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恋人の距離
碇
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「……っ、せ……ん、」
ハッ!
先輩が僕の異変に気付いた直後、凍っていた空気は霧散した。
「ごめん、怯えさせた」
先輩は僕の冷たくなった二の腕をさすり、そっと抱きしめた。
ほうっ……固まった体が優しい抱擁に弛緩した。
「あの時の驚きと絶望をまだ憶えている。すごく大事にしてたんだ。その君を一瞬で攫っていった」
学食で高村さんと初めて会った時、李玖先輩もあの場所にいた。あのとき先輩は僕らを見てた。高村さんと僕がお互いを運命の番と分かったように、先輩にも分かってしまったんだ。
僕が、先輩の手から零れ落ちたことが──
「どうして自分のものにしておかなかったのだろうと凄く後悔した。うなじさえ噛んでおけば、フェロモンはその番にしか分からなくなる。運命の番が傍にいても気付かなかったんだ。出会いの奇跡を甘くみてた自分に腹が立ち、運命を呪った。でも出会ってしまったものはどうにも出来ない。お互い惹かれ合えば誰にも邪魔は出来ない。
諦めるしかなかった。もう僕に出来るのは君の幸せを願う事だけだった。なのに高村くんは君をぞんざいに扱い、君はヒートの後には泣き腫らした目をして体のあちこちに酷い傷を作ってた。僕が大事にしてきた君が、守りたいと思ってきた君が、僕の手出しの出来ないところでボロボロにされていった、っ、」
悲痛な思い。あの時、僕はこんなにも心配されていたのか。
「ヒート明けのある日、腫れた目をして指と首に包帯を巻いた君を見て、もう許せないと思った。我慢の限界だった。高村に相応の報いを受けさせてやる、そう思って彼のもとへ向かおうとした。あの場にいた皆は僕の怒気にあてられて動けなかったね。晶馬くんも凄く怖かったはずだよ。でも君は僕の腕を掴んだ。ねえ、どうしてあの時僕を止めたの?高村君をかばうためじゃなかったよね」
「それは、あのまま行かせたら先輩が非難されると思ったからです。きっと先輩は高村さんに文句を言って殴ってしまう。僕のせいで先輩を悪者にしたくなかったんです」
あのときの先輩からも、とても強いオーラが出ていた。有無を言わせない圧倒的なオーラに気圧されて、あの場所にいた皆が誰も動けなかった。僕も足が竦み、棒立ちとなっていた。でも先輩を行かせちゃ駄目だと思ったんだ。この優しい先輩を、僕のせいで悪者には出来ない。
「だから怖かったのに必死で止めてくれたんだよね。君は凄く震えてた。泣きそうな顔で頭を振ってた。なのに絶対腕を放そうとはしなかった。それがぼくの為にだって分かったから、怒りの感情が凪いでいったんだ。僕を思う君の気持ちで、僕は踏み留まれたんだよ」
先輩が怒りを鎮めてくれて本当に良かった。あのままだったら……
「あのまま高村くんのところに行ったら、僕は怒りに任せて彼を大学から追放していただろうね。彼の存在を周りから消して学籍も抹消し、親に手を回して学資を断ち、社会的に追い詰めた」
「怖っ!先輩はそんな事しませんよ。先輩が優しいこと、ちゃんと僕は知ってます」
そう言うと先輩は苦笑いをした。
「ほんと、信じてくれてるところ悪いんだけど、僕 君の事になると自制がきかなくなるんだ。それだけ必死なんだよ。あの時はそれまでの恨みつらみもあったから本当にやっちゃったんじゃないかな。晶馬くんは僕を助けようとしてくれたけど、結果的に高村君の恩人になったね」
そうかなあ。僕、先輩にそんなに影響力ある?
「ねえ、晶馬くん、もし僕が "高村君と君が運命の番だった記憶を消せる" って言ったら、消したいと思うかい?痛かった事も怖かった事も忘れさせてあげる。最初から君の恋人は僕で、高村君はただ同じ大学ですれ違うだけの人。どう?」
「そんな事が出来るの?それって先輩と普通にお付き合いをしてたってことですか?うーん……でもそうしたら、先輩が携帯を魔法の鏡って言ったことは忘れちゃいますよね。あれは、助けを求めたらすぐ行くよって意味だったし。じゃあ魔法の子馬もただのお土産の子馬?先輩が助けに来てくれたことも忘れちゃうの?それは嫌だな。凄く嬉しかったんだ、本当に魔法使いみたいだった。電話を掛けたらすぐに来てくれて、本当に子馬が連れてきたみたいだった。あのときの先輩は優しくてかっこよくて、本物のヒーローみたいだった」
「そっか。それが君の答えだったんだ」
また先輩は泣きそうな顔になった。え?何?
