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9話
9話「グラタンにもご用心」【3/3】
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───カランカラン───
見た目よりも軽い木製のドアに付けられたベルが私たちの来訪を店中に知らせる。お店の中はファミレスより暗くてバーよりも明るいかなという感じ。さっきまで鋭く尖った冬の空気を吸っていた気道と鼻腔に暖かくてまろやかな空気が伝わってくる。洋食を作るキッチンから香るその角の無いボリューミーな香りはどことなく親近感が湧いた。というよりさっきまで仕事場で嗅いでいた匂いだ。
「いらっしゃいませぇ」
「あの、2人なんですけど」
「ではそちらのテーブル席にどうぞ~」
奥のキッチンから顔を出した店主さんらしき人が席を案内してくれる。因みに彼の挨拶に応えたのは榊さんだ。私は店内の木目調の内装やどことなく北欧チックなデザインの小物を目で追ってしまっていて、後で彼女から聞いてみたら2、3回程向こうからの案内を無視してしまっていたらしい。申し訳ない。
「どうぞ榊さん」
「わざわざ上座に?」
「それはまぁ、やっぱり」
入り口から奥の席が目上の席。高校生の頃に行った幼稚園の同窓会で聞きかじった知識だけど一応は合っていたみたいで良かった。榊さんはクスクス笑ってたみたいだけど。榊さんの側はソファー席、私の方は普通の椅子タイプで上着を脱いで隣の椅子に引っ掛けようとすると榊さんが「こっちに置く?」と気を遣ってくれる。でも今は遠慮しておいた。買ってからのこの4年間、この上着をクリーニングに出した記憶なんて無かったし……。
「じゃあ、何食べますか?」
「そりゃやっぱグラタンじゃない?」
「ホントに大丈夫ですか?さっきいきなり提案しちゃった感じですけど」
「大丈夫。もう完全にグラタンの口になっちゃってるもの。それとも哀留は、他に食べたいものとかある?」
それがあるのだ。お店に入った時に嗅いでしまった飴色の香り、おまけにこの席に向かう途中に横目に挟んだ他のお客さんのテーブルに並ぶ鉄板の数々、そういった余分な刺激を受けた私の胃袋はかなりの比重をハンバーグを食べたい欲に占有されてしまっている。身勝手なのは百も承知、でもそうゆう己の欲望に素直になれるのはこういう「皆にとっての記念日」の特権であるはずじゃない?と私の中の天使と堕天使が2人揃って交互に囁きかけてくる。非常に申し上げづらい事だけど一応は提案してみても……どうだろうか……。
「は、ハン……」
「あ、ハンバーグにする?」
『哀留はどうする?やっぱりハンバーグ?』
……あ。
「ハっ!ハンバーグドリアに!」
「えっ、あぁこれ?うん、美味しそうね」
咄嗟に指さしたメニューの右下、店の目玉らしい多種類のオーブンメニューの一番下に小さく張られたパワーメニュー。私が自分の発案からの心変わりで申し訳なく思って慌てているのだと榊さんは思ってくれているのか、彼女は額に汗しながら唐突に息の上がっている私を見て微笑んでくれていた。
「ご、ごめんなさい……」
「ううん大丈夫!折角のクリスマスだもの、自分が食べたいもの食べなきゃ」
「榊さんも、お好きなもので大丈夫ですから……」
「私はグラタンにする。やっぱりもうお腹具合変わらないから。まぁでも、じゃあ折角だしこっちのエビが入ってる方にしようかな?」
メニューを指差す榊さんの目はとても輝いていた。私は自分の内で生じそうになった無用な心配事も昔の思い出もいったん胸の中にしまい込み、自分を見つめながら目の前で爛々とする瞳に大きく頷く。
「すいません。2人でご飯に行くのってかなり久しぶりで、つい興奮しちゃったみたいで」
「あぁ……」
だけどその言葉を聞いた榊さんの目からは瞬時に光が弱まり、なにやらテーブルに視線を落としてブツブツと呟いている。
