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第二部

小話4.うるさいあいつを可愛いと思うようになるまで

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 祝辞という名の長々とした演説が終わり、ようやくくだらない式典から開放された。
 たかだか研究所付属の学園に入ることの何が誇らしいのか。
 あからさまに自らを誇示し、過剰なほどに生徒を持ち上げることに意味を感じられなかった。
 指定された教室にたどり着いたロシュは、一番後ろの席に腰を下ろす。
 学園という施設について知識はあったが、同じ年齢の人間が押し込められる場所は窮屈だ。
 暇つぶし程度に眺めてみれば、すでに派閥が発生しているらしい。
 今日までに数え切れないほど声をかけられてきたが、すべて拒絶してきた。
 所属せずとも問題ないだけの立場と能力を持っていたから、だけではない。
 家柄だけで関係を持とうとする馬鹿どもが。
 そんな蔑みの態度をぶつければ、相手からの印象は地に落ちる。
 今や自分に向けられる視線は好奇と忌避が半々くらいだろうか。
 それもすぐに消えるだろうと思っていると、おずおずとした高い声が向けられた。

「あの……ロシュくん、ですよね? さっき代表でお話ししてた。ここ、いいですか?」

 誰も近付くなという空気を読み取れないのだろうか。
 見下すつもりで細めた視線を向けると、その女子生徒は少し怯んだ様子だった。
 ふわふわとした茶色の髪に、同じ色の丸々とした瞳。
 座っている自分と目線があまり変わらないということは、背はかなり小さいのだろう。
 入学できるのは十六になる歳のはずだが、間違いではないかと思うほど幼気だった。
 しかし、どんな見た目であろうが関係はない。
 自意識すら持てない政治の駒なんかに用はなかった。

「てめぇも親の命令か?」

「え?」

 声とともに、丸い瞳がさらに大きくなった。
 前世はリスか何かだったのではないかと思っていると、女子生徒は戸惑った様子で口を開く。
 辿々しく話す内容から察するに、周囲に蔓延る人間とは違う立場だったらしい。

「ああ……例の特待生かよ。縁を作りたきゃ他の連中にしろ。俺に目ぇつけても意味ねぇぞ」

「縁、ですか?」

「どうせてめぇも見栄かなんかで入ったんだろ。
 あいつらに媚びへつらっておけば卒業後にいい思いできんじゃねぇの」

 すでにがっちりと派閥を組んでいる場所に割り込むのは難しいだろうが。
 案の定、こちらの会話に聞き耳を立てていた連中はありえないと冷笑を漏らしていた。
 ぽかんとしているのは宛てが外れたと思っているのだろうか。
 どう思われようがどうでもいいが、なぜかこの場を離れることはしないらしい。
 理解が遅い馬鹿なのだろうか。
 ロシュは苛立ちを感じながら、突き放すように吐き捨てた。

「分かったらさっさとどっか行けよ。馬鹿がうつる」

 特待生ならばそれなりに出来はいいのかもしれないが、その分プライドも高いだろう。
 ここまで言えば他の連中と同じく、悪態をつきながら離れていくに違いない。
 座席の埋まった教室で見せつけたことで、今も虎視眈々と狙っている連中への牽制にもなるはずだ。
 これはこれで利用価値のある問答だったかと思えたが、相手はそうではなかったらしい。

「黙って聞いてれば……っ!」

 先程までは緊張で上ずっていたのだろうか。
 力のこもった声とともに机を叩くと、大きな瞳をぐっと近づけられた。
 茶色の瞳に映った自分の顔は、驚いたような表情を浮かべていた。

