明日の「具」足

社 光

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1話

1話「ゆで卵ラーメン」【2/3】

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 鉛みたいに重い足取りで自転車を前に押し進めながら、真夜中の住宅街を私は2人、怪我人の女性と一緒に歩いている。怪我を負わせたのは私。その自覚も負い目も十二分に感じているのにこれから我が身に起こりえる未来を想像して委縮してしまっているすさまじく器量の小さい私だ。
 街灯は少なく通り過ぎる車もほとんどいない静かな夜道を一緒に歩く彼女は全く乱れることなく一定のペースで革靴のカツカツという足音を冬の冷たい空気に響かせている。その素早いペースに追いつかれない為に自転車を押す私の足もいつもに比べてかなりの速足になってしまっていたけど遅れて余計な疑いを招くのを避けたい一心でなんとか家の前にまでたどり着くことができた。

「ここですか?」
「あっ、はい……一応」

 築30年、ワンルーム6畳ロフト付きのシステムバス。鉄筋コンクリート製ではあるものの外装は加齢を重ねて塗装の上から軽く撫でただけで素材がぽろぽろと剥がれ落ちてくるほど。元々鮮やかな紺色だったと思える壁の色は極限まで薄まって地肌のクリーム色の方が濃くなっていた。しかし、たったそれだけの不備で最新のインターネット回線とガス電気水道が全て家賃込みで使い放題。ここが我が居城「コミヤグランパレス」。このスマートな老兵を目の当たりにした際の彼女の語調に少し引っかかるところはあったけど、そんな文句は言えた立場じゃないのは自分が一番分かってるんだから。

「階段、板の端が崩れやすいんで……気を付けて、ください」
「……」

 自転車を正面に止めてそのまま住んでいる2階の部屋に上がっていく。駐輪場に止めないと怒る奴もいるんだけど、私の頭は少しでも早く身分証を渡して彼女に引き上げてもらって1人になりたいっていう考えで一杯だ。そんな私のすぐ後ろをスーツの彼女は返事の1つも無く付いてきている。そして13段階段を上りきった先、私の住む204号室の目の前にまでたどり着き、私は冬場でも構わずに噴き出し続けてくる額の汗をぬぐいながらノブを回そうと手を伸ばす。

「鍵は?」
「へぇぁっ!?」
「いや……鍵。開けないと入れないでしょう?」

 無論、掛けていない。財布も携帯も忘れる奴が鍵を掛ける余裕があるなんて思わないで欲しい。

「だ、大丈夫───大丈夫……ですから」

 後ろを振り向く余裕なんてない。ガチャリとノブを回してドアを引くとつけっぱなしの暖房によって外と中に生まれた気圧差が背中側の冷たい空気を一気に部屋の中に引き入れていく。その風に不意に背中を押されて前につんのめり、外から吹き込む風に押されて扉が独りでに閉まってしまったみたいだ。部屋には窓から月明りが差し込んでるけど物を探すのは難しそうな程に暗い状態で私はもう一度顔の汗をぬぐいながら壁に手を這わせて照明のスイッチを探り始めた。

「ご、ごめんなさい!すぐに付けますから」
「───さい……」
「あぁちょっと……何処何処何処……?」
「あの……」
「あっ、あった!!!」

 コリッと指先に当たる硬い感触をパチンと押し込む。昼間用に調光したままの明かりはかなりの省エネモードだった。ぼんやりと前が見える程度だけどリモコンよりも先に探す物が私にはある。今はまっすぐに財布と携帯の元に行かないと!

「すいません?」
「じゃ、じゃあここで待っていて貰えますか?ロフトの上に置きっぱなしになってるはず───」
「ちょっと!!!」

 薄暗く生暖かい室内に彼女の叫びが響き渡った。深夜1時前の突然の大音量、流石に私も危機感を感じて口元に人差し指を軽くあてがったけど、彼女は息荒く肩を上下させて何かを訴えかけようとしている様子だった。

「ど、どうかされましたか……?」
「臭い」

 はえ?

