インフィニット・ディズ

笠緒

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第二章 ほんとの自分

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 住んで三年ほどになるアパートは、世間知らずの人間がひとりで選んだものにしては、「いい物件」と言っていいのではないかと思う。
 会社から地下鉄を乗り換えなしで十五分、駅から徒歩五分といった好立地に建てられたこのアパートは、公道を挟んだはす向かいには大手コンビニとドラッグストアが立ち並び、エントランスを出て裏道沿いに一、二分も歩けば大手スーパーが顔を見せる。
 間取りは、七畳ほどのDKに三畳のフローリングの洋室がついた1LDK。キッチンはIHではないものの三口コンロ、洗面台も独立型でバスルームの広さもそれなり。エレベーターはないものの、住んでいるのは一階なので特に問題はない。
 防犯面も完全オートロックで、特にいままで危険を感じたこともなく、収納スペースも独り暮らしには過ぎるほど。これほどの物件で、都心に近く出やすいという利点がある割に、家賃が管理費込みで七万五千円以内に収まっているというのは、大分世間というものを知ったいま考えてもかなり優秀だといえる。
 ――が。
 ひとみは、すでに慣れ親しんだはずの自宅の鍵を開ける行為に手を震わせながら、ちら、と横目に隣へと視線を向ける。そこには視線を辺りへと彷徨わせ、居心地悪そうにしている同期の――葛原くずはらの姿があった。
 日付が変わるギリギリに飛び出した会社から、最寄り駅までのマラソンの途中、葛原の知り合いらしき集団と出くわした。その後、彼らとのやり取りで完全に終電を逃し、割り勘してタクって帰ろうという話になったのだが、拾ったタクシーが瞳の家の方向へと走り出した直後に彼の家が会社を挟み正反対であったことを思い出す。

  ――葛原くん……。家、逆方向じゃない?
  ――あー、まぁ。ってあれ? 早川はやかわさん、俺ん家の場所、知ってたっけ? 言った? 俺。
  ――言われてないし、知らないけど……でも、一昨日帰ったとき反対ホームだったから。
  ――ふはっ、なーるね。

 予測通り、瞳の家とは会社を間に挟み見事に逆方向で、さらにいうのならば途中乗り換えもするらしく、あのまま地下鉄の終電に乗っても地元電車のそれには間に合わなかったらしい。もうすでに公共交通機関での帰宅は無理という状況で、さらに自宅からも離れるタクシーに共に乗る葛原の問題をスルー出来るだけの無神経さは、瞳にはなかった。

  ――えー…、で、どうする、の??
  ――んー? あぁ……ま、どうにでもなるっしょ。子供じゃないんだし。

 へらっと、いつも通り犬っころのような笑顔でそう答えた葛原の首元から胸元には、茶色いシミが広がっている。一体どういう経緯を辿ったのかは不明だが、あの集団から抜け出して瞳へと声をかけてきた葛原は、すでにその状態になっており、近づいてくる彼からは日頃のマリンよりもコーヒーの甘ったるいかおりが強く漂っていた。
 ちら、と前方のフロントガラスへと眼を向ければ、暗闇の中、チカチカと街灯の灯りが前から横へと次々に流れていく。こうしてうだうだとしている間にあっという間に瞳の家へと辿り着いてしまうだろう。

  ――葛原くん、とりあえずここまで来ちゃったし、うち、来る?

 彼のいう通り、このご時世終電を逃し、家とは逆方向にいたとしても、まぁどうにでもなるものだ。けれど、コーヒーのシミを考えれば、なるべく早めに処置をした方がいいのは確実だった。
 それに。

(なんとなく、だけど)

 あのコーヒーがかけられたその背景に、自分が大きく関わってような気がする。
 それを考えれば、やはり自分だけ家に着いたのでさようなら! というのは流石に人として思いやりに欠けるのではないだろうか。ここ数日の彼から受けた親切を考えれば、コーヒーのシミ抜きのひとつやふたつ、やってあげてしかるべきだろう。

(最近の関係を考えれば、ちょっと仲良くなってるような気もするし)