「あんた、挨拶したってことは学年一位なのよね? 次があたしなの。
 特待生で入るためにどれだけ勉強したと思ってんの? 馬鹿にしないでっ!」

 ずいぶん大きな猫を被っていたらしい。
 しっかりと怒らせた顔を向けられると、思わず声が漏れていた。

「は……?」

「は、じゃないわよ! なぁにが縁よ! あたしはそんなもののためにここに入ったんじゃないんだから!」

 小さな身体のどこからこんな声が出せるのだろうか。
 高い天井に響き渡る声はまっすぐに向けられ、怒りに燃える瞳に惹きつけられてしまった。

「あたしはここを一番の成績で卒業して、エリート魔術師になって高給取りになるの!
 馬鹿がうつるっていうなら天才もうつるでしょ、ちょっとそれよこしなさいよ!」

 あまりの迫力に周囲のざわめきはかき消え、忌避の視線が強まった。
 女子生徒もその気配に気づいたのだろう。
 動揺を誤魔化すようにこちらを睨む目に力がこもっている。
 この女子生徒は空気が読めないのではなく、どうしようもない世間知らずなのだろう。
 魔術研究学園の中で、その持ち主である家系の人物に喧嘩を吹っ掛けるだなんてありえない。
 しかしこれは真っ当な主張だろう。
 意味も分からず拒絶され、蔑まされ、嘲笑われることに怒ることは当然だ。
 ここにいるのはそれができない人間ばかり。
 なのに、この世界に飛び込んできたばかりの少女がこうも勇敢に立ち回るとは。
 強い感情に染まった瞳はきらきらと輝き、黒く濁っていた世界の中で眩しく見える。
 戸惑いながらも睨みつけることしかできない姿を前に、思わず口元が緩んでいた。

「うわ、こいつ馬鹿だ」

「馬鹿じゃないって言ってるでしょっ!?」

 すぐに返ってくる言葉が小気味好い。
 少なくともこの女子生徒は、今まですり寄ってきた連中とは違う存在らしい。

「俺よりは馬鹿だろ。お前、なんていうんだっけ? 記憶の端にもかかんねぇ奴、大したことねぇか」

「はぁっ? あたしはアリシアっていうの! 天才なら人の名前くらい覚えられるでしょ!」

「必要ねぇって言ってんだよ。覚えて欲しけりゃ覚えさせてみやがれ」

「言ったわね? ちょっとそこの荷物どかしなさいよ。覚えるまで離れないんだから!」

「覚えたら離れてくれるってか」

「嫌よ。あたしの将来のためにあんたを利用してあげるわ」

 どすんと音を立てて座ってきたのに、不思議と不愉快さは感じられない。
 その理由が分からずに眉を寄せてはみるが、その答えは上がった口角によって理解できてしまう。
 無知だからこそ対等に交わされる会話は、久しく経験していなかったものだ。
 どうせこの女子生徒もすぐに離れていくのだろう。
 しかし、その時までからかって遊んでやってもいいのではないか。
 そんな上から目線な考えから始まった関係は、予想とはまるで違うものへと進んでいった。

*

 入学してから三ヶ月ほど経ったが、ロシュとアリシアの関係は変わっていなかった。
 学園という場所柄、授業で二人組になる必要があったのも影響したか。
 すぐに離れていくと思った存在は今も自分の横にいる。

「ちょっとロシュ、あんたまた課題出してないでしょ? あたしが怒られるんだけど!」

「あんなくだらねぇもん書かせる暇があったらてめぇの頭どうにかしろって伝えとけ」

「あんたのその反抗期をどうにかしなさいよっ!?」

 ロシュは形式ばかりに学生になったが、まともな生徒になる気などさらさらない。
 牢獄のような実家から抜け出すために学生という立場が妥当だっただけだ。
 親も自分が経営している施設に閉じ込めたいだけで、端から期待はしていなかっただろう。

「もうっ、どうしてあたしがあんたのお目付役なんてさせられるのよ!」

「使いっぱしりにしやすかったからだろ」

「先生に言われたら断れるわけないでしょ!」

 怒りを露わにするアリシアだが、彼女は自分と別の意味で浮いている。
 生徒には魔術師や資産家の家系が多く、幼い頃から狡猾さを身につけている者ばかりだ。
 しかしアリシアはそんな気配がまるでなく、年長者を敬って従うという素直さを持っている。
 ある意味不器用ともいえるが、そんなアリシアは教師にとってありがたくも都合のいい存在なのだろう。

「今度忘れたら知らないんだからね。絶対助けてあげないんだからっ!」

 そう言われたのはもう何度目か。
 小柄で子どもっぽいくせに案外気が強く、なぜか世話焼き気質らしい。
 ふわふわとした印象の容姿とは正反対なところが意外で、からかいがいがあるものだ。
 アリシアは言うことは言ったとばかりに、ペンを片手に教科書を開いた。
 真面目なアリシアは暇さえあれば勉強に励み、休み時間も熱心に取り組んでいる。
 ロシュにとっては一般知識以下のものばかりだが、初心者のアリシアには興味深いものなのだろう。