「あ、哀留は、こういう風に誰かとご飯に行ったことあるの?」
その質問の口調にはさっきまでの快活さや歯切れの良さが見受けられなくなり、どことなくそう……もじもじとしている。
「最近は無いですけど、そうですね。2年くらい前に芽衣子と───」
「そ!それはその……どういう?!」
「どういうって言っても……夏の中番に一緒にバイトを上がって、帰りにラーメンを───」
「芽衣子さんって、この間のあの人よね……」
榊さんの声が押し潰れそうなまでに急速に擦れていく。
「そうですね……」
「彼女は、まぁなんていうか……そういう……あんぁ───」
「あぁ」
ようやく彼女の内心にある程度の察しがついた。まぁ自分の立場で考えても多少は気になる事だし、気にしてくれること自体嬉しい。でもまぁ、また電車の中での生娘みたいな態度になられても困るのでさっさとはっきり否定しておこう。
「そういうんじゃないですから、安心してください」
「ほ、ほんと……?」
「えぇ、彼女、バリバリのノンケですから」
「ノッ、ノンケって……?」
「男の人が好きってことです」
その言葉で榊さんは胸を撫で下ろす。多少のいたずら心が私にあればもう少し臭わせるようなことをかましていたんだろうけど、生憎と私は彼女のそういう可愛さの部分に惹かれたわけじゃないからね。まぁ……可愛かったのは確かだけど。
「お待たせいたしました」
そうこうしているとドリンクが運ばれて来る。食前に頼んだのはジンジャエールと赤ワイン。アルコールを頼んだのは榊さんだけだ。私はどうにも───
「それとこちらも」
そのとき、グラス2つに続くようにテーブルに投入されたのは小さめのボトル、小難しい英語のラベルの内側で揺れるクリアカラーの水面は私が見る限りどう見ても白ワインだった。注文時に付け加えた覚えも無く、榊さんと2人、困惑しながら視線を交えていると、
「こちら、オーナーからです」
といったなんともトレンディな返答がきた。彼が言うにはクリスマスも終盤にわざわざ夜を過ごしにやってきてくれた私達へのささやかな祝いだという。それを聞いて周りのテーブルを見回してみれば埋まっている3つの席には全てボトルが置かれていた。
「どうもありがとうございます。頂きます」
「それでは、料理の方はもう少々お待ちくださいませ。メリークリスマス」
困惑し続ける私に対して榊さんは事態と店主のご厚意を素直に飲み込みボトルを受け取った。頼んだ飲み物の以外で白ワイン用に置かれたワイングラス2つのうち、1つをこっちに渡してくれたけど、私はどうにも───
「哀留?」
どうにもアルコールの類、特にワインは苦手だ。酒類は味は美味しそうなものは多いけど後始末が手に負えなくなりかねない、酔いが回った自分の始末が。
「……えぇ、じゃあ少しお願いできますか?」
でも今日はクリスマスだ。誰を祝うでもない2人で過ごす初めての記念日。1人でお酒を飲ますことになりそうな負い目は感じなくも無かったから、私は差し出されたグラスを受け取って白ワインを注いでもらった。ぽっかりと開いたグラスの口から漂う芳醇が私の脳を揺さぶってくる。この香り、ブドウの匂いが、堪らなく苦手だと言わないまま、お互いに注がれたグラスを持ち上げた。自分が望んだ幸福を自分の意志で、自分の記憶に刻み付けられる素晴らしい日に、水を差すようなことを言いたくなかったから。
「じゃあ───」
「えぇ───」
「「メリークリスマス」」
グラスを合わせ今日という日を祝いながらワインを飲んだ。舌が飲み慣れない味わいと成分の分析結果を一気に脳に送ってくる。この複雑な味わいはもっとふさわしい人の元に届けられるべきだと分かってはいるけど、それでも榊さんと同じ味わいを感じられたという幸せを素直に受け止めるために、私はグラスの中のワインを3、4口で飲み干してしまった。
「うっぷ」
「だ、大丈夫!?」
