明日の「具」足

社 光

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2話

2話「湯豆腐と水餃子」【3/3】

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「……」
「……」

 ほんの少し前に見た光景が今再び私の目の前で再演されている。窓の外はすっかり日が落ちて冬の夜が広がり、気持ち霞がかって見える私の寝ぼけ眼の真ん中で彼女、さかき 奈央なおはグラグラと煮立っている鍋の中身を右手ににじりしめたお玉で真剣な面持ちで弄りまわしていた。鍋の中身は無色透明、まごうこと無き単一物質。私の中の常識から判断してもいいのならこれは間違いなく「ただのお湯」で間違いない。私が空腹で朦朧としていた横で鍵を掛け忘れていた扉から勝手に侵入した彼女が、ここまでの準備を1人で終えていることに対しての恐怖、分かってもらえるだろうか……。

「んー……」
「あ、あのぉ……」
「静かにしてて。熱も無いみたいだし大事は無いとは思うけど、丸1日何も食べてないっていうんじゃ体に無理が出て当然でしょ」

 貴方のせいなんですけど……

「そのまま待ってて、すぐに出来るから」
「そうじゃなくてっ、何でまたウチに?」
「何でって……話し合いに来たに決まってるでしょ」

 まさかと思った。今朝決まった未定の日程がその日のうちに決定するなんてこと、それもその日の夜に。だけどこの人、榊さんはそれがあたかも社会の常識であるかのように平然とした口調で伝えてきた。鍋をかき回す手は止まることなく動き続けているけど、空っぽのお湯溜まりを相変わらず攪拌し続けながら時々こっちの様子をうかがうようにちらちらと上目遣いな視線を流すその姿に、私の頭の中は恐怖で埋め尽くされる。服の下でびっしりと立っている鳥肌を気合で押さえつけながら、私はこのサイコ予備軍との会話を途切れさせて彼女が豹変する事を防ぐためにリスク覚悟で禁断の質問をする。

「な、成程……、ところでそのお鍋は……何をしてるんです?」
「へ?……っあぁ!忘れてた!」

 どことなくわざとらしさを感じる驚き方をしたかと思うと彼女は立ち上がって台所に向かう。そして手に1つのコンビニ袋を提げて戻ってきた。袋の中には2、3個の何かしらが入っていてそのうちの1つを取り出すとペリペロと音を立てながら包装を解いてテーブルに置いた。

───きぬ───

 剥がされたフィルムのど真ん中に青字の明朝体でデカデカと、そのたった2文字だけで正体が理解できた。それ以上に私の心を捉えたのは今まさにそれを彼女が鍋に放り込もうとしているというこの瞬間だ!

「ちょっと待っ──」

───バチャチャッチャバ───

 跳ねる。煮えたぎる地獄の釜の中身が真っ白な絹ごし豆腐に押し出されて跳ね上がり、その全ての雫が熱量の一切を失わないままに私たち2人に降り注いだ。

「あっつ!!!」
「アッチャ!!!」

 妙に可愛らしいリアクションをとる彼女に思わず面食らったけど流石にストップでしょこれ。少し待ってと声をかける私の目の前で彼女は熱湯に怯みながらももう1つの「具材」だとおもう冷凍の水餃子の袋にまで手を伸ばそうとしているところだった。

「ちょっと落ち着いてもらえます?!話合いに来たんじゃないんですか?」
「そ、そうよ!でも貴方があんな有り様じゃまともな会話も出来なさそうだと思ったから、近くのコンビニで何か摘まめるものでもって!」

 「摘まめるもの」っていうより「摘まみ取るもの」って感じですね。

「あそこのコンビニの品ぞろえに文句を言ってくれる!?この時間におにぎりの1つも残ってないなんてこれだから大手以外は!」
「あぁ......あそこのアルペンは、そうなんですよねえ......」
「私だって夕飯がまだなの。早く食べて本題に入りましょう?私は火の面倒を見ておくから、貴方は何か調味料の類いでも用意してくれない?」

 グラつく自分の脳みそに目の前の異様な光景を現実だと必死に言い聞かせる。私物の鞄から取り出した小さなハサミでザクザクと袋を切り裂く彼女に言われるがままに私は台所の隅に残されていた醤油とラー油を持ってきた。限界にまで沸き立っていた鍋の湯は冷たい豆腐とさらに冷たい冷凍水餃子の力添えのおかげでそのパワーを大きく減らして比較的静かな水面になっている。だけどテーブルに持ってきた調味料2つを置いた瞬間、私の脳裏にこの現状における我が家の最大の欠点が思い浮かんでしまった。