「……むぅ」

 好きが講じて授業よりも先行してしまい、不必要な悩みにぶつかるのもいつものことだ。
 煩雑な人間関係ではなく難解な魔法知識に挑む姿勢は悪くない。
 今回は克服するか授業を待つか、その結果を予想するのが暇つぶしの一つになっていた。
 ロシュが頬杖をついて眺めていると、どこからか視線が感じられる。
 学園内での監視はクレメントだけのはずだし、敵意のこもったものでもない。
 危険性はないだろうと思いながら探ってみると、近くに座る男子生徒と視線が合った。
 気まずそうに目をそらすが、すぐにまた戻ってきてしまう。
 一体なんの用かと思ってみるが、その視線の先は自分ではないらしい。
 あの野郎、この女に目ぇつけてんのかよ。
 男子生徒は忙しなくアリシアを見ながら、同じ教科書を片手に腰を浮かしかけていた。
 そういえば、少し前の授業で自信満々に答えていた気がする。
 僅かに頬が染まっている理由は分からないが、悩むアリシアに恩を売ろうとでも思っているのだろう。

「お前、こんなのも分かんねぇのかよ。さっきやってた古語はどこ行った」

「え? あ、そっか! あたしてっきり妖精語のほうかと思ってた!」

 アリシアは頭が固いせいで気づくのが遅いだけだ。
 ほんの少しでもヒントを与えれば自力で解答にたどり着ける。
 そもそも、学年次席を相手に教示できると思っているのか。
 楽しそうに問題を解くアリシアに背を向け、男子生徒に鋭い目線を向けた。
 こいつの邪魔すんじゃねぇよ。
 威圧はしっかりと相手に届いたらしく、青ざめた顔をそらされた。
 大方、入学時に作った派閥から弾かれてしまったのだろう。
 アリシアは家柄はなくとも特待生という立場だから、縁を持とうと考えているに違いない。
 今更すり寄ってくるなんて、恥というものを知らないのだろうか。

「ったく……馬鹿馬鹿しい」

「なんか言った?」

「こんな問題に躓くなんて馬鹿じゃねぇのって言った」

「うるっさいわね、もう間違えないわよっ!」

 目を怒らせて噛みついてくるのは見ていて面白い。
 しかしそうではない場面に遭遇すると、ロシュの心中は不本意に乱されるようになっていた。


 日が暮れ始めた教室にはたった一人の影が残っていた。
 一番前に座るようになった姿は、元から小さい身体をさらに縮めている。

「おい、さっさと食堂行けよ。またババアにどやされんぞ」

 自分と同じ寮生と知ったのは最近のことだが、顔を合わせることはあまりない。
 それでも数少ない同学年なのだからと、寮母から互いを連絡役にされることも多かった。

「いらない」

「まだあんな奴らの陰口なんて気にしてんのかよ」

「……してないし」

 明らかに沈んだ様子に、ロシュは思わずため息をついていた。
 人間という存在は、複数集まると誰かを扱き下ろす習性があるらしい。
 理不尽な陰口を叩かれていたアリシアは、素知らぬ振りで拳を握りしめていた。
 あの気の強さを考えれば怒りを堪えているのだろうと思っていたのだが。
 意外なことにしっかり傷ついていたらしい。
 有象無象の妄言など耳に入れる価値もない。
 そんなロシュには持ったことのない感覚で、しばらくそれに気づくことがなかった。
 真っ黒なローブに包まれるように丸まった身体は、夕日が沈むと見えなくなってしまう。
 ただでさえチビで見つけづらいってのに。
 仕方なく扉から入っていくと、泣いた名残か鼻をすする音が小さく聞こえた。
 魔術師という存在はどこまでも凝り固まっている。
 自分は選ばれた存在だと思い込んで振る舞い、他者を容赦なく貶める。
 それは魔術師の家系として生まれれば当然植え付けられてしまうものだ。
 自分がそうならなかったのは、単純にその考えを教え込む存在がいなかったからだろう。
 そんな魔術師特有の考えは、アリシアが理解することは難しいに違いない。