「えっ、っとー、つ、つまりはどういう……」
「つまりも何も臭うんですよこの部屋!空気は淀んでるし凄くじめじめしてる、こんなの人間が暮らす部屋じゃないわ!」
「なっ!?」
「いえもっとすごい、もっと言えば……そう柔道部!柔道部員の部室の座布団!長年先輩から受け継がれて常にもっとも練習を積んできた部長だけが腰を落ち着けてきた、10年物の座布団の臭いよ!!!」

 ……随分好き勝手言ってくれる。確かにここ最近はゴミの出し忘れが増えてきたせいでウチの中のデッドスペースはほぼ解消されつつある現状だけど、見ず知らずの、しかも女の家に上がった第一声でそんなことを言えるか普通?

「そ、そうですか~……アハハ……」
「何笑ってるの?」
「何をと言われましても……」
「こんな場所、こんな臭気の中は人間が暮らす場所なんかじゃないわ!こんな場所に居たらマトモな感覚を維持してなんていられないはずよ!」
 
 2度も言った。耐えろ、耐えるしかない。立場はこっちが圧倒的に弱いんだから、変に食って掛かって状況を悪化させるようなことは絶対にナシ。ここは華麗にスルーしてとっとと保険証の写真を撮ってもらってお帰り頂いて───って!?

「なっ、何してるんです……!?」
「換気!こんな小さな窓すら締め切って部屋を暖め続けているからここら中が雑菌の匂いで一杯じゃない!まずは淀んだ空気を外に出して……」
「そんな!?勝手にいじらないでください!」

 背後から急にズカズカと部屋の奥にまで進み出てこっちの事情も考えずに窓を開け放って加湿器を切り、ゴミ袋や家財道具の山にまで手を伸ばそうとしている彼女に流石に私も荒らげる。

「止めてください!こんな所関係ないじゃないですか!」
「無くないから!良いからあなたは身分証を用意して待っていて!」

 こっちに一瞥もくれず部屋をかき回し続ける彼女の肩を掴んだ。マズイと心の中で一瞬考えが浮かびはしたけどこれ以上は譲れない、単純なプライドの問題だ。ぐいっと肩を引いて相手を向き直らせて真っ向から対峙する形になりお互いの顔に部屋の薄明かりと差し込む月明りが交差する。急なことに驚いたのか息を呑んだように固まる彼女に外で待って欲しいと頼もうと口を開いた時だった。

「触っちゃ……」

 頭の芯がグラッと揺れた。目の表と裏が入れ替わって首の後ろから無重力に包まれていくみたいな感覚が全身にまで広がる。瞬きの100分の1秒くらいの間にそんなことが起こって、その瞬間に私はこれが自転車の上での眠気の再開だと理解した。僅かに顔を覗かせていたフローリングに背中から倒れ込み、天井を見上げながら眠りに落ちる直前、床板から立ち上っていた部屋の匂いの源泉を嗅いで「あ、流石にキツイかもしれない」と感じた。……もう無理だ、これ……。

「え、だ……大丈夫?」
「無理……で、す……いません」

 遠ざかる意識の向こうで彼女が呼んでいたのが分かった。もう終わりだ、目が覚めた時私は恐らく向こうの弁護士の車か留置所の檻の中で目覚めるのかな……?あぁ……こんなことならもう少し焦って生きていくんだった……。





※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※






 聞き慣れない駆動音で眠りの世界から引き戻されると強い光が瞼の中に直接差し込んでくる。背中に感じる柔らかい感触からカビの匂いを感じて寝そべっているらしい体を転がすと、硬く冷たい床の感触がダイレクトに肌に伝わってきた。

「ん、んん……」

 瞼の向こうの明るさが増してくる。床に寝そべっている自分のほぼ真横から差し込んできてるから部屋の明かりじゃなくて朝日だと思うけど、眩しさよりも吹き込んでくる冷たい空気の方が痛い位に身を引き締めてきた。

「窓……閉めて……」

 何を言ってるんだか。ここがどこであれ私に物を頼む権利を認めてくれる人はここには多分いない。もうじき真っ黒なスーツに鋭角な縁の黒メガネが薄べったいテーブルをバンッと叩いて「起きろ!」と怒鳴りつけてくるんだろうから。……と眼を閉じたまま寝ぼけ頭でありきたりな取り調べシーンを夢想していると顔に吹き付ける寒風と合わせて起きた時から聞こえていた駆動音もぴたりと止んだ。ご親切にどうも。