「先輩は消したいの?消したいなら消していいですよ?先輩がしたいなら構いませんよ」
「もう聞いちゃったもの。消さないよ。そっか。晶馬くん、あの時のことそんな風に感じてくれてたんだ。嬉しいな」
嬉しいと言いながらも少し寂しそうに笑った先輩に、僕はドキドキした。
「黙っていようかと思ったけど、懺悔するね。
僕はさっき君を眠らせたあと、君たちが運命の番だった事実を消そうと思ったんだ。痛かったことも怖かったことも忘れさせてあげるためって自分に嘯いたけれど、本当はそうじゃない。取り乱す高村くんを見て奪い返されないかと怯えたんだ。それに僕は君を手に入れて欲が出た。高村くんのものじゃなく、最初から僕のものだった君が欲しいって思ってしまった。それは君と皆の記憶を消せば出来る。
誰にも知られない、僕だけの秘密。甘くて優しい完璧な計画。君は受けた傷と苦痛を忘れ、僕は君の純潔が手に入る。偽りは誰にも見破られはしない。全てが丸く収まるじゃないか、これの一体どこが悪いのさ。さあ、消してしまおう。
……でもその誘惑に僕が負けそうになった時、ふと、君なら何て言うのかなって思ったんだ。
忘れたいって言ってくれるかなって。
僕が高村君に怒りを感じた時に、震えながらも必死に僕を止めてくれた君なら、今の僕にも しがみついて止めるかもしれない。いや、全てを受け入れる君だから、本当は悲しくても僕のために我慢して、いいですよって言ってくれるかもしれない。でもそれは僕が本当にしたかったことなのか?僕の願いは、偽りの幸せを押し付ける事じゃないだろ?
僕は君と対等でありたい。君に力を使って偽りの平和を与えたら、もう対等ではいられない。
君に誠実でありたい。まず晶馬くんに聞こう。もし消すことになっても君に許可を取ってからだ。そう思い留まったんだ」
先輩は僕の頬を包み、親指でなでた。
「君に行動を止められたのはこれで二度目だ。どちらも感情が高ぶっていて、自分では制御できなかった。誰にも止められない暴走を、か弱いはずの君の存在が止めてくれたんだよ。
もし、いつかまた激情に駆られても、きっと君を思って冷静になれる。
"これをしても君は悲しまないだろうか。君は僕が何をしても否定しない。でも感情を封じ込めて笑い、どこかでこっそり泣くかもしれない"
そう考えるだけで怒りの高ぶりはすうっと凪いでゆく。
君の存在は、僕が感情の荒波に流されようとする時の唯一の碇だ。ただひとり、君だけが僕を思い留まらせることが出来るんだ。
君のおかげで、僕は人としての道を踏み外さないで生きていける。君は僕の最後の良心だ」
「!」
碇。船が流されないようにするための重石。
先輩が感情に流されて力を振るってしまわないためのストッパー。
僕が先輩にとってそんなに重要な存在だなんて……
ハッ!
先輩が僕の異変に気付いた直後、凍っていた空気は霧散した。
「ごめん、怯えさせた」
先輩は僕の冷たくなった二の腕をさすり、そっと抱きしめた。
ほうっ……固まった体が優しい抱擁に弛緩した。
「あの時の驚きと絶望をまだ憶えている。すごく大事にしてたんだ。その君を一瞬で攫っていった」
学食で高村さんと初めて会った時、李玖先輩もあの場所にいた。あのとき先輩は僕らを見てた。高村さんと僕がお互いを運命の番と分かったように、先輩にも分かってしまったんだ。
僕が、先輩の手から零れ落ちたことが──
「どうして自分のものにしておかなかったのだろうと凄く後悔した。うなじさえ噛んでおけば、フェロモンはその番にしか分からなくなる。運命の番が傍にいても気付かなかったんだ。出会いの奇跡を甘くみてた自分に腹が立ち、運命を呪った。でも出会ってしまったものはどうにも出来ない。お互い惹かれ合えば誰にも邪魔は出来ない。
諦めるしかなかった。もう僕に出来るのは君の幸せを願う事だけだった。なのに高村くんは君をぞんざいに扱い、君はヒートの後には泣き腫らした目をして体のあちこちに酷い傷を作ってた。僕が大事にしてきた君が、守りたいと思ってきた君が、僕の手出しの出来ないところでボロボロにされていった、っ、」
悲痛な思い。あの時、僕はこんなにも心配されていたのか。
「ヒート明けのある日、腫れた目をして指と首に包帯を巻いた君を見て、もう許せないと思った。我慢の限界だった。高村に相応の報いを受けさせてやる、そう思って彼のもとへ向かおうとした。あの場にいた皆は僕の怒気にあてられて動けなかったね。晶馬くんも凄く怖かったはずだよ。でも君は僕の腕を掴んだ。ねえ、どうしてあの時僕を止めたの?高村君をかばうためじゃなかったよね」
「それは、あのまま行かせたら先輩が非難されると思ったからです。きっと先輩は高村さんに文句を言って殴ってしまう。僕のせいで先輩を悪者にしたくなかったんです」
あのときの先輩からも、とても強いオーラが出ていた。有無を言わせない圧倒的なオーラに気圧されて、あの場所にいた皆が誰も動けなかった。僕も足が竦み、棒立ちとなっていた。でも先輩を行かせちゃ駄目だと思ったんだ。この優しい先輩を、僕のせいで悪者には出来ない。
「だから怖かったのに必死で止めてくれたんだよね。君は凄く震えてた。泣きそうな顔で頭を振ってた。なのに絶対腕を放そうとはしなかった。それがぼくの為にだって分かったから、怒りの感情が凪いでいったんだ。僕を思う君の気持ちで、僕は踏み留まれたんだよ」
先輩が怒りを鎮めてくれて本当に良かった。あのままだったら……
「あのまま高村くんのところに行ったら、僕は怒りに任せて彼を大学から追放していただろうね。彼の存在を周りから消して学籍も抹消し、親に手を回して学資を断ち、社会的に追い詰めた」
「怖っ!先輩はそんな事しませんよ。先輩が優しいこと、ちゃんと僕は知ってます」
そう言うと先輩は苦笑いをした。
「ほんと、信じてくれてるところ悪いんだけど、僕 君の事になると自制がきかなくなるんだ。それだけ必死なんだよ。あの時はそれまでの恨みつらみもあったから本当にやっちゃったんじゃないかな。晶馬くんは僕を助けようとしてくれたけど、結果的に高村君の恩人になったね」
そうかなあ。僕、先輩にそんなに影響力ある?