「教師の見回りが来る前に出ろよ」

「ちゃんと言えば大丈夫だし」

 いつもと違って覇気のない声に、無意識に眉が寄っていた。
 アリシアのこういう姿を見るのは初めてではない。
 最初は馬鹿馬鹿しいと呆れ、次は面倒くさいと苛立ち。
 なのに、そうではない感情が浮かぶようになったのは何度目からか。
 アリシアが落ち込む姿を見ると、なぜか落ち着かない。
 しかしその理由は分からず、気分を乱されることが不愉快だった。
 こんな目に合うくらいなら、アリシアをどこかの派閥に放り込んでしまえばいい。
 そう思ったこともあるのだが、集団に馴染むアリシアを思うとそれもムカムカしてくる。
 結局、アリシアがどうなれば自分は満足するのだろうか。
 よく怒り、ふとした時に笑い、こうして隠れて泣くこの女が。
 あー……めんどくせぇ。
 はっきりそう言ってしまえばいいのに、それを聞いたアリシアがどんな顔をするかと思うと口が動かない。
 暴言を吐くことなど日常茶飯事で、今までそんなことを思ったことは一度もないはずなのに。

「あたしがどこにいてもロシュに関係ないでしょ。ほっといてよ」

 ローブに顔を埋めて言われた言葉に、どうしようもない不快感に襲われる。
 勝手につきまとってきたのはどっちだ。
 こっちはくだらない授業など出ず研究に没頭していたいのに。
 普通の生徒として立ち回るはめになったのは誰のせいだと思っている。
 ふつふつと怒りがこみ上げ、元からあった不愉快さに混じっていく。
 こんな思いをしてまでこの女といる必要なんてないはずだ。
 忠告という義務を果たしたのだからこのまま捨て置けばいいのに、脚を動かそうと思えない。
 どうして面倒事から離れられないのか。
 その答えを考えるのも億劫で、うずくまる黒い塊を見下ろした。

「関係ないとかほざいてんじゃねぇよ、この馬鹿」

 ロシュはほとんど見えない襟元を掴むと、そのまま容赦なく持ち上げた。
 当然ながらアリシアの頭も持ち上がり、泣きはらした顔がようやく視界に入る。
 真っ赤になった目尻は痛々しいが、涙が落ちることはないらしい。

「何すんのっ!?」

「てめぇがぐちぐち鬱陶しいからだろうが」

「そんなので勝手に怒らないでよ!」

 怒りのままに睨みつけられ、自分の口からふっと息が漏れた。
 この女は周りの連中と比べれば多少は歯ごたえがある。
 そんな人間が理不尽に潰されるのは、僅かばかりに惜しいと思っているのだろう。
 それに、授業で必須の二人組を新たに見繕うのも面倒だ。
 だからこれに深い意味はなく、野良猫に構うのと同じようなものに違いない。

「さっさと寮に戻れ。んで、飯食って寝ろ」

「なんであんたにそんなこと……ぐぇっ!」

「片手で持ち上がるとかどんだけ貧相なんだよ」

「ちょっと、離しなさいって! ちゃんと立てるからっ!」

「うっせぇチビ。文句言いたきゃ自力で目線合わせてみろよ」

「はぁ!? あたしの背はまだまだ伸びるし!」

「へぇ? 伸びてる気配はないけどな。俺も伸びるだろうし」

「今に見てなさい、あんたなんてすぐに見おろしてやるんだから!」

 ぎゃんぎゃんと噛みつかれたことで、落ち着かない気持ちが消えていく。
 こいつはこうして吠えているくらいが丁度いい。
 いつもうるさい奴が急に静かになったから変に感じただけだろう。
 掴んだ手を強引に振り払われても、不思議と嫌な気分にはならなかった。

*

 入学から半年ほど経ち、生徒たちは学園に慣れきったようだ。
 授業で魔法を使うことにも珍しさを感じなくなり、今日は初級魔法の自習授業になっていた。
 形ばかりの見張りだった教師も席を外し、実習室のそこかしこで集団ができていく。
 もちろん自分は席を立つこともなく、隣で教科書を睨みつけているアリシアを横目で眺めた。
 特待生であるアリシアだが、魔法の腕は平均以下だった。
 環境による経験不足は否めず、初歩の初歩である元素魔法すら不発続きだ。
 今日も手元で水球を作ろうとしては、無駄に魔力が霧散していく。