 瞳がなんの気負いもなく、隣に座る葛原へと視線を向けながら訊ねると、彼はへらりと笑っていた表情を一瞬で固まらせた。そして、次の瞬間「はぁっ!?」と語尾を持ち上げながら、勢いよく振り返る。
 先ほど確かに一度固まったはずのおもてには、驚愕という概念全てを貼り付けられており、彼の童顔を際立たせているやや大きめの双眸は、いまは限界まで見開かれていた。

  ――ご、ごめんっ! い、嫌だった!?
  ――嫌とかじゃなくて! 嫌じゃないけど、ダメでしょ! 俺が言うのもなんだけど、ジョーシキ的に考えてダメでしょ!
  ――えぇ……?
 
 いつになく必死とも取れる葛原の形相に、瞳は睫毛を一度上下させ、眉の間に困惑の感情を滲ませる。
 嫌ではないが、ダメの意味がよくわからない。

  ――だってそのコーヒーのシミ、早く落とした方がよくない……?

 タクシー特有のにおいが充満したこの空間においても、やはりコーヒーの甘いそれが鼻に衝いた。瞳が葛原の胸元へと指を向けると、再び目をぱちくりと瞬かせた彼の唇が、音を忘れたかのように言葉を落とすことなくぽかんと固まる。

  ――は、コー、ヒー……?
  ――え? あ、それコーヒーじゃない? ごめん、違った?
  ――あー……。いや、うん。コーヒーだけど……。

 ぎこちない会話が互いの唇を滑る様に、なんとなく焦りから心臓が汗を掻いた。なにを焦点に会話を進めればいいのかわからないまま、視界の端で景色がどんどん流れていく。

  ――えーっと……あの、葛原くん、
  ――お客さん、このあたりですか?

 とりあえず彼がどうするつもりなのかきちんと確認した方がいいだろうと、口を開いた瞬間、運転席より声がかかった。突然の第三者からの無機質な言葉に、瞳と葛原の肩がビクッと必要以上に大きく揺れる。
 ちら、と走らせたバックミラーには、どうするのだとこちらの様子を伺い見る運転手の視線があった。瞳が慌てて窓の外へと視線を向けると、確かによく知る地元駅のロータリーがそこに広がっている。
 この状況でうだうだと葛原とやり取りをするのは不毛だ。運転手にとっても迷惑な話だろう。瞳は、「その先の信号を左に曲がって、コンビニの前で停めてください」と伝え、ちらりと葛原へと視線を這わせる。
 するとほぼ同時に彼の視線も瞳へと寄越され、互いの視線が気まずそうに絡み合った。一体なにが気まずいのかはわからずに、けれども無言ばかりがふたりの間を埋めていく。
 その後すぐにタクシーは指示した場所まで行きつき、瞳が財布を開けるより先に葛原が会計を済ませ、そして――。

(で、今に至る、というわけなんだけど……)

 瞳は、辺りへと視線を巡らせる葛原へのそれを断ち切ると、差し込んだ鍵をくるり、と右へと回した。ガチャ、という開錠の音と共に、寒さのせいだけとは言い切れない震えが、スカートから生えている膝小僧を襲う。
 ちょっと買い物があると言われコンビニに寄った後、目の前にあるマンションへと靴先を向け、数回ヒール音を響かせた段階でようやく気づいた現在の状況。
 彼との距離は、確かにここ数日でかなり縮まったと思う。入社してから早五年――その間、たった一センチさえも近づくことがなかった距離が、いまは大分近づいたというのは自分の思い込みなんかじゃないはずだ。

(でも……!! 冷静に考えたら、夜に異性を部屋に上げるってあり得なくない!?)

 きっといままでの人生で、それなりに異性との関わりを持つ生活や、同世代とそういった話題に興じるような時間があったのならば、この状況になる前に想像がついただろう。けれど、悲しいかな、いままでの人生においてそのどちらも無縁の生活を送っており、また実母から病的なほど異性との接触を禁じられた割にはその手の話題はタブーとされていたために、大凡年頃の女子が思い描くだろう危機感というものがいまいち彼女の中で根付いていなかった。
 恐る恐ると振り返った先にいた彼は、日頃の人好きのするおもてにバツの悪そうな複雑な感情を隠すことなく貼り付けていた。先ほどのタクシーでの驚愕も、きっととっくにこの状況に気づいていたということに他ならない。

(いや、気づかない方がどうかしてるって話なんだけど……っ!!)

