった今、むしろ人でなしと言われようと、あのタイミングで「じゃあお先に」と言い去った方がよかったのかもしれない。
 瞳が所在なさげに、けれどももう恐らく間に合わないであろう時刻を、それでも確かめるように時計へと視線を落とそうとした瞬間、愛実チャンとやらが「あ」と振り返り、瞳へと視線を向けてきた。
 その声に、どうやら葛原がひとりではなかったことをみんな思い出したようで、瞳は一斉にその場の人間すべての視線から集中砲火を受ける。

「ごっめんごめん。リイチくんのお連れさん、だよねー?」
「え、……あ、はぁ」

 一気に注目の的となったことで、寒空の中固まっていた瞳の表情はますます緊張から凍り付く。もう終電には間に合わないという焦りもあり、うまく言葉が紡げない。

「へー。リーチが連れてるにしては……」
「うん……珍しいタイプっていうか」
「ぶっちゃけ……」
「いやお前それ以上言ったら失礼だからね?」
「いやでも、結構美人っしょ。俺はアリ」
「え、マジ? 見して見してー」
「ちょ、待った。お前ら……っ」

 どうやら葛原が話題を止めようとしてくれたようだが、「ままま」といういなす声と共に、彼の姿が後方へと押しやられていく。

「わ、マジで美人さんじゃん」
「な?」
「えー、でもさ……」
「いやそれアンタ失礼だから、本人前にして」
「あははは、でもなくない?」
「バカ、聞こえるって」
「えっと、はじめましてー、なにチャン? っつーか、もしかしてリイチのカノジョなん?」

 概ね好き勝手な感想を遠慮のない口調で語られたのち、出てきた最後の質問はいままで瞳が一度として訊かれたことのない類のものだった。次々に寄せられた好奇の視線に、どう反応すればいいのかわからず固まったままの表情が、ぽかんと緩む。
 きっと、ハトが豆鉄砲を食らうとこんな気分なんだろうと場違いな感想が脳裏を過った。

「あ、えと……、早川、と申します。葛原くんとは、会社の同期で……」

 いくつもの視線から逃れるように冷たい風が駆け抜ける地面へと睫毛の先を落としながら、瞳は唇の上で声を転がす。瞳の言葉に、彼らの中で「クズハラくん?」という疑問符を宿した声が上がった。

「だれ? クズハラって」
「あ、もしかしてリーチのこと?」
「……だよ」

 不承不承といったていで葛原が答えているのを見るに、言わない方がよかったのかもしれない。彼らとどういう関係なのかわからないが、どうやら葛原は「葛原」としてではなく「利壱」として認識されているらしい。

「なるほどねー、ハヤカワ……なにチャン?」
「あー、いい、いい。言わなくていーって!」
「なんだよー、リイチー。名前訊くくらいいーじゃん。まぁいいや。で? そんなにリイチが隠すってことはさー、リイチと付き合ってんのー?」

 なにかの聞き間違えかと思い、敢えて触れずにいた箇所に再度踏み込んでくるあたり、どうしても気になることらしい。
 彼らから見て自分は「そう」見えているのか。否、先ほどからチラチラと値踏みするような視線を惜しみなく注がれている現状を考えるに、きっとそうではないことは明らかだ。過去二十七年間生きてきて、自分がそういった話題に上る人物でないことは嫌というほど知っている。

「ねー、もうやめよーよ。揶揄ったら可哀想だってー」

 瞳が否定の言葉を口にするその前に、愛実が笑いを滲ませた声を上げた。その後、彼女の周辺にいた女性陣からクスクスと笑い声を零れる。

「リイチくんも、こんな真面目そーな子引っ掛けちゃ、ダメじゃん?」

 あくまでも瞳を気遣っているのだというような口ぶりで、けれどその声に滲むものは、瞳を見る視線に込められた感情は、明らかに蔑みのそれだ。自身へのものならば、会社で後輩から向けられるものと大差はないし、いままでも散々経験したものなので我慢も出来る。
 けれど、彼女の言には明らかに葛原に対する侮蔑も感じられた。
 ――否。
 侮蔑というほど、悪意には満ちているものではないかもしれない。
 友人に対する、軽口に近いものなのかもしれない。

(でも)

 それは。

(ほんとうの葛原くんを、見てないってことじゃないの)