「……むぅ」

 そして正解を求めて教科書に舞い戻るのもいつものことだ。
 失敗に腐らず原因を知ろうとする姿勢は悪くない。
 しかし、そんなアリシアに向けられる視線のほとんどは冷たいものだった。
 学科は満点だからこそ差が目立ってしまうのだろう。
 教師という大人がいなくなったせいか、愚かな生徒は隠す気のない言葉をぶつけてくる。
 初級魔法すら使えないくせに魔術師になれるはずがない。
 頭は多少足りているとしても知識だけあって何になる。
 歴史も財産も持たない奴がこの学園にいる価値があるのか。
 蔑む視線はどんどん広がっていき、すぐ近くに座るロシュを無視してアリシアに突き刺さる。
 自分が気づいているのに本人が気づかないはずはない。
 精神につられて魔力が乱れ、これではどんな魔法も行使できないだろう。
 下唇を噛み締めたアリシアは、教科書を置いてすっと立ち上がった。

「できるようになるために学園に入ったのに、何が悪いのよ」

 凛とした声にその場がしんと静まり返る。
 大勢の生徒を見回して放った言葉は正論だ。
 しかしそれが受け入れられることはなく、嘲笑が広がっていく。
 それどころか声高に見下す言葉まで飛んできて、あまりの幼稚さにため息が漏れた。
 いつかは起こると思っていた。
 意気込んでいるアリシアと見栄で在籍する生徒では、温度差があって当たり前だ。
 選民意識が根強い者たちにとって、特待生のアリシアはいけ好かない存在なのだろう。
 揉め事を避けたいなら圧倒的な力量差を見せつけてやればいい。
 しかしアリシアがそうするには力が足りていない。
 案の定、悪態に反論することもできず、ただ前を向いて座り直すしかできなかったらしい。
 教科書に埋める顔を想像するのは簡単だが、ここで確かめる必要もないだろう。
 好き勝手にわめき続ける連中を背に、ロシュはぼんやりと天井を眺めて過ごした。

 授業が終わってすぐに、アリシアの姿が消えた。
 近くにいれば課題や授業態度の文句が絶えないからせいせいする。
 そう思っているはずなのに、ロシュの脚はひとけのない校舎裏に向かっていた。
 ベンチも花壇もない空き地を好き好む人間は少ない。
 分かっているからこそ見に行った先では、思った通りの光景が広がっていた。
 鬱蒼と茂った木々の隙間で、小さく丸まった黒い物体。
 時折肩が揺れるのは今も涙が収まっていないからなのだろう。
 そんな姿を見るとまたしても落ち着かなくなるが、やはり理由は分からない。
 紛らわすように足音を大きく立て、座り込むアリシアの目の前で止まった。

「俺が一言言ってやろうか」

 問いかけに対する答えは返ってこない。
 しかし耳には入っているだろうから、ロシュはその場でじっとアリシアを見おろした。
 理由はどうあれ一目置かれている自分の存在は、それなりの影響力を持っている。
 陰口は無理だとしても先程のような衝突はなくなるだろう。
 それに、アリシアが疎まれる理由の一つに自分のこともあるかもしれない。
 ロシュが近くにいることを許した唯一の立場というのは、嫉妬に値するからだ。
 僅かばかりの慈悲を与えてやっても不自然なことではない。
 自分を使えば一瞬で解決すると提示され、食いつかない人間などいないだろう。
 そうすれば、この女だって他の連中と同じ人間ということになる。
 自分を利用したがるありきたりな女だと思えれば、妙な不快感からも開放されるだろう。
 面倒ではあるが利益はある。
 どう言ってやるのが一番効果的かと考えていると、木々のざわめきに混じって声が聞こえた。

「そんなのいらない」

 聞き間違えだろうか。
 首を傾げかけると、足元でうずくまっていた顔がこちらに向けられた。
 思った通り、涙はまだ収まっていないらしい。
 目元を真っ赤に染めながら流れる涙は、木陰の中でも妙に光って見えた。