 ともあれ、こうなった以上ここで立ち止まっていてもなにひとつ解決などしないことは確実だ。瞳はドアノブへと手をかけ引くのに合わせ、先ほど逸らした葛原への視線を再び紡いだ。
 彼へと這わされた視線で気づいたのか、それとも扉の開く音か。辺りへと漂わせていた彼の双眸が、ゆっくりと瞳へと向けられていく。

「えと……あの。せ、まい……部屋なんだけど。あの……なんかほんと、ごめん……」
「あ、いや謝るのこっちっつーか……。ってか、ちょっとなんで早川さんが謝ってんの」
「え、あ、いや……あの! ふ、ふ、しだら、な発言をしてしまったというか……!」
「っ、ぶはっ! ふしだら!」

 ぎくしゃくする空気が、葛原の笑いで一瞬で霧散した。
 先ほどまでの張り詰めていた冷えた空気が嘘のように、笑いと共に弾けたことにホッとしたのか、葛原は頬の位置を高くしながら足音を夜空に鳴らす。

「いや最初は早川さんめっちゃダイタンな誘いすんな!? って思ったけどさ、コーヒーとか言われて、あ、これなぁんも気づいてないド天然だわ……ってなったよね」
「う……。あの、ほんとう……返す言葉もないと言いますか……」
「ふはっ、大丈夫、わかってるって。ってか逆にさぁ、気ぃ使わせちゃって悪ぃね」

 笑いの力というのは本当にすごいと思う。
 特に疚しいことなどなにひとつないはずなのに、どうしようもなくぎくしゃくしていたものが一瞬で過去のものとなる。
 瞳はふ、と零れ落ちた笑いをひとつ、頬へと滲ませながら、扉の向こうに広がる部屋へと歩を進める。不意に部屋の散らかり方がどうであったか気になったが、大丈夫。ここ数日帰りが遅かったせいで、掃除をした休日以降に散らかせるほど部屋に滞在していない。
「どうぞ」というように、視線を一度葛原へと送ると、一瞬の後、やや緊張した面差しの葛原が「オジャマシマース」と小さく呟きながら、革靴を玄関内へと差し入れてくる。彼の背で、ガチャ、と開いた時同様に、音を立てて扉が閉まった。
 流石に実際に部屋に招き入れるともなると、再び緊張が辺りの空気を支配し始めるが、瞳はそれに気づかないようにヒールを脱ぐと冷え切ったフローリングへと歩を転がしていく。慣れない高いヒールを履いたせいですっかり疲れを溜めた足裏が、じわりという痛みと共にほっと溜息を零した。

「あ、葛原くん。適当に上がっちゃって。あと、申し訳ないんだけど、早めにシャツ、脱いでもらえる?」

 バッグをソファの上へと置くと、エアコンのスイッチを入れながら瞳は玄関から微動だにしない同期の青年へと声をかける。
 着替えは、先ほど自宅に帰る前に寄ったコンビニで替えのシャツを買っているので、それを着てもらえばいいだろう。くつろぐにはそぐわないものではあるが、流石にサイズ的に瞳のスウェットを貸すというわけにはいかないし、我慢してもらうしかない。

「あー、うん。悪ぃね。ってか、流石に目の前で脱ぐのもアレだから、トイレか脱衣所、借りていーい?」
「あ、うん。そうだよね。脱衣所は、うん、そこの先。あ、なんならお風呂も入る? お湯溜めてないからシャワーになるけど」
「や。流石にそれは……色々と……気まずいデス」
「……そう? んじゃ、とりあえず着替えちゃってもらえるとありがたいかも」