「あの、ウチお皿無いんですけど......」
「えっ、無いって1つも?こう......お茶碗の小さい感じのやつとかも?」
「はい......」
 
 基本的に台所に立たず店のまかないの残りとコンビニ飯で命を繋ぐ私にとっては十分なんだけど。大きくため息を吐いてがっかりする彼女に対しての私の心境は穏やかではない。改めて考えたら意味分からんじゃん!事前の連絡もなく夕食会合の場所としてウチに侵入して勝手に湯豆腐パーティー始めて、取り皿がないってだけで何故に落ち込まれなきゃならんのだ!?

「ま、まぁ良いわ。じゃあこれにでも乗せましょうか」
「え、それにですか……?」

 明らかに自身の準備不足であることが明白でも関係なく、彼女、榊さんの強行によって早朝に中断された話し合いがその日の夜に夕食会と言う名で再開された。テーブルの真ん中には再び沸騰し始めた大量のお湯とその中の幾つもの四角い白色と半月状の白色が浮かんでは沈むのを繰り返している。無味無臭の熱湯地獄の中を漂う本日の主役たちを出迎える為に用意したのはポン酢を入れた木綿豆腐のパックだった。我ながら、こんなをするのは最初で最後にしたいと心から思う。

「「いただきます」」

 最初の一投ならぬ一箸を放つのをお互いが待っているのか、両手を合わせてしばらくの間箸を持ったまま沈黙の時間が流れた。向こうの表情が湯気でよく見えなくてこっちに譲っているのかどうかも判断が難しいから、一か八かでこっちから行動を起こす。お湯に突き刺さっていながらまるで出汁を出さない穴あきお玉をムンズとつかみ取ると空いたもう片方の手は向こうに差し出した。

「お、お取りしますか……?」
「えっ、あっ……じゃあ、お願い……」

 差し出されたプラスチックのパックを受け取って豆腐を1つ、餃子は2つくらい入れてみる。一緒にテイクアウトされた鍋のお湯で中のポン酢が少し薄まっていくのが見えると同時にパックを掴む手に強烈な熱を感じ始めて、思わず向こうのテーブルに「あちらのお客様からです」といった具合に滑らせてしまった。

「ひゃわっ!」
「あっ!すいません!」
「なっ……くぅぅ、だ、大丈夫よぉ」

 語調を抑えながらそう言ってくれてはいるけど湯気の向こうで二の腕から先をブンブン振って熱さを紛らわしている様子が見えた。取り敢えず私は自分の取り皿のような燃えないゴミに豆腐と餃子1つずつを放り込んで向こうの箸が動くまで大人しくしていることにした。目の前には湯気、向こうには被害者、真下には約30時間ぶりの食事がそれぞれが私にとって重大な存在ではあるんだけど、今の私の身体にはこのお湯でぼやけたポン酢の香りでさえ殺人的なまでに響いてきてしまう。ごめんなさい!いや済まん早く食わせろ!こちとら自分せいとはいえもう胃袋通り越して腸の中身まで空っぽになりそうな勢いなんじゃい!

「はぁー、ふーふー」

 湯気の向こうで榊さんはそぉーっとパックを持ち上げて箸でどちらかを1つ掴んで息を吹きかけている。猫舌でなくともあれは躊躇だろう。まるで型に入れて押し固めた溶岩だ、不用意に口に含めば負傷は免れない。

「ハッホォッ、ホォホォホォ!」

 だけど目の前の女性は不用意にも掴んだ食材を丸ごと口に放り込んで悶絶していた。昨夜、その姿を見た時に感じた社会人らしさやそこから醸し出されるスマートさは見間違いだったのか、合宿所の食堂ではしゃぐ女子卓球部員くらいにしか見えない。あそこまで忙しないように見えるのが何故か分からないけど彼女のそのどこかコミカルな仕草で無意識に緊張がほぐれ、私は自分の清算しなければいけない深刻な現実を一先ず棚上げして適度な温度にまで下がっただろう水餃子を1つ頂いてみた。