「ロシュが言って変わったって、意味ない。あたしが、ちゃんと自分でやらないと」

 つっかえながらの言葉のくせに、耳から頭に強く響いてくる。
 アリシアはローブで目元を強く拭き、すっくと立ち上がってこちらを見上げてきた。

「そんなことより、あたしに魔法を教えて」

 柔らかそうな睫毛にはまだ水滴がついているものの、瞳の揺らぎはなくなったようだ。
 想定外の言葉に口を開けないでいると、近かった距離がさらに寄った。

「ロシュは魔法もすごいんだって、あたし知ってる。あんな風に馬鹿にされて悔しいの。
 初級だってできないのに身の程知らずって思われるかもしれないけど……でも、お願い」

 ここまで真剣な視線を向けられたことが、今まであっただろうか。
 アリシアは他人に頼り切るのではなく、自分の力で戦おうとしている。
 こんなにも小さくて幼気で、右も左も分からない世界にいるはずなのに。
 それは陰謀蠢く権力争いばかり目にしていたロシュにとって新鮮な姿だった。
 自分の力を向上させようという姿勢は嫌いじゃない。
 毎日のようにご機嫌伺いをしてくる教師連中と比べても雲泥の差だ。
 答えを聞くまで絶対に反れないだろう視線と合わせ、あえて鼻で笑ってやった。

「俺を利用してやるって言いやがったのは誰だよ」

「……いいの?」

「ついてこれなきゃ容赦なく置いてくぞ」

「大丈夫だよ、絶対ついてくから!」

 ぱぁっと明るくなった表情を見て、その単純さに笑ってしまいそうになる。
 怒ったり泣いたり笑ったり、この女は感情を隠すということが不得手なのではないか。
 しかし腹中で何を考えているか分からないよりよっぽどいい。
 教えてほしいことを指折り説明してくる姿を前に、妙な不快感は抱かなかった。


 元素魔法など寮でもできると思っていたが、アリシアは実習室の使用許可を取ってきた。
 魔法の無断使用を禁止するという校則をしっかり守るつもりらしい。
 生真面目で頑固な性格は自分とは正反対だ。
 初級魔法ということもあって教師の監督は不要と言われたのが幸いだった。
 ロシュは窓を背にして立ちながら、見込みが薄そうなアリシアをじとりと睨んだ。

「なんでそんなに魔力の流れがガチガチなんだよ」

「だってこう、動きを頭の中で考えてるとよく分かんなくなっちゃって……」

「はぁ? 考える必要なんてどこにあんだよ」

「ロシュがそうってことは、あたしの考え方が間違ってるってことなのかな」

 いつもは言い合いになることが多いが、今日のアリシアは素直に話を聞くらしい。
 普段と違って従順な様子は満足感に似たものを抱くが、目的である魔法は前途多難だった。

「とりあえずその教科書から手ぇ離せ」

「え、無理だよ」

「じゃあ燃やす」

「ちょっと!? 分かったからやめてっ!」

 もらったばかりのはずがすでにくたびれていて、使い込んでいるのがよく分かる。
 しかし知識に縛られるのでは意味がない。
 そう思っての指摘だったが、アリシアは不安感に襲われているようだ。
 何も持たずに詠唱を始めたものの、先程よりも早く魔力が霧散した。

「うぅ……」

「初級魔法なんて、魔力溜めて元素の欠片でも混ぜりゃすぐだろ。詠唱なんていらねぇよ」

「元素の欠片って概念が分かんないの!
 ロシュの言い方はなんか独特なんだよなぁ。あ、呪文の単語を意識してみたらいいとか?」

 生まれながらに魔法が使えた弊害か、他人に教えるという行為が初めてだからか。
 言葉が足りなすぎるロシュに対し、アリシアは懸命に理解しようとしていた。
 そんなひたむきな態度は見ていて悪い気がしない。
 自分の利益になることは絶対にないはずなのに、不思議と嫌な気分は感じられなかった。
 アリシアは何度も挑戦しては失敗し、ロシュに聞きながら試行錯誤していく。
 まるでくじけない姿を見ていると、ふと疑問が浮かんできた。