 何故か、葛原が瞳へと向けていた視線をゆるゆると外していく。溶けたはずの空気が、再び少し硬くなった気がして、瞳は僅かに眉を寄せた。またなにか、不用人に言ってはいけないようなことでも言ってしまっただろうか。
 瞳が、とりあえずそれ以上は強いることなく、風呂場へと繋がっている脱衣所を指さすと、「りょうーかい」と普段通りのやや高めの声を葛原は返してきた。
 脱衣所の引き戸が空気を含んだ音を立て、閉じる。
 ふ、と見上げた壁掛け時計が、ちょうど一時を告げていた。



**********



 白いシャツのそれなりに広い範囲に滲んでいたコーヒーのシミは、結論からいえば特に苦労することなくスルリと落ちた。
 お湯で軽く濡らしたあと食器用洗剤をつけ、軽くこすったらすぐに元の白さを取り戻し、その呆気なさになにを自分は焦っていたのだろうと思わず苦笑する。

「葛原くん。多分、元通り……綺麗になったと思うー」
「マジで。ありがと、助かったわ」

 どういう事の成り行きだったか、詳しいことはわからないが、どうやらあの集団の内のひとりからコーヒーを顔面にぶっかけられたとのことだ。瞳に追いついてくるまでの間にどうやら顔は拭いたようだが、髪にも多少かかっていたので再度シャワーを薦めたが、やんわりと拒否された。
 けれど流石にそのままにしておくわけにもいかず、仕方がないので瞳はタオルをお湯で濡らすと、それをソファで手持ち無沙汰気味な葛原へと手渡す。最初はその意図がわからなかったようできょとんと黒目がちな目を丸めていたが、「拭いて」と一言告げると「あぁ」と眦に皺を刻んだ。

「こんな時間に押しかけて、なにからなにまでほんっとごめんねー」
「イエイエ。こちらこそ……遠いところまでお越しくださり、スミマセン……」
「ぶはっ、そこ謝るところじゃないっしょ」

 葛原が濡らしたタオルで髪を拭き始めるのを、無言で見つめていた瞳は、言葉を探すように軽く唇を開く。

「ねぇ。あの、……言いたくなければ、いいんだけど……」
「あぁ、さっきのやつらのこと? ごめんね、嫌な思いさせちゃって」

 どうやら彼も気になっていたようで、すぐに察しがついたようだ。ガシガシとやや乱暴に拭いていた手を止め、葛原は眉尻をやや下げる。
 瞳は「ううん」と軽く首を振ると、ぺたりとローテーブルを挟んでソファの向かいへと腰を下ろす。ふわふわしたカーペットの毛足が、冷えた足に気持ちいい。
 自分の家なのだから堂々とソファに座ればいいのかもしれないが、流石にこの時間にオツキアイをしている関係でもない男女が、していい距離感でないことくらいはわかる。何より、自分自身が緊張でろくに話が聞けるとも思えない。

「えと、そのコーヒー……は、あの人たちに?」
「うん、そうそう。よくさぁ、ドラマとかで『最低ッ!』とかって男がオンナノコにアイスティーぶっかけるシーンとかあるけど、実際あんなことねーだろって思ってたのに、上には上がいたね。まさか道のど真ん中で、自分がコーヒーぶっかけられる日がくるなんて、思ってなかったよ」

 確かにベタなシチュエーションとしてよく見かける――いや、ベタ過ぎて逆に最近はあまりお目にかかったことはないが、ともあれ、人との距離感を測ることがうまいこの同期の青年が、顔見知り以上の関係であった大好きなオンナノコ相手に、そんなミスをするだろうか。
 葛原が嘘を言っているとも思えないが、その状況がやはりいまいちよくわからない。

(むしろ距離を気にしなくていい関係だったからこそ、遠慮がなかった……とか?)

