上 下
18 / 53
第一部

5-2.ムカつくあいつは優しかったのに

しおりを挟む
 小さな物音を感じてまどろみから目覚めた。
 外は雨が降っていたらしい。
 さらさらと地面を打つ水音は汗ばんだ肌に涼しく聞こえた。
 見慣れた天井は自分の部屋に違いない。
 なのに、ふわふわとした意識はこれが夢か現実か掴みかねていた。

「あー……起こしちまったか」

 すぐ近くで聞こえた声に目を向けると、そこには黒いローブ姿のロシュがいた。
 手には教科書を抱えているようで、今日もアリシアの机はノートが山積みになっていた。

「昼休みだから様子見に来たんだよ。水、飲むか?」

 小さく頷くとそっと身体を起こしてくれて、水の入ったコップを口に当ててくれる。
 どうやらひどく喉が渇いていたようで、気怠い身体で一気に飲み干した。

「ありがと……授業、どう? 進んじゃってるかな」

「お前ならたった二日休んだくらいでどうにもなんねぇだろ。
 ああ、面白いことならあったな。あのクソ教師が今日も間違えやがった」

「また喧嘩売ったんでしょ?」

「訂正だよ、訂正。だってよ、ジャバウォックはドラゴンだなんて断定するか?」

「あれって正体不明の怪物でしょ? ドラゴンはただの一例だから決めつけるのは難しくないかなぁ」

「だよな。やっぱ俺が教壇立ったほうがましだろ。あー、でもあの馬鹿ども相手にすんのは嫌だな」

 本気で嫌がっている様子は面白さすら感じる。
 くだらないことで笑いあえるのは、今のアリシアにとってありがたいものだった。
 一人きりの部屋で眠りと目覚めを繰り返し、得体の知れない紋章に怯える時間は苦痛でしかない。
 かといっていつ発動するかも分からない呪いを抱え、他人と会いたいとも思えなかった。

「身体、どうなんだよ。飯食ってるか?」

「寝てるだけだからお腹空かないんだよね」

「ただでさえチビガリなんだからよ。食わねぇと貧乳が加速するぞ」

「うるさいなぁ、もう」
 
 普段なら勢いよく噛みつくはずなのにその元気すら湧いてこない。
 それはロシュも感じ取ったのか、僅かに眉を寄せていた。
 昔はそれを不機嫌な顔だと思っていたが、今は心配からだと分かっている。

「初めて会った時さ、あたし、すんごい失礼だったよね?」

「あー……そうだったか?」

「そうだよ。あれでよく一緒に居てくれたね」

「来んなって言ってもついてきたのはお前だろ? お前こそ、よくついてきたよな」

「だってロシュと居るといろんなこと知れるんだもん。
 先生も知らないことを教えてもらえるなんて、離れるわけないよね」

「俺が知ってることはまだまだあるからな。呪いは絶対に解いてやるから、また食らいついてこいよ」

 そう言って、ロシュはアリシアの頭をそっと撫でた。
 ずっと横になっているから寝癖がついていないだろうか。
 不安になって手を伸ばそうとするが、心地よい感触にじっとしていることにした。
 ロシュも特に話をすることもなく、ただただ優しい手つきで触れてくれる。
 その心地よさのせいか、ふと浮かんだことが零れてしまった。

「なんかね……夢、見るの。ずっと」

 薄暗い部屋で、ロシュの瞳に影が下りる。
 そろそろ午後の授業が始まる時間だが、ロシュが立ち上がる気配はない。
 それが自分を受け入れてくれているように感じ、アリシアはほっと息を吐いた。

「男の人の声がね、あたしを急かすの。もっと集めろ、搾り取れって」

「……それ、本当に夢なのか? 詳しく話せ」

「分かんない。けど、暗いのに眩しくて、赤紫色がちかちかしてて。
 むじょう? の、魔力を集めろって、ずっとずっと言い続けるの」

 魔力に種類があるなんて聞いたことがない。
 ロシュなら分かるだろうかと目を向けると、赤い瞳が大きく見開かれていた。
 それは明らかに驚いているようで、同時に苛立ちのようなものも感じられた。

「あー……そういうことかよ」

 低い呟きのあと、赤い瞳がすっと細くなる。
 この目つき……初めて会った時と同じだ。
 それは先程までの温かさをまるで感じない、鋭く冷え切ったものだった。
 なのに全身から噴き出す雰囲気は熱く激しく、その差にどうしていいか分からなくなってしまう。
 何かおかしなこと、言っちゃった?
 困惑している間にロシュは立ち上がり、何も言わずに出ていこうとする。
 きっと、その背中は引き止めることを拒んでいる。
 そうと分かっていても、アリシアは身体を起こし必死に手を伸ばした。