顔が熱くなる、頭も目玉も。目の前に見つめる者がいてくれて助かった、何も無ければこのまま眠ってしまいたい気分だ。
『これで大人の仲間入りだな!』
「えっへへ、大丈夫ですよ」
「お待たせしました、こちらハンバーグドリアとエビグラタンです」
少し時間がかかると言われた料理が出て来たという事は、私の体内時計は尋常ではないくらいの勇み足で時を刻んでいるんだろう。それが幸せかなことなのかは、運ばれてきたこの聖夜の熱い熱い雪山が教えてくれるはずだ。
「凄いね……」
「えぇ、ホント」
煮えたぎるホワイトソース、最上段で熱気を放ちながら所々で未だにはじけ続けるこんがりとしたチーズを振りかけられたパセリの色味が引き締める。中に詰まっている物が魚介か肉かという違いはあれど紛れもなくこれは有史以来人類が定義してきた「ご馳走」と言える料理だ。耐熱皿の中で踊る幸せの塊を目の当たりにした私の頭にはノイズも多少伝わりづらくなり、ワインの残り香をこの香ばしさで上書きするためにも一旦深呼吸をする。
「ふぅわはー……」
肺が広がる、舌が浮く。分泌されまくった脳内麻薬はまずその渇望だけを実体化させたらしく、気付くと両手を合わせる前の私の右手には既にスプーンが握られていた。
「あっ、」
「……んふっ」
その笑顔は見た私の心、下卑た欲望も清廉な憧れも内包したこの胸の内を瞬時に満たした。今日という1日を頑張った成果として私はその光景を記憶の中にしまい込む。軽く握った手、長くしなやかな人差し指を口元に当てながら微笑む彼女、榊 奈央の凛々しくも柔らかな佇まい。平時なら白米3杯は進むだろうその笑顔を瞳に焼き付けた私の顔は多分グラタンよりも熱を持ち、榊さんの頼んだワインよりも真っ赤になっていただろう。
「頂きます!」
「ふふ、頂きます」
バレているかも分からない照れを隠すために熱々の皿に手を伸ばし、底から掬い上げるようにドリアの一片をスプーンに乗せるとそれを一気に口の中に放り込んだ!
「ッハ!……っふぉぁっほぉふぉっふぉ───」
まさに灼熱、とろけた黄金。微かに感じるハンバーグのコクとホワイトソースの旨味を遮る程に熱い壁。噛みしめる前からすごく美味しいという事が分かるこのご馳走を、私は口に含んでから20秒近くの間ずっと噛まずに転がすしかなかった。ソースが染みこみ、チーズは張り付く。そして美味しい!グルメでなくてもコンビニのソレとはレベルが違うのが分かるし、それでこそ早く口の中で冷ましてこの旨味の塊を噛みしめたいと思った。
「ふぉっふ、……んぐ」
そして1回、2回、続けて10回ほどの咀嚼を経てようやく1口が終わる。美味しさとはすなわちカロリー、背徳的なまでの濃さとボリューム。それはリスクを背負ったものだけがたどり着ける境地だ。この素晴らしい日に、最高の人と一緒に、こんな幸せを味わえることに、私は久々に感謝した。誰にでもなくこの状況を作り上げる全ての存在に対して。
「……美味しい!どうですか榊さ───」
「フーッッフーッフーフー」
私は食べ物の好みを聞いただけでもう1つ大事なコトを聞かないでしまっていたらしい。私が1口目の感動に打ち震えているその眼前で、榊さんはフォークの先端に突き刺さったエビとマカロニに擦り切れそうなほどの熱視線を浴びせつつ、その音がしっかりと言語化されて聞えるレベルにまで激しい息を吹きかけてそれらを冷まそうとしていた。
「あ……」
「んぅ!」
私がその様子を観察している気配を感じて慌てたように榊さんは顔を上げる。私は自分の欲望と彼女の尊厳を(今のところは)傷つけない為に、さも自分の食事に噛り付いて顔を上げる暇さえないわんぱくを演じ続けた。口元と伏せた目線の上から同じくらいの熱を感じつつ息を漏らして獲物にがっつき続ける。そして自分のお皿の上が半分ほど空になったところで恐る恐る顔を上げてみると、なんとそこにいた榊さんはようやく2口目であろうフォークに刺さったマカロニ2本を口に入れようとしているところであったのだ!