「なんで魔術師なんか目指してんだ」

「なんかって何よ?」

 アリシアはむっとした様子だったが、ロシュにとって魔術師という立場は選んだものではない。
 そういう家系に生まれ、才能が際立っていたからそうなっただけだ。
 しかしアリシアは魔法と何も関係のない生まれだという。
 こんな伏魔殿に入り込んでまで目指したい理由が、ロシュにはまるで分からなかった。

「あたしの実家は山のほうにあるんだけどね、野生動物が結構でるんだ」

 さすがに休憩する気になったのだろう。
 小さく伸びをしたアリシアは、窓から差し込む日差しに目を向けた。

「みんなが困ってた時、旅の魔術師さんが退治してくれて。初めて見た魔法がすっごくきれいだったの」

 きれいということは召喚魔法でも使ったのだろうか。
 アリシアが感動しそうなものを思い浮かべようとすると、嗜好すら知らないことに気づいた。

「魔法が使えたら、あたしでも役に立てるかなって思ったんだ。
 それで故郷に恩返しして、できたらお金も稼いで両親に楽させてあげたいなぁって」

 自分には生涯浮かばない考えだ。
 そう思って悪態をつこうとしたが、ふわりと浮かんだ笑みを前に口をつぐんだ。
 初めて見る柔らかな表情は優しい考えに相応しいものだろう。
 ただそれだけのはずなのに、ロシュの胸には妙な感覚が湧き上がっていた。
 度々感じていた不快感に近いものを、なぜ今感じてしまうのか。
 やはり理解ができず、瞬時に作った小さな水球を宙に放った。

「うわっ、何よもう!」

「気張って緊張しすぎてんだから、気ぃ抜けばいんじゃね」

「そんなこと言われても……」

「田舎のことでも考えてりゃいいだろ。今、ずいぶん腑抜けた顔してたしな」

「田舎って何よ!?」

「山があるって地図の端だろ。なら田舎だ」

 アリシアも自覚はあるのか、不貞腐れながらも指摘に従うらしい。
 目を閉じて眉を寄せていると思ったら、ふっと小さな笑みが浮かぶ。
 この表情を見ているのは自分だけなのだと気づくと、かき消したはずの気分がまた戻ってきた。
 しかしアリシアに漂う魔力は穏やかなままで、不自然に動きを変えることがない。
 これなら確実に成功する。
 固い口調で唱えた呪文のあとには、手の平くらいの水球が浮かんでいた。

「え……? うわ、これ……あたし?」

「俺だったらここが沈むくらいの作ってるな」

 上から目線の言葉を投げてみるが、アリシアはまるで気にしていないらしい。
 ふわふわ浮かぶ水球を指先でつつき、満面の笑みを浮かべている。

「ま、これでコツは掴んだだろ。あとは反復練習でもすれば……って、聞いてねぇな」

 アリシアは大事そうに水球を掬い、両手で宝物のように包み込んでいる。
 ロシュにとってはただの水だが、アリシアにとっては何より価値のあるものなのだろう。
 初めて魔法を使った時のことなど思い出せないが、ここまで喜びを露わにはしていなかったのではないか。
 十六歳にしては幼気だと思っていたが、中身も見た目と同じなのかもしれない。
 水をかかげてくるくる回ったかと思ったら、跳ねるようにこちらへ向かってきた。

「ロシュのおかげだよ、ありがとうっ!」

「おいっ、そこ段差があんだろ!」

「へ? うぎゃっ!?」

 浮かれるあまり周りが見えていなかったらしい。
 つまづいた拍子に大事に抱えていた水は宙に飛び散り、それを追うようにこちらへ倒れてくる。
 なぜか動いてしまった身体は、軽すぎる衝撃とともに両方を受け止めてしまった。

「……っ、この馬鹿! 水までぶっかけやがって!」

「うぅ、ごめん……」

 胸に倒れ込んできたアリシアは、ぶつかった拍子に額を打ったのだろう。
 痛そうにさすっているが自業自得だ。
 頭から被ってしまった水は髪を伝って流れ落ち、目の前のアリシアに降り掛かる。
 せっかくの成果だとしても知ったことか。
 袖で拭おうとするが、それより前に小さな手が雫を掬い取った。