 瞳は落としていた視線を持ち上げると、すでに口紅リップなど取れ、カサカサに乾いた唇へと言葉が乗るように一度軽く舌先で湿らせる。そして、真っすぐに彼らへと睫毛の先を向けた。

「……別に引っ掛けられてなんていません。同僚として、一緒に仕事をしていて……助けてもらっていただけですから」

 嘘じゃない。
 同僚として、仕事をしていたことも本当だ。

(でも)

  ――よぅ、お疲れちゃ~ん。

 腐りかけていたそのときに、気軽に声をかけてきてくれたことだとか。

  ――まぁ俺としても、昨日早川さんが仕事頑張ってしてたの知ってたから、データが消えたってのはちょっとね、って思ったよ。

 自分の煮詰まる感情を、そのまま認め肯定してくれたことだとか。

  ――早川さんめっちゃ面白いし、俺は好きだよ。

 つまらないと誰からも思われていた――自分自身でもそう思っていた瞳に、そう言ってくれたことだとか。
 軽くてチャラそうな日頃の態度には、人を気遣ってくれる本当のやさしさが込められている。真面目そうな人間とやらを、揶揄いついでに引っ掛けるような人間なんかじゃない。きちんと、自分の行動の先に責任を持ってくれる人だ。
 ――少なくとも、瞳にとっては。
 ヒュ、と乾いた風が辺りを走り抜け、アルコールのにおいに包まれ浮ついた雰囲気が一気に温度を下げる。日頃、人に面と向かって自分の意思を告げることに慣れていない瞳にとっては永遠にも感じられるほどの空白の時間が辺りに流れた。
 けれど、きっとそれは、時計の秒針が、ひとつ、ふたつ刻んだ程度のことだったのだろう。

「ぶっ」

 冷たい時間を動かしたのは、誰が発したのかもわからない冷めた笑い。それを機に、再び辺りの空気が酒気を帯びていく。

「いやいやー、無理しなくていーって。ハヤカワちゃーん」
「そうそう、なんの冗談かと思ったよ。あ、もしかしていまのギャグだった?」
「……え?」
「いや、リイチが真面目に仕事するとかないでしょ~」

「な?」とアルコールの勢いに任せた腕が、葛原の肩へと回された。一瞬、彼が鼻白んだようにも見えたが、そのあとそんな表情は幻だったとでも言うように、頬の位置を高くして「ひっでーの」と笑い声を上げている。

「もしかして仕事手伝ったフリして、こんな真面目な子食おうとしてたー?」
「流石にリーチでもそれはないってば」
「いやだからお前さっきから失礼だから!」

 あはははは、と不快な笑い声と共に、次々に彼に浴びせられていく無神経な言葉たち。それを一身に受けている葛原の顔は、一見、一緒にふざけ合っていて楽しげだ。

(でも)

 初めて言葉を交わした五年前に向けられた笑顔。
 残業しながら、軽口と共に向けられた笑顔。
 昨夜、食事をしながら向けられた笑顔。
 そのどれもが、今のような笑い方ではなかった。

  ――俺、早川さんの一見イイコちゃんっぽいのに実はめっちゃ毒吐いてるとこ、超好き。

 そう言って、自分との時間で向けてくれた笑顔が本物なのだとしたら。
 ほんとうの彼が、そこにいるのだとしたら。

「葛原くんは――」

 瞳は常よりも大きく声を出すよう意識しながら、浮ついた空気へと再び言の葉を向けた。

「葛原くんは、ちゃんと仕事しています……し、そういうつもりで私を手伝っているわけでもない、です……。み、なさんが、葛原くんのなにを知っているか、わからないけど……、でも、私にとってはきちんと仕事に責任を持っていて、人を思いやれる、尊敬できる同期、なんです」

 だから、バカにしないでほしい。
 言外にそう告げる瞳に、シンと静まり返った空気が冷えていく。
 その声に、おもてへと笑いを張り付けていた葛原が、驚いたように瞼を一度、上下させ見張る。その後、真っすぐに瞳へと向けられていた視線がゆるゆると逸らされていき、彼の口元に何度か彼女の髪に触れた手が当てられた。

(あ、空気読めてなかった……かも……?)