 瞳に対して冷たい態度を取る人間というのは、それこそ職場の後輩たちもそうだが、そういった輩がするのは、いざというとき自分が不利にならないような距離での言動ばかりだ。時たまその距離感を間違えて、人を追い詰める人間というのは確かに存在するが、大抵の人間は、自分が犯罪者どころか悪人のレッテルを貼られることさえ望まないので、そこまで無遠慮に踏み込んだ悪意は吐き出さない。

(むしろ、親しい関係だからこその甘えが、踏み込んだ言動を生み出すのよね)

 例えば、自身の母親がそうであるように。
 そこまで考え、瞳はハッ、と息を飲み込む。
 家族にも似た親しい関係。
 友人――も、確かにそうだろう。
 けれど。

「つきあって、る、人……だったの?」
「ん??」
「えと、……あー、っと、その、コーヒーを、かけてきた……人、と?」

 質問になにか含みがあるわけでもないのだが、どうしても探るような言葉になってしまうことに、どうしようもない気まずさを感じる。もっともそんなことを意識しているのは、彼に対して浮かれた気持ちを持っている自分くらいなもので、葛原からしたら特になにも感じることのない台詞なのだろうが。
 なんとなく彼へとそのまま睫毛の先を向けていることが気恥ずかしくて、言の葉が語尾に近づくほどにゆるりゆるりと視線も下がっていく。

「あぁ……って、ふはっ、付き合ってない、ない」

 視界の外で、葛原が噴き出した笑いと共に手を軽く左右に振る様が伺えた。瞳は、知らず強張っていたらしい頬へと安堵を滲ませる。
 しかしここでその感情をそのまま表すということは、心の中をダダ漏れにしているのと同意ではないか。瞳は緩みかけた頬に再び緊張を走らせると、僅かに眉間に皺を刻む。
 傍から見たら瞬間百面相にもほどがあるのだろうが、幸いにも葛原はそれに突っ込むことなく、彼の声は続いた。

「なんって言っていいかわっかんないんだけどさぁ。トモダチって言えば、そうなのかもしれないし……でも、ほらあいつら俺の苗字知らなかったっしょ?」
「あ、うん……」

  ――だれ? クズハラって。
  ――あ、もしかしてリーチのこと?

 確か、そんな会話をしていたはずだ。
 瞳は百面相を解くと、伏せがちにしていたおもてを彼へと持ち上げる。

「まぁ、あいつら飲み屋で知り合った人間でさぁ。中にはそいつらが連れてきた友達ってケースもあったけど、でも基本的に飲み屋限定の付き合いなんだよね。んで、実際どこの誰なのかもわからないまま、行きつけの店で飲む回数だけ増えてって、仲良くなっちゃったー、みたいなね。でもま、仲良くっつっても、要はお互い素性も知らないような、その程度のオツキアイってことなんだけど」

 正直、コミュ症を徹底的に極めている自分からすると、その場の勢いで友達が作れるということそのものが、想像さえつかない世界なのだが。

「あ、早川さん、チャラ過ぎてヒイたっしょ?」
「……いえ。今さらヒイたりはしない……けど、正直想像つかないっていうか。なんか、すごいな世界だなぁって」
「あ、あ、ヒイてるよね? 完全にヒイてるよね?」
「ていうか、葛原くんが、チャラいのはもう知ってたし、ヒイたりするような隙間は今さらないというか」
「ぶっは! ひっでぇの」

 パ、と一瞬で彼のおもてから笑いが零れた。
 チャラい、チャラくないで言えば、確実にチャラい男だし、好き嫌いの前に正直そういった人種は自分の性格とは合わないと思っていた。
 けれど、どうしようもなくこの犬っころのような懐っこい笑顔に視線を持っていかれてしまう。

「でもそうなの。チャラいんだよなー、俺。誰とでも仲良くなっちゃうけど、ぜーんぶ付き合いが軽いっつーか。ま、だからチャラ男なんだけど」

 すでに持て余しているような濡れタオルへと、瞳が手を差し伸べる。僅かに眉を下げながら「ありがと」という言葉と共に、葛原からタオルが手渡された。確かにお湯に浸したはずのタオルは、すでに熱気を失っており、ひやりと冷たい。
 葛原を見れば、あらかた髪のベタつきは拭えたようだ。瞳は立ち上がると、脱衣所の洗濯カゴの中へとタオルを放り込んだ。

「元々さぁガキん頃からサッカーやってたし、友達は多かったんだよね」
「サッカー」
「いま、『うわ、チャラい』って改めて思ったろ?」
「思ってない」
「うっそつけー。なんだっけー? フットサルやってる人間はみんなチャラいだっけ?」
「忘れて」