「ほっふぁあっ」

 まだ熱い!もっちりとした皮は隅々まで十二分に加熱されて必要以上に柔らかくなったせいでほっぺの裏側にくっ付きそうになる。それでもこの中から染み出る肉と野菜の旨味、そして皮の食べ応えは今の私には誇張無しに救いの神だ。脳にダイレクトに伝わる幸福感、食事の温かさが神経にゆっくりと充填されていき、気付いたらこの旨味の染み出す柔らかな爆弾をゆっくりと、そして何度も噛みしめていた。
 カセットのガスが切れたのか次第に舞い上がり続けていた湯気が止まってお互いの顔が見え始めていたのだけど、30時間ぶりの旨味に既に私は我を忘れていた。私は手の甲に跳ねるお湯や肉汁の熱さも気にならない程に目の前の鍋にのめり込み、お玉の5往復で確保した自分のを貪り食っていた。

「だ、大丈夫?」
「はぅ!どぅあ大丈夫、です……」

 慈愛と哀れみに満ちた視線。昨日自転車でぶつかった相手に食事の様子で真剣に心配されてるなんて、親が見たら泣くなこれは。ようやく空になり熱でボコボコに変形していた豆腐パックを静かに置いて私はゆっくりと深く深呼吸すると本題を自ら切り出した。

「どう、しますか……?」
「へ?」
「いや、賠償とか示談とか……今朝の話の続き。おかげさまでお腹も落ち着いてきたので大丈夫、話せます」
「落ち着いてるって、ホントに?」

 貴方に言われたくない。

「それなりには、ですけど」
「そう。じゃあまぁ、それね……」

 神妙な面持ちで箸を置き榊さんは顔を伏せた。こっちに聞き取れないくらいの大きさで何か囁いているようにも見えたけど何を言っているのかは全く分からない。用意してもらったものに対して「それなり」とか言ってしまって気を悪くしたのだろうか……。少しの間気まずい雰囲気が続いた後、垂れる黒髪の艶の脇から気持ちスッキリしたようにも見える彼女の顔が上がる。

「ねぇ、物は相談なんだけど……しばらくここで考えさせてもらうってことは、出来る?」
「……え?」
「えぁいや!つまり……いや違うな……もうしばらくは、良いかなって」
「でもさっき話し合いに来たって───」
「きっ!気が変わる事なんて誰にでもあるでしょ!とにかく、今この場で結論を出すのは止めにしましょう。貴方だって万全な状態で自分の主張をしたいだろうし、もうこんな時間だしね」

 嘘っ、びっくりして時間を確認しようと振り返るとロフトの梯子の脇に掛けてある時計が丁度22時を回ったところだった。信じられない時間眠ってたらしい。それとも目の前で行われていた熱気むんむんのこのお祭り騒ぎに時間が経つのも忘れてのめり込んでしまっていたのか、今となっては分からない。今の彼女の話が本心であるなら私としてもありがたいことは事実だ、ここは素直に従おう。

「そういった話なら、私は合わせます」
「じゃあ、また改めて……ね。今日は急に訪ねてごめんなさい。次は事前に連絡を入れるから」

 言葉を結び終わって立ち上がった彼女の顔は昨夜のようなキツめの凛々しさを取り戻していた。ローテーブルからゆっくりと腰を上げ、ビジネスバッグの肩紐をキュっと引き上げると彼女は玄関に向かう道すがらにすれ違う座ったままの私の方に一瞬だけ目配せをした……様な気がした。

「───あ。そうだ」

 そして彼女はそう言ってパンプスに足を通すことを中断し、せめて見送ろうと慌てて立ち上がってせいで足の痺れに静かに苦しんでいた私に向かって問いかける。私としてはその声が昨夜出会ってから今までで彼女から聞いた一番自然な声色だった。

「貴方、名前は?」

 そういえば。聞かれたのは久しぶり。教えていなかったことに思い至る余裕すらなかったことを嘆きながらも、ある程度満たされたお腹具合の私は気持ち上機嫌にも聞こえるようなトーンで言った。

哀留アイルみなもと 哀留アイルって、言います」
「……」
「変な名前ですよね」
「───でも、似合ってると思うよ。じゃあみなもとさん、おやすみなさい。またよろしくね」
「えぇ、また……」

 瞬きの間に玄関の扉はばたりと閉じられる。冬の寒さが吹き付ける向こう側に彼女、さかき 奈央なおは消えた。再び会うことを約束して、私の意識に自身の存在をクッキリと刻み付けて行った。

「……変な名前って、認めるんかい」

 
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