 彼の本音がどうであれ、この場の空気を壊してまでするような発言ではなかったかもしれない。
 けれど、一度発した言の葉を再び回収することなんて不可能だ。
 風が、瞳を声を浚っていっても、彼らの耳朶にはすでに焼き付いている。
 葛原の性格を考えれば、彼を思って瞳がそう言ったことを理解しないというわけでもないだろうし、それを責めることもしないだろう。けれど、葛原と彼らの関係性がわからない以上、「同僚」である瞳が首を突っ込んでいい問題ではなかったかもしれない。

「…………すみません。お先に、失礼します」

 瞳はカツ、とヒール音を地面へと落としながら、何も言わないまま自身を見つめてくる集団の真横を通り抜け、地下鉄の入り口さえも追い越していく。
 さら、と肩口で流れた髪が、夜空に舞う。
 とっくに終電が出た眠りについた街中を、日頃履いているものより二センチ高いヒールが木霊した。




**********




 カツ、カツ、カツ。
 ヒール音がどんどん小さくなっていき、癖のない髪が背中で揺れるその様が、確認出来なくなった頃――。
 誰ともなしに「ぷっ」と笑いを弾く音を響かせた。
 それを皮切りに、周囲の男女が堪えきれない感情を溢れさせるかのように肩を揺らす。

「ふ、ふはははっ、かーわいー」
「やだ、リーチ。ソンケーされてるってー! ヨカッタねー!」
「もー。リイチくん、ほんとにあの真面目な子、引っ掛けたんじゃないの? かわいそーだよ?」

 彼女がいたときから交わされていた無神経な言の葉が、どんどんと鼓膜に貼りついていき、重なっていく。いくつも重ねられた不快な言葉に、冷え込んだ空気と共に、心が、思考が、氷点下まで下がっていくような錯覚さえ感じてしまう。
 葛原はどんどんと小さくなっていく瞳の姿から一度視線を断ち切ると、肩越しにすでに自身の中では有象無象となり果てたらしい集団へと双眸を向けた。
 彼らとの付き合いは、主に酒のある場所のみ。
 最初から彼らすべてと知り合いだったわけではなく、日頃行きつけにしていたバーの常連となんとなく顔見知りとなり、その付き合いが付き合いを呼び、いまの関係に至るようになった。
 氏も素性も互いに知ることなく、葛原は彼らに「リイチ」としか名乗っていなかったし、彼らにしても似たようなものである。特別、定まった男女の関係にまでなることもなかったが、それでも擬似的なものはあったと思う。
 適当に遊び、適当に酒を飲み。
 暇を持て余す二十代という時間を潰すのに、ちょうどいい関係。
 それはプライベートな部分に踏み込まないからこその、気楽でタノシイ時間だった。
 けれど。

  ――いやでも、結構美人っしょ。俺はアリ。
  ――え、マジ? 見して見してー。

 彼らが、瞳へと興味を示したときに、初めて気づく。
 プライベートな空間に、無言で「他人」に立ち入られたときのような不快感。
 バーで知り合っただけの行きずりの関係に過ぎない異性に、部屋に行きたいと強請られたような不快感。

  ――葛原くんとは、会社の同期で……。

 一般的に、仕事上での付き合いをプライベートとは呼ばないだろう。
 ただの会社の同期を、プライベートな知り合いとは言わないだろう。

(でも)

 葛原にとって、瞳は「他人」に踏み込んでほしくない領域にいたのだと、その時気づいた。けれど、それは決して恋愛感情や男女間の独占欲といったものではなかったはずだ。
 純粋に、彼女のことは男女を越えた関係としても気にいっていた。堅物で真面目なように見せかけて、割と俗っぽい思考回路を持つ彼女と過ごす時間は、想像以上に楽しかった。
 けれど。

  ――いや、リイチが真面目に仕事するとかないでしょ~。

 飲み仲間である彼らから投げられた言葉は、真実、自分というものをよく捉えている発言だったと思う。
 彼らには軽くてチャラいという、その一面ばかりしか見せてこなかったし、職場における自分の評価を考えても変わることはないので、きっとそれが自分の本質なのだと、自分自身でさえ思っていた。

(それなのに)

 事実がどうであれ、人と会話することが苦手なのだという意識を持っていた瞳が、落としていた視線を真っすぐに向け、告げてきた一言は、アルコールに浮かれた彼らの意識ばかりでなく自分自身のそれもクリアにするほどのものだった。