「ねえ、晶馬くん、もし僕が "高村君と君が運命の番だった記憶を消せる" って言ったら、消したいと思うかい?痛かった事も怖かった事も忘れさせてあげる。最初から君の恋人は僕で、高村君はただ同じ大学ですれ違うだけの人。どう?」
「そんな事が出来るの?それって先輩と普通にお付き合いをしてたってことですか?うーん……でもそうしたら、先輩が携帯を魔法の鏡って言ったことは忘れちゃいますよね。あれは、助けを求めたらすぐ行くよって意味だったし。じゃあ魔法の子馬もただのお土産の子馬?先輩が助けに来てくれたことも忘れちゃうの?それは嫌だな。凄く嬉しかったんだ、本当に魔法使いみたいだった。電話を掛けたらすぐに来てくれて、本当に子馬が連れてきたみたいだった。あのときの先輩は優しくてかっこよくて、本物のヒーローみたいだった」
「そっか。それが君の答えだったんだ」
また先輩は泣きそうな顔になった。え?何?
「先輩は消したいの?消したいなら消していいですよ?先輩がしたいなら構いませんよ」
「もう聞いちゃったもの。消さないよ。そっか。晶馬くん、あの時のことそんな風に感じてくれてたんだ。嬉しいな」
嬉しいと言いながらも少し寂しそうに笑った先輩に、僕はドキドキした。
「黙っていようかと思ったけど、懺悔するね。
僕はさっき君を眠らせたあと、君たちが運命の番だった事実を消そうと思ったんだ。痛かったことも怖かったことも忘れさせてあげるためって自分に嘯いたけれど、本当はそうじゃない。取り乱す高村くんを見て奪い返されないかと怯えたんだ。それに僕は君を手に入れて欲が出た。高村くんのものじゃなく、最初から僕のものだった君が欲しいって思ってしまった。それは君と皆の記憶を消せば出来る。
誰にも知られない、僕だけの秘密。甘くて優しい完璧な計画。君は受けた傷と苦痛を忘れ、僕は君の純潔が手に入る。偽りは誰にも見破られはしない。全てが丸く収まるじゃないか、これの一体どこが悪いのさ。さあ、消してしまおう。
……でもその誘惑に僕が負けそうになった時、ふと、君なら何て言うのかなって思ったんだ。
忘れたいって言ってくれるかなって。
僕が高村君に怒りを感じた時に、震えながらも必死に僕を止めてくれた君なら、今の僕にも しがみついて止めるかもしれない。いや、全てを受け入れる君だから、本当は悲しくても僕のために我慢して、いいですよって言ってくれるかもしれない。でもそれは僕が本当にしたかったことなのか?僕の願いは、偽りの幸せを押し付ける事じゃないだろ?
僕は君と対等でありたい。君に力を使って偽りの平和を与えたら、もう対等ではいられない。
君に誠実でありたい。まず晶馬くんに聞こう。もし消すことになっても君に許可を取ってからだ。そう思い留まったんだ」
先輩は僕の頬を包み、親指でなでた。
「君に行動を止められたのはこれで二度目だ。どちらも感情が高ぶっていて、自分では制御できなかった。誰にも止められない暴走を、か弱いはずの君の存在が止めてくれたんだよ。
もし、いつかまた激情に駆られても、きっと君を思って冷静になれる。
"これをしても君は悲しまないだろうか。君は僕が何をしても否定しない。でも感情を封じ込めて笑い、どこかでこっそり泣くかもしれない"
そう考えるだけで怒りの高ぶりはすうっと凪いでゆく。
君の存在は、僕が感情の荒波に流されようとする時の唯一の碇だ。ただひとり、君だけが僕を思い留まらせることが出来るんだ。
君のおかげで、僕は人としての道を踏み外さないで生きていける。君は僕の最後の良心だ」
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