 なんとなくバツの悪い会話を断ち切るように言葉少なく対応すると、「ははっ」と彼は心底楽しそうに笑いを唇で弾く。自分との会話でさえも、こんなに楽しそうにするのだから、きっと彼は今ある物事を、自然と楽しもうする人間なのだろう。

(私とは、やっぱり違うなぁ)

 違う、人種だ。
 本来相容れないはずの人種だろうに、けれどそれ故に憧れも増すのだろうか。

「まぁ、早川さんの言う通りさぁ、そういう感じで友達は元々多かったし、そんな土壌ってのは割と整ってて。で、集団の分母が大きくなるほど、揉め事とかも多くなるんだけど、そういうのにガチで付き合うのを、なんとなくウザがられる空気ってのがあってね」

 確かにそういう空気は、人付き合いを基本的に断っている自分さえも感じ取れるほどに社内にも蔓延していると思う。
 流石に年齢も年齢なので、真面目なことはかっこ悪い――とまではいわないが、新たな揉め事を提起することは厄介に思われるというのは事実だろう。嫌なことは、とりあえず自分の身体を過ぎ去るのを待て、流れているものは見なかったことにしろ。後輩たち――ばかりでなく、過去の人間付き合いにおいても自分もそうやって生きてきた。

「結果として、あいつらみたいに軽くてチャラい上辺だけの付き合いが増えていったってわけ。そういうのを本当は良くないってわかってたけどさ、わざわざ揉め事起こすのもめんどくさいし、ダセェし、タノシイだけありゃそれでいーじゃん、っていう気持ちは正直あったよね」

 葛原は膝の上で指を組むと、再びテーブルを挟んで座った瞳へと視線を寄越してくる。その表情は、なにか悪戯をして叱られたあとの犬っころのように、こちらの反応を見つつ言葉を探すそれだった。
 瞳はそれを受け止めるように、ふ、と眦を下げると頬へと緩く笑みを這わせる。

「でもさ」

 葛原の声が、丸みを帯びた。

「さっき、早川さんが俺のために怒ってくれてさぁ。正直、やられたよね。かっこよすぎて、痺れた」

 鳩が豆鉄砲を食ったよう、というのはまさにこういう気分なのだろう。突然告げられた言の葉に、と明後日の方向に冷静な思考が脳裏で囁くのを聞きながら、瞳は睫毛を上下させる。

「は、ぇ……?? わ、私?」
「ぶはっ、早川さんってほかにいないっしょ」
「いやそうだけど……え、でも……えぇ?? な、なんで??」
「なんでって言われてもなぁ……」

 苦笑を滲ませながら、葛原の唇の端が持ち上がった。

「チャラいって言われることが別に嫌なわけじゃないし、実際俺も自分をチャラいなーって思うしね。でもさ、そういうところしか見せてなくても、別の自分ってのは人間誰でもいるじゃん? ほら、早川さんとか大人しそうなのに、」
「私のことはいいからっ」
「ふはっ、ね? そういうのが人間誰でもあるんだけどさ、俺はチャラいところしか人から見てもらえなかったし、まぁ自分が悪いんだけど。でも俺の事、チャラいって言いつつ、ちゃんと早川さんが、ほかの部分も見ててくれてさ」

  ――私にとってはきちんと仕事に責任を持っていて、人を思いやれる、尊敬できる同期、なんです。

 先ほどの自分の声が、不意に鼓膜に蘇る。
 友達同士の、軽口なのかもしれない。
 親しいからこその、軽口なのかもしれない。
 でも、それでも彼をバカにする彼らがどうしても許せなくて。
 そんな人ではないと、言いたくて。
 空気を壊してまで言うべきものだったのかと、あの後自己嫌悪に陥った。

(でも)

 それを、彼は――。

「まぁ、そんなこと言いつつも、それでもあいつらと楽しくやってたのも事実なんだよねー。楽しかったのも、嘘じゃない……って辺りが、俺がダメなとこだな」
「わかります」
「ん?」
「わかるよ。私、も……、母に対してそういう気持ちがあるから」