「待って!」

「……なんだよ」

 振り返った顔はこちらを見てくれない。
 いつもだったら、どんな時でもしっかりと見つめ返してくれているのに。
 何がきっかけでロシュが豹変してしまったのかは分からない。
 けれど、今のアリシアはこのまま見送ることなど出来なかった。

「聞いてほしい、ことがあるの」

 呪いのせいで自分がこの先どうなってしまうか分からない。
 最悪の事態だってありうるかもしれない。
 そんな時に、ようやく気づけた気持ちを抱えたままでいいのだろうか。
 つい先日までは、好意を伝えたあとのことばかり考えていた。
 断られたら、この先気まずくなるかもしれない。
 呪いが発動してしまったら、ロシュを頼れなくなるかもしれない。
 好きな人が居るのに、見ず知らずの男性と繋がることになるかもしれない。
 そんな不安ばかりだったけれど、その未来すら不確定だから。
 気持ちを伝えなかったことを、後悔してしまうのではないか。
 言葉を残された側がどう思うかは分からない。
 それでも、口に出さなければ存在しないことと同じだから。
 強迫観念にも似た気持ちから、アリシアは胸に詰まった言葉を吐き出した。

「いつも……一緒にいてくれて、ありがと。いっぱい助けてくれたことも」

 まるで別れの挨拶みたいだ。
 そう思っても、一度動き出した口は止まらなかった。

「他の人には冷たいくせに、あたしのことは突っぱねないでくれて……嬉しかったよ。
 ロシュって結構優しいんだなって、思ってた」

 呪いのせいで初めて知ったことはたくさんある。
 文句を言いながらも危ない時は絶対に助けてくれて、憎まれ口を叩きながら辛い気持ちを受け止めてくれる。
 優しくて、厳しくて、頼りがいがあって、でもやっぱりムカついて。
 その中でも一番大きなことを伝えるために、アリシアは静かに息を吸った。

「今まで全然気づけなかったんだけど……あたし、ロシュのことが」

 強い思いを言おうとした瞬間、突然大きな音が響いた。
 それはロシュの拳から生まれたもので、殴りつけられた壁が大きく凹んでいた。

「え……ちょっと、どうし……」

「勘違いしてんじゃねぇよ」

 怒りのこもった断言に、アリシアの背筋に冷たいものが走った。
 ようやく向けてくれた視線は冷え切って、まるで初めて会った時のようだ。
 決して相容れない存在として関わり自体を拒んでいる。
 しかし今はそれだけでなく、鋭い言葉で切りつけてきた。

「今のお前が考えることなんて全部呪いのせいなんだよ。
 それだって、効率よく生気を集めるために思い込まされてるだけだ」

「そんなこと……っ」

「ほら、見ろよ。紋章もそうだって言ってんじゃねぇか」

 ロシュの指摘に視線を落とすと、下腹部から赤紫色の光が溢れ出していた。
 もはや日にちも時間も関係ない。
 紋章からは燐光と共に熱がこみ上げ、何度も繰り返した快感が身体に襲いかかる。
 暴力的なまでの感覚はこのまま思考まで蝕んでしまうだろう。
 けれど、ここでロシュの言葉を認めるわけにはいかなかった。

「違うっ! あたしはほんとに、ちゃんと……!」

「うるせぇな。さっさと脱いで股開けよ」

 戻ってきたロシュはアリシアの肩を突き飛ばし、見下すように吐き捨てる。
 どうしてそんなひどいことを言うの……?
 ようやく気づけた気持ちを否定されただけでなく、繋がることすら粗雑に扱われるなんて。
 胸の中は絶望で打ちひしがれているというのに、ロシュの言う通り紋章は反応を強めている。
 こんな気持ちのまま繋がりたくない。
 そう思っても、身体を襲う喪失感はどこまでもロシュを求めていた。

「お前の大好きな生気をくれてやる。感謝しろよ」

 嘲笑いながらベッドに押し倒されたというのに、アリシアの身体は抵抗することが出来なかった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

サラ・ノールはさみしんぼ

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:260

精霊たちの献身

恋愛 / 完結 24h.ポイント:106pt お気に入り:1,046

甘やかして……?

BL / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

魔拳のデイドリーマー

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:1,221pt お気に入り:8,522

桜の季節

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:7

黒魔女さんは炎狼を捕まえたようです。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:60

呪物ショップの店主呪戀魔「呪界団地編」

ホラー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:7

ヒヨクレンリ

恋愛 / 完結 24h.ポイント:56pt お気に入り:884

突然の契約結婚は……楽、でした。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:78,234pt お気に入り:2,272

処理中です...