「んっ!ど、どうかした?」
「いっ、いえ別に!!!……ただその……」
「?」
「今、同じ気持ちなのかなって……少し心配になったというか……」
我ながら迂闊に自分の素直な危惧を吐き出した。
「……多分、そうだと思うよ」
「んふっ!!!」
そして熱さに苦しむ彼女より、そのときの私はむせ返る。自分の身に余る余りにも大きな幸福を目の前に置かれ、それに値すしないであろう自分の心がとてつもなく矮小に見えた。ただまぁそれでも───
「じゃあ、最高ですか?」
「当たり前でしょ!」
今はまだ、いいよね。
『メリークリスマス!』
見た目よりも軽い木製のドアに付けられたベルが私たちの来訪を店中に知らせる。お店の中はファミレスより暗くてバーよりも明るいかなという感じ。さっきまで鋭く尖った冬の空気を吸っていた気道と鼻腔に暖かくてまろやかな空気が伝わってくる。洋食を作るキッチンから香るその角の無いボリューミーな香りはどことなく親近感が湧いた。というよりさっきまで仕事場で嗅いでいた匂いだ。
「いらっしゃいませぇ」
「あの、2人なんですけど」
「ではそちらのテーブル席にどうぞ~」
奥のキッチンから顔を出した店主さんらしき人が席を案内してくれる。因みに彼の挨拶に応えたのは榊さんだ。私は店内の木目調の内装やどことなく北欧チックなデザインの小物を目で追ってしまっていて、後で彼女から聞いてみたら2、3回程向こうからの案内を無視してしまっていたらしい。申し訳ない。
「どうぞ榊さん」
「わざわざ上座に?」
「それはまぁ、やっぱり」
入り口から奥の席が目上の席。高校生の頃に行った幼稚園の同窓会で聞きかじった知識だけど一応は合っていたみたいで良かった。榊さんはクスクス笑ってたみたいだけど。榊さんの側はソファー席、私の方は普通の椅子タイプで上着を脱いで隣の椅子に引っ掛けようとすると榊さんが「こっちに置く?」と気を遣ってくれる。でも今は遠慮しておいた。買ってからのこの4年間、この上着をクリーニングに出した記憶なんて無かったし……。
「じゃあ、何食べますか?」
「そりゃやっぱグラタンじゃない?」
「ホントに大丈夫ですか?さっきいきなり提案しちゃった感じですけど」
「大丈夫。もう完全にグラタンの口になっちゃってるもの。それとも哀留は、他に食べたいものとかある?」
それがあるのだ。お店に入った時に嗅いでしまった飴色の香り、おまけにこの席に向かう途中に横目に挟んだ他のお客さんのテーブルに並ぶ鉄板の数々、そういった余分な刺激を受けた私の胃袋はかなりの比重をハンバーグを食べたい欲に占有されてしまっている。身勝手なのは百も承知、でもそうゆう己の欲望に素直になれるのはこういう「皆にとっての記念日」の特権であるはずじゃない?と私の中の天使と堕天使が2人揃って交互に囁きかけてくる。非常に申し上げづらい事だけど一応は提案してみても……どうだろうか……。
「は、ハン……」
「あ、ハンバーグにする?」
『哀留はどうする?やっぱりハンバーグ?』
……あ。
「ハっ!ハンバーグドリアに!」
「えっ、あぁこれ?うん、美味しそうね」
咄嗟に指さしたメニューの右下、店の目玉らしい多種類のオーブンメニューの一番下に小さく張られたパワーメニュー。私が自分の発案からの心変わりで申し訳なく思って慌てているのだと榊さんは思ってくれているのか、彼女は額に汗しながら唐突に息の上がっている私を見て微笑んでくれていた。
「ご、ごめんなさい……」
「ううん大丈夫!折角のクリスマスだもの、自分が食べたいもの食べなきゃ」
「榊さんも、お好きなもので大丈夫ですから……」
「私はグラタンにする。やっぱりもうお腹具合変わらないから。まぁでも、じゃあ折角だしこっちのエビが入ってる方にしようかな?」
メニューを指差す榊さんの目はとても輝いていた。私は自分の内で生じそうになった無用な心配事も昔の思い出もいったん胸の中にしまい込み、自分を見つめながら目の前で爛々とする瞳に大きく頷く。
「すいません。2人でご飯に行くのってかなり久しぶりで、つい興奮しちゃったみたいで」
「あぁ……」
だけどその言葉を聞いた榊さんの目からは瞬時に光が弱まり、なにやらテーブルに視線を落としてブツブツと呟いている。
「あ、哀留は、こういう風に誰かとご飯に行ったことあるの?」