 瞼の向こうの現実を受け入れるのが怖くて目が開けられない……。まず何て言えばいいの?「ごめんなさい」?「お怪我は大丈夫ですか」?そもそも彼女自身や話を聞いてくれる人がそこにいるのかも分からない。……でも仕方ない、やってしまったものは仕方ないんだ。本当にんなるけど自分から前に進まなきゃ動かない事態の方が多いことは十分に理解してる、観念しよう。おはよう朝日!さようなら娑婆───

「スンスン……ん?」

 クッと硬く結んだ瞼に連動して広がった鼻の奥が美味しそうな匂いをキャッチして動作が止まる。あぁ……そういえば昨日のお昼から何にも食べてなかったっけ……。私の空っぽのお腹と考え尽くしたへとへとの頭が、この温かくてしょっぱを感じさせる匂いを感じ取った途端、今までの俗物的な思考が綺麗さっぱりに消え去ってある思考だけが脳内を埋め尽くしたのがはっきりと分かった。

 「お腹空いた」って。

 たまらずに目を見開いて床から跳ね起きた。そこは見慣れた六畳一間、一点物だったカーテンの柄と窓際の加湿器のくたびれ具合でかろうじて自分の部屋の中だという見当がついた。確信が持てないのはここ2年の間その8割がゴミ袋の中に埋もれていたフローリングの全てがが露出している点、そして跳ね起きた私のすぐ横でビクッと驚きを露わにするが既にいたことだった。

「び、ビックリさせないでっ……ください。溢したらどうするんですか」
「ふぇあっ!あ、すいません……って、どちら様ですか?」

 頭1つ分高い位置からこちらを見下ろす栗色の瞳。メイクの上からでも分かるきめ細かい肌とその真ん中でこじんまりと佇む鼻先はまるで日本人形みたいな無機質で、それでいて表情の機微を分かりやすくしてる。合わせて背中の向こうと耳元に垂れる黒髪もダメ押しの艶やかさ。そしてそんな目を奪われそうな姿を台無しにしている2点が左手に握られている「醤油のかつら」のカップ麺と右手首に巻かれていた真新しい包帯だった。───彼女だ。

「あっ……!」
「……」
「えぇ、いやぁ……その……」

 し、仕方なくなくない?!深夜の道で明かりもほとんど無くて顔なんて分かんなかったんだから!

「お湯」
「?……ははいっ!」
「お湯、使わせて頂きました」

 そう言うと彼女は足音も立てずにそっとと私の視線から外れて部屋の真ん中に置かれた折りたたみのローテーブルについてしまった。(というかウチにあんな家具あったっけ?)あそこまで綺麗な姿勢での正座をされると前に置かれたカップ麺でさえもなんだか高級そうな佇まいを醸し出してくる。ミスマッチなことには変わりないんだけど、私は窓から差し込んでくる朝日をバックに今まさに割り箸を割ろうとする彼女の一枚画に思わず見とれて放心状態のまま流しの横で立ちっぱなしだった。そこに今まさにパキンと箸を割った彼女の方から口を開かれる。

「何か言いたいことが?」

 ぎょろりと大きな瞳が2つ、湯気を立てる円筒の向こうからこちらを見上げている。動かなくてもまるで全身を細かく観察されているみたいにじっとこっちを見つめる彼女に対して返す言葉が思い浮かばずに、反射的に私はテーブルを挟んだ彼女の向かいに慣れない正座でシュバッと座った。正直、「何で一晩経ってウチにいるんですか?」と聞きたい気持ち話山々だったけどこんな落ち着きのない頭で質問をして噛みつかれるのは避けたかった、蛇みたいなじっとりとした彼女の視線は私から向こうの手元に移っていく。朝の雀の鳴き声に応えるように今、ベリベリと大きな音を立てて彼女はカップ麺の蓋を剥がし去った。今は静かにしていよう、向こうが食べ終わるまで待ってそれから質問を────



──ぐぅぅうううぅ……ごごろぅ──



「……」
「……」

 う、うるせぇえええええ!!!!黙ってろ私の腹ぁああああ!!!!

 

 
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