 幼いころから、抑圧された生活だったと思う。
 いまでいうところの毒親であり、もしかしたら精神的な虐待と呼ばれるような躾をされてきたと思うこともある。
 けれど。

「葛原くん、言ってたじゃない? 三年くらい前に、私の雰囲気変わったって」
「ん? あ、あぁ」
「私ね、母が厳しい……厳しすぎる人でね。私が小さいころ父親が浮気して出ていっちゃったのが直接的な原因だとは思うんだけど、異性と仲良くすることとか、流行りのものに憧れたりすることだとか。そういう事全て、禁止されて否定されて育てられたの」

 二十歳を過ぎれば全て自己責任。
 親のせいにするな。
 という意見も勿論頷くところはあるのだが、やはり幼少期から思春期までの間、親の管理下のもとで全てを否定されていたら、ある種の洗脳は残ってしまう。
 未だに男性と言わず、人付き合いに苦手意識があるところだとか、人との距離を詰めることに諦めが先に立つところだとか、流行りのものを身に着けること、流行りのものを楽しむこと――その全てに罪悪感ばかりが角を立ててくる。
 その影響は、三十路がそろそろ顔を見せ始めたこの歳においても、未だ心の奥深くで重く黒く濁っている。

「そんな生活に満足していたわけじゃないし、いつか、いつか変えたいって思ってた。就職してある程度お金が溜まって……それで、反対する母親に十年ぶりくらいに反抗して家を出たのが三年前」
「……そんな厳しいおかーさんなら、よくこの会社の就職許したね?」

 確かに、化粧品会社なんて華やかな業界に内定が決まったということを母親が知ったら、大反対されたに違いない。

「うん。そこはほら……社名的に、お堅い薬品会社っていう方便がね、使えたりしてね」
「ふはっ、なるほどね」

 株式会社健粧堂けんしょうどう
 なんとか誤魔化せなくもない社名のお蔭で就職はなんとかなったが、その後も残業が続き帰宅が遅くなれば、とても社会人の娘へと向けられたものとは思えないような小言がうんざりするほど続いた。

「母にされてきたことは、やっぱり恨みに思っていることが多いの。この歳になって親のせいにするのもどうかと思うけど、やっぱり友達と疎遠にさせられたりしたからね……。でも、でもね……」

 とっくの昔に口紅リップが取れ、乾燥した空気に晒されカサついた唇を軽く濡らすと、は、と息を吐き出した。

(お母さんを)

 恨んでいた。
 憎むほどに、恨んでいた。
 もう一緒に暮らせないと思った。
 暮らしたくないと、思った。
 けれど。

「一緒に、料理をしたこととか。子供のころ、一緒にプリン作ったりとか、すっごい大きいケーキ作ったこともあったかなぁ……。クッキーとかよく作ったし、夏場なんてすっごいでっかいゼリー作ったこともあったなぁ。そういう時間はね、確かに楽しくて」

 いま、料理が苦ではないのはきっと母の影響が大きい。
 母と過ごしたその時間は、楽しかった記憶のまま、心の中でいまも鮮やかに残っている。

「全部が悪いなんてことは、多分……ないんじゃないかなって思うよ」

 母を思い出して、こんな柔らかな気持ちになったのは、きっと久しぶりのことだ。
 苦い記憶と共に思い起こされる母の顔が、いまはこんなに優しい。

「早、川……さん……」

 気づけば顔をやや伏せ気味にし、口許へと拳を当てている葛原が肩を震わせていた。瞳を呼んだその声音も、真っすぐなものではない。

(……泣いて、る……わけないか。あれ? じゃあ怒ってる?)