その質問の口調にはさっきまでの快活さや歯切れの良さが見受けられなくなり、どことなくそう……もじもじとしている。
「最近は無いですけど、そうですね。2年くらい前に芽衣子と───」
「そ!それはその……どういう?!」
「どういうって言っても……夏の中番に一緒にバイトを上がって、帰りにラーメンを───」
「芽衣子さんって、この間のあの人よね……」
榊さんの声が押し潰れそうなまでに急速に擦れていく。
「そうですね……」
「彼女は、まぁなんていうか……そういう……あんぁ───」
「あぁ」
ようやく彼女の内心にある程度の察しがついた。まぁ自分の立場で考えても多少は気になる事だし、気にしてくれること自体嬉しい。でもまぁ、また電車の中での生娘みたいな態度になられても困るのでさっさとはっきり否定しておこう。
「そういうんじゃないですから、安心してください」
「ほ、ほんと……?」
「えぇ、彼女、バリバリのノンケですから」
「ノッ、ノンケって……?」
「男の人が好きってことです」
その言葉で榊さんは胸を撫で下ろす。多少のいたずら心が私にあればもう少し臭わせるようなことをかましていたんだろうけど、生憎と私は彼女のそういう可愛さの部分に惹かれたわけじゃないからね。まぁ……可愛かったのは確かだけど。
「お待たせいたしました」
そうこうしているとドリンクが運ばれて来る。食前に頼んだのはジンジャエールと赤ワイン。アルコールを頼んだのは榊さんだけだ。私はどうにも───
「それとこちらも」
そのとき、グラス2つに続くようにテーブルに投入されたのは小さめのボトル、小難しい英語のラベルの内側で揺れるクリアカラーの水面は私が見る限りどう見ても白ワインだった。注文時に付け加えた覚えも無く、榊さんと2人、困惑しながら視線を交えていると、
「こちら、オーナーからです」
といったなんともトレンディな返答がきた。彼が言うにはクリスマスも終盤にわざわざ夜を過ごしにやってきてくれた私達へのささやかな祝いだという。それを聞いて周りのテーブルを見回してみれば埋まっている3つの席には全てボトルが置かれていた。
「どうもありがとうございます。頂きます」
「それでは、料理の方はもう少々お待ちくださいませ。メリークリスマス」
困惑し続ける私に対して榊さんは事態と店主のご厚意を素直に飲み込みボトルを受け取った。頼んだ飲み物の以外で白ワイン用に置かれたワイングラス2つのうち、1つをこっちに渡してくれたけど、私はどうにも───
「哀留?」
どうにもアルコールの類、特にワインは苦手だ。酒類は味は美味しそうなものは多いけど後始末が手に負えなくなりかねない、酔いが回った自分の始末が。
「……えぇ、じゃあ少しお願いできますか?」
でも今日はクリスマスだ。誰を祝うでもない2人で過ごす初めての記念日。1人でお酒を飲ますことになりそうな負い目は感じなくも無かったから、私は差し出されたグラスを受け取って白ワインを注いでもらった。ぽっかりと開いたグラスの口から漂う芳醇が私の脳を揺さぶってくる。この香り、ブドウの匂いが、堪らなく苦手だと言わないまま、お互いに注がれたグラスを持ち上げた。自分が望んだ幸福を自分の意志で、自分の記憶に刻み付けられる素晴らしい日に、水を差すようなことを言いたくなかったから。
「じゃあ───」
「えぇ───」
「「メリークリスマス」」
グラスを合わせ今日という日を祝いながらワインを飲んだ。舌が飲み慣れない味わいと成分の分析結果を一気に脳に送ってくる。この複雑な味わいはもっとふさわしい人の元に届けられるべきだと分かってはいるけど、それでも榊さんと同じ味わいを感じられたという幸せを素直に受け止めるために、私はグラスの中のワインを3、4口で飲み干してしまった。
「うっぷ」
「だ、大丈夫!?」
顔が熱くなる、頭も目玉も。目の前に見つめる者がいてくれて助かった、何も無ければこのまま眠ってしまいたい気分だ。
『これで大人の仲間入りだな!』
「えっへへ、大丈夫ですよ」
「お待たせしました、こちらハンバーグドリアとエビグラタンです」
少し時間がかかると言われた料理が出て来たという事は、私の体内時計は尋常ではないくらいの勇み足で時を刻んでいるんだろう。それが幸せかなことなのかは、運ばれてきたこの聖夜の熱い熱い雪山が教えてくれるはずだ。