  ――葛原くんは、ちゃんと仕事しています。
  ――私にとってはきちんと仕事に責任を持っていて、人を思いやれる、尊敬できる同期、なんです。

 チャラい、と彼女から向けられたこともある。
 それが、自分の本質なのだと思っていた。

(思おうと、)

 していた。

(でも)

 そんな一面がたとえあったにしても、それだけではないと。
 彼らの無神経な侮蔑が向けられていたのは、彼女自身だったというのに。
 それを面と向かって抑えることが出来ず――否。いままで自分が作り上げてきた「適当でいい加減なチャラい男」を壊すことがどうしても出来なくて二の足を踏んでいた自分のために、怒ってくれた。

(かっこよすぎでしょ、早川さん)

 葛原が唇の端を緩く持ち上げると、なにかを勘違いしたらしい愛実が、ぽすんと手のひらを彼の胸元へと当ててくる。

「もー、怒らせちゃったじゃーん。なのに、リイチくんまで、あの子笑っちゃかわいそーだよ?」
「へー。俺がなにに笑ってるか、わかってんだ? 愛実チャン」
「あはは、なにそれ? これに懲りたら、リイチくんももうあんな真面目な子、ちょっかい出しちゃダメだよー?」

 刹那――。
 葛原の三日月を描いていた唇が、その意味を変えて、衝動的に込み上げてきた感情が鼻先に集まっていく。
 いままでの自分ならば、もしかしたらここで彼女に合わせて適当に本心を飲み込んでいたかもしれない。
 その場を円滑に過ごす、ただそれだけのために、本音を心の奥底へと沈ませ濁らせていたかもしれない。
 けれど。

「最近ナンパうまくいってなくってさみしーなら、私が相手したげるよー?」

 カチ、と金属の重なり合う音が耳朶を掠める。
 ふ、と落とした視線の先には、彼女の手首に巻き付く貴金属が、葛原の時計へと近づいてくる。そして、綺麗にネイルが塗られた指先が、葛原の指に絡みつこうとしたその瞬間――、す、と半歩引いた彼は、そのまま彼女の指から逃れると、冷えた手をそのままポケットに突っ込んだ。

「ぶっは、冗談」
「……? え?」
「あんな美人と一緒に毎日仕事してんのに、誰がお前なんて相手にすっかよ」

 いつも通りの声音のまま、いつもならば決して漏らすことのない本音をそのまま唇へと滑らせる。瞳が立ち去ったことで再びアルコール臭に溺れる周囲へと、絶対零度の感情を視線と共に流し込んだ。

「……お、おい? リイチー?」
「どしたんだよ、お前」

 戸惑いながらも宥めるような声が上がった直後、バシャ、と葛原の顔面に冷たいものがかけられる。ふわ、とコーヒーのにおいが鼻を衝き、反射的に落とした視界の先では、顎からぽたぽたと落ちた液体が、白いシャツに茶色いシミを作っていた。
 ゆるゆると視線を上げると、元々バッグにでもしまっていたのか、ペットボトルを手にした無表情の愛実の姿。

「なにマジんなってんの? 超ヒクんだけど」

 日頃男受けする可愛らしいそのおもては、いまは感情をそぎ落としているせいかかなりキツイ顔立ちに見える。

「もう、マジ会いたくないんだけど」
「ありがとう、言う手間省けて助かったわ」

 ペロ、と舐めた舌の先が、安っぽいコーヒーの甘さに痺れた。
 呆気にとられる面々に「じゃね」といつも通りの言葉をかけて、葛原は軽く頭を振ると、靴先を瞳が去った方向へと向ける。そして、どこまでいくつもりなのか、歩道をずんずんと進んで行こうとする小さな背中を追いかけるために地面を蹴った。
 足音が落とされるたびに、色づく街路樹が視界の端を流れていく。寝坊してセットしていない髪は、きっと風圧でいまはぼさぼさになっていることだろう。
 女性のヒールに合わせるのならばともかくとして、数十メートル先を行く人を追いかけるためのダッシュは、流石に革靴、スーツに通勤かばんを持った状態では、それなりにつらい。
 でも。

(フットサルやってる人間の体力、ナメんなよ)

 先日彼女から告げられたフットサルへの偏見を返上すべく、一気に彼女との距離を詰めていく。

「早川さん……っ!」

 追いつき、声をかけたその時刻は、すでに終電から十五分以上経過していた。
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