「あたし、魔法使えたね!」

 にっこりと笑いかけられると、またしても妙な感覚が襲ってくる。
 鬱陶しくも甘やかなものは、胸の奥底に眠る何かを呼び起こしそうな気がする。
 それが何かは分からない。
 しかし目の前にいる無邪気すぎる存在が原因ということだけは分かった。
 華奢な身体は支え続けてもまるで苦にならず、むしろこのままでいいと思ってしまう。
 他人とこんな至近距離にいることなどありえないはずなのに。
 アリシアの顔がきらきらと輝いて見えるのは、窓からの日差しのせいだけではないのか。
 その答えが知りたくて、自分の髪から落ちる水滴を追ってアリシアの頬に手を触れた。

「ロシュ?」

 触れた場所から感じるものは、ロシュの身体を小さく震わせた。
 しっとりと潤った頬は柔らかく、温かい。
 丸みに沿って流れる水は肌理の滑らかさを際立てている。
 人間の肌というものはこんな感触だったのか。
 思わず手を滑らせてしまいそうになったが、まっすぐ向けられた目に動きが止まった。
 くりくりと丸い茶色の瞳には、媚びも敵意も悪意もない。
 喜びの名残と素直な疑問だけが乗る視線は、どれだけ向けられても不快に思うはずがなかった。

『好きな子でもできたら、その性格も変わるのかもしれないね』

 唐突に思い出したのは、数年前クレメントに言われた言葉だった。
 護衛兼監視役である男は、大人の中で過ごして擦れきった姿に憐憫を抱いていたのだろう。
 寂しげなぼやきに自分は何を返したか。
 そんなもん俺にできるはずねぇだろ、だったか。
 環境的にも立場的にも、何より他人に対する不快感からか。
 そのような人間らしい感情が、自分に芽生えるはずがないと思っていた。
 しかし今思っていることはなんだ。
 この視線を受け、この肌に触れるのは、自分だけでありたい。
 自然に浮かんできた感情は、何度も感じた不快感と同じだけの強さがあった。
 もしかしたら、この思いは表裏一体なのだろうか。
 自分以外の人間が、この女を悲しませることも喜ばせることも気に食わない。
 てっきり自分に懐く相手への庇護かと思っていたが、これはまるで違うものだったのだ。

「ねぇ、どうしたの? そんなに冷たかった?」

 触れた手を振り払うこともなく、無防備に覗き込んでくる顔が憎たらしい。
 温かな感触を名残惜しく思いながらも、思いっきりその頬を抓ってやった。

「いたぁっ!? 何すんのよ!」

「なんかムカついたから」

「ごめんって言ったじゃない! あ、もしかしてうまくできちゃったのが気に食わないとか」

「あの程度のどこがうまいってんだよ」

「はぁっ!? 少しくらい褒めてくれたっていいじゃない!」

 やはり目を怒らせるアリシアを前に、ロシュはふっと笑みを漏らした。
 それは本人にしか分からないほどにささやかなもので、目の前のアリシアですら気づかなかった。

「おい、アリシア」

「へ? あたしの名前、覚えて……いひゃいいひゃい!」

「お前さ、俺以外の奴に負けんじゃねぇぞ」

 頬をぐにぐにと引っ張りながら、反抗的な視線を堪能する。
 自覚してしまった思いは一瞬で思考を支配し、この先への布石を打とうとしていた。
 アリシアにとって超えるべき障害という立場でいれば、この先もずっとぶつかってくるだろう。
 そうすれば、少なくとも学園にいる間は離れることはないはずだ。
 自分とアリシアの間に他の何者かが割り込むことなど考えたくない。
 そんな思惑など気づいていない様子で、アリシアは強い視線で見上げてきた。

「何それ? あたしはあんたにだって負けるつもりは……はにゃひへよっ!」

「お前なんかに追い越されてたまるか、ばーか」

 自分に素直な感情をぶつけてくる存在を手放したくない。
 これが執着なのか、好きな子とやらに対するものなのかは判断しきれないが。
 それでも、学園という箱庭のような場所に閉じ込められている間だけでいいから。
 終わりのある関係だと理解しながらも、ロシュはその思いを止めることができなかった。
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