 怒らせるようなことを言ったつもりもないし、彼がなんの前触れもなくこの場で怒りを見せるとも思えないが、知らずなにか彼の地雷でも踏んでしまっただろうか。瞳がテーブルに手をつき、伏せられたそのおもてを伺うと――拳から覗く三日月が垣間見えた。

「え」

 瞳の声を合図に、俯いていた葛原が大きな笑い声と共に天井を仰ぐ。

「ぶ……っ、ハハッ、あはははははっ! ちょ、早川さん……っ、おかーさんとの思い出食いもんばっかじゃん! しかもお菓子ばっか!」
「な……ッ!? だ、だって!! そういうの得意な人だったから……!!」

 言われてみれば、確かに言われた通りなのだが。

「もーっ、そんなに笑うことないじゃないっ!」

 午前二時――丑三つ時まで、あと十五分という結構な深夜に、それなりに常識外れというべき笑い声が部屋に弾けた。



**********



 コチ、コチ、コチ――。
 壁掛け時計の秒針の音が、暗闇の広がった部屋に小さく響く。
 すぐ傍で加湿機能のついた空気清浄機が稼動しているが、それでも暖房をかけたままの部屋はやはりやや乾燥している。
 葛原は、瞳から渡された毛布にタオルケット二枚を手繰り寄せると、少しでもその温もりを逃すことがないように胎児のように小さく丸まった。ふわり、鼻腔を擽るのは恐らく柔軟剤のにおいなのだろう。香水とは違った優しいにおいに包まれて、ソワソワと落ち着かない気持ちが首をもたげたが、覚えたての中坊ガキでもないので気の逸らし方や誤魔化す術はとっくに身体が知っている。

(やー、でも……流石にこれは生殺しすぎんでしょ……)

 大半を壁に阻まれているとはいえ、ドアを開けたままで眠っている瞳へと恨み事を呟いて、葛原は意識から追いやるように、ごそり、とドアへと背を向ける。
 あのまま話は尽きることはなかっただろうが、流石に二時を回ったところで明日も仕事があるわけで、そろそろ寝ようという話になった。元よりシャワーを借りるつもりはなかった葛原だが、瞳も化粧だけ落とし、シャワーは明日にすると言ってくれて正直助かったと胸を撫で下ろした。
 合意でもないのに行為に及ぶような趣味はないが、きっと彼女はそういう危険性について微塵も思い描いてはいないのだろう。

(いやまぁ……別に期待してたわけでもないし、いいんだけど。いいんだけど)

 いや、ぶっちゃけよくはねーな。
 包まっている毛布が、タオルケットに残る彼女のにおいを想像してしまい、どうしても落ち着かない。

(友達、みたいなもんだと思ってたんだけどなぁ……)

 中学生のときには、自分がそれなりにモテる部類の人間だと自覚していた。
 サッカー部という学校のそれなりに花形な部活に所属していたせいもあり、それなりにモテたし、それを全力で楽しんできてもいた。
 だからこそ高校の頃にはオンナノコというのは「恋愛対象」か「対象外」かのどちらかでしか区分することがなくなっていたし、純粋に友情を感じるような付き合いなんてなかった。恋人同士でなくても恋愛対象のカテゴリにいるオンナノコならば、今日付き合っていなくても明日は付き合っている可能性がある。そんな風に思っていた。
 けれど、瞳と親しくなるほどに、彼女はそういうカテゴリに入れたくないと思うようになった。美人は美人だが、恋愛というものに固定したくないと――純粋に、友人として付き合っていけるのではないかとさえ思っていた。

(の、に……なぁ)

  ――葛原くんは、ちゃんと仕事していますし、そういうつもりで私を手伝っているわけでもないです。
  ――私にとってはきちんと仕事に責任を持っていて、人を思いやれる、尊敬できる同期なんです。

 人付き合いが苦手で、曰く「コミュ症」。
 コンプレックスを拗らせるような人間ではないはずなのに、育った環境から自分にどうしても自信が持てないらしい。
 そんな彼女が、あれほどの数の酔っぱらいを前に、はっきりと告げた言の葉。

(友達だって、思ってた)

 友達になれる、と。
 なりたい、と。

(そう)

 思っていた。
 けれど。

(堕ちるのは、一瞬だ)

 あのとき、あの瞬間。
 真っすぐに自分を見てくれていたその双眸に。

(一瞬で)

 恋に、堕ちた。
 コチ、コチ、コチ、と――。
 時計が少しずつ、でも確実に、時を刻む。
 もう何度目かわからない寝返りを打ちながら、葛原はとろりと落ちてきた眠気に身を任せるように、目を閉じた。
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