「凄いね……」
「えぇ、ホント」
煮えたぎるホワイトソース、最上段で熱気を放ちながら所々で未だにはじけ続けるこんがりとしたチーズを振りかけられたパセリの色味が引き締める。中に詰まっている物が魚介か肉かという違いはあれど紛れもなくこれは有史以来人類が定義してきた「ご馳走」と言える料理だ。耐熱皿の中で踊る幸せの塊を目の当たりにした私の頭にはノイズも多少伝わりづらくなり、ワインの残り香をこの香ばしさで上書きするためにも一旦深呼吸をする。
「ふぅわはー……」
肺が広がる、舌が浮く。分泌されまくった脳内麻薬はまずその渇望だけを実体化させたらしく、気付くと両手を合わせる前の私の右手には既にスプーンが握られていた。
「あっ、」
「……んふっ」
その笑顔は見た私の心、下卑た欲望も清廉な憧れも内包したこの胸の内を瞬時に満たした。今日という1日を頑張った成果として私はその光景を記憶の中にしまい込む。軽く握った手、長くしなやかな人差し指を口元に当てながら微笑む彼女、榊 奈央の凛々しくも柔らかな佇まい。平時なら白米3杯は進むだろうその笑顔を瞳に焼き付けた私の顔は多分グラタンよりも熱を持ち、榊さんの頼んだワインよりも真っ赤になっていただろう。
「頂きます!」
「ふふ、頂きます」
バレているかも分からない照れを隠すために熱々の皿に手を伸ばし、底から掬い上げるようにドリアの一片をスプーンに乗せるとそれを一気に口の中に放り込んだ!
「ッハ!……っふぉぁっほぉふぉっふぉ───」
まさに灼熱、とろけた黄金。微かに感じるハンバーグのコクとホワイトソースの旨味を遮る程に熱い壁。噛みしめる前からすごく美味しいという事が分かるこのご馳走を、私は口に含んでから20秒近くの間ずっと噛まずに転がすしかなかった。ソースが染みこみ、チーズは張り付く。そして美味しい!グルメでなくてもコンビニのソレとはレベルが違うのが分かるし、それでこそ早く口の中で冷ましてこの旨味の塊を噛みしめたいと思った。
「ふぉっふ、……んぐ」
そして1回、2回、続けて10回ほどの咀嚼を経てようやく1口が終わる。美味しさとはすなわちカロリー、背徳的なまでの濃さとボリューム。それはリスクを背負ったものだけがたどり着ける境地だ。この素晴らしい日に、最高の人と一緒に、こんな幸せを味わえることに、私は久々に感謝した。誰にでもなくこの状況を作り上げる全ての存在に対して。
「……美味しい!どうですか榊さ───」
「フーッッフーッフーフー」
私は食べ物の好みを聞いただけでもう1つ大事なコトを聞かないでしまっていたらしい。私が1口目の感動に打ち震えているその眼前で、榊さんはフォークの先端に突き刺さったエビとマカロニに擦り切れそうなほどの熱視線を浴びせつつ、その音がしっかりと言語化されて聞えるレベルにまで激しい息を吹きかけてそれらを冷まそうとしていた。
「あ……」
「んぅ!」
私がその様子を観察している気配を感じて慌てたように榊さんは顔を上げる。私は自分の欲望と彼女の尊厳を(今のところは)傷つけない為に、さも自分の食事に噛り付いて顔を上げる暇さえないわんぱくを演じ続けた。口元と伏せた目線の上から同じくらいの熱を感じつつ息を漏らして獲物にがっつき続ける。そして自分のお皿の上が半分ほど空になったところで恐る恐る顔を上げてみると、なんとそこにいた榊さんはようやく2口目であろうフォークに刺さったマカロニ2本を口に入れようとしているところであったのだ!
「んっ!ど、どうかした?」
「いっ、いえ別に!!!……ただその……」
「?」
「今、同じ気持ちなのかなって……少し心配になったというか……」
我ながら迂闊に自分の素直な危惧を吐き出した。
「……多分、そうだと思うよ」
「んふっ!!!」
そして熱さに苦しむ彼女より、そのときの私はむせ返る。自分の身に余る余りにも大きな幸福を目の前に置かれ、それに値すしないであろう自分の心がとてつもなく矮小に見えた。ただまぁそれでも───
「じゃあ、最高ですか?」
「当たり前でしょ!」
今はまだ、